【読書171】 三国志 1〜9巻 (宮城谷昌光 文芸春秋社) 2012.02.02〜19
  


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 物語は、「揚震(ようしん、54−124年)」の言葉『四知』から始まる。揚震は後漢末期に三公のひとつ司徒にまで登った官吏で、滅び行く王朝の常として私利・権謀・汚職が蔓延する中で、清廉・潔癖を貫いた人であった。
 東莱太守になって任地に赴くとき、昔、世話をした人物が夜に訪ねてきて、金品をひそかに送ろうとしたが拒絶した。その男が、「私は夜陰に乗じてまいりましたので、誰もこのことは知りません」と言うと、「天知る、地知る、子(し)知る、我知る」と答えたという(後漢書では、「天知る、神知る、子知る、我知る」)
 この故事から、『四知(しち)』という言葉が生まれた。「誰も知らないだろうと思っていても、隠し事というものはいつか必ず露見するものである」という意味で用いられるが、その真意には「人が見ているか見ていないかで己の言行を安易に変えてはいけない。常に自分が善しと思ったことを為すべきだ」という意志が含まれる。


 この「三国志」では、宮城谷昌光の圧倒的な知識量と資料の調査力に裏打ちされた、歴史の奥深さが開示される。加えて漢学の素養がほとばしる珠玉の言葉が散りばめられている。
 この作品を、従来の宮城谷小説の面白さから、自己の知識を書き連ねた駄作に退化したと評する向きもあるようだが、史伝としての緻密さもった歴史小説を楽しむことができる。当時の中国の地図と系図・人物相関図を見ながら…。


第2巻


 それにしても、崩れていく王朝内での権力争いの凄まじいことはどうだ! 清廉公平な政治に努めた大后だったが、後漢朝の宮廷が宦官の専横を許す体制にあったことは、彼らに諂(へつら)い賄賂を包むものが登用され出世することになった。君側の奸を除こうと正論を述べたものは姦計にはめられ、獄につながれて刑死した。志があり有能なものは、死ぬか地方へ逃げるかであった。
 国が滅ぶとはこういうことか。官僚たちは自分たちの懐(ふところ)や組織内の利益を図るばかりで、民の苦しみを省みることなく、増税につぐ増税…。税の取立ては苛斂をきわめ、生きることにあえぐ民の声に耳を貸そうともしない。現代の日本に、どこか似ている世相ではないか。


 こんな世に、曹操・孫樫・劉備が生を受ける。


三国志 第3巻    2012.02.02


 兵略の基本は勢いを創造することにある。兵を高所に上げれば低地に居る敵を圧し、兵に速さを与えれば停止している敵を倒す。そういう物理的な必然を心理面でも確立するのが良将であろう。
   

三国志 第4巻    2012.02.05


 大軍を指揮しても驕ってはならず、寡兵を率いても怯んではならぬ。おのれの長所をもって、敵の短所を撃てばよい。


 袁術が、学問がむしろ人の器を小さくすると考えて、言語に真剣に向き合わなかったことは、やはり人格的あるいは度量的成長に限界をつくったといえる。言語は決して無機的なものではなく、あえて言えば人の内側の間隔の目を開かせる。…。
 権門の中に居るということは過保護を享受することにほかならず、恐れるという感覚を身に着けようがない。…ところが学問はそういう環境を決して安全であるとはみなさない精神を育てる。よりよい環境を創造する力を培養する。「論語」ひとつをとっても、そこには改革の精神が充溢しているではないか。すなわち、恐れと批判力を持たぬ者は、正しい認識力と強い想像力を持ちようがない。




三国志 第5巻   2012.02.06


 本当の君子とはどういう人かについて、(孔子の弟子の)曾子が言った。『もって、六尺の孤を託すべし』(遺児を託すことができる人のことである)と。


 歴史は無限大の宝庫である。それを知るがゆえにそれにとらわれ苦しまねばならぬことがあるにせよ、そうなるものには謙虚さが足りず、本当の学問をしなかったともいえよう。うぬぼれていては自分の中に知恵を受ける器を作れない。
 世論が常に正しいわけでなく、世論にも偏奇があることを身をもって知っている。それゆえに曹操は真の正しさを求めて学問した。


 多数の意見に惑わされない。誤った意見や見通しの甘い意見は傾聴に値しないので意見とは認めない。全員が賛成し納得するような戦略とは、もはや戦略とは呼べないものだ。


 徳だけが、人を辱めることができる。




【読書】三国志 第6巻
 (宮城谷昌光) 2012.02.13


 「三国志演義」は、桃園の誓いから始まる劉備・関羽・張飛と諸葛孔明の活躍を中心に書かれた小説だから、話は仁徳の劉備、奸雄の曹操という役割で展開する。史実は、魏・呉・蜀の三国時代ののち、曹操の息子曹丕が後漢の献帝から禅譲を受けて魏王朝を開き、さらにその家臣司馬炎が建てた西晋へと続いていく。
 
正史としてのスタンスをとる宮城谷三国志は、曹操を時代を開く英雄として描き、劉備の処世を人為を超越したところにいて、成功も失敗も過去も未来もない、無であり空である生き方だと書いている。
 『劉備は戦うたびに負けて、家来も民も領地も、妻子すら捨てて逃げた。…、47歳の劉備には20代の男子がいてもいいはずなのに、1歳の男子(劉)しかいないというのは、劉備がいかにすさまじい生き方をしてきたか、そのあかしであるといえなくもないが、家族の暖かさに憧れを持たぬ心性を思わせる。
 ゆえに前代未聞のことが為せる。為すのは劉備でなく、劉備の下に集まった人が為すのであり、その行為に世俗的な意義を持たせることができるのは、「私しかいない」と諸葛孔明は確信した。同じような偸盗殺戮が時と場所のちがいによって正義に見えるということは、歴史が証明している。劉備とう虚空に諸葛孔明が「君子」と書けば、劉備が殺戮を行おうが焚掠を行おうが、君子の所業とみなされるのである。』
 この「陸中対」
(問答のこと)によって三国時代が現出した。諸葛孔明の巨大な奇術が始められたと言いかえてもよい。


諸葛孔明を得て力をつけた劉備は、孫樫・孫策のあとを継いだ孫権と連衡して曹操の大軍にあたる。
 が、「赤壁の戦」といわれるこの水上戦は、江南呉軍の水軍と曹操の大艦隊との戦いであった。呉軍の総司令官の周愉
ユは王偏は、さしたる軍功もなく、ただ陣を借りて曹操軍に当たろうとしている劉備をうとんじて、軍議にも加えず、水戦にも参加させていない。ただ、烏水にあった曹操軍を突けと指示している。
 三国志演義には、十万本の矢を一日で作ると引き受けた孔明が、わら人形を立たせた船を呉軍の中を引き回し、雨あられと射られた矢を持ち帰るといった話が載せられているが、それを宮城谷は『後世の人はこの水戦に劉備と諸葛孔明がまったくかかわっていないことにいらだち、呉軍のために諸葛亮孔明が壇を築いて南東の風を吹かせるという道教的風景を挿入したが、作り話である。』と一刀両断…。『周愉は艦からはなれたことはなく、諸葛亮を艦に招いたこともない』とも。




第7巻                2012.02.15


 増大する魏(曹操)脅威に対抗するために、蜀(劉備)と呉(孫権)は同盟を結ぶ。呉の国を訪問した劉備は、孫権の妹を娶ることになった。
 孫家に生まれた男女は、みな容姿に優れている。兄たちの美形に慣れている妹は、異常に手の長い劉備を一瞥して、「これでも人か」と怪しむあまり失神しそうになった(…と宮城谷昌光は書いている())。
 この妹は、劉備の後宮に入った後も、従ってきた官女たちにたちを帯びさせ、自身も男の身なりをして宮廷内を歩いたという。のちに、呉・蜀の同盟が解消されると、彼女は呉の国に返されるが、宮城谷はそこまで書いてはいないけれど、劉備との夫婦の関係はなかったのだろう。そのあたりのことを宮城谷は、「家来も民も領地も国も捨てることが得意な劉備は、女心を省みることなど一顧だにしなかったことだろう」と書いている。
 これを劉備のほうから見ると、「孫権は、手に余る妹を私に押し付けたのか」と、孫権に憎悪を持った。この人には公正さがなく、情にも智にも曲撓(きょくどう…捻じ曲がっていること)がある。上のものには甘いが、下のものには辛い。向後、もしも孫権の下風に立てば、どれほどむごい目に合わされるかわからない。「2度と孫権には会いたくない」と劉備は胸中で絶叫した。


 そんな呉に不幸が襲う。少ない兵で呉に大勝をもたらした赤壁の戦を指揮した、周愉が死去したのだ。享年36歳であった。



第8                      2012.02.16


 220年、儀の曹操、病を発して死亡。享年66歳。223年、劉備、病床にて死亡。享年62歳であった。
219年、呉・蜀の争いのなか、樊城の戦で関羽が戦死。221年、張飛は呉へと出陣した陣中で、折檻した部下によって殺される。三国志演義で活躍する面々が、このころ相前後して死亡している。


曹操の偉業について、「魏書」は「軍を御すること30余年、その間、…から書物を離さず、昼は武事の策を講じ、夜は経書とその伝に思いをめぐらせた。高所に上ると必ず詩を作り、新しい詩を作ると、これに管弦をつけたので、みな楽章になった」と記している。



第9巻                          2012.02.19


 魏では曹操の後を「曹丕」・「曹殖」が継ぎ、蜀では劉備の子「劉禅」が即位したが行政軍事の全般を諸葛亮(孔明)が執り行っていた。呉では55歳を過ぎた孫権が、北を伺っている。
 三国鼎立の天下の形勢だが、その周辺に匈奴・烏抄・羌胡・鮮卑・夫余・高句麗など、さまざまな勢力が独立していた。
 228年春3月、蜀の諸葛孔明は「後出師の表」を書いて、魏と雌雄を決すべく、馬謖を先方にして街亭の戦いに臨む。孔明は道筋を押さえるように命じたが、馬謖はこれに背き山頂に陣を敷いてしまう。副将の王平はこれを諫めたが、孫子の兵法にある「兵は高きをもって低きに挑め」によって、馬謖は聞き入れようとしなかった。秀才であった馬謖は、智に溺れたというべきか。
 その結果、張?らに水路を断たれ山頂に孤立し、蜀軍は惨敗を喫する。翌5月に諸葛亮は敗戦の責任を問い、馬謖を処刑した。諸葛亮はこの為に涙を流し、これが後に「泣いて馬謖を斬る」と呼ばれる故事となった。王平伝には馬謖及びその配下の将軍である張休・李盛を軍規に基づいて処刑したとある。
 
呉の孫権は、魏を挟撃すべく、遼東の独立勢力「公孫淵」の国と同盟を結ぶため、兵1万人の大船団を援軍として送るが、公孫淵はその呉軍を捕獲し、司令官の首をはねて、魏へ差し出したのである。


 曹操・劉備なきあとの中国は、さらなる混迷の度を深めていく。
 


【 宮城谷三国志は、今も文芸春秋に連載されているが、現在、単行本として刊行されているのはここ第9巻までである。私たちは、司馬 懿(しば い、字は仲達(ちゅうたつ))によって、曹氏の「魏」は滅ぼされ、「西晋」が建てられたことを知っているが、そこに至るまでには「死せる孔明、生ける中達を走らす」と言われた「五丈原の戦」や、曹氏と司馬 懿との壮絶な闘争があった。果たして宮城谷昌光はその日々をどのように描いていくのか、続巻が待ち遠しい。
 この書に触発されて、宮城谷の「戦国名臣列伝」(文春文庫)を買ってきた。元弘の変に敗れ隠岐に流される途中の後醍醐天皇に児島高徳が贈ったといわれる漢詩の一節、「天、勾践を空しゅうする莫れ 時に范蠡無きにしも非ず」の名文句を口ずさみながら、第一篇「范蠡」を読んでいる。】



   
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