【寺子屋騒動.列伝1その1 昭和49年3月       寺子屋トップページへ


  思い出の卒業生たち  − パジャマでお邪魔 − 大木 直 その1


 話はちょっと戻る。2月半ば、小6講座を担当している高井先生が地区のスポーツ少年団の指導にあたることになって、講座の担当を続けるのが難しくなり、当面、章くんが引き受けることになった。
 そんなある日、授業を終えて片づけをしていると、訪問者があった。「お邪魔します」と男の人が、男の子を連れている。「この子のことで、ちょっとご相談が…」と言う男の人は、手に三重県教育センターの案内書を持っている。受講の申し込みにみえたみたいだ。
 「小1のときに、母親が病気で亡くなりまして、私も洋服生地の店をやっているものですから、家に居なくて、この子は日常のしつけなんかが全然出来ていないのです」
 「ごはんとかは、お父さんが作ってみえるのですか」
 「いえ、私は帰ってくるのが遅くって…。去年、高校を卒業した姉がいますので、食事などは、この姉が作ります。ただ、姉も勤めていますので、昼間、学校から帰ってくると、この子はひとりで家にいます」。
 横にいる男の子は落ち着かない様子で、キョロキョロと辺りを見回す視線が定まらない。
 「実は学校で、特殊学級に入れようと思うがどうか…と言われたのです。でも、学校の先生も、落ち着きのないこの子の様子を見て、特殊学級の話を持ち出されたのだと思うのです。頭の程度は、そんなに問題があるとは思わないのですが…」。
 そう話すお父さんの隣で、座っているのが退屈になったのか、ソワソワし始めたその子を見て、章くん、『あれっ、何か変だな』と違和感を覚えた。…ン、よく見ると、この子、左右の履物が違う。右はビニルのサンダル、左は木のサンダルを履いている。さらに、ズボンがパジャマだ。
 「解りました。しばらくお預かりして、その上でまたご連絡を差し上げます」。
 大木 直は、3月から小6の講座へ通うことになった。


 3月最初の土曜日の午後5時、父親に連れられて、大木 直がやってきた。今日もサンダル履きだけれど、ちゃんと左右同じの木製サンダルを履いている。
 「お父さん、これからも送り迎えをしていただくのですか」
 「いえ、私も店がありますので…。今日は初めてですから…」
 大木 直の家は、歩いて10分。毎日20分をかけて学校へ通っているのだから、一人で帰しても何ら心配はない。
 授業が始まった。「平面図形の面積を求めよう」という今日の授業プリントを配って説明を始めると、大木 直は章くんのほうを見ずに、あらぬ方向をじっと見ている。『人の話を聞く習慣がついていないな』と思いつつ、章くん、黒板に向かって図を描き始めた。
 背後で、コツコツと音がする。振り向くと、大木 直が立ち歩いて、置いてある本棚の本を取ろうとしていた。「コラーッ、大木。ちゃんと座っとらんかィ」と言いつつ、持っていたプリントを丸めて、頭をポッカーン! 
 殴られた大木 直は、キョトンとしている。何が起こったのかも分らない様子だ。立ち歩いて叱られた経験もないのかも知れない。ましてや、頭を殴られたことなど、皆無だったろう。「こら、授業中に、立ち歩いたらアカンやろ。これからも立ち歩いたら、張っ飛ばすぞ」と注意すると、「うン」と自分の席に戻った。
 しばらくして、章くんがまた黒板に向いて板書していると、大木 直はまた立ち上がって席を離れていく。今度は章くん、振り向きもせず、「コラーッ、大木ィ。立ち歩くなと言うとるやろが」と怒鳴ると、大木 直はその場に立ち止まったまま、『なんで振り向きもしないのに判ったんや』というような顔をして、章くんのほうを見つめていた。
 木のサンダルを履いてきたのが、大木 直の敗因だ。歩き出すと、コツコツと音がする。「この野郎ォ」と、また頭をポッカーンとやられた。
 大木 直の場合、立ち歩いてはいけないと解っているのだけれど、体が勝手に動き出すのだろう。ふと、忘れてしまう瞬間があると言えばいいのか…。「お前、学校でも立ち歩いとるのか」というと「うん」と悪びれた様子もない。「先生に叱られるやろ」と聞いたら「全〜然」とケロッとしている。
 確かに、この後年にも、授業中、章くんが説明している最中に机に突っ伏している生徒や、平気でうしろを向いたりする生徒がいたりした。頬づえどころでなく、机の上で腕枕をしていたり、180度うしろを向いて話し込んでいるのである。当然、何も言わずにいきなり頭を張り飛ばすと、本人はキョトンとしている。「何を寝とるんじゃ」とか、「うしろを向くな」と注意しても、なぜ注意されているのか、まだ解っていない。学校では、注意されないと言うのである。
 もはや学校は、生徒を叱ることができないところになってしまっているのだ。新入生に対するしつけは、このレベルから始めなければならないのであった。


 この日から3年間、大木 直は章くんにみっちりと鍛えられていく。スタートがなっていないのだから、こいつを学習に向かわせるには、並大抵のことではないのである。「勉強…、そんなものしたことはない」「先生の話…、子守唄や」「1時間すわってるなんて、考えられない」という状態からのスタート。授業を受けるとか、学習するというような習慣も…意識すらない。
 鉛筆も何も持たずに、手ぶらでやってきたこともあった。章くんは、「忘れてきたのか…じゃぁ、これを使え」などと言って、貸し与えるようなことはしない。「お前、何しに来たんや」「勉強習いに…」「鉛筆も持ってこんと、どうして勉強するンや。この1時間、何もせずに座っとれ」と言われて、大木直はひたすら座り続けている。
 頃合いを見て、「どうや、じーっと座っとるよりも、字書いとるほうがええやろ」と水を向けると、「ウン」とうなずく。「誰か、大木に鉛筆を1本貸してやってくれ」と言うと、大木のことを気遣っていた同級のみんなは、待っていたように「これを使え」と鉛筆を差し出す。「今度から、鉛筆忘れるなよ」と言うと、「うん」と嬉しそうに返事した。


 この大木 直、6年後に北海道大学に進学する。



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