【読書112】 信 長 の 棺   (加藤 廣著、日本経済新聞社)    2005.09.28
       
− 信長の遺骸は、なぜ見つからなかったのか −       


 『信長公記』は、織田信長の祐筆であった太田牛一が、信長の言動を書き留めたものであることは周知のとおりだが、この「信長の棺」は、その太田牛一の目を通して、本能寺の変を見つめた一冊である。


 天正10年6月1日(1582年6月20日)、織田家の重臣明智光秀は中国の毛利勢を攻略している羽柴秀吉の援護を命じられ、居城の丹波亀山城を出発して、中国路と京都路との分かれ道である老いの坂に差し掛かった。ここで光秀は全軍に「京都へ向かえ」と号令を発し、2日未明、桂川を渡ったとき「敵は本能寺にあり」と檄を飛ばす。
 この夜、本能寺には、秀吉の応援に出陣するため小姓を中心とするわずかの供回りを連れて安土を発ち、ここで軍勢の集結を待つ織田信長が宿泊していた。
 異様な物音に目覚めた信長が近習に物見させると、「寺は軍勢に囲まれており、寄せ手の紋は桔梗(明智光秀の家紋)」という。信長は「是非に及ばず」と言い放ち、弓を持って表へ出て戦ったが、殺到する兵の前についに槍傷を受けたので、奥へと篭り、自刃して果てたとされている。しかし、明智方が5〜6日を費やし、焦土を掘り返すなどして徹底的に探索しても、燃え落ちた本能寺の灰燼の中に、信長の遺骸は発見されなかった。
 なぜ、信長ともあろうものが、よもや明智光秀が謀反を起こすとは予想だにしていなかったとしても、思いもかけない敵が出現するかも知れないこの時代に、小勢の供回りを従えただけで、防備もない寺へ宿泊していたのであろうか。
 太田牛一は、後日、その謎の答を知ることとなる。すなわち、本能寺には秘密の地下道が掘られていて、万が一、敵に襲われたときにはその地下道を通って、約七十間ほど離れた南蛮寺へと逃れる手はずが整えられていたというのである。それならば、本能寺跡に信長の遺骸が発見されなかったことも合点がいく。
 太田牛一は、信長の異母弟で阿弥陀寺の清玉上人に問う。「ならば、信長公はご存命か…、いずこに?」。清玉は答える、「遺骸は、私が、本能寺の地下道より持ち帰り、秘密裡に埋葬した」と。
 明智勢の攻撃を受けた信長とその近習は地下道に入り、極楽寺へと走った。と、通路の途中に強固な柵が打たれ、足止めがなされているではないか。早乾きの漆喰で固められ、押しても引いてもびくともしない頑丈な柵である。迫り来る熱風と煙幕に、進退窮まった信長主従はそこで絶命する。本能寺の変の翌日、南蛮寺から地下道に入った清玉上人は、通路を遮断する柵を発見してこれを取り除き、憤怒の形相で絶命している信長の遺骸を見つけて持ち帰り、供養、埋葬したのである。
 しかし、信長も知らないうちに…、しかも光秀の謀反の動きを察知してのち、敏速に、本能寺の地下道に足止めの柵を築いたものは、いったい誰であろう。そのものこそ、明智光秀をそそのかして、謀反へと導いていった首謀者でないのか。
 光秀の天下は三日…、賎が岳の合戦や家康の恭順などを経て、天下は秀吉の手中に落ちていく。
 牛一は、大阪城の築城に手際の良い左官仕事をこなす「前野衆」の仕事を見て、慄然たる思いにたどり着く。『本能寺の地下道は、早乾きの漆喰で固められ、押しても引いてもびくともしない頑丈な柵で足止めされていた…』。前野衆は…もともと忍びの集団であった。


 中国攻めのとき、清水宗治の篭る備中高松城を包囲して毛利氏と対陣していた秀吉は、早くも6月3日には信長横死の報せを受け、急遽、毛利との和平を取りまとめている。6日に毛利軍が引き払ったのを見て軍を帰し、12日には摂津までとって返し、13日の山崎の戦いで光秀を破った。
 信長死すの報せをいち早く入手した事、高松城を兵糧攻めにしてほとんど戦力を失っていなかった事など、あまりに都合の良い勝利であり、後世の研究を経た今日にも、秀吉こそが本能寺の変の黒幕だとする意見も多いというが…。



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