■ プロローグ

 日本の戦後60余年を振り返り、その問題点を洗い出して、日本の現在を正し、将来を開いていこうというものである。その糸口と道筋を、「大東亜戦争への道」によってたどりたいと思う。


「大東亜戦争への道
(中村 粲(あきら)、展転社)      2008.02.24

 「大東亜戦争への道」の筆者 中村 粲氏は、巻頭の緒言に、『大東亜戦争とは何だったのか…。戦後の自虐史観の中で、未だ東京裁判判決を盲信し、あの戦争の原因・責任ともに日本に有りとして、日本の過失のみを喧伝する風潮は、依然としてあとを絶たない。この世情を憂え、日本国民の間に正しい歴史観を育成し、以って日本に対する愛と正しい認識の出発点となりうるならば、筆者の欣幸これに選るものはない。(要約)』と書いている。
 「大東亜戦争は、東京裁判の判決にあるような、侵略戦争であったのか。私たちの父祖は、戦争犯罪人であったのか。」 大東亜戦争を検証したいと考えている私は、この書を紐解き、読後報告を綴っていくことで、その手がかりの一つとしていきたいと思っている。
 序章・終章を含めて22章から成るこの書を、各章ごとに報告し、さまざまに考察を加えながら、日本が大東亜戦争に至った道程を辿っていくことにしよう。



序章「歴史問題」

 中韓両国が外交問題として日本を糾弾するときにはいつも、東京裁判史観が根底となっていて、「日本=加害者」「中韓=被害者」という構図であり、歴史認識に齟齬をきたした場合、わが国政府はいつも「中韓をはじめアジアの人々に対しては侵略的事実を否定することは出来ない」と表明して、理解を求めてきた。
 歴史とは民族の履歴書である。他国の理解や承認を得て自国の歴史を書く国はただのひとつもない。日本の教科書に、中韓が口を挟むのはルール違反の越権行為(=内政干渉)なのである。中国の教科書に「阿片戦争」は十数ページを費やして記述しているが、英国の教科書には1行も触れられていないものも多い。それについて、中国が英国に抗議したという話を聞いたことはないし、また抗議しても英国が耳を貸すはずもない。
 大東亜戦争の「戦争責任」という言葉も、あの戦争が不当な侵略戦争であったとする立場から発せられる言葉であり、自衛戦争であったとの結論になれば、責任を論ずること自体たちまち意味を失う。
 では「侵略戦争史観」への疑義を前提とする近代史検証のひとつとして、試論を綴ろう。


「近代日韓関係の始まり」

 日本が大東亜戦争へと歩んだ道程を振り返るには、迂遠なようだが、わが国が明治維新ののち国際社会へと漕ぎ出だした当時の、清韓両国との関係から考え始めなければならない。
 明治4年、対等な関係の「日清修交条規」を結んだ両国が、この23年後に日清戦争を争わなければならなかったのはなぜか。その原因は「朝鮮問題」にあった。
 朝鮮は14世紀、李氏朝鮮の太祖李成桂が尊明主義を掲げて以来、500年近くにわたって中国の属国であったが、大院君の鎖国排他主義により日本の修好を拒絶した。明治9年、飲料水を求めようとした日本国軍艦雲揚号が江華島へ近づいたとき、島の朝鮮軍守備隊より砲撃を受けたため、同艦の井上艦長は反撃を加え、砲台を占拠した【江華島事件】。結果、第1条に朝鮮の独立自主を明記し、第4・5条に釜山ほか2箇所の開港などを定めた江華島条約が締結され、日韓修好はようやく成ったのである。
 その後、朝鮮では守旧派大院君と開化派閔妃一族との争いが続き、大院君派の兵士が王宮に乱入して重臣たちを殺害、日本公使館も襲撃されて、多数の日本人が虐殺された。清は五千の兵を送って鎮圧し、大院君を清国へ抑留した【壬午の変】。朝鮮は日本に50万円の賠償金を支払い、公使館警備の日本兵を京城に置くことなどを約した【サイモッポ条約】が、日本は明治15・16年に各5万円ずつを受け取っただけで、40万円の免除および汽艇1隻と山砲2門を贈与した。
 壬午の変のあと、清は3000の軍隊を朝鮮に留め、閔妃一族の政府を指導、閔氏もまた清に依存する【事大主義】政策を採った。


考察1「征韓論」… 排他的外交政策を採る朝鮮は、開国交渉を続けるわが国の朝鮮事務所である釜山の「草梁和館」に対して薪炭食料を絶つなどの仕打ちに出、門前に侮日告示を掲示したりした。これに対して、わが国では「征韓論」が激成されていった。
 ただ、征韓論とは朝鮮を武力によって征服するとの論議と解されているようであるが、西郷隆盛は「自ら全権大使として一平も従えず正理公道のみを信じて京城に乗り込み談判する。それでも朝鮮側が傲岸な態度を改めず、自分を謀殺するような事態になれば、そのときに初めて出兵すべし」と述べている。


考察2「東亜の中心としての日本の役割」… 19世紀中期、清国は老いて病み、西洋の植民地主義に抵抗する力を失っており、朝鮮は宗主国の清国の指図のままで世界の大勢を知らず、迫り来る列強の脅威も悟ることのない蒙昧の中にいた。東南アジアの諸国もまた然りであった。
 この頃、西方勢力の脅威について自覚し、警鐘を鳴らして、これに備えたものは、日本以外に東亜にはいなかった。四囲から侵略者が迫り来るとき、無力な真空地帯は蹂躙され併合されるしかない。東亜諸国の対外経略が日本中心型になっていったのは歴史の必然であり、わが国としてもそれ以外の選択はなかったというのが客観的な趨勢というものであった。


考察3 福沢諭吉の「脱亜論」… 明治18年3月、清国の後押しで朝鮮王朝から改革派が一掃され、日本公使館の焼き討ち・日本居留民の惨殺が行われた甲申事変のあと、悲惨な歴史を持つ朝鮮半島に「満腔の同情を惜しまない」と言いながら朝鮮近代化への援助を惜しまなかった福沢諭吉は、「独立の気力なき者は、国を思うこと深切ならず。… 隣家に火事の因あれば、類焼を恐るればなり。… 悪友に親しむ者は、共に悪名を免るべからず。… 悪友を謝絶するものなり」と、朝鮮の排他的鎖国策を痛烈に批判し、断絶宣言を行っている。


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