【寺子屋騒動.列伝1その2 昭和49〜52年      寺子屋トップページへ


  思い出の卒業生たち   大木 直 その2  − 落書き −  


 1ヶ月ほどで大木 直は、電話などに呼ばれて章くんが教室を空けても立ち歩かなくなったし、3ヶ月もすると章くんだけでなく英語の浜口先生の授業も、集中力をとぎらせることなく聞くようになった。授業の中で、突然あてて答えさせたりしても、結構、的確な答えを返してくる。半年もすると、大木 直は学校での成績も一桁を争うほどになり、特殊学級入りを勧められた前歴が嘘のようである。
 講座の中では、最初のスタートが叱られ役だったので、何かがあると常に矢面に立たされる存在であった。教室内がざわついたりすると
「こら大木、やかましい」
とみんなを静かにさせる材料に使われたし、誰を叱っていいのか解らない場合などには
「こら大木!」
と頭をこつかれた。講座のみんなも、大木が悪くないのに叱られているのを知っているから、それ以上、大木に濡れ衣を着せておくわけには行かない。大木をかばったりして、自然にまとまりのよいクラスが出来上がったし、大木が叱られていると
「僕がやりました」
と真犯人が自首したりして、アットホームな暖かいクラスであった。


 寒いころだったから、大木 直が中1の年の1月か2月ごろだったと思う。章くんの教室の隣にある薬剤師会館の塀が新しく塗り替えられた。章くん、昼食を済ませて事務所(教室)へ戻る道すがら、『きれいになったな』と見ながら歩いていると、真っ白く塗り上げられた壁の中ほどに、『津市○○町△△番地、大木 直』と落書きが書いてある。落書きに、自分の住所氏名を書いてどうするンだ。
 その夜の授業が終わってから、
「大木ィ、お前 隣の塀へ落書きしたやろ。おっさん、全部塗り直せって怒ってきたぞ」
と言うと、大木の顔がこわばった。
「何百万円も要るから、姉ちゃん売ってもおっつかんぞ」
と追い討ちを掛けると、こりゃまずいことをしたと思ったのか、
「先生、どうしょう」
と言う。
「まぁ、俺が謝っといたるから、これからは、自分の名前を書くなよ。(…ン、いやいや)
これからはするなよ」
と諭して、翌日、章くん、白ペンキのスプレー缶を買って来た。
 大木を連れて謝りに行くことも考えないではなかったが、道に面した壁面だから落書きはつきもの…。大木のほかにも幾つかの落書きがあって、わざわざことを荒立てることはない。他の落書きは、住所氏名を書くようなセンスのある(?)のはないから、ジタバタしなくてもよいわけである。
 明るいうちに隣の塀を塗っているわけにもいかないので、章くん、授業が終わってからの夜10時過ぎ、夜陰に紛れて『津市…大木直』を白く塗りつぶしておいた。スプレー缶が1本なくなるまで吹き付けてきたから、他の落書きもかなりキレイになったはずである。少しムラムラかあったのは、素人の仕事だからご容赦願おう。会館のおじさん、『今度は白いペンキで落書きしていったやつがおるな』と思ったかもしれない。
 次回の授業の際に、
「先生、俺の名前、消えとったわ」
と言って来たところを見ると、大木はかなり気を揉んでいたのだろう。後年になって、
「姉ちゃん売れと言われて、俺、どうしょうかと思もたもんなぁ」
と述懐していた。


 この大木 直にも『15の春』…、高校入試がやってきた。実は中3の秋のはじめに、
「先生、俺、津高校へは行けやんかなあ?」
と、大木がポツリとつぶやいたことがあった。
 津高校は、旧三重一中以来の歴史と伝統を持つ、三重県屈指の進学校である。大木 直が通う東橋内中学からは、例年、数人しか合格しないという状況で、大木は学校では7〜8番ぐらい。教育センターの成績からみても合格確率は30%ほどだから、合格は極めて厳しい。
「目標に据えて向かっていくのは大事なことだけれど、現在の成績から言えば合格の可能性は、『ときどき海上へ顔を出すウミガメが、大海を漂う1本の遊木に頭をコツンとぶつける』ぐらいの確率だ」、
老子を引用して答えると、
「そのウミガメはどこの海に住ンどるの?」
と、更に尋ねるので、
「大海というから、太平洋やろ」
と答えると、
「伊勢湾ぐらいやったら、一生に1回ぐらいは出くわすかもわからんけれど、太平洋では宝くじで1等を当てるよりも難しいなぁ」
と嘆息した。
 「でもな、大木。諦めたら終わりや。諦めたら何の可能性もないけれど、諦めずに努力した者に奇跡は起きるんや」
と続けると、
「うん、奇跡を起こすわ」
と笑った。



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