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「カラマーゾフの兄弟」 第5巻 エピローグ   
       (ドフトエフスキー、亀山郁夫訳、光文社文庫)        2008.01.20


 
有罪となったミーシャはどうなったか…。当時のロシアで、親殺しは20年以上の重労働であり、シベリア送りか、鉱山・山林など現場へ収容されることになる。けれども、ミーシャについては、どうなったかをドフトエフスキーは書いていない。
 ただ、カテリーナに「脱走するしかないんです! (イワンさんと私は)手はずを整えていたんです。イワンさんはもう、監獄長のところへ(話をつけに)行ってきたんです。…」と語らせて、物語は終わっている。
 ロシア王国の政府機構は、ちょっと鼻薬を利かせればどうにでもなる体制だったのだろう。シベリア重労働などは労働者・農民階級が受ける刑罰であって、カラマーゾフのような、落ちぶれたとはいえ貴族階級のものたちにとっては、いかようにでも抜け道が用意されていたということなのだ。


 この小説には現代の私たちの「生」にかかわる根源的なテーマが網羅されていると言われている。20世紀最大の哲学者といわれ、『論理哲学論考』で知られるウィトゲンシュタイン(オーストリア・1889-1951)は50回以上この小説を読み直し、全文をそらんじるほど読み込んだといわれるが、読めば読むほどに新しい発見があるし、1度や2度の通読では見逃しているものがたくさんあることも事実である。
 ドフトエフスキーの意図するものが何であるのかは、今の僕などでは計り知れないが、30数年前の学生時代に呼んだときよりも、内容に入り込むことができたと思うし、表現の面白さも味わうことができたと思う。


 しかし、この「カラマーゾフの兄弟」読み解こうというのならば、ドフトエフスキーの「地下生活者の手記」「白痴」「悪霊」「未成年」といった作品群には、少なくともそれらの書について語れるぐらいに読んでおくことが必要であろう。僕は「罪と罰」に目を通したぐらいだから、まだ「カラマーゾフの兄弟」についてあれこれ言う資格はないとことだ。
 さらに、この書を紐解くには、幅広い欧州世界への理解を必要とし、もちろんギリシャ神話やダンテ、ゲーテなどの古典文学の素養も求められる。
 物語の中に描かれる光と影、神と悪魔、愛と憎しみ、希望と失望、歴史と現在、貴族と農民、サドとマゾ、生と死…などは、人間社会のありようを、随所に原始的根源的に問いかけてくる。
 例えば、第2巻の大審問官の章で、『少数の選ばれた人間が、残りの99%の人間の意志を汲み、食べていくための地上のパンを彼らに与える。しかし精神的な、天上のパン(自由のこと)に絡む全てのことは、大審問官である私が引き受ける』という言葉は、人間はパンのみにて生きる存在であるという、歴史の読み替えと言うべきか。あるいは、20世紀にロシアに誕生した、社会主義にいたる歴史そのものの予言と言うべきなのだろうか。


 「カラマーゾフの兄弟」のあと、ドフトエフスキーは続きの小説を書くつもりでいた。しかし、彼はこの小説を書き上げたその翌年、1881年に60歳で没している。
 この小説に登場する人物は、その後についてただの一行も書かれてはいない。彼らの行く末と同じく、この小説のテーマの大部分は解決されていないのである。
 それは、未完のこの物語を読んだ読者それぞれが抱いていかなくてはならない課題なのだろう。


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