イスラエル対パレスチナの果てしない戦闘も、このむなしさの延長上にあるのではないか。論理も、信頼も、全ての努力が、一発の爆発の前に吹っ飛んでしまう。
人間は、誰もがその心の奥底に、己の邪魔になる他の存在を許さない…目の前のものを抹殺して排除しようとする、本能的な営みを有している。正義のために、国のために、家族のために…、そして、自分のために!
人は、究極の問題解決の方法として、暴力という手段しか持ち合えないのではないか。その性(さが)を包み隠すために、社会のルールを決めて法をつくり、教育を普遍のものとして神を崇めてきた。しかし、欧米列強の帝国主義支配までさかのぼることをせずとも、今日においてさえ、アフガンやイラクでの戦争、ロシアのチェチェン制圧、中国のチベット・新疆ウイグル区への弾圧など、理由はさまざまに説明されるとしても、問題解決に対する力の行使が現実なのである。
有史以前、人類は高い文明を築いていたけれど、社会の問題をも暴力によってしか解決できない人類は、世界が滅亡する争いを繰り広げ、ついには自らを滅ぼしてしまったのではないか…といえば、グラハム・ハンコック「神々の指紋」の世界だが、ナスカの地上絵・ピラミッド群とスフィンクス・ストーン・ヘンジ・カッパドキアの地下都市・イースター島のモアイなどなど、現代文明では説明できないミステリアスなものは多い。そのロマンの追求は他稿に譲るとして、今日のわれわれも、いつの日にかこの自らの暴力ゆえに滅んでしまうのではないか。
武力、恫喝、術策をもって、社会の平和や安定を維持しようとする営みの、なんと空しくやりきれないことか。それでも、その努力を続けなければならないのも、人類が背負った性(さが)というものなのだろう。
今日も、イラクではアメリカ兵が死亡し、どこかの街角では小遣い銭欲しさの少年による引ったくりが繰り返されている。
【68】 58回目の終戦記念日 (8.15)
今年も8月15日を迎えた。58年前のこの日、天皇陛下の玉音放送によって日本は連合国に無条件降伏し、太平洋戦争に終止符を打つ。爾来、この日を終戦記念日としてきた。
新聞やテレビでは、この日に向けてさまざまの平和への提言、歴史の検証、政治の動向などの特集が組まれている。また、各政党やいろいろな団体が、やはり同様のテーマでもっての取り組みを行っている。繰り返されるのは、内閣総理大臣を初めとする閣僚たちの「靖国神社参拝問題」だ。中国・韓国からの抗議は、純粋に政治的な要請であることが解ってか解らずにか、今年も小泉首相は参拝を他日にした。中国や韓国の民衆が、「靖国へ参拝するな」と叫び続けているというのだろうか。
昨年の終戦記念日に、「東京裁判 上・下 (朝日新聞社刊)」を読み始め、その後、他事にかまけて下巻のさわりのところでストップしてしまっているのは、わが身の怠惰であると恥じ入るかぎりだが、今思うことは、『日本は先の大戦をつぶさに検証し、国民的合意のもとの歴史的評価を確立すべき』であろうことだ。
人は歴史を知ることによって、先人がいかに苦難を乗り越えて今日を築いてきたか、自分たちの現在には先人のいかなる願いが込められているかに思いをいたして、自分もまたその一員であることに誇りを持ち、先人の思いを汚さずに生きようとする。
現在の日本を形成している精神的背景には、東京裁判史観が色濃く影を落としている。個々の検証は他稿に譲るとして、はたしてあの大戦は、日本の世界平和や民主主義に対する罪悪であったのか。A級戦犯とされる人々の罪は、国際法に照らして真に有罪であったのか。欧米列強のアジア進出に対して、大東亜共栄圏構想のもと、アジアの政治的共同体を目指したことは間違いであったりのか。ニュールンベルグ裁判で定められた平和に対する罪に対して有罪とされた人々は、その有罪の根拠である戦争行為を行った時点にはなかった法律によって処罰されたのである。
現在の日本のさまざまな影の部分が、大戦の結果から尾を引く贖罪の意識の中に生じている。かの大戦は、日本にとって恥ずべき行いであったのだろうか。国家というものの非情さや力こそ正義であった世界史を知るほどに、日本がアジアをしてひとつの共同体とするべき構想を進めたことは、欧米諸国の利益に反したことは事実としても、世界平和や人道に対する犯罪だとの認識は持ち得ないのである。
忌まわしい過去は、歴史の彼方へ風化するまで触らずに蓋をしておいた方がよいのか。いや、そうではあるまい。歴史の事実に正面から立ち向かい、自らの信ずるところに基づく主張をしてこそ、世界は日本を認めるのである。戦後58年…、かの大戦の証人も数少なくなっていく今、あの戦争を検証し、歴史の評価に立ち向かうことこそ、現在の日本に生きる我々の努めである。この国のため、この国の民のため、この国の将来のために戦ってくれた、英霊の御霊に報いる道であろう。
【67】民主党と自由党の合併 −政権交代の切り札となれるか− (7.28)
民主党と自由党が、この秋を目標に合併する方向で協議に入ったという。政策遂行能力を持つ健全な野党が育つことは、日本の政治の健全化にとって望ましいことである。 私はこれまで、経済不況や社会の閉塞感など、この国のさまざまな問題は癒着体質の政治体制にあり、この国の将来を健全なものにするためには政権交代が必要であることを、【39】健全な国へ 政権交代を(4.15)などで主張してきた。長すぎる自民党政権は、政治の私物化・政官業の癒着・国民の政治不信とあきらめといった弊害を生じている。
現在の民主党に期待するものは何もない。その不甲斐なさを、【49】目覚めよ 民主党 (9.25) 【52】この民主党に明日はない(12.3) などと記してきたつもりだが、今も民主党の中身や体質はその頃と変わっていない。いや、鳩山時代には彼のニューライト的な政治スタンスは解りやすかった(そこが自民党と区別しにくいと批判された)が、むしろ菅体制となってからは彼のバルカン的な体質によるものか、拠り所が判然としない感がある。有事法制に賛成して、自衛隊のイラク派遣に反対することの理由が、国民に理解できるように説明されないといったあいまいさが残念である。
小沢一郎は、今の国会議員の中では第一級の政策通であり、卓越した政治手腕を持っている。国の根幹をなす課題については根拠を示して政策を発表しているし、自自公連立時代には譲るべきは譲って内閣を支え、通すべき筋は通して政権を去った。連立を袖にされた、当時の自民党幹事長野中広務は、不倶戴天の敵として小沢一郎を批判するが、信義に悖(もと)ると政権を去った小沢の態度は、国の将来を見通す国政レベルの筋の通し方で、批判は所詮(しょせん)地方政治家の域を出ていない。
民主党の訳のわからん連中の寄せ集めパワーに、小沢一郎の政策と指導力が合流することは、政策や党運営も落ち着いた筋の通ったものとなって、この国の政治の流れを変える材料になると思われる。民主党は課題である地方の人材を発掘する努力をして、組織の拡充に腐心し、この秋の総選挙で議席を少しでもアップさせることができれば、それを上昇の起爆剤としてより大きなパワーを生むこととなり、秋以降の政局展開に期待が持てよう。
新生民主党…! 少なくともここ数年来たびたび味あわされた肩透かしを食わされることはないと思うのだが…。
【66】株価1万円回復の意味するもの (7.12)
「日本全体を論ずる議論には、誰にも責任がない」と村上 龍氏が書いていたのを読んで、このサイトへの発言をしばらく休んでしまった。確かに、政治や経済を論じる評論家諸氏は言いっぱなしで、自分の言論の結果に対して責任を取ったという話を聞いたことはない。不毛の論議の1ページを自分も担うのかと思ったら、『世界ゴルフ紀行』の小説版を完成させなければならない期日も迫っていたこともあって、ちょっと傍観者を決め込んでいた。
しかし、現在の諸問題に、自分の論評が正であったか否であったかを検証していくだけでも、ものの見方を養うことができることは確かであるし、世の中に対する働きかけは社会的動物としての人間であれば当然やらなければならない責務であることを考えると、何らかの意思を表示しておくことは最低限必要であろうと思う。そこで、この稿を起こす。
株価が、昨年8月以来10か月半ぶりに1万円台を回復した。4月24日のバブル崩壊後の最安値7699円から、3ヶ月足らずの間に30%の値上がりである。
この株高は、イラク戦争に勝利したアメリカに景気回復の見通しが立つのではないかという展望が掲げられ、この予測をもとにニューヨークの株価が上がったことを受けての上昇で、あくまでも見通しを材料としているに過ぎず、アメリカ自体も実質経済が好転したことを受けたものではない。
日本の株価は日本経済の実体に対して割安感がある。そこで、アメリカの景気見通し上昇で余裕を見せた海外資金が日本に流れ込み、今回の急激な株高を招いたわけだ。昨今の株取引の30%が外人投資である。だからこの株高は、このまま推移していくことはなく、アメリカの景気見通しなどに敏感に反応して乱高下しながら、ゆっくりと回復基調に乗ることだろう。
では、日本経済の本格的な回復はいつなのだろうか。それは、再来年…平成17年に劇的にやってくる。あと1年数ヶ月で不良債権や債務超過企業の一応の整理を終えて、平成17年度からは景気は着実な回復軌道に乗る。
日本の不況は、これまでも繰り返して指摘してきたように、『政治不況』なのだ。利権政治・官業癒着・護送船団…などといった、旧体制下の利権でつながる社会構造を改革せずして、日本経済の回復はない。
小泉政権が発足してから竹中金融相のしがらみのない改革に値を下げ、1982年11月16日以来20年5か月ぶりという7700円割れの株安に悲鳴をあげたのは、含み損計上で決算期を乗り切るのが危ぶまれた大銀行や株価崩壊の負債大企業と、それに繋がる旧体制政治家や経営者団体であった。この間、国民は50%を越える支持率を与えて改革を支持し、揺るがぬ意思を表示したのである。
この株高を受けて、資金が株投資にシフトされた結果、国債の価格が低下している。銀行の多くは市場へ貸し出すことを渋った資金を国債の購入に充ててきた。国債価格の下落は、郵貯・簡保を含めた金融機関に深刻な影を落とす。
もうひとつ、国債の下落に伴い長期国債の金利が上昇している。現在、国債発行残高は600兆円余。満期を迎えたものは償還か借換債を発行することになる。金利が上がれば国庫負担は増加して、ざっとした計算だが1%上がれば80兆円の国家予算に対して6兆円の負担増である。
株価上昇という観点からこれからの日本経済を見るとき、いずれも忘れてはならない材料だろう。
で、この発言について私はどのように責任を取るかというと、再来年には日本経済は再生するというのだから、全財産を賭して株を買うことにする。銀行預金からポケットに入っている小銭まで、全て合わせれば3万8000円ぐらいにはなるだろう。日本経済を左右する額には少し足らないか!