【004】 南京で、本当は何があったのか          2008.05.30


  南京での埋葬数 -虐殺20万人とは程遠い記録- 


(資料をあれこれと調べて書き出していたら、予定していた③「「南京大虐殺」を伝えた宣教師・
 新聞記者たち
」よりも早くに、本稿④が書き上がりました。補足は後日に書き加えるとして、完
 成分をここに掲載します。)



 中国社会には慈善団体があって、捨てられた幼児や孤児を育て、貧しい人に衣服や食事を恵み、身寄りのない老人を世話し、行き倒れた人を埋葬するなどの活動をしてきた。費用は、地域の人々が資産を供用したり寄付金を寄せたり、自ら利益活動をしたりしてまかなってきている。
 南京市内の中国人兵士などの死体は、この慈善団体によって埋葬されているが、東京裁判に提出された埋葬記録では、2つの慈善団体である「崇善堂」(清の時代に設立、民間の互助団体)と「紅卍字会」(大正11年設立、宗教団体に付属する慈善機関)が埋葬を行ったとされていて、その埋葬数は「崇善堂」…11万2266体、「紅卍字会」…4万3071体、合計15万5337体となっている。
 ただ、この埋葬記録は南京地方裁判所の検察官が戦後の20年11月から21年2月の間に、南京軍事法廷のために作った調書の数字である。果たして埋葬時の記録の数字か、調書作成時に調べ直した数字かも不明で、東京裁判の法廷では労賃の支払いなどが検証された記録もない。しかし、東京裁判では、この数字が採用されている。
 これに対して、戦後の代表的な戦史研究家の児島襄が「日中戦争」を書くために集めた資料(26トンに上るといわれる)によると、「崇善堂」「紅卍字会」がそれぞれ南京戦直後から13年10月の間に行った埋葬記録は、下表のようである。
  期  間 城 外 城 内 合 計
崇善堂 陥落直後~13年4月6日  55826   7549  63375
紅卍字会 12年12月22日~13年10月  43123   1793  44916
埋葬されず    12000   12000
合 計    110949  9342  120291

 

 ところが、「崇善堂」は、日本軍が南京に迫ると職員も市外に去り、活動は停止している。活動の再開は昭和13年9月で、このとき責任者が代わっている。しかも崇善堂は、設立されてから乳児の保護と養育を専門に行ってきていて、実はこれまで埋葬活動を行ったことはなく、活動を再開してからも埋葬はしていない。
 そもそも埋葬は、遺体の衣服をはいで、水で洗い清め、埋葬する場所までトラックや荷車で運び、深さ2mほどの穴を掘り、死体を胡坐にして納め、埋め土をする。用具の準備なども必要で、経験のないものができる作業ではない。南京戦後に崇善堂がまったく活動していなかったことは、そのころ南京にいた欧米人の日記や日本軍の記録からも裏付けられる。崇善堂が埋葬活動にかかわったとは、どこにも記されていない。
 これらから、崇善堂の埋葬記録(南京裁判所11万2266体)は、裁判のために捏造された架空のものではないかと考えられる。捏造の指揮を取った人物も特定されていて、南京地方裁判所の主席検察官陳光虞といわれている(阿羅健一「南京事件」)。
 児島資料6万3375体は、その捏造資料を拾い集めたものであろう。国際委員会の報告書には、虐殺が最も激しかったとされる最初の1週間に城内で殺された人は17人…。これで、大虐殺が行われたとするにはいかにも無理がある。歴史家としての第一人者である小島襄にして、南京事件の資料は整合性がとれず、「~だろうか」「~と断定できない」という表現にとどまっていて、中国が主張する犠牲者数を紹介するのみである。

 「紅卍字会」の記録は、南京戦直後のものである。東京裁判に提出されたものは4万3071体、児島襄の資料では4万4916体と、捏造されたものではないから違いはわずかにとどまっているけれど、それでも正確な記録というわけではない。
 紅卍字会の埋葬に対しては、日本の特務機関が資金を提供している。一体いくらと決めて支払っているが、同機関の窓口となっていた丸山進によると、「水増し請求があったが、作業を円滑に進めるために黙認した」と言っているから、実際の埋葬数はこれよりも少ないはずである。同氏は「4万数千のうち、1万4千から2万3千ほどが水増しされていた」といい、そうすれば実際の埋葬数は2万から3万の間となる。
 紅卍字会は、南京戦が終わると早速死体の埋葬にかかるが、もちろん4万数千体の埋葬者数には、南京戦で戦死して放置されていた中国将兵が含まれているし、さらに南京に置き去られて死亡した傷病兵の遺体や、冬の南京で行き倒れた難民の死体も多く含まれていた。この埋葬の様子は、「中華民国27年度南京市政概況」「南京市政府行政統計報告」などに記述されている。


(南京軍事法廷では、南京事件の責任を問われ、第6師団(熊本)司令官、谷寿夫中将が銃殺刑に処されている。第6師団は12月14日に中華門内に入城し1週間ほど駐留したが、市民は全く居らず1件の暴行もなかったとされる。谷司令官とともに、100人斬りと毎日新聞に報じられた2人の将校、300人斬りと単行本で紹介された連隊長も銃殺刑とされた。いずれも証拠とされたのは、新聞と雑誌の記事だけであった。)



 南京の人口統計からも見てみよう。南京が中華民国の首都に定められたのは昭和2年で、そのときの人口がほぼ80万人、昭和10年に市域が拡大して郊外の20万人が組み入れられて100万人となった。
 戦火が迫った昭和12年7月(盧溝橋事件勃発)ごろから流出が始まり、日本軍によって南京が包囲される直前の11月には、南京警察庁は残留人口は20万人とみなしている。この数は、国際委員会委員長、日本軍の推定とも一致している。(残留者は逃げ出す費用も交通手段もない人々で、「貧者の中の貧者」であったと、ラーべ国際委員会委員長は日記に記している。)
 陥落後10日ほどして、南京市民に「良民証」が発行された。10歳以下の子供と老女の一部は除いて16万部が発行されている。これについて、ラーべ国際委員会委員長から日本大使館の福田篤泰書記官に宛てられた第41号文書では、「我々は貴軍が10歳以下の子供といくつかの地区の老女を除いて16万人を登録されたと理解しております。したがって城内の人口は多分25万から30万人ということになります」と記している。
 ということは、南京市民の人口は南京攻略の前後でほぼ変わっていないということであり、国際委員会のメンバーやほかの欧米人も減少したという認識はなかったということであって、少なくとも大量の殺戮があったという事実は出てこない。


 東京裁判でアメリカや中国の証人たちが証言した死体の数は、3万人の中国軍兵士と1万2千人の非戦闘員というものが最大であった。それが、南京裁判所の検事が作成した調書を基にして、突然に20万人を殺害したと指摘され、判決の理由となっている。
 捏造された記録を採用し、一挙に膨大な殺戮事件をでっち上げたのである。そして、戦後の批判を許さない占領政策の中で、それが歴史の通説となり、今も日本の過去を誹謗する材料として生き残っているのである。


 ● 上に示した埋葬数には、南京戦での中国将兵の戦死体も含まれているが、郊外で埋葬されなかった戦死者や揚子江へ流したという捕虜処刑者の遺体数は含まれていない。南京での死者のどこまでを把握できているかはなお不明であるが、南京で陥落からその後の10ヵ月の間の埋葬者の数は理解できると思われる。そこから、東京裁判のいう20万人の虐殺はなかったと考えるのだがどうだろうか。


 ● 2007年2月21日の衆議院内閣委員会で、1938年、国際連盟で中国政府代表が、「南京の死者は2万人」と演説していたという資料(国立公文書舘のアジア歴史資料センター蔵)が明るみに出た。
 自民党戸井田徹代議士が内閣委員会で明らかにしたその資料によれば、1938年2月2日、国際連盟理事会第100回期第6会議で、中国政府の顧維欽代表が行った、日本軍の侵攻に対して国際連盟に制裁措置を求めた演説で、南京事件に関しこう訴えている。
 『 … 日本人兵士による南京や杭州でのこの虐殺事件についての叙述は、1938年1月28日のディりーテレグラムやモーニングポストに掲載されたアメリカの教授や宣教師の寄稿記事に見られるものであります(この記事については、本稿③で紹介している)。南京で虐殺された中国人民間人の数は、2万人と見積もられ、少女を含めて何千人もの女性が強姦されています。… 』



 この項を記している横で、テレビが「NHK探検ロマン世界遺産スペシャル『記憶の遺産 アウシュビッツ・ヒロシマからのメッセージ』」を報じている。アウシュビッツから奇跡の生還を果たしたポーランド人の男性コバルチェクさん(88歳)は、「戦争によって人はここまで残酷に慣れるのか」と語り、今もその記憶を伝えるために各地を講演して回っている。
 また、1996年、広島の原爆ドームが世界遺産に登録された委員会で、中国は「日本は戦争責任を果たしていない」と棄権し、アメリカは「原爆の投下によって戦争は早期に終結された」とその正当性を主張して反対している。
 戦争とは、国家の利益や民族主義が交錯して引き起こされる悲劇である。
そこで何が起こり、人々はどうしたのか。それらを検証して、事実を正しく認識し、悲劇をいたずらに誇大化することなく、それを乗り越えていくことが、後世に生きる者の宿命と責務であろうと思われるのである。

 



 【この項、終了。大東亜戦争の検証報告はつづきます。つづきは改めて…】


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