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日清戦争 (「大東亜戦争への道」その2     2008.10.05
 

開 戦

 朝鮮を属国とみなす清国と、朝鮮の独立を以って清露の要衝とするべき日本が、対立することは避けられなかった。農民一揆が暴徒化した「東学党の乱」を機に、明治27(1894)年6月12日、清国は朝鮮へ出兵、これを受けて日本も出兵した。
 大鳥公使は朝鮮の内政改革を進言し、そのためには清韓宗属関係の廃棄と清国軍の撤退を要求…。日本の強硬姿勢を知った清国公使袁世凱は京城を脱出して天津に引き上げている。
 日本の後押しで政権に還った大院君は、朝鮮最大の課題である内政改革を進めると同時に、清韓宗属関係の廃棄を宣言し、牙山駐屯の清軍の駆逐をわが国に要請した。ここに日清両軍の戦火が封を切ることになったのである。

 明治27(4894)年7月25日、日清両国の海軍は朝鮮西岸の豊島沖で遭遇交戦し、日本艦隊は清国艦隊を撃破…(1)。7月29日、日本陸軍は成歓に清軍を破り、牙山を占拠した。
 7月31日、清国の総理衛門(外務省)は小村寿太郎駐清公使に国交断絶を宣言、翌8月1日、両国は互いに宣戦を布告した。
 宣戦布告の中で、日本は「朝鮮は帝国がその始めに啓誘して列国の伍伴に就かしめたる独立の一国たり。…(その独立を援助しようとしているのに、清は属国であると称して独立を妨害している)」と述べ、清国は「朝鮮は我が大清の藩属たること二百余年、歳に職責を修めるは中外共に知るところたり」として、その主張はもとより相容れるものではなかった。
 9月15日、平壌に拠った清軍は日本国の攻撃に白旗を掲げ、攻撃を停止したその夜、我が軍の隙をついて逃走するという偽装・詐術を行って、城から逃亡してしまった。17日、黄海海戦で我が海軍は北洋艦隊を撃破した。
 10月に入り、山県第一軍は満州へ入り、大山第2軍も24日に遼東半島の花園口に上陸、11月21日には旅順を占領した。
 明治28年1月末、山東半島の威海衛に集結した清軍を攻撃して砲台を占領、海軍は2月初め、清国海軍の旗艦「定遠」を初めとする諸艦を撃沈し、2月17日、威海衛を占拠して北洋艦隊を解体した。
 大勢は決した3月、第1・2軍は兵を合わせて、いよいよ首都「北京」に迫ろうとし、ここに講和の動きは本格化したのである。


考察1「高陞号事件」 … 明治27(4894)年7月25日、日清両国の海軍は朝鮮西岸の豊島沖で遭遇交戦し、日本艦隊は清国艦隊を撃破した。この海戦において、清国は清兵1200名と砲14門・弾薬を積んだ「高陞号」に、英国旗を掲げて航行させていた。
 清国戦艦「済遠」を追撃中であったわが国の巡洋艦「浪速」(東郷平八郎艦長)がこれを発見し、中立国たる英国船舶を利用して兵員武器を輸送するのは戦時国際法違反であるため、高陞号を捕獲し随行を命じたところ、清国兵は英国人船長を脅して随行を拒否したため、4時間の猶予を与えて乗組員に退艦を促したのち、撃沈した。
 この事件は英国世論を激高させたが、英海軍裁判所が「浪速」の行為を正当であると宣言したこと、高名な国際法学者ホランド博士がタイムズに寄稿し、戦時国際法に照らして「浪速」の行動は適正と論じたことなどにより、、英国世論は納得したのであった。
 日本陸海軍は、明治天皇のお声がかりで戦時国際法の遵守が全軍に周知せられ、また、戦場の傷病兵は敵味方の区別なく介護することとした「国際赤十字憲章」の理解が行われていたのである。明治維新以後、不平等条約の改正に奔走した明治の人々の苦心が、国際法の理解と遵守に目を開かせていたということであろう。


考察2 中国の歴史教科書 … 中国の十年制学校の教科書「中国歴史」(人民教育出版社編)には、豊島沖海戦・高陞号事件・黄海海戦について、次のように記されている。
(1) 7月25日、日本海軍は豊島付近の海上で清軍の輸送船を突然襲撃した。…兵員を輸送していた1隻の商船は撃沈されて、乗船していた千人近い将兵は殉難した。
 
 7/25とあるから、豊島沖海戦である。この海戦では、7時52分、清国戦艦「済遠」が第一発目を発砲し、日本の戦艦「吉野」「秋津洲」「浪速」が応戦、数分にして済遠は敗走し、もう1隻の「広乙」も座礁炎上した。『輸送船を突然襲撃した』は事実を歪曲しているし、『1隻の商船は撃沈されて、乗船していた千人近い将兵は殉難した』は高陞号事件をここへ貼り付けて合成した捏造である。
(2) 9月17日、北洋艦隊が旅順への帰港準備に入っていたとき、遠くにアメリカ国旗を掲げた艦隊を発見した。この12隻の軍艦は接近してくると突然国旗を日本のものに換え、北洋艦隊に向けて攻撃してきた。
 
 歴史の歪曲も、ここまでくると噴飯ものである。海戦には、外国の視察武官も乗船するのが常であるが、どこの国の誰もこのような事実を見たこともなければ、記録しているものもない。学校で使われている教科書がこれなのだから、中共の歴史とは、まさに「作られたもの」である。


考察3 清国軍の暴挙

 日本は西欧に倣って国内法の整備に努めた結果、法治国家として国際的にも信用を高め、条約改正に成功した体験を持っていた。このことから、国際法の理解と遵守は、日本陸海軍が取り組んだ課題であった。
 高陞号事件のとき英国籍の商船を砲撃するのに、「浪速」艦長の東郷平八郎は船の艦長室で万国公法を調べ、そのために4時間を費やして、高陞号に退艦の猶予を十分に与えることにもなったのである。当時すでに日本は赤十字条約(戦時における傷病兵の救護に関するジュネーブ条約)に加盟していたし、海上国際法に関するパリ条約にも加盟していた。
 国際法の遵守は、普通は弱国か敗戦国が主張するものであるが、日本は日清戦争の圧倒的な勝者でありながら国際法を守ったのであって、このときの日本の姿をフランスの国際法学者フォーシューは「日本は敵が国際法の原則を無視したにもかかわらず、自らはこれを尊重した。日本はその採択せる文明の原則を実行するに堪える国である」と称えている。

 フォーシューが「敵が国際法の原則を無視したにもかかわらず」と書いた敵…すなわち清軍の暴挙とはどういうことか、検証してみよう。
 (この点は、後の日中戦争における旧日本軍の残虐行為が、日本の文化に根ざすことのない行為を含めて指摘されていることの反証とするためにも重要となるので、少し行数を取って記述していくことにする)
 古来、中国の歴史は虐殺の例に事欠かない。清の始皇帝の時代から人間の四肢を4頭の牛にからげて一斉に引かせ八つ裂きにする刑を定め、前漢では項羽の60万人捕虜生き埋め、中国共産党建国時には毛沢東による600万とも1000万とも言われる同胞殺害があり、チベット・新疆ウイグル侵攻の際にも数万人単位の殺戮を行っている。中国には、日本にはない、残虐かつ大量殺害の歴史が繰り返されてきている。
 日清戦争下でも、清軍の軍紀は乱れに乱れていた。退脚していったあとは町を焼き尽くし(中国古来の戦法、敵に何も残すなという「焦土作戦」)、朝鮮人に対して略奪・暴行・強姦・虐殺をほしいままにして、清軍司令官の李鴻章は『我が兵の行状、怒髪天を指す』と司令部に打電するほどであった。
 その李鴻章にしてさえも「日本軍の首を取ったものは銀30枚」の懸賞金をつけていたため、「兵は賞金目当てに捕虜を殺して死者の首を切り取る」という、前近代的な…文明には程遠い土民同士の私闘といった残忍さを呈していた。
 明治21年11月18日、旅順から北方の斥候に出た将兵11名が中国軍の手に落ち、発見されたときには、「敵は我が将兵を捕らえて殺戮し、遺体に言うべからざる恥辱を加えたり。死者の首を切り取り、手足や男根を切り落とし、胸部を裂きて石を入る。 …驚愕…無残…」(秋山騎兵大隊、稲垣副官報告)といった状態であった。
 後日、威衛海砲台を占拠して、敵が逃げ去った跡を調べてみると、日本人の首が7つあって、両耳から穴を空けたり、口から喉へとひもを通して、持ち運びしやすくしてあった。歩兵第6師団所属の行方不明になっていた7名の将兵であった。
 中国軍隊のあまりに残忍な殺害方法を知って、明治29年9月、京城へ入った山県有朋第1軍司令官は麾下の兵士に、「(敵は)軍人といえども降る者は殺すなかれ、されどその詐術にかかること勿れ。 … かつ、敵は古より極めて残忍の性を有せり。誤って生け捕りに遭わば、必ず残虐にして死に勝る苦痛を受け、ついには野蛮なる仕打ちにて殺害さるるは必至なり。ゆえに、敵に生け捕りとされることなく、むしろ潔く一死を遂げて、以って日本男児の名誉を全うすべし」と布告している。
 中国軍の残忍さが、軍紀森厳な日本軍に、いかに深刻な衝撃を与えたかが分るであろう。中国戦線では捕虜となったら虐殺されることを覚悟せねばならず、大東亜戦争終結まで、中国で戦う将兵はこの精神に殉ずることとなる。「生きて虜囚の辱めを受けず」の悲壮な覚悟の原点が、健軍以来最初の対外戦争で我が軍が経験した、この日清戦争での衝撃的な酸鼻残虐行為にあったというのは、うがちすぎた見方だろうか。

 対して、日本軍はどうであったろうか。日本軍に従軍したフランス人の2名の記者は、「大日本帝国軍隊は、世界に対して誇るに足る名誉を有する」と書き、日本軍の山東半島上陸は「毫末の乱れもなく行われ」たと記し、上陸したあと町の某家に「産婦あり。入るべからず」の掲示を発見して感激したと報告している。
 「日本兵は、清国側の捕虜となった味方の兵が、四肢を刻まれ、生きながら火あぶりにされたり、磔(はりつけ)にされた遺体を見て激高したが、軍紀を維持し、捕虜となった清国将兵355人は日本側の厚遇を受け東京に護送している」と、当時の日本外務省は対外広報に記録している。

 厳然たる歴史の事実として、死者を冒涜・陵辱したり、大量の人々を虐殺するような行為は、支那の歴史においては繰り返して行われてきているが、日本においてはまず見られないことを確認しておきたい。この後、大東亜戦争までの戦いの過程において、戦場でむごたらしい惨殺行為や大量虐殺が行われ、それらが日本軍の仕業であると言われることが度々あるが、日本には支那に見られる惨殺・虐殺の文化はなかったのである。


下関条約・三国干渉・ロシアの南下

 日清戦争の講和会議は、下関の「春帆楼」で、日本全権は伊藤博文・陸奥宗光、清国全権は李鴻章・経方父子の出席のもと行われ、明治28(1895)年4月19日に調印された。
 内容は、@朝鮮の完全独立、A遼東半島、台湾全島、澎湖列島の割譲、B賠償金2億両(邦貨約3億円)の支払い、C新たな通商航海条約の締結、D捕虜の返還 … を骨子としている。
 この内容に、清国内には轟々たる反対の声が上がった。李鴻章と並んで清朝の双璧と謳われた張之洞は、「速やかに英露独諸国に重酬を与えて実力援助を乞うべし」という驚くべき意見を具申している。英独露に手厚い報酬を与えて、その援助で日本との講和条約を破棄すべしというのだから、日本を追い出すために虎狼を引き入れるようなものであり、事実、三国(露仏独)干渉によってわが国は遼東半島を返還するのだが、その遼東半島はロシアに、そして山東半島をドイツに、九龍半島・香港・揚子江河口地域と威海衛をイギリスに、海南島・南部沿岸地域をフランスに割譲または永年租借という形で占拠されることになる。中国には古来から「以夷制夷」(第三者をもって敵を倒すこと)とする策があるが、当時の国際情勢を全く読めないままに露仏独をもってわが国に圧力をかけようとしたのであり、これが清朝の重臣だというのだから、清は滅びるべくして滅びたというしかない。

 露仏独三国は、「日本が遼東半島を領有することは、清国の都(北京)を危うくし、朝鮮の独立を有名無実とするもので、極東の平和に障害を与える。世界の平和のため、日本の安寧のために、返還すべし」と日本に勧告してきた。わが国は、軍事的にも財政的にも露仏独ら強国を相手に戦う国力はすでになく、涙を飲んで勧告を受諾したのであった。
 しかし、わが国から返還させた遼東半島を、ロシアは「他国の侵略から清国を保護する」として租借。旅順という不凍港を手に入れたロシアは、極東艦隊を増強するとともに、朝鮮の内政に干渉し、東支鉄道を完成させてシベリア鉄道と連結し、満州の経営に力を注いで、その領土的野心をあらわにしはじめた。
 ドイツは膠州湾の99ヵ年租借権、山東省の鉄道敷設権・鉱山採掘権を得、フランスは南支の広州湾、海南島、揚子江湾岸一帯の租借権を獲得している。

 三国干渉による遼東半島の返還に、日本の国論は沸騰した。明治天皇は、激昂した世論が大局を見誤ることのないようにとの叡慮から「遼東還付の詔勅」を出され、国民に隠忍自重を諭された。
 議会は「万死を以って取り得た領土を還付するなど、外交の失策によって失うならば、将来、誰かまた国難に順ずるものがあろうか」(尾崎行雄)と政府を攻撃した。のちに「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄(咢堂)にしてもこの激しさであったのだから、国民感情は推して知るべしであろう。
 国力なきがゆえに干渉を甘受したという屈辱と反省は、軍備の必要を人々に痛感させずにはおかなかったことも、また事実であった。

 

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