【80】警察の犯罪の糾明と断罪を明らかに!               (3.17)


 オンブズマンの開示請求にも「捜査の秘密」を繰り返して、資料の提示を拒絶し、芦刈勝治本部長は記者会見で「不正の事実は絶対にない」と断言していた北海道警が、原田元道警幹部の勇気ある証言によって事実を隠蔽しきれなくなり、本部長はつい先日の前言を翻して、「不祥事があったことは事実」と認めた。
 重大なことは、世の中の犯罪を取り締まる立場にある警察が、自らの不正を調べきることができなかったのか…、あるいは知りながら隠蔽していたのか…、いずれにしてもこの事件が正義を象徴する警察の存在基盤を揺るがす事件であるということだ。
 捜査したのだけれども、不正を見つけることができなかったというのならば、北海道警は無能ぶりを満天下に示したといわれても仕方あるまい。多数の物的証拠も示され、告発者もいるという、素人でも不正を見つけるのは難しいことではない段階で、「不正はない」と発表したのだから…。(ところが、弾劾審査が遅々として進まず、確たる「警察の犯罪」を明らかにできないのは、そこにも不正があるということなのだろうか。)
 知りながら隠していたというのならば、警察という立場をわきまえない無法者集団であり、正義を守ることを職務の誇りとしてきた警察官のモラルを地に貶めた恥ずべき行為といわねばならない。犯罪は組織ぐるみで、北海道警にとどまらずに全国の複数の県警から報告があり、また警察庁は不正指導の説明会まで行っていたのだから、何をかいわんやである。世の中の人々の敬愛を裏切り、警察官の精神的な支柱を根底から揺るがしたことを、関係警察官は肝に銘じて、事件の解明に全力を傾けなければならない。


 この事件で検挙・起訴されるものがないのならば、日本の警察・検察制度は何ら尊重することも遵守することも必要のないものになる。偽の文書を作って公金を横領し、組織ぐるみでその事実を隠蔽し、なお国の中枢機関に居座っていて、何ら恥じないどころか、責任は問われず、罪に服する必要もないというのだから。
 『至誠に悖るなかりしか』…と、日本の先人たちは常に身を戒めて、この国の形を作ってきたと聞いている。100年を経て、日本は腐りきってしまった。政治も官界も経済も、そして警察・検察までもが、私利私欲に走り、不正を働いて恥じるところがない。
 国の活力は、精神の強さであろう。その強さは、この国に生きることに誇りを持ち、喜びを見出すところから生まれる。国家ぐるみで不正を働く国に、誇りも喜びもなく、明日への希望は持てない。青少年に、将来の目標を持てとも言えまい。
 この事件に見られる警察の犯罪の糾明と断罪は、この国がその姿勢を糺し、その形を正す、大きな一歩である。



【79】得体の知れない不気味さを覚える、昨今の日本の日々!      (2.24)


 現在の日本の日々を見回してみると、社会全体が得体の知れない不安を抱えて、少しずつ歪んだ深淵へと落ち込んでいくような不気味さを覚えるのは、私だけだろうか。
 政治面では、顕著な成果を挙げられない小泉改革にいらだちながら、不思議な高支持率を与える、物静かな国民たち。小泉内閣への批判は、例えば道路公団の民営化ひとつをとっても、高速道路はこれからも造り続け、不採算道路のツケは機構すなわち国に回すというまやかしである。どこに、この国の体制を健全化する大儀があるというのだろうか。
 その政局を動かす与党は、自民党と公明党…。創価学会と一体の公明党を連立の相手に選んで、数百年という長い年月をかけて築き上げてきた政教分離を、政権にしがみつきたいがゆえに済し崩しに捨て去ろうとする自民党は、宗教政治が対立する思想をいかに弾圧し、世の中にどれほどの不幸をもたらしたかを知らないわけではあるまい。
 経済は、10年余の不況から脱却できないことから来る自信の喪失が、日本経済再生への気力を奪っている。加えて、私利私欲・党利党略に走る族議員と政党、省庁の権益を第一義とする官僚、そして銀行をはじめとして雪印・日本ハム・東京電力らに見られる経営モラルを喪失した企業…。グローバル化を口にはしても、日本の政官経済人は、米国式の市場原理に基づく、言ってみれば真の資本主義に立ち向かう姿勢を身につけてはいなくて、生き抜くすべを持ってはいなかった。
 社会面では、理由なき殺傷を偶発的に起こす通り魔や、抵抗力のない小学生・幼児への暴行や連れ去り、児童虐待など、鬱憤晴らしの実体のない事件が多発している。身につけているべき忍耐力・抑止力があれば、起こすはずもない事件である。
 犯罪の低年齢化…、事件にはならないが青少年の規律のなさも不気味な現象である。夜遅くまで徘徊する子どもたち、抑制されるとすぐにキレる子どもたち、少子化で大切に育てることとはきちがえて甘やかされた子供たち。この国の将来は危うく、その子どもたちを育てる教育も、教師たちの自信や教育力は低下し、学校では「勉強は学習塾で習って来い」と公言するぶざまさである。優しいだけの戦後教育で育ってきた、今の親たちも信用できない。
 やりきれないのは、社会の正義を守り、不正を取り締まるべき警察が、北海道警の内部告発のように腐り切り、桶川ストーカー事件のように不受理と捜査拒否、挙句の果ては検挙率19.8%と、犯罪を犯して捕まったら「運が悪い」と言われる国にしてしまったこと。さらに悪を糺す砦であるはずの検察までが、億単位の裏金を蓄財して流用していた不正が告発されるにいたっては、この国は今、地に落ちているというべきだろう。


 日本の抱える漠とした不安感は、日本人の心に空洞があき、この国のかたちにゆがみが生じていることにある。社会全体に不気味な衰退感が漂う日本に今言えることは、国の体制や各個人の精神・哲学を含めて、この国に正義とモラルを取り返すことだろう。他人任せではなく、各人が今できることから始めなければ、本当に日本は終わってしまう!



【78】「年金」問題は、抜本的な解決策を                (1.16)


 昨年、日本の平均寿命は過去最高を更新して、女性が84.93歳、男性が78.07歳となった。イギリスの科学誌「ネイチャー」は、2050年の日本の平均寿命は90歳を越えると発表している。そのとき、20才から64才までの労働人口に対して65歳以上の年金受給者人口の比率は「5対4」となり、ほぼ1人の勤労者が1人の高齢者を養う形になる。
 昨年暮れに厚生労働省が発表した、「将来、年金の支給額は、現役給与の50%以上」という基準には、何の財源も示されては居らず、年金に国民の関心が集中している今の状況を乗り越えるための、単なる口約束に過ぎない。いずれ、年金崩壊の危機を目の当たりにさせられた国民が、受給額を落としても0になるよりはいいと諦めるのを待って、なし崩し的に支給率を低減させていくことだろう。
 同時に、高負担を強いることも、自明の理である。経団連の奥田氏などは、消費税15%といったあまりにも経営者サイドからの提案過ぎる主張を繰り返して、日本改革を提案しているが(ほかのさまざまな提言とともにこの主張があることも事実だが)、消費税15%は日本がこのままのかたちでいけば、そうしなければ国家が立ち行かない数字というべきだろう。消費税アップの前に断行しなければならない支出削減…政官業の構造改革、癒着利権体質の改造などと、それらの諸問題を解決しての国の活性化など、取り組まねばならない課題は多いことを、もちろん前提としなければならないが…。
 輸出に頼らなければならない日本の産業を援護するために、円高を食い止めようと、去年1年間だけでも財務省と日銀は、約21兆円に登るドル買い介入をした。1j=125円の時代からこれまでに、日本がドルを買った合計は5000億ドル…53兆円。今、1j=105円になって、7分の1が対米不良債権となっている。
 わたしはかって「5年後には破綻する、この国を再建するものは」と題して、対米追従の外交・経済を改めて日本の路線を主張していく世界ルールの構築と、それに伴う自立した国民意識の持ち方についての提言をしてきた。政治経済などでアメリカに協力することは当然としても、日本の国益を切り売りして、取引に応じることは背信行為であろう。
 関連を追及していくと、話が広がりすぎてしまうので、もう一度「年金」に戻して、税金の投入給付額の削減、支給年齢の延長、収入・財産のある高齢者への支給見直しは、避けられない現実であろう。
 その中で、現役年齢の延長を是非とも図らねばならない。人生50年の時代から比べれば、みんな確実に30年は長く生きるのだから、70歳現役の社会を構築していくべきであろう。今の70歳はずいぶん元気で、まだまだ社会の第一線で働くことができる。もちろん、職種によるが、55歳頃を境にして給与は逓減状態にしていくのは当然だろう。だから、高齢者を雇用していると給与が高くつくということにはならない。
 60歳を越えた人にもどんどん働いてもらって、65歳からの年金の支給は、働いていて収入があることを前提にして初めは小額支給とし、70歳を越えれば漸次増額すばよい。働く必要も意欲もないという人は無理に働く必要はなく、自らの蓄えで悠々たる人生を送ってもらえばよい。今でも、若い人で働かずに暮らしている人は居る。
 現役年齢を延長すると、ただでさえ働く場のない若い人の職場を奪うという指摘があるかもしれない。しかし、そこは需要と供給の関係で、高齢者よりも若い人のほうが良いという職場は若い人を採るだろうし、腰の座らない若者よりも仕事を任せられる人のほうが良いという会社は高齢者を採るだろう。高齢の人に職場を取られると嘆く若者のほうが間違っているのだ。
 そして、80歳を越えれば、ひととおりの暮らしの費用は国がみるというのはどうだろう。年に何回かの旅行に行く人は行ってもらえば良いし、ゴルフも釣りも結構である。この費用は、それほどの金額を必要としない。むしろ、そうなれば老後に金を残す必要がなくなり、内需の拡大には確実に繋がるだろう。


 政府、厚生労働省は、小手先の方策ではなく(年金問題だけでなく、行政全般について言えることであるが)、ありのままの正確な数字を示して、国民の覚悟を促し、判断を仰ぐべきである。国の歳入の半分が借金である状態にあって、根拠も示しえないのに希望的な観測を揚げ続けていくのは、責任ある政治のなすべきことではない。



明けまして おめでとうございます                 (2004.1.1)
 本年も よろしくお願い申し上げます


【77】 年頭に際して、今年は教育についての提案をしたいと思う。 このサイトの「教育」の副題にも掲げているように、現在のわが国が抱える諸問題は、その原因の全てが教育に内在し、全ての問題の答は教育にあると、改めて思うからである。
 昨年12月に出された中教審の答申を見ると、昨年度から「ゆとり教育」の中核としてスタートした学習指導要領は「学力低下を招く」と明確に批判し、文部科学省が鳴り物入りでスタートさせた「生きる力を育てる教育」は、わずか2年足らずで見直しを余儀なくされた格好である。
 最終答申では、学習指導要領を全国の教育水準を確保する「最低基準」と鮮明に打ち出すとともに、発展的学習内容に上限を定めた「歯止め規定」の撤廃を明記している。 児童生徒の学力低下への不安、規制緩和を求める機運の高まりを踏まえた格好で、各学校が「指導要領に示されていない内容を加えて指導することで、知識を深め、学習意欲を高めたりすることも期待できる」などと、弾力的な運用や意欲的な取り組みを求めている。指導方法や教材を用意せずに、現場に丸投げするいつものやりかたで、またまた学校現場の悲鳴が聞こえてきそうである。
 あわせて、昨年度から正式に導入された、教科の枠にとらわれない授業「総合学習」の時間にも改善を求めた。総合学習は『体験活動や教員の意欲的な取り組みで児童生徒の問題意識を高めたり、児童生徒の学習意欲が向上した』とする実績の半面で、教育内容に乏しい授業が意味もなく行われていたり、教師の政治信条や独善的な思い込みに基づく偏向教育が見られたりもするなどと指摘し、答申は市町村教委や学校で全体計画を作成、授業後の自己評価の必要性を指摘し、改善を求めている。


 新指導要領が学力の低下を招くことは明確に見通されたことであり、私は以前疲れ果てる教師、崩壊する授業の項で、「これで、日本の子ども達の学力低下を招いたら、遠山文相や文科省局長・課長のクビで償える問題ではない」と書いて、文科省や担当者の責任を問うた。
 振り返って、教育の現場から、新指導要領や総合学習などに対する批判と改善策が提示されなかったことも、極めて残念なことであるといわねばならない。
 私は、さまざまな取り組みを実現させている愛知県犬山市の例を挙げて(地方自治体は、独自の教育プログラムを)、「今、文部科学省を初めとする国の教育政策がそうであるとするのならば、愛知県犬山市などですでにその取り組みが始まっているように、地方自治体は学習事項を整理して独自の教育プログラムを組み上げ、学力低下必至の現状に対して郷土の教育を守って、敢然と立つ姿勢を示さなければならない。「全国学力テストで、平均に対してこれだけのプラスをしました。学校崩壊・学級崩壊は、我が県や市町村ではでは無縁です」と胸を張れる成果を挙げ、結果を満天下に堂々と誇るべきプログラムをスタートさせるべきだと思う」と、途方自治体と学校現場の取り組みを促してきた。
 現在、私の近い周りで、新指導要領によって懸念される学力低下を防ぐために、新しい教育プログラムがスタートしたという話は聞かない。
 だとすれば、教育委員会などの行政当局も各種の教育機関も、さらには学校現場も、文部科学省と同等の責任を問われても仕方がない。実例として蔭山メソッドで知られる蔭山英男先生や犬山市の取り組みなどがあるのに、なぜ全国の教育担当者は動かなかったのだろうか。問題が存在することを知りながら、自ら行動しようとしないところに、教育改革への最大の問題点があるのではないだろうか。
 

 学力低下への歯止めに対して、行動しようとしない教育現場の姿勢は、自らの教育権を手放そうとしているかにも見える。
 顕著な一例が、「学習は塾で」と学校や教師までもが口にしてはばからないことである。かつての学校には、全体にも個々の教師の間にも学習塾に対抗する意地のようなかたくなさがあって、教師の子弟が塾に通うことは珍しくはなかったけれども、建前では学校や教師は塾を認めてはいなくて、例えば生徒が部活を「塾の時間なので」と切り上げることが言い出しにくい雰囲気があった。今は、『勉強は塾で』を教師自身もどこかで認めていて、「部活と塾の、どちらが大事ナンや」と一喝できない。
 私自身も20年間ほど学習塾を開いてきたが、先年、変わってきた子どもと…何よりも親たちに付き合うのに限界を感じてやめてしまった。
 学習塾を開いていたときは、「学校にはできない教育をやるんだ」と張り切って、子どもたちとともに、やれキャンプだ、社会見学だ、百人一首大会だ、星空観察会だ…などと遊び歩いていた。宿題を忘れた子どもを夜中の2時ごろまで残して、「もう、私どもは寝ますのでよろしく」とお母さんから電話を受け、「送り届けて、布団の中へ入れますから」と答えたりしたのを思い出す。子どもとも、その家族とも人間関係が密であり、それだからこそ私の言葉は子どもたちの理解に繋がったのだと思うし、家族の皆さんの信頼も得られたのだと思う。
 最大時の生徒数は900名に迫って、公立中学の規模を超え、生徒たちの成績も市内の各中学校の1番の生徒を並べていたし、全国学習塾協会主催の模擬テストにおいても、中3の部で全国順位50位までの中に14名が入るというレベルの高さであった。しかし、「学校にはできない教育をやるんだ」という当初の目標を、成績でも…生徒の掌握でも達成できたと実感したそのときも、『学習塾は、社会のアダ花。学校がしっかりしていれば、必要のない存在』であるということを、明確に認識していた。
 現在、学習塾や予備校は社会権を得て、世の中に必要な存在と認められるようになり、長年にわたって学習塾の内容を充実させて、社会的な認知を得ようと努力してきた私たちにとっては喜ぶべき状況なのであろうが、しかし、私はやはり「ちょっと待った」と言わなければならない。
 もし、学習塾や予備校を認めてしまったならば、教育は「金」ということになる。世界最高水準の所得を誇る日本にあっては、金をかけてハイレベルの教育が受けられるのならば、それでよしとする議論が成り立つというのならば、ことの本質をわきまえない、荒唐無稽な論議である。
 学校教育が学習塾や予備校のレベルで行えていれば、学習塾も予備校も存在しない。生まれることもないのである。膨大な人的資産と潤沢な資金を注いで、国家プロジェクトとして行われる文部行政が、学習塾や予備校程度のことを行えないわけがない。行えない…行ってこなかったとすれば、ここでも文部科学省を初めとする教育にかかわる人々に、その最大の阻害要因がある。
 体制が悪いという指摘もあろう。確かに、競争原理の働かないお役所仕事、結果責任のない甘えた体質、非効率・採算性度外視の体制…など、学校教育をめぐる社会的状況は悲惨である。しかし、日本のあちらこちらでさまざまな実践や改革への動きがあるように、有為な「人」が居れば社会は動く。
 是非とも教育に人材を発掘投入し、実効的な体制を確立して、「学問することは楽しいことだということを知って、主体的に学習に取り組む子ども」「自然を愛し、人を愛して、自らの人生を切り開いていく子ども」を育てる教育を実現していきたい。
 教育現場や研究会・機関・団体、教育行政担当は、それぞれの場で教育の方法を研究・整備し、教材を作成し環境を整備して、子どもたちの学ぶ心に灯をともすとともに、その学問する権利を保障するべきだろう。教育を確立することは、社会を正すことである。

その9
日本は、今
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