【寺子屋騒動記1. 昭和48年12月】           寺子屋トップページへ


  
寺子屋スタート    −開講のいきさつ−             2005.12.09


 昭和48年12月、師走に入った三重県津市の京口立町の一角に、生徒数5名の小さな学習塾の灯が点った。翌年の4月には新入生250名、3年後には生徒数750名を擁し、中3数学の1クラスでは36名の生徒が全員、学校の通知表で「5」を取り、また、津市内の全中学校の1番の生徒が在籍した、伝説の学習塾の誕生であった。


 昭和46年から、章くんは教育図書教材の出版・作成の仕事を始めていて(なぜ教育関係の仕事を始めるようになったのかは、別項に詳しく述べる)、その事務所を、この8月、津市のど真ん中、京口立町のビルの2階に開いた。部屋の広さは22坪、章くんがひとり、ポツンと居るだけでは、広すぎるスペースである。
 仕事柄、章くんには親しい学校の先生がたくさんいて、その先生たちの何人かが集まったとき、「ここで学習塾を経営したら…」と言い出した。章くんが「誰が教えるの?」と言うと、「僕たちが、毎日、学校が終わってから、交代で来て教える」と言う。現役の学校の先生が学習塾で教えるというのだから、現在では考えられない発想だが、その頃はおおらかな時代であった。
 当時、多くの先生は自宅に近所の生徒を呼んだり、出張して家庭教師をしていた。それが不思議でも何んでもなかった。余談になるが、大学教授が本を出版して印税を稼いだり、テレビに出演してギャラを稼いだりしたら、売れっ子として脚光を浴びる。小中高校の先生が、例えば学習塾へ出張して、人気講師として腕を磨けば処罰される。どんな違いがあるというのだろうか。



 学習塾の名前は「三重県教育センター」。この命名に、章くん、やるからには、学校以上の内容のある学習塾にしようという決意が見える。子どもたちは親に強制されるのでなく自分の意思で通うんだと言い、通っただけの成果を成績と人間形成に目に見える形で表し、父兄からは全面的に信頼される教室を創ろうと思ったのである。
 章くんは、教育関係の仕事を手がけるようになってから、たくさんの先生を知り、多くの学校の実態に接して、現実の教育現場に対する、厳しい感想・評価を持っていた。
 例えば、先生のサラリーマン化といった傾向に対しては、日教組が掲げた「教師の非聖職者宣言」から、日本の教育はタガが外れ、坂道を転がるように悪化の一途をたどったと考えている。日教組が先生の生活を守るというのは理解できないこともないが、組合主義的教育観を掲げるのは許せない。教育とは、労働ではなくて、人間的な感動の行為だと思うからである。
 章くんの事務所に集まった先生たちは、みんなよく勉強したし、研究会などに積極的に参加し、地域の教研ではリーダーシップを発揮する先生たちであった。若い人たちは三重県教育界になくてはならない先生になっていった。
 その集まりではいつも、「なぜ、8時から5時までの教育をやってるんだ。教材を自分で作れ。文部省や教育委員会を越えて、自分たちで研究会を作って勉強しろ。読書家の先生に接した生徒は必ずよく本を読むようになるから、読書会を組織しよう。教育に理論と哲学を持て。生徒に人生と夢を語れ。生徒や親たちから尊敬される先生になろうと思え」といった激論が交わされた。
 章くんも、教育の現場を外から眺めた意見や主張を熱く語った。例えば個々のレベルでは、教師は指導案をそれぞれに作成して授業に臨むわけだが、なぜそれをひとりひとりが個別に作成しているのか。三重県の教育研究の集大成として、その通り行えば基本的な授業はひととおりこなせるモデル指導案を完成するべきだろう。地域の特性とか、担任の個性とかは、その上に加えていけばよい。
 学校レベルでは、教材費の集金ひとつを取ってみても、学級担任ひとりひとりが集め・保管し・支払いをしている。一般企業で、こんな非能率的な管理をしているところはあるまい。給食費などは、学級担任から事務職へ渡され、一括管理をして銀行口座への支払いが行われているのだから、やればできるのではないか。
 それらを、教師は日々の雑務に追われて多忙だと言いながら、ここ50年間、改善しようとはしない。…などと提案したが、三重県教育界の改革は百年清河を待つばかりで、こんなことひとつをとっても遅々として進まない。


 当時、章くんは26歳。集まった先生たちは、章くんよりも年上の人たちがほとんどであった。章くんはこれらの先生たちの薫陶を受けたし、話し合いの中でいろいろなことを学んだのである。
 その先生たちに、章くんは「教材は手作りで…」と要求し、毎時間のテキストは担当が手書きのプリントを作って来て、授業の体制が整った。


 あとは、生徒を集めるだけである。



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