【124】 紫禁城の黄昏(上)  
     (RFジョンストン、(訳)中山 理、祥伝社)         2007.10.27


 清朝のラストエンペラー溥儀(のちの満州皇帝)の家庭教師であった、英国人ジョンストン氏が著した、清朝崩壊当時の皇帝・皇族と内務府、それを取り巻く役人、革命勢力、軍閥、民衆の様子の記録である。


 ジョンストン氏は25歳のときに香港の英国領事館に着任。館員としての仕事のかたわら、中国各地を旅して、山東省の済南では孔子廟に墓参したり、長江をさかのぼってチベット西部を抜けビルマに至り、「北京からマンダレーへ」「シナ北部の獅子と龍」などの冊子を著した。
 1919年、45歳のとき、清王室の要請によって、13歳の溥儀に英語を教える家庭教師に就任、生まれてから紫禁城の外へ出たことのない少年皇帝に、英語の指導のみならず世界地理・西欧の政治体制・民主主義などを語ったのである。
 それから7年間、1925年に氏が帝師を辞するまで、過酷な歴史のうねりにさらされた皇帝は、外国人ゆえに宮廷内の利害や革命派の策謀から離れた位置にいるジョンストン氏を信頼し、二人は常に親密な関係を築いていた。そして、1924年11月5日の皇帝の紫禁城脱出に、氏は決定的な役割を果たすのである。
 本書は、このように宮廷内でいつも若き皇帝のすぐそばに居て、彼の内面にも深くかかわった、シナ人でも日本人でもない、英国人家庭教師の目で見た記録である。


 今回、この本を読み直してみようと思ったのは、ひとつは、日本が南下するソ連の脅威の防波堤として、清朝滅亡のあと満州族が父祖の地に建国した「満州帝国」を後押ししたのは、中国への主権侵害であったのかどうか。
 そしてもうひとつ、辛亥革命によって清朝が倒され、ラストエンペラー溥儀が馮玉祥の反乱軍に紫禁城を追われたとき、日本公使館が彼をかくまい、8年後、満州皇帝に擁立したのは、当時の国民政府が宣伝し、東京裁判がそのように断罪し、戦後の日本がそうであると信じ込んでいるように、日本が彼の身を拉致して日本公使館へ置き、嫌がる彼を、満州族の人々の意に反して行ったことなのかどうか…ということを確認したかったからである。


 それでは、『紫禁城の黄昏』ページをめくることにしよう。(以下、『』内に引用した記述は、ジョンストン氏の言葉のままである。青字は出来事。()内は僕の補足)



 『 1894年、日清戦争(〜95年)


 (欧米列強の世界分割の嵐にさらされていた中国は)日清戦争の敗戦によって、政権は大きく揺らぎ、国内には改革の機運が高まった。三国干渉によって日本から返還させた領土を、ロシアは自ら占領し(旅順港の租借など)、満州全土においてもその軍事的地位をすこぶる強固なものにしていた。
 シナの人たちは、満州の領土からロシア勢力を駆逐するためにいかなる種類の行動も取ろうとはしなかった。もし日本が日露戦争でロシア軍と戦い打ち破らなかったら、満州全土とその名まえがロシアの一部になっていたことは、疑う余地のない事実である
 1907年、徐世昌が漢人としてはじめて満州総督に任命された。これは清王室が満州人と漢人の融和を図ったもので、もともと満州は満州王室の祖国であり、常に王室直轄の軍人総督によって管轄されてきた。シナの革命主義者(中華民国政府)は、満州人は異民族であり征服者だから、漢人を支配する権利はないと主張した。


 時の清朝皇帝「光緒帝」は政治改革を断行しようとしたが、既得権を脅かされる皇族や宮廷官僚ら旧体制は、依然として勢力を誇っていた西太后と結んで光緒帝を廃し、改革派を一掃した(1898年、戊戌の政変)。


 1900年 義和団事件


 光緒帝の弟(醇親王)の子が「溥儀」である。1908年、光緒帝、西太后が相次いで死去し、3歳の溥儀が「宣統帝」と号して即位、父親の醇親王が摂政となった。
 1911年、武昌で反政府の武装蜂起(辛亥革命)が起こり、朝廷は袁世凱を清朝軍司令官に任命するが、革命派との不可解な妥協がなされ、中華民国が成立、孫文は臨時大総統(総理大臣)に就任した。宣統帝は退位、清王朝は滅亡したが、帝室の存続と財政は保証された。
 袁世凱はのちに大総統に就任し(1913年 第二革命、この戦闘に破れた孫文は東京へ亡命)、さらに帝位に就こうとするが、内外の反発を受けて断念、失意のうちに病没した。


 このあとシナには、「革命は革命の子を貪(むさぼ)り食らう」のことわざのごとく、英雄・愛国者と祭り上げられた者も、明日には反逆者・犯罪人として処罰されるような混乱が続いたが、1918年、張作霖が満州から北京に入って、政治は小康状態を取り戻した。
 (混乱を極める中華民国政府に、シナの人々は何の評価も支持も与えなかった。当時4億5千万人を数えた人民は、その90%が文盲で、孫文をして「この人たちには民主主義の何かを説いてもムダである」と嘆かせている。この頃のシナの民のほとんどは、皇帝専制の政治を望んでいたのである。)
 この間には、張勲の腹辟(ふくへき)運動のように、清王朝を再び興そうという動きもあったのだが、シナの歴史に繰り返して見られるように、人が大儀のために何かをしようとし、あるいはすると、いつも嫉妬心や猜疑心で同志や友だちと思っている人に裏切られる結果に終わり、シナ社会は底知れない混迷に陥っていった。』


 1919年、ジョンストンが13歳の皇帝溥儀の家庭教師に就任した。彼は、清王朝衰退の最大級の原因として「内務府」の腐敗を挙げている。


 『(皇帝として政務を取る権限を剥奪されてからも、3千人の官吏がいたという)内務府は、皇帝のために働く組織ではなく、自分たちの既得権益を守る機関であり、内務府自体を自己目的と思い込んでいる。だから、宮廷の改革によって経費が節減されると、自分たちの取り分が少なくなるために、改革に反対するのだ。彼らは、10人で1人分の仕事をして20人分の俸給を取っている。
 この組織は政府六部(省)のひとつではなかったけれど、宮廷の日常と皇帝の財産を管理するだけでなく、この機関を通じて皇帝は政府のもろもろの高官・省と政治という業務を行うわけである。内務省の権限と影響力は大きく、悪名をとどろかせながら政治の世界にその勢力を伸ばし、シナの公的生活が腐敗していくのを助長した。』…と。


 (康熙・雍正・乾隆と続いた清の全盛期にも、後期になると官僚の腐敗は目に余るものがあり、乾隆帝の側近であった和伸(わしん、ホチエン)が汚職を摘発されて没収された私財は8億両に達したといわれる。当時の清朝の歳入は約7千万両だったから、これは国家の歳入の11年分以上という巨額である。フランスの太陽王ルイ14世の全盛期の財産が2千万両と換算されているから、これはその40倍に当たる。シナ人の汚職癖は歴史的なものと言うべきなのだろうか。【山川出版社、世界史研究より】)



 その2(「紫禁城の黄昏」下巻)へ続く  読書トップページへ