【002】 南京で、本当は何があったのか A         2008.05.26


  南京報道の真実 … 23年間 新聞記事になることはなかった南京事件


 南京事件は、東京裁判が開廷した昭和21年から、判決が言い渡された23年までの3年間は、新聞紙面にしばしば登場した。GHQは日本軍や日本軍国主義を擁護する記事を許さず、その残虐さや誤りを伝える報道を奨励していたから、当然、当時の新聞紙面には、『裁かれる残虐『南京事件』(「読売新聞」昭和21年5月9日)』といった見出しが躍った。
 ところが、東京裁判の判決()を報じたのを最後に、南京事件はその後20年以上にわたって新聞紙面から消えてしまう。南京陥落をその目で見たであろう記者たちが活躍していたこの頃の新聞に、昭和24年も、25年も…、昭和30年代も、南京事件が取り上げられることは一度もなかった。これは何を意味しているのか。20万人を虐殺するといった南京事件は、そもそもなかったのではないか、少なくとも記者たちの誰一人として大虐殺を見たものは居なかったということではないのか。
 そして、南京事件が新聞紙面から消えて23年…。人々の記憶からも消え去ろうとしていた昭和46年11月の朝日新聞、本多勝一記者の連載「中国の旅」の中で、中国の古老が語る戦争の記憶として『南京大虐殺』が取り上げられたのである。


 東京裁判の判決で、南京を陥落させた中支那方面軍司令官松井石根大将は、南京事件(20万人の虐殺と2万件の強姦)の責任を問われて、絞首刑に処せられている。従って、この判決が正当かどうかは別にして、松井石根は平和に対する罪で有罪にされたA級戦犯ではない。
 なお、A級のAとは、ロンドン協定により開設された極東国際軍事裁判所条例のなかでの分類上の名称であり、その文字自体に罪の軽重を示す意味は含まれない。【A級戦犯の妥当性や名誉回復については、別の項で取り扱う】)



 昭和12年12月、南京が陥落したとき、朝日80名、毎日70名、読売70名、同盟通信30名…など、総数600余名の従軍記者たちが、いっせいに南京市内へ入った。7月に盧溝橋事件が起こり北支事変に拡大すると、中国戦線は各新聞社の最重点取材地となり、各社は多数の記者やカメラマンを特派した。のちに政界へ転じて佐藤内閣の官房長官、田中内閣の幹事長を務めた橋本登美三郎は、当時朝日新聞の南京通信局長で、南京陥落のときは部下の記者を15人ほど引き連れて、一番乗りしたことは有名である。南京戦では朝日2人、読売2人、他2人と、6人の報道関係者が死亡している。
 記者たちは、当然、南京の様子をつぶさに見ている。12日の総攻撃、13日の陥落、14〜16日の掃討戦、17日の入城式、18日の慰霊式…といった連日の様子を取材し、日本へ詳しく書き送っている。しかし彼らは、戦時下においてはもちろんであるが、戦後の左翼勢力の台頭してきた言論界においても、南京事件などといった記事は書いていない。日本軍占領下の南京で、虐殺と認識される事件など見ていないのである。
 南京陥落を目撃した記者たちが、日本の新聞社に在職していた間、南京事件といった類の記事は紙面に載ることはなかった。彼らが退職して、南京の日々を知らない記者が記事を書くようになって、伝聞記事「中国の旅」が朝日新聞に連載された。それはかつて南京を歩き回って取材した朝日の記者たちを驚かせ、古巣に抗議する記者もいたのである。


 本多勝一が「中国の旅」を連載した頃の、新聞各社の中国報道の様子を簡単に見ておこう。
 日本は敗戦後、昭和27年に蒋介石の中華民国(台湾)と日華平和条約を結んでいる(同年、サンフランシスコ講和条約締結)。昭和24年に成立した中華人民共和国(以下、中共)と日本は国交はなく、報道関係者も個人や特派で訪れるだけであったが、昭和39年の日中記者交換協定によって、初めて新聞社は北京に1名ずつの記者を置けることとなった。しかし取材は制限され、中共の許可する記事しか書けなかった。
 昭和41年、文化大革命(毛沢東による劉少奇派からの権力奪還闘争)が起こった。その本質に迫ろうとする日本記者団の取材は中共の意図するところに沿わず、昭和42年9月、突然、毎日・産経・西日本新聞の記者が北京から追放る。これに対して日本の新聞社は中共への抗議を行うが、朝日新聞だけは『歴史の確認者として記者は置くべき』と反対した。
 10月には、チベット秘宝展を開いた読売新聞と日本テレビが反中国的だと追放され、43年6月には日本経済新聞の記者がスパイ容疑で投獄、翌年にはNHKと共同通信も2つの中国を認めていると追放された。この時点で、中共に支局を持つ日本の新聞社は朝日だけとなった。
 さらに中共は、報道の内容にまで干渉するようになっていて、昭和43年に台湾を取材したNHKと番組を紹介した朝日新聞に謝罪を要求し、広岡知男朝日新聞社長は直ちに謝罪文を書いて中共に提出陳謝している。
 言論の自由のないところに記者を送って何の意味があるかと新聞各社からは声が上がったけれど、朝日は中共が望む記事を書き続け(反中共的な記事を書けば、直ちに追放なのだから)、広岡は周恩来との会見記で「文化大革命による下放で民衆の生活は安定し、格差がなくなり、みんな満足している」と第一面に書いた。人々が強制的に農村へ移住させられ、過酷な労働と暴行のもと自由を奪われている現実を見ながらである。
 こうした中で、本多勝一の「中国の旅」は始まった。その内容は、文化大革命下で毛沢東万歳の雄叫びがとどろく中、中国政府があらかじめ用意した人物ばかりに取材して、「日本軍国主義の蛮行の証言」を言われるがままに書き連ねた連載であった。この書の問題点を多数の読者から指摘されると、「中国でそういう証言をした人がいるのは事実だ。その事実を書いた」とか、「文句があるならば中国側に言え」と開き直る始末であった【アマゾンの書評のうちから抜粋】。
 朝日新聞は寄せられた抗議を取り上げようともせず、紙面に反映させるなどといったことは微塵もなかった。


(※ 本多勝一著「中国の旅」について調べていくと、『私は若い頃この本を読んで、教師となってからはこの通りのことを子どもたちに教えてきました。近年、いろいろな文献を調べ直し、事実と違うことを知り、取り返しのつかないことをしたという思いでいっぱいです』といった声が満ち々ちている。日本の国際的評価を貶めたこととともに、人々の心に大きな傷跡を残したこの書の罪過を思うと、看過することのできない憤りを覚えるのは私だけだろうか。)


 「中国の旅」の連載が終わると、朝日も他紙も南京事件に触れる記事は姿を消し、また10年の沈黙が続く。
 昭和56年、今度は毎日新聞が、「南京虐殺の証拠となる兵士の日記を発見」と大阪版で報じた。毎日にも中共に迎合する派が主流を形成する勢力分布ができてきていたのである。
 そして昭和59年、毎日は2年ぶり、朝日は13年ぶりに南京事件を取り上げた。背景として、昭和57年、日本の高校歴史教科書で「華北侵略が進出と書き改められた」と新聞各紙が報じ、中共が抗議するという、いわゆる「歴史記教科書問題」が起こっている。実際には「進出」と書き改めた教科書は1冊も無く、新聞の誤報であったのだが、訂正もせず、韓国も加わって日本を批判したから、大きな外交問題に発展した。
 加えて、宮沢喜一官房長官は書き換えの事実はないことを知っていながら、内政干渉と言うべき中韓の抗議に否定も反論もせず、「教科書の記述については中国・韓国など近隣諸国の批判に耳を傾ける」との談話を発表して、事態の収拾を図っている。こののち中韓は日本の内政へのクレームを繰り返し、日本は反論もせずにひたすら理解を乞い、謝罪を繰り返す外交パターンが形成されたという、痛恨の対応であった。
 この頃、南京陥落の現場を取材していた記者たちは、最も若い者でも70代を迎え、新聞の現場を去っていた。南京事件は事実であるかどうかは最早や問われず、中共が意図する南京大虐殺が一人歩きして、書き放題となっていったのである。


 南京事件は、南京を知っている記者が新聞社にいる時代には、記事になることはなかった。そんな記事を掲載しようとすれば、事実でないことを知っている記者たちに笑われるだけであったろう。
 南京を取材した記者が退職していったのち、中共の意向に迎合する新聞社の姿勢の中から、伝聞という形で南京事件は報道されだした。誤報・捏造・事実無根の伝聞風評を裏づけも取らずに記事にすることを、新聞はなんとも思わなくなったのである。




PS.
 @ 戦後の昭和21年、毎日新聞から刊行された「旋風二十年」(森正蔵社会部長と8人の記者)は、昭和という時代を日本国内だけでなく満州・朝鮮・中国・東南アジア、そして欧米にまで広げて書き綴り、昭和21年・22年のベストセラーとなっている。それまでの日本を厳しく否定するGHQの監視の下で刊行された「旋風二十年」に南京事件はどう綴られているか。一行も触れられていないのである。
 南京陥落時に、中国兵士や市民を10万も20万も殺戮した事実があれば、大東亜戦争下の知られざる事実を次々と暴き、昭和史を総括しているこの本が書かないはずがない。


 A 新聞社が昭和史を総括したものとしては、読売新聞に昭和42年元旦から50年9月30日まで8年9ヶ月間2795回にわたって連載された「昭和史の天皇」(原四郎編集局長とのべ14人の取材陣)という企画がある。昭和11年から20年までの重要な出来事を取り上げ、聞き取り・裏づけ・証言を得て掲載した編集企画ものである。
 昭和11年の日独防共協定から、近衛内閣、ノモンハン事件、インパール作戦、… 原爆投下、敗戦まで、それまで国民が知らなかった新事実を取材を重ねて公表していった。その「昭和史の天皇」にも、南京事件は登場していない。南京陥落のとき従軍記者として上海から蘇州に入っていたという原四郎の脳裏になく、のべ14人の取材者の間で話題に上ることもなかったのである。


 南京大虐殺は、罪ありきのもとで裁かれた東京裁判が作り出した冤罪であり、中共の意向べったりの朝日新聞が中国人の旅で出会った古老の話という、まぼろしの彼方から紡ぎ出した虚構であると思うのだがどうだろうか。



 【この項、終了。大東亜戦争の検証報告はつづきます。つづきは改めて…】


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