【120】奈良市職員の勤務問題が語る、2つの問題点           2006.10.29
      ― 監督者の責任問題 と 同和問題―


 病気を理由に5年間で8日しか出勤しなかった奈良市環境清美部収集課の42歳の男性職員について、藤原昭市長は27日午後会見し、この職員を懲戒免職に処するとともに、自らとこの5年間の上司ら26人も管理責任を問い、処分したと発表した。市長は、減給10分の2(6か月)の処分としている。


 この問題は、@5年間に8日しか出勤しないのに給与の90%が支払われていたという、公務員の勤務と管理についての問題、A職員が部落解放同盟奈良県連合会の役員だったことから、職員に対する対応が甘くなったという、同和行政についての問題という、2面を考えてみたい。


 まず、「5年間に8日しか出勤しないのに給与の90%が支払われていた」という実態には、冗談じゃない…という怒りと、何でそんなことが可能なんだ…という驚き、そして、さすがはお役所…という諦めを感じた。
 世の中の仕組みの中で、ビルゲイツからアパートの大家さんまで、収入を得るシステムを完成したものが高収入を得ることは理解できる。しかし、公務員として勤務するものが、ほとんど労働実績もないのに、フルタイム働いている他の職員と同じ報酬を得ていたというのでは世の中の理解は得られない。私企業の給与としての報酬ならば儲けの配分として構わないのだが、公務員の給与は言うまでもなく税金であって、正当と思えない利得が供与されていては、糾弾・追求され、再発防止に向けての取り組みを要求されて当然である。
 当事者の奈良市は当然だが、他の公官庁・地方自治体でもこれを他山の石として、綱紀の粛正と体制の見直しに努めてほしい。勤務・給与などのあり方については、人選をも第3者に委ねての検討委員会をつくり、OBや議員年金をも含めて、望ましいあり方を探ることだ。
 個々の検討事項については多岐に渡り過ぎるのでここでは触れないことにするが、監督者の責任は思い。「5年間に8日しか出勤せず、しかも、市役所内を闊歩していた」という行動を、知らなかったとは言うまい。5年間休んでいる職員はどうしているのか、当然ながら掌握する必要がある。
 市当局の対応が、「法に照らして、やむをえない処理」「法規的には、何ら問題はない」と答えていたのも、救いようのない感覚である。問題行動は認識していたわけだから、それを放置した責任、是正しようとしてこなかった責任は厳しく問われなければならない。それを「不正が行なわれるのは法整備が十分でないから。法に違反しないことは、容認される」と考えているのならば、彼らに改革の期待を抱いても無駄であろう。だから、第3者機関の設置が必要なのである。
 管理者の意識と責任を厳しく問うていかなくては、公務員の不正は糺せない。不祥事や怠慢は、当事者と同等の責任が、その管理者にあることを明確にしなければならない。


 「職員が部落解放同盟奈良県連合会の役員だったことから、職員に対する対応が甘くなった」という説明は、同和問題の弊害と根深さを物語っている。
 私は学習塾を開いていた頃、入学する生徒を篩(ふる)いにかけていたわけでもないので、いわゆる未解放部落と呼ばれる地区の子どもたちもたくさん在籍していた。子どもたちは意識することなく明るく交わり、私はそのお父さんお母さんと親しくお付き合いもしてきた。子どもたちに接するときも未解放部落に住む子どもであることを意識したことはないし、宿題を忘れてきたりしたら深夜まで残し、教室の約束を守れないものは「気合棒」で頭を張り飛ばしていた。今も年賀状などの遣り取りをしている子ども(今は40ぐらいになっている)も多く、その付き合いに変化はない。
 部落問題とは、本人自身の問題である。就職・結婚などに厳然とした差別があることは現実だが、片親だとか、帰化人だとか、在日だとかいった人たちと同じで、結局は自分自身の問題なのである。
 我が市の教育委員会にも「同和対策室」があって、幾多の精鋭が投入され、為す術もなく玉砕してきた。同和対策室には学校現場で活躍する教師が選りすぐられて派遣され、教科研究や学校運営面の損失は甚大なものがあることも指摘しておきたい。私は「同和問題は学校の先生がするべき仕事ではないし、手に負える仕事ではない」と繰り返し言ったのだけれど、行政の鬼っ子に立ち向かう生贄として、彼らは「人権」の美名のもと、教育エリートの誇りを賭けて同和の門をくぐっていった。
 結果、挫折を味わうか、胃潰瘍になって腹を切るか、… いずれにせよ心と体に手痛い傷を受けて虚脱して学校へと戻り、「長いものには巻かれろ」の生き方を身につけて、以後の教員生活を過ごすのである。
 私自身も、日本史の彼方に穢れ思想があり、封建時代の人民支配に被差別階層をつくってきた経緯など、差別をなくするための勉強もしてきたつもりである。学習のおかげか、持ち前の正義感のせいか、私自身に差別に対する意識は全くなくて、友人が娘の結婚相手の身元調査をするというので、「外国人を連れてきてもおかしくない時代に、部落出身者じゃないかなんて調査は、錯誤もはなはだしい。差別意識を持つ自分を恥じろ」と言って、「お前も部落か」と言われたりした。私はそれを否定する必要もないので、何のコメントもしなかったけれど、世の中に差別意識のあることを見せつけられた一幕であった。
 調べていくうちに、部落問題は今や利権闘争であることがわかった。もともと解放運動は、人々の意識の中の差別がいかに根拠のないものであって、差別することは自分の人格を貶めることを自覚させていくのが目的であったはずである。部落問題は、人々の心に働きかけることが、運動の方法であったはずだ。
 それが、解放同盟「朝田派」の暗躍などがクローズアップされた時代、解放運動とは集団による恐喝的な団体交渉、暴力的な利権闘争であった。1922年、全国水平社が結成されてから80余年、今、全解連、神解連の結成などを経て、運動の形は自省的に変化し、不公正乱脈な同和行政の是正、窓口の一本化の打破、そして、同和行政の目的・目標の理論的解明、二十一世紀の展望の提示などが図られようとしている。
 しかしなお、大阪市の「芦原病院」への不正補助金問題、「飛鳥会」の市の委託事業をめぐる横領事件、大阪・八尾市の本部派支部役員による「行政への恐喝」、京都市では職員の不祥事・逮捕者の続発、そして今回の奈良市職員の「不正勤務」などの問題を見ると、解放運動はやはり暴力的・恐喝的な不正体質を滲ませていて、市民の理解を得てはいないと思わざるを得ない。
 現代において、社会の制度の中で、未解放部落居住者を差別するものは、もうなくなっている。人々の心の中の残像は、これらの解放団体が繰り広げる利権体質に対する嫌悪である。同和の渦中にある人が、同和を盾にして恩恵にあずかろうという体質を払拭しない限り、世の中の人々の心の中から同和問題がなくなることはないだろう。すなわち、部落問題は、彼ら自身の問題なのである。
 その問題は幻想だといっているのではない。存在することは事実であるけれど、もはや社会制度としての差別はない。人々の心に残る差別意識をなくするためには、差別は恥ずべき行為であることを啓蒙していくとともに、当事者たちが社会的に自立することが不可欠なのである。かつての日本には朝鮮人差別の思想が確かにあったけれど、もう近代国家として自立した韓国を卑下する思想はない。同じように、未解放といわれる人々の奮起・自立なくして、部落問題の解決はない。




【119】 「核」についての議論を封じる愚                2006.10.22


 北朝鮮の核実験に、世界が沸いている。北部山中に横穴をくりぬいて、1Kd未満のウラン型爆弾を爆発させたといわれている。国連は北朝鮮制裁を安保理で決議し、ライス米国務長官は日・韓・中の3国を訪問して対応策を協議するなど、各国の動きがあわただしい。日本は、いち早く北朝鮮籍の船と人の来航・入国を禁止、この核実験を断固容認しない姿勢を示した。
 北朝鮮の核は外交カードであって、直接的な脅威はない。ノドンに搭載して日本に向けて撃つ訳はなく、仮にそのような動きが具体的になったら、その時点で北朝鮮は内部崩壊か、外部からの圧力・攻撃によって、壊滅する。
 安倍政権にとっては、神風ともいえる政権発足へのプレゼントである。北朝鮮への経済制裁の可否を問うた世論調査では、80%の支持を得て、日本の国内世論は統一されている。国論統一の手段として外敵を作るのは政治の有効な手段とされ、中国や韓国は反日をスローガンにして政権維持の手段にしているぐらいだ。安倍政権にとっては、努力するまでもなく、国内をまとめあげる材料が転がり込んで来てくれたのだから、棚からボタモチみたいなものだろう。
 北朝鮮の核はこのあと6カ国がガタガタッとした動きを見せながら膠着状態…、早晩、金正日政権の崩壊が始まると思われるが、今、その時期を予想することは難しい。


 むしろ、日本国内において、「核についての議論をするのはケシカラン」という発言が気にかかる。
 自民党の中川昭一政調会長が「核をめぐる議論は必要だ」と発言したことを受け、与野党から批判が噴き出したのだ。衆院テロ防止特別委員会だけでも、「核保有を議論するとはけしからん話だ」(民主・中川正春)、「非常に不謹慎。北朝鮮に核実験をさせた責任の一端が日本の国会に」(民主・長妻昭氏)、「わが国の見識が問われる」(社民・阿部知子氏)などの批判が相次ぎ、鳩山民主党幹事長は今日の街頭演説で、「議論することが、とんでもない話」との発言している。
 自民党からは、おなじみ山崎拓元副総裁と加藤紘一元幹事長が「今の雰囲気の中、『核装備すると言ってはいけない』との国際感覚をもつべきだ」などと言い、久間章生防衛庁長官は自らの立場を鑑みたのだろう、「議論自体が他国に間違ったメッセージを出すのではないか」と発言している。
 いずれも、日本人の核アレルギーを背景とした発言だろうが、北朝鮮の核保有という現実に直面して、日本人の核意識も、中川昭政調会長の言う「日本が核を持たずに北朝鮮にどういう対抗措置ができるのか真剣に議論しなければならない。議論することと非核三原則を守ることは矛盾しない」という主張に、正当性を見出している。国民の国防意識は、いつまでもアメリカの傘の中での安全という依存一辺倒でよいのかと、やっと国際的レベルにさしかかろうとしていて、北朝鮮の核保有も契機に、自主防衛に向かって変化しつつある。
 「日本は世界で唯一の被爆国なのだ」と国際社会で主張すると、「だから何なのだ」と言われてそれっきりだというのが、世界の現実なのである。いつまでも非核神話の呪縛にとらわれ、「核保有について議論することもはばかられる」などといった敗戦アレルギーを金科玉条として政策を決めているようでは、それこそ時代に取り残されてしまうことに気づくべきだろう。




【118】安倍内閣スタート                       2006.10.02
  ― 人事・所信表明・代表質問、ちょっとあいまい ―


 安倍内閣がスタートした。人事、所信表明演説から、新政権の様子を見てみよう。
 人事は一口に言うと、よく言って、志を同じくするものが力を合わせる「アメリカ型興行一座内閣」、悪くはマスコミ各誌が言うように、党内融和と気心の知れたものを集めた「仲良し内閣」である。


 さて、その人事だが、まず「松岡利勝氏が官邸へ到着」という映像を見て仰天した。松岡は熊本県選出の衆議院議員、旧江藤・亀井派だから現在は伊吹派。当選6回議員だから、そろそろ大臣の声がかかっても不思議ではないのだが、この男、鈴木宗男とつるんで、当時の霞ヶ関の役人たちを大声で怒鳴りまくり、恫喝して回っていたと文芸春秋誌上に報じられた、札付きの男なのである。
 安倍晋三新総理とその周辺が、彼のスキャンダラスな一面を知らなかったとは考えられない。その入閣とは、伊吹派からの入閣要請を飲まざるを得なかったということなのだろう。
 笑ったのは、「松岡氏の入閣」を評して、松岡利勝と同派閥に居て気脈を通じる亀井静香が、「彼は農政の神様ですから」と言っていたこと。利権の神様が、同じ穴のムジナを誉めそやしたというところか。
 次に、参院枠も青木参院議員会長の言いなりであったこと。内閣発足前は「参院大臣枠にとらわれない」と明言していたのに、結果は青木氏の発言の通りの「参院枠2ポスト」となった。しかも人選まで要求どおり、若林正俊(衆院3回参院2回)を環境相に、溝手顕正(参院3回)を国家公安委員長に就けている。新鮮味もなく、適材適所の説明もつかない、順番待ち入閣のそしりは免れない。
 また、金融担当相の山本有二、文部科学相の伊吹文明などは、安倍内閣の重要政策を推進する部門だけに注目の集まるところであるが、とてもその道に通じた人選とは言えない。山本有二は金融分野はズブの素人、伊吹文明はこれまで教育とはほとんど縁のない分野を歩いてきていて、入閣後のテレビのインタビューや座談会でも説得力のない抽象的な発言を繰り返すばかりであった。安倍晋三を担いだ再チャレンジ議連を結成して会長に就任した山本、伊吹派を安倍支持でまとめた伊吹に対する、論功行賞であることは明らかだろう。
 そして、冒頭の松岡利勝だけでなく、スキャンダルを抱えた人物の入閣が多かったことも、安倍晋三の周りに集まる政治家には、きな臭い連中が多いということかと心配してしまう。
 女性問題で森内閣の官房長官を失した中川秀直新幹事長はまだ可愛いとしても、伊吹文明は恐喝事件で摘発された商工ローン『日栄』から政治献金を受けていて問題になったし、厚労相になった柳沢伯夫は総会屋と同席しているところを写真誌に載せられ、新経産相の甘利明は地元の政治団体の幹部が政治資金規正法違反で逮捕されているなど、いずれも刑事事件にかかわる問題を抱えている。清新なイメージが支持率の大きな要素である安倍政権としては、これらの事実を政治的思惑を持って暴露されていったら、大きなダメージになるのではないかと危惧するものである。


 この「人事」に対する各方面からの論評を、安倍首相は「政治は結果責任、この内閣の真価は結果で証明します」と切って捨てた。
 それでは、政策の中から看板の教育改革を取り上げて、全国の小中学生の五教科平均点を、10点ずつ上げて証明してほしい。悪意で言っている訳ではない。結果というものを、明確な形で示してこそ責任を果たしたということである。今までの日本社会のように、説明しなければわからない責任の果たし方ではなくて、安倍首相には「点数」という明確な事実で結果責任を明示してほしいと思うのである。
 私は、先日、三重県教育委員会へ提出した文書に、「世は学習塾全盛で、学力をつけたければ塾へ行けと言う時代です。しかし、費用も人員も時間も…、学習塾より潤沢に与えられている公教育が、学力を習得させるという知育教育の基本の部分ですら、学習塾の後塵を拝しているのはなぜでしょうか」と書いた。ここにこそ、今の日本の公教育が抱える最大の問題があると思うからだ。
 平成15年度の国の歳出の中に「文教及び科学関係費」が占める割合は6兆4712億円で7.9%を占めている。これは、国債費16兆7,981億円(20.5%)、地方交付税交付金等17兆3,988億円(21.3%)、社会保障関係費 18兆9,907億円(23.2%)、公共事業関係費 8兆971億円(9.9%)に続く、第5位の巨額な支出額であり、 防衛関係費 4兆9,530億円(6.1%)を上回る大きさなのである。しかも、これに地方の予算が上積みされるから、教育関係の公共支出は実に莫大なものなのである。これで、「学力をつけたければ塾へ行け」と言われては、たまったものではない。
 学習塾は、当然、自前だ。大手予備校などは全国展開で、講師数が数百人というところがあるが、小さい塾では、講師が一人で小学生から中学生までの英語と数学…、さらには国語・理科・社会をも教えている。これがまた、結構レベルが高い授業を実施しているのだ。少し大きい塾になると、英語と数学の担当が各2人、国語・理科・社会が英・数との掛け持ちといったところで5〜6人でやっている。このあたりが標準であろう。
 教材も、多くが自前の手作りである。教室は15坪ほどの貸しビルなどに、会議用の机を並べただけの設備だが、多くの教室は活気と規律と意欲に溢れている。ほとんど金もかけていないこんな教室が、学校教育をしのぐ成果を見事に挙げているのである。
 人員について考えてみよう。小中学校の教職員の数は、三重県を例にして見てみると6,077人、生徒数は159789人だから、単純に教師一人当たりの生徒数は14.5人となる(平成18年度三重県教育委員会学校名簿)。参考までに東京都の場合(平成17年度)は、教員数42,668人、生徒数765,608人、教師一人当たりの生徒数は17.9人である(東京都教育委員会 公立学校統計調査報告書)。
 教職員は、教育学部で教員免許を取得したもののうち、都道府県が行なう教員採用試験に合格したものが採用される。しかも、公務員特例法で一般職員よりも高給を保証し、優秀な人材を確保する方策が図られている。
 学習塾の講師といえば、教育学部卒といった資格などは採用の条件でも何でもない。多くは他の企業でリストラされたか挫折した転職組である。午後2時ごろからの出勤で、終業は10〜11時、日付が変わってからの退社も珍しくはない勤務をこなしている。
 講師の半数以上を、アルバイトでまかなっているところも珍しくはない。それでも、しっかりしたカリキュラム・研修・教材・管理を揃えていれば、それなりの成果を挙げている。ひるがえって言えば、学習指導なんて、この程度のことで十分なのである。
 授業時間は、小学校で1日平均5時間、週5日間で25時間ぐらいだろう。中学校ならば週30時間といったところか。
 ところが学習塾では、英語・数学を各2時間の計4時間というのが一般的だろう。国語・理科・社会科で各1時間として合計7時間。生徒と接している時間は、学校の3分の1にも満たない。


 このように、「費用も人員も時間も…、学習塾より潤沢に保証されている公教育が、学力を習得させるという知育教育の基本の部分ですら、学習塾の後塵を拝しているのはなぜか」…。それは、教育の制度に致命的な欠陥があるからだ。
 制度について、その欠陥のひとつひとつを考える機会は、長くなるので項を改めるが、ひとえに、結果がどうであってもその責任を問わないという行政(公務員)の意識を改めて、目標・目的を達成しなくては生き残れない民間の厳しさをもちながら、職務に当たる覚悟が必要である。
 教育の結果責任とは何か。乱暴なのを承知で言えば、「生徒の多くがその授業を受けたいといい、生徒の平均点を10点上げる」ことだろう。結果を明確に示さなくては、責任を果たす政治(教育)とはいえまい。
伊吹文部科学相、山谷えり子教育担当補佐官に、期待しても良いのだろうか。(私としては、山谷補佐官にかなり期待しているのだが…。)


 人事のあとは、アジア外交だ。先日の「116 安倍晋総裁誕生」の項に、私は「小泉首相に袖にされ続けてきた中国・韓国は、新総裁誕生の機会を関係改善への契機にしたいと願って、様々なシグナルを発信して来ている。両国の面子も立てながら、靖国参拝、領土・資源問題などについて取り組まねばならないわけであるが、アジア外交の成否はアジア諸国の理解と支持にかかっている。国民と国際世論を常に味方につける配慮を怠らず、多方面にわたる日本外交を続けて欲しい。」と書いた。
 早速、「中国を8日に、韓国を9日に訪問して首脳会談」との報が流れている。ゆめゆめ、「中韓に配慮して、靖国参拝はしない」などとは言わないことだ。人間の生き方と同じように、政治には軸が必要である。「国を守るために命を捧げた英霊に参拝すること」は、国民として当然のことである。経済界のトップにあるほどのものが「国益を考えて参拝中止」などと発言していたが、人間としての理念がない。「靖国参拝は、日本人としては譲れない」とするのが日本が貫かねばならない軸である。そのことをもって、首脳会談をしないというのならば、それは相手の軸との交点が見出せないわけで、いた仕方のないことだろう。中国へも要求するといい、「チベット、新彊ウイグル、内モンゴルを解放しなければ、首脳会談をしない」と…。
 政治というものは、無から有を生じ、出来ないことをする方法を見つけ出すことである。中国とインドは政治的にはギグシャクした仲であるが、中国からインドへの企業の進出や投資は、近年、目覚しいものがある(日本が対インド投資が遅れているのが気になるが)。政治的に近隣諸国と付き合う方法のお手本が、ここにあるではないか。
                                  (文中敬称略)




【117】学校式典で、日の丸・君が代を義務付けることは違法と東京地裁  2006.09.23


 東京都立の高校・養護学校教師、元教師らが、「日の丸・君が代の強制は、思想・良心の自由の侵害だ」と訴えていた裁判で、東京地裁の難波孝一裁判長は、「国歌斉唱などを強制するのは思想・良心の自由を保障した憲法19条に違反する」「都教委の通達や指導は、行政の教育への不当介入の排除を定めた教育基本法に違反する」と述べ、『日の丸・君が代を教師に義務づけた東京都教委の通達と校長の職務命令は違法』との判決を出した。


 法律的論理も、社会の規範も、国際的な常識も吹き飛ばす、破天荒な判決である。裁判官というのは、自分のそのときの信条のみで、判決文を書いていいのだろうか。
 判決は「式典で国旗を掲げ、国歌を斉唱することは有意義」「国旗・国歌を尊重する態度を育てることは重要」と言い、「入学式や卒業式は、生徒に厳粛で清新な気分を味わわせ、集団への所属感を深めさせる貴重な機会だ」と述べている。それなのに、『日の丸・君が代を教師に義務づけるのは違法』だという。論理的矛盾に満ち満ちているといわねばなるまい。
 判決文中に、「(日の丸・君が代は)宗教的、政治的にみて中立的価値のものとは認められない」という部分がある。これが、矛盾に満ちた理由と結論を縒り合わせる理由であると考えられなくもないが、日の丸・君が代が、かつての大戦を想起させ、日本軍国主義を復活させるなどといった議論は、何百回と領海領空を犯されながら1発の砲弾も撃ってはいない、戦後60年の日本が淘汰し尽した幻想でしかない。今の日本人の誰に聞いても、争いの解決手段に戦争を挙げる人はいないし、軍国主義の復活を危惧する人もいまい。
 式典が「式次第」に従って進行されることは当然であり、いかなる式典であっても、起立するときには起立し、礼をする場面では礼をしなくては、式典は成立しない。しかし、原告たちは『日の丸に起立・礼をさせ、君が代を歌うことを強制するのは「思想・良心の自由の侵害だ』と言い、判決は『教師には、そうした通達・命令に従う義務はない。国旗に向かって起立しなかったり、国歌を斉唱しなかったとしても、処分されるべきではない』と言うのである。「起立」と言っても自分の判断で起立しなくてよいというのでは、入学式も卒業式も心に残る厳粛なものにはなるまい。
 繰り返すが、「日の丸と君が代」だから、起立・礼・斉唱は「思想・良心の自由の侵害だ」というのか。国民の意識としては、平和日本の60年間に過去の戦火の幻影は払拭されていると先に述べた通りだが、今や日本人は、オリンピックにも、サッカーのワールドカップにも、高校野球の甲子園にも、日の丸を手に人々は声援を送り、国歌斉唱には選手も観客も君が代を歌っている。今や、全国津々浦々に国旗「日の丸」と国歌「君が代」は何の違和感もなく受け入れられていて、人々は日の丸を振って皇室の新宮様の誕生を祝い、国歌斉唱と言えば君が代を歌っているのである。また、世界中、いずれの国であってもセレモニーなどの場では国旗掲揚・国歌斉唱は普通に見られる光景であり、国旗・国歌に対しては、自国・他国を問わず敬意を表するのは当然の国際的な礼儀だろう。
 「日の丸・君が代」に国家主義の幻影を見るほうが、特異な存在なのである。判決は、これら「少数者の思想・良心の自由」を過大評価し過ぎている。少数意見は貴重であり、時として警鐘の役割を果たす。しかし、国の方向を判断する裁判所の判決が、少数の幻想的意見を正とし、法律的論理に則った多数の常識を否とする判決を出していては、社会は混乱する。それでは、裁判所は、裁判官の恣意的な個人の見解をもって判決とするのかと糾弾されても仕方がない。


 今回の誤った判決が、全国の教育現場に、無用の混乱をもたらすのではないかと心配である。トラブルを生じなくとも、校長の自発的判断で、一部の教職員に配慮し、「東京地裁の判例もありますので、君が代の斉唱はなしということで…」などという事態があれば、無用の混乱である。
 さらに、「起立・礼」に立たない生徒がいても、それは「思想・良心の自由」なのである。判決は、「入学式や卒業式は、生徒に厳粛で清新な気分を味わわせ、集団への所属感を深めさせる貴重な機会だ」と結論部分で述べているが、むしろこの判決が、教師も生徒も保護者も、個人の思想と良心による、てんでんばらばらな式典を奨励するようなことにならないだろうか。
 指導要領に明記されている「国旗・国歌を尊重する」どころか、不敬・反発の態度を育てたりはしないか…。自由と身勝手をはき違える、戦後教育が繰り返してきた誤りを、また子どもたちにさせてしまうことになるのではないか…。
 この危惧が、無用の心配に終われば幸いである。




【116】自民党新総裁に安倍晋三氏  得票率66%          2006.09.20


 NHKテレビが自民党総裁選の現場を中継…、今、第21代総裁に安倍晋三氏が選出された。結果は事前に判明していたこととはいえ、「新総裁は安倍晋三君に決定」という選管委員長の言葉を受けたときの安倍氏は、強い決意の中にもホッとした安堵の表情を浮かべて立ち上がり、四方へ丁寧に礼をしていた。
 新総裁としての挨拶の中では、「改革を受け継ぎ、しっかりと進めていく」との決意を述べた。あまりにも快走を続けた小泉首相のあとを受けて、何かにつけて反動の波をかぶる船出である。前途の洋々たることを祈念するとともに、先ずは、党役員と組閣人事に不退転の決意を見せて欲しい。
 7割が支持勢力に回った総裁選で見られるように自薦他薦ひしめくポスト争いが熾烈だし、参議院からは「閣僚2名枠は確保」との注文が出ている。しかし、ここで妥協する姿勢が微塵でも見られれば、安倍支持の高い世論は正体を見せられた思いがすることだろう。越えねばならない、第一のハードルである。
 麻生(136票、19%)、谷垣(102票、15%)の健闘に、見ているほうとしても胸を撫で下ろしている。両氏とも、100票を越える得票で、これからも国政の中で活躍する場を確保したと言えよう。
 人事のあとは、アジア外交だ。小泉首相には袖にされ続けてきた中国・韓国は、新総裁誕生の機会を関係改善への契機にしたいと願って、様々なシグナルを発信して来ている。両国の面子も立てながら、靖国参拝、領土・資源問題などについて取り組まねばならないわけであるが、アジア外交の成否はアジア諸国の理解と支持にかかっている。国民と国際世論を常に味方につける配慮を怠らず、多方面にわたる日本外交を続けて欲しい。
 憲法改正、教育改革…などとともに、やはり財政再建も避けることの出来ない政治課題である。安易に消費税率の引き上げなどに頼っていては、実のない政治とのそしりは免れない。小泉改革の空洞の部分をしっかりと補強しながら、磐石の政治を築き上げて欲しい。




【日本は、今 115】 民主党の党首に小沢氏が無投票で就任       2006.09.14
 ― この4月千葉7区衆院補選に勝利した民主は、来年の参院選に連勝できるか ―


 自民党総裁選に安倍・麻生・谷垣の三候補が立候補して、20日の投票日を目指して選挙戦を繰り広げている最中(さなか)、民主党も代表選が告示されたのだが、小沢現代表のみの立候補で、25日の投票日を待つまでもなく新代表が決定した。これで秋の政局は、20日の安倍晋三自民党新総裁の誕生を経て、安倍自民党VS小沢民主党の対決構造が確定したわけだ。


 留任が決まった小沢民主党代表は、「来年の参議院選挙で勝利し、政権交代の流れを…」と抱負を述べていたが、政権交代は民主党の悲願であるし、日本の浄化のためにも実現したいエポックだけれども、今の民主党にはその資格も可能性もない。
 自民党の総裁選で、福田康夫氏が立候補を辞退したことも含めて、安倍氏独走の状況を、今の自民党は「活力がない」とか「政策の焦点が曖昧」などと言われながら、白熱の消化戦の様相が連日のテレビ画面を賑わせている。これに対して、民主党では対立候補すら出ることなく、さらに残念なことはその状況が、マスコミにも世間にも淡々と伝えられ語られたという事実である。今の民主党の動向など、誰も注目していないのだ。


 政治経験や手法が未熟であったけれども、原理主義者的な岡田氏や極右的な前原という若手が出てきた頃の民主党はまだ魅力があった。鳩山・菅氏らがそれら若い勢力を育てようとはせずに、却って排除しようとしたのは政治の世界の生存方法としては当然と言わねばならないのかも知れない。自民党の活力の源は派閥の勢力争いだといわれているし、中央も地方も足の引っ張り合いであることも事実である。
 ただ、自民党では同じ志を持つもの同士は助け合い、後進を育てていこうとするけれども、民主党のそれはコミンテルン的体質なのだろうか、同士や後継者を抹殺していく道を歩もうとしている。前原執行部の崩壊は、まさにその表れであった。
 新しくスタートした小沢民主党に、何らの新鮮味も感じることなく、新しい芽を摘み取り、古参のボスが談合し合いながら物事を決めていく旧時代の自民党の幻影を見るのは私だけだろうか。しかも、自民党の根底には資本主義的民主主義と言う共通理念があったけれども、民主党は、旧自民から松下塾と組合民主主義者までの寄せ集めで、見ているものはその拠りどころはどこなのかも分らない。根底にあるものは何かという「共通基盤」を示すことが出来なければ、国民は安心して国の将来を託すことはできまい。


 小沢民主党は、前原執行部崩壊の後を受けてスタートした直後の衆院千葉7区補欠選挙に、太田和美ちゃん(26)を立てて起死回生の勝利をものにした。私は投票の前に、このサイトに「郵政民営化選挙に大勝利した後、社保庁問題・防衛庁談合・日歯連1億円疑惑・銀行の未曾有の利益など…不祥事不本意が続く政治への警鐘として、民主党太田和美ちゃんの当選は確実」と書いた(参照)。しかし、今の民主党には、自民党の対立軸としての存在感はなく、国民の鬱積感の捌け口としての役割すらすら担えない。


 安倍自民VS小沢民主の結論を言おう。来年の参議院選挙は自民党の勝利…。憲法改正、教育基本法の改正…へと政局は進んで、安倍総裁、中川秀直幹事長(←これはちょっと自信がない、いちおう当て馬)の自民党は安泰である。
 民主党は解党的出直しを余儀なくされよう。では、その出直し策は…、近日…。


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