【1】 南京で、本当は何があったのか @         2008.05.21


 南京大虐殺の真実


 昭和12(1937)年、盧溝橋事件に端を発した支那事変(日中戦争)当時、中華民国の首都「南京」を陥落させた日本軍は大虐殺事件を起こして歴史に汚点を残し、世界から糾弾される犯罪者集団となり下がっていたのか…。
 日中間にさまざまな局面には必ず持ち出される「南京大虐殺」について調べていくと、中共が主張する「日本軍は南京陥落時に、30万人の兵士・市民を殺戮」はデッチ上げであることは、歴然としている(理由・検証はのちの項で行う)。
 ただ、日本軍は投降した捕虜と、軍服を脱いで市民に紛れ込んだ中国将兵(便衣兵)を掃討捕獲したものを、給養・管理が不能として、戦時の処置の判断のもと、数千名(人数については数百名から2万名までの議論がある)を銃殺している。
 これを虐殺と言うのかどうか。信夫淳平早稲田大学教授(当時)はその著書「戦時国際法提要」のなかで、『ハレックは、俘虜は人道を以って扱うを当然とするが、捕獲者において俘虜の収容または給養ができず、さりとて宣誓の上解放すれば…(中略)…刃向かうこと歴然たる場合は、これを殺すも交戦法則上妨げずと説く』と述べている。
 捕虜処刑肯定派は、これらを根拠として「掃討戦でも日本兵が殺傷されているのは事実であり、事態はまだ交戦中であったのだから、給養・管理に困った捕虜をやむを得ず銃殺するのはハーグ陸戦条約に認められた合法な処置(※下参照)である」と主張している。
 ※ハーグ陸戦条約には、次のような条項がある。
  
第1条:戦争の法規、権利、義務は…略…、下記条件を満たすものに適用される。
   1.部下の責任を負う指揮官が存在すること
   2.遠方から識別可能な固有の徽章を着用していること
   3.公然と兵器を携帯していること           …など。
   このことから、中国軍の唐生智司令官は攻防戦最中の12月12日20時、いち早く一握り
   の幕僚とともに揚子江を渡ってに逃亡し、中国軍は指揮系統を失っていた。また軍服を脱いで
   市民に紛れ、日本軍を攻撃していた便衣兵は捕虜としての資格を持たないという解釈が成立す
   る。
  第8条:俘虜はそれを捕らえた国の陸軍現行法律、規則、命令に服従すべきものとする。
   不服従の場合、必要なる厳重手段を施すことを得る。逃走した俘虜がその所属する軍
   に達する前、又は、捕らえた軍の占領地域にて再度捕らえられた場合、懲罰に付され
   る。
  → このことから、反抗・逃亡、また宣誓させて解放した後にまた敵兵として攻撃を繰
   り返す可能性のあるものは、必要な厳罰を科する(銃殺)ことは合法であるとする。


 捕虜処刑否定派は、いかに交戦中とはいえ、掃討して身柄を捕獲したものの銃殺を、『やむを得ざる措置』と判断することは、無理があると主張している。


 「銃殺はやむを得ざる」と言えるかどうか、平和時の現在における判断ならば収容して裁判にかけろと言うべきところなのだろうが、
 @ 南京攻略時の戦闘は、光華門攻撃を担当した鯖江36連隊第1大隊第3中隊は200名の隊員が陥落のときには9名にになっていたという激烈さであり、
 A 陥落後に南京市内を掃討した久居33連隊の北川軍曹の手記にあるように、「中国兵は投降して小銃は捨てても、懐中に手榴弾や拳銃を隠し持っているものが多数いた。掃討は『敵は殺さなければ次の瞬間にはこちらが殺される』という切実な戦場倫理にしたがって、『こっちもこわごわ』であった」とあるような緊迫したものであったこと、
 B 南京の東40Kmの句容(くよう)での事例を見るように、輜重兵連隊(輸送部隊)が中国兵に襲われたことも多く、日本軍の糧秣も満足ではなくて、南京市内で食料や物品を調達(対価を支払って求めること)したことをみると、戦闘時の捕虜の給養は極めて難しかった
 …というような事例から、交戦中の部隊が大量の俘虜を給養・管理することは難しく(千4百名の会津連隊は1万5千名の捕虜を抱えて、反抗・逃亡・放火を受けた…後述)、銃殺はやむをえないと考えざるを得ないのである。

 

 もちろん、捕虜の多くは上海市内の三元宮収容所と眉州収容所に送って収容しているし、前線の各部隊は14日の戦闘終了後には捕虜を解放したり、使役に供したりしている。
 鹿児島45連隊第2大隊の友成少佐は、「丸腰の捕虜6000名。『戦闘は終わったのだから、家族の待つ郷里へ帰りなさい』と告げると、『大人(たいじん)は故郷へ帰れというが、故郷へ帰るには揚子江を渡らねばならない、それには船が要るが、その船はどうしてくれるのだ』と言うのには、『その通り』と大笑いした」と書いている(近隣の村々から舟を借り受け、渡江させて、送っている)。
 7200名の投降兵を捕虜とした奈良38連隊は、全員を南京市内に設置した第一監獄収容所へ護送したと「戦時詳報」に記している。
 久居33連隊北川軍曹の手記は、「邑江門の修理に中国残留兵を使うことにして、逃げる中国兵を撃たずに『おーい』と呼びかけると、何百人という敗残兵が大喜びで集まってきた」と書いているし、京都16師団経理部の金丸軍曹の手記は、「南京市内の製粉工場で捕虜300名を指揮して、各部隊に小麦粉を配布していた」と記録している。
 このように、多くの捕虜たちは収容されたり、解放されたりと、戦時捕虜としての待遇を受けていたのである。


 大量の中国兵の死体の山としては、次の箇所が著しい。
 @ 12月12日20時、唐生智中国軍司令官が逃亡した「邑江門」に、司令官に続けとパニックとなった中国兵が殺到し、逃げるものを見張っていた中国督戦隊によって射殺されている(中国軍「李宗仁回憶録」)。さらに、狭い門に多くの兵が殺到したため圧死したものも多数いた。(12月18日のニューヨーク・タイムズに『中国人の死体は高さ6フィートの小山を築いていた』(ダーディン記者)と記されている。
 A 12日夜、城内から逃れて揚子江岸の下関(シャーカン)へ至った中国逃亡兵は、真冬の川幅1Kmもある揚子江に入り、急ごしらえの筏や板につかまって渡ろうとしたが溺れるものが多かった。このとき、まだ日本軍は到達していない。
 B 13日午後2時30分過ぎ、下関に到達した久居33連隊は、揚子江を渡る中国兵に猛射を浴びせる。対岸から中国軍の応射もあり、銃撃戦のなかで約2千の敵兵を射殺するとある。この死体が揚子江を流れていって、川面を覆う死体と表現された。
 C 14日、福島を出たときは3695名の編成であった会津若松65連隊は、南京北方の幕府山占領時には1400人に減っていた。この65連隊に、14777名の中国兵が投降してきた。16日、捕虜は放火して約4千名が逃走した。残る8千名のうち、給養・管理の限界との判断もあり、放火・騒乱に参加したとして、『約3千名を揚子江岸に引率して之を射殺す』とある。更に残りの捕虜について、両角連隊長は「17日に残りの俘虜を揚子江南岸に集め、夜陰に乗じて舟にて対岸へ送り解放せよ」と指示している。(搬送中、対岸の中国軍からの発砲を受けるなどしてパニックとなり、捕虜は逃走、監視する日本兵からの銃撃を受けたものもいた。)
 これらの多数の死体を見た宣教師や記者たちは、『日本軍による残虐行為』と伝えたのである。


 調べていくほどに、戦争中の行為であるから、断じて違法でないとは言えない行為も幾多見られるいう悩ましさは残る。
 しかし、近年の研究で107万の軍民が連行され34万人の死者を出したことが知られているソ連によるシベリア抑留や、一瞬にして20万人の無辜の市民の命を奪い、戦後60年を経てもなお後遺症に悩む患者を抱える広島・長崎への原爆投下は
 ハーグ陸戦条約

  第6条.国家は将校を除く俘虜を階級、技能に応じ労務者として使役することができる。その
      労務は過度でなく、…。
  第23条.特別の条約により規定された禁止行為以外に、特に下記の物を禁ずる。
   1項.毒、または毒を施した兵器の使用、
   2項.敵国、敵軍に属する者を背信の行為をもって殺傷すること、…、
   5項.不必要な苦痛を与える兵器、投射物、その他の物質を使用すること…
 といった条項に(このほか、非戦闘員の殺傷も厳しく禁じているから、30万人以上の日本の一般市民の命を奪った本土空襲と併せて)明らかに違反している。
 これらの行為と比べるまでもないが、南京占領時の状況を含め、大東亜戦争時の私たちの父や祖父たちは、戦時下における判断のもと、世界の軍隊に比して、決して残虐非道な行いを繰り返してきたものではないという思いを新たにしている。


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