本のムシ 7


【122】 中国・韓国が絶対に教えない近現代史 (黄 文雄、徳間文庫) 2006.06.08


 第二次世界大戦の終戦から60年以上を経て、今なお中国・韓国は戦争当時の日本の行為にこだわり、日本の謝罪を繰り返して求めようとしている。中韓は、過去の時点に留まって、将来を語ろうとしない。
 戦後処理は、講和条約の締結により全てが清算されるのが、国際的な共通理解である。従ってサンフランシスコ講和条約締結の各国や、日韓基本条約(1965、昭和40)、
日中平和友好条約(1978、昭和53)を結んだ韓国・中国とは、戦争時の行為は全て解決済みであるが、そこまでだけでなく、近代史上における日本の行為は、中韓が言う謝罪に当たることなのかどうかまで踏み込んで検証してみたい。これからの時代を生きる日本人にとって、中韓とかかわる近現代史を正しく認識することが不可欠だと思うからである。


・大日本帝国は、軍国主義の象徴であり、近現代史の闇か
 大日本帝国は、大航海時代以来、列強の被植民地であったアジアで先駆けてつくられた近代国民国家であり、白人の地球支配を終結させ、異文化の受容と咀嚼を行った、アジアの暁光であった。
 帝国主義の時代、明治維新を成功させた日本は、大国化・強国化へとひたすら突き進んだ。当時も、内村鑑三・三浦銕太郎・石橋湛山・幸徳秋水・河上肇などは小国主義を唱えたが、その主張がいかに空想的な愚論かは、列強に支配されたアジア諸国を見れば一目瞭然である。
 朝鮮との宗属関係を保護属国にまで強化した清国の朝鮮半島支配を排除し、大中華主義や列国の勢力が日本へ及ぶ危惧を除くために、日本は兵力10倍以上の清との戦いを決意した。開戦の詔勅には「朝鮮を属国化し、独立を阻害している清国勢力を排除し」と謳い、「以って、東洋全ての平和を維持せむ」と記している。
 清露国境を定めたネルチンスク条約を侵して、1900年の義和団事件を契機に、ロシアは全満州を占領した。ロシアの南下…やがては朝鮮半島に及ぶであろう勢力拡大を怖れた日本は、日英同盟を締結して、乾坤一擲の日露戦争を戦い、世界の誰もが予想しなかった勝利を手中にするのである。
 日露戦争の日本勝利は、白人のアジア観を一変させ、西欧の武力に支配されていたアジア諸国の目を見開かせた。戦争の前、清国分割は英仏独露の間で決められていたことであり、日本は清国の分割を回避しただけでなく、列強の勢力が大陸から退去するきっかけともなったのである.近代史上、初めて白人が黄色人種に破れたこの出来事は、清国のみならず、アジア各国の書物に最大級の賛辞とともに綴られている。インドのネールは「日本の勝利はアジアの救い」と書き、辛亥革命の指導者として国父と崇められる孫文は「日本がアジアにあることで、アジア人の国際的地位を高めてくれた」と言っている。

 戦前の日本が貧しかったとはいえ、20世紀に入ってからも西北大飢饉や大躍進政策の失敗によって1000万人以上の餓死者を出している中国やインドに比べて、近代資本主義を発展させていった日本ではもちろん、その統治下にあった朝鮮も台湾でも、凶作はあっても餓死者は出ていない。
 「国家は力なり」と謳われた19世紀の半ばに東洋の片隅で誕生した日本という国が、帝国主義の世界の中で生き残るために「殖産興業」に励み、「富国強兵」を進めて行ったのは、歴史の必然であった。「国民皆学」を実践した英知を持って、近代国家の成立に成功した大日本帝国は、まさしく「アジアの奇跡」であり「有色人種の希望」であった。
 日本の敗戦に終わった第2次世界大戦であったが、戦後、西欧諸国の植民地であったアジアの国々が次々と独立を果たしたことは、日本が支配国を相手に戦い、支配を受けてきた国々の自立を促した結果であることは、これらの国々の指導者が異口同音に指摘することである。


・日本は、中国を侵略したか


 歴史を紐解くと、中華帝国を形成した歴代王朝のうち、漢民族の王朝は「漢・南朝・宋・明」のみである。漢人を家奴(家内奴隷)と称した「清」は満州民族(女真族)による王朝だが、白蓮教の乱(1796年)ののち天下は乱れ、飢饉・匪賊の横行・内戦の頻発が激化し、辛亥革命、国共内戦を経て、今日の中華人民共和国が成立している。
 ならば、現在の中国は、征服者の清を打倒駆逐したの新政府であって、法統(法的正当性)道統(道義的正当性)をもつ清朝の後継者なのか…、満州・チベット・ウイグルなど、いわゆる漢外の地は中国が領有権を主張することができるのか…などの疑問が残るところだ。
 清朝末期からの中国は、北洋軍閥と西南軍閥・北京中央政府と広東政府の対立闘争などの混乱が続いた。もはや中国国内の勢力では事態を収拾する力はなく、英・仏・独・露ら西欧列強の介入を招いている。日露戦争開戦時の満州は、実質的にロシアの植民地であった。


 辛亥革命後の20年間で、四川省内だけでも500回に及ぶ内戦が起こっている中国へ、列強とともに内乱平定・秩序維持のため出兵した日本軍は、かつて明朝末期の混乱を平定して南京に入城した満蒙八旗軍への歓迎を髣髴させる、提灯を持った民衆の歓迎を受けたのである。
 内乱平定に腐心していた蒋介石は、日本の援助も要請している。その彼が「反日抗日」に転じるのは、西安で監禁され共産党との抗争を停止して一致抗日を約束させられた「西安事件(1936)」のあとである。1937年、中国保安隊による日本人居留民580人(当時、日本統治下だった朝鮮出身者を含む)に対する襲撃虐殺事件(通州事件)を契機として日本世論は高揚、中国を代表する政府が成立していないため宣戦布告のない日中戦争へと踏み出していくが、この戦闘は戦乱混迷の中国大陸に秩序と安定を築いていく戦いでもあった。内乱の破壊と匪賊の略奪を避けて市街を捨てていた中国人住民が、日本兵の進駐によって町へ戻ってきたという例は、至るところで報告されている。


 満州国建国は清朝(満州民族の王朝)を倒された満州民族の悲願であり、日本はその後援を行ったものである。皇帝溥儀以下の満州国百官は満蒙漢人であり、国家の運営は満州国人の手で執行される仕組みであった。
 満州国建国以前の満州には、義和団事件を契機としたロシア軍が駐留していて、実質的なロシアの植民地であった。歴史に「if」はないと言われるが、日本が日露戦争に勝利していなければ、満州はマンチュニスタン、朝鮮半島はコーリアスタンとなっていたことであろう。あるいは日本も今頃は、国名が「ヤポニスタン」となって、ロシア語を話していたかもしれない。


・日本は、韓国を植民地支配したか


 今、韓国では「韓民族は有史以来、独立を保持してきた。日本の併合の時期を除いて」と主張し、学校教育でもそのように教えている。しかし、韓国は中華帝国の千年属国であったことは歴史の中の事実であり、韓国の古い国旗には「大清国属」とまで書いてあった。ソウル市内には「独立門」という門が建てらているが、昔、その場所には『迎恩門』という門があり、そこで朝鮮王は「清の使者を9回頭を地面につけて迎えるという儀式」を強いられてきたのである。
 1894年、日清戦争に勝利した日本は、清国との間に下関条約を結んで朝鮮が自主独立国であることを認めさせ、朝鮮における清国の影響力を排除した。
 1909年、韓国併合は時期尚早とする伊藤博文らによって、日本国内では「世界の最貧国である韓国の併合は百害あって一利なし」とする反対論が強かったが、ハルピン駅で伊藤が朝鮮民族主義者の安重根に暗殺されたことから、世論は一気に併合に傾き、桂内閣が1910年併合に関する条約を調印して、韓国を併合したのである。
 韓国併合の目的は、大陸からの防衛埠頭にしようとする軍事的・地政学的な要請と、領土拡大への要求が合致したものであったが、ロシアの南下をなおも警戒し、東アジアの安定を求める、英・米・独・仏などの列強はこの併合を支持、承認した。朝鮮国内では、高宗や閔妃を始めとする李氏朝鮮高官らの抵抗も大きかったが、一進会や首相の李完用らは列強時代に韓民族が生き残り、国の衰微を食い止めて整備を進めるために、併合に希望を抱いたのであった。日露戦争後の東アジア世界には、日本以外の安定勢力はなかったのである。
 韓国において「日帝支配36年」と悪名高いこの併合に、日本は、植民地的搾取を行ってはいない。むしろ半島の近代化に大量の人的・物的材的資源を投入してきている。
 たとえば地租は、日本国内が25%であったのに対し、朝鮮はたったの3.8%。さらに、朝鮮における1941年の米価設定については、生産者の手取り価格は一石で50円であるのに対し、消費者価格は43円。差額は政府負担とする逆ざや政策を実施して、朝鮮の人々の生活を安定させたのである。
 英国人女性旅行家イザベラ・L・バードは、1894年以降、4回にわたり朝鮮各地を旅して、「朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期」を著わし、その中でこう書いている。
『(ソウルは)都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民は主に迷路のような道の「地べた」で暮らしている。
 ソウルの景色のひとつは小川というか下水というか水路である。蓋のない広い水路を黒くよどんだ水がかつては砂利だった川床に堆積した排泄物や塵の間を悪臭を漂わせながらゆっくりと流れていく。水ならぬ混合物を手桶にくんだり、小川ならぬ水たまりで洗濯している女達の姿。
 ソウルには芸術品がまったくなく、公園もなければ見るべき催し物も劇場もない。…』
 貨幣制度もなく、人々はワラとムシロの小屋に住み、文明人なら目と鼻を覆いたくなるような、凄まじく貧しい状況だったのである。
 この朝鮮に、朝鮮総督府は、大正8年を除いてずっと15〜20%前後の赤字歳出を行い、中央政府からの財政補填を受け続けていた、京城帝国大学の図書館予算は、東京帝国大学の10倍にものほっている。つまり、「朝鮮から植民地搾取をした」ことはなく、日本国民の税金を投入して、朝鮮の民生を過度に篤く支えていたというのが史実でる。


 皇民化政策は非人道的悪政のシンボルのように言われているが、創氏改名を強要した事実はなく、日本による統治後も韓国名を名乗って活躍した芸能人や日本の貴族院議員になった人もいる。国民の半分にも及ぶ奴婢階級の人々(戸籍さえ許されていなかった)が姓氏を得たのは、日帝の時代になってからである。日本による奴婢の解放は、韓国に近代民主主義国家をもたらすうえで不可欠な、いわばリンカーンの奴隷解放に匹敵する大改革であったというべきだろう。
 日本語教育は同一国民と扱う政策の表われであり、むしろハングル文字の使用は中国への反逆であるとして封印したものを、普及させたのは日本統治下においてであった。
 日韓併合ののち、農地の改良、農政の確立によって、生産性はかってないほどに高まった。人口は1906年に980万人しかいなかったのが、30年後の1938年には2400万人に急増している。民生の安定とともに、日本による近代法治国家の確立によって、李氏朝鮮にはなかった、半島の人々の生命財産が守られたことの表われである。


・日本は、正しい歴史の認識を


 中韓には、国家内に激しい対立や不安定要因が内在する。情報の公開も、一党支配の中国ではモチロンだが、驚くことに韓国内にも厳しい規制が課せられている。日本文化の発禁などは、その顕著な例であろう。国内の統一のためにも、対立勢力に対する抗争手段としても、反日を声高に叫ばねばならない理由がある。
 日本にとって深刻なのは、中韓の主張が日本国内の進歩的(といわれる)勢力によって、日本国内で増幅され、日本の人々がそう思い込んでしまうことである。
 世界の人々はさまざまで、宗教が違えばもちろん歴史観も千差万別なのは、仏教・儒教・回教の歴史をみれば一目瞭然であろう。人それぞれが違う歴史観を持つことは容認すべきことだが、勝手に歴史を改竄してはならない。歴史改竄は中国人のお家芸なのだ(正史史観)。
 日本が、世界に公開された資料から、正確な事跡をつむぎ、正しい歴史を確立することは重要なことで、政府としての責務であろう。それを国民に知らしめるとともに、世界に発進し、日本の歩んできた道を正しく理解してもらうよう、努力していかねばならない。


 イタリアの思想家マキアベリは、「近隣の国に手を差し伸べる国は滅びる」と言った。聖徳太子以来の『和』を尊ぶ日本人には絶望的な言葉であるが、こうしている間にも中韓では、「日本をどう思うか」というアンケートに、「好き…12%、嫌い…86%」という結果を出させる『反日教育』が行われているのである。



【121】日本人が知らない「中国人の本性」  (黄 文雄、徳間文庫)  2006.05.30


 黄河文明の昔から、易姓革命思想(儒教の政治思想の基本的観念の一つ。天子は天命により天下を治めているのであるから、天子の家(姓)に不徳の者が出れば、天命によって王朝は交代するというもの)によって支配者の交代に正当性を与えてきた中国では、天下を取った新王朝が前王朝の歴史を、自分たちに都合の良いところを採り悪いところは抹殺して歴史を編纂してきた(正史史観)。
 5000年来、天下は簒奪したもののものだという歴史を繰り返してきた中国では、「騙したものが勝ちで、騙されたものが悪い」というDNAが、人々の体の中に組み込まれている。だから、中国社会には詐欺とニセモノが罪悪感なく横行し、汚職や不正体質は直らない。役人による汚職は中国の伝統文化であり、賄賂は朝貢であって、賄賂も貰えないものは大物とは認められないというわけだ。収賄してこそ、一人前なのである。
 共産党の一党独裁支配の中国では、法律や倫理はあってないもので、党幹部や委員の判断ひとつで世の中が動く。独立した司法と自由な言論機関がないから、権力にかかわるものは中央から地方の党役員や行政官までが悪事のやり放題である。だから、中国で商売するには、賄賂は必要経費なのである。
 10億人の人口の0.1%、131万人の共産党幹部の私財は3兆7千億元…、全中国の財富の70%を所有し、8億数千万人の農民の多くは年収わずか500元(7500円)という貧困に喘いでいる。
 「世界の工場」といわれる現代中国は、タダのような人民の労働を搾取することによって成り立っている。また、世界は中国10億人の市場を魅力的だというが、消費物を購入することのできる層は、せいぜい2億人いるかどうかである。
 「万民平等」が不可能ならば不平等を是認するしかない。中国は「先富起来」(金持ちになれるものから先に富む)を容認し、共産主義の基本理念を捨て去った。相互扶助の精神は失われ、国を挙げて中国民の才能である利益の追求に奔走しているのが現状である。
 日本人は自らに「アジア諸国への優越感」や「中韓への差別意識」を抱いていることを自省し、そこから「過去にこれら諸国に迷惑をかけた」という贖罪意識を持っているところがあるが、中華思想の原点である中国人の差別思想はその比ではない。古来から周辺諸国は「東夷・西戎・北胡・南蛮」と呼んで全て野蛮国であり、今も国内の少数民族は禽獣としか思っていなくて、平気で弾圧・殺戮する。
 現代の中国国内でも「10大階級」の分類があり、「@国家・党幹部、A国家企業幹部、B私企業経営者、C技術取得者、D事務職労働者、E商店経営者、F商業労働者、G工員労働者、H無資格労働者、I都市農村流民」のうち、FGHIの下層階級に属するものは81.1%の多くである。
 いびつな社会構造を維持するために、中国では極端な情報操作を行っている。中国共産党の中央機関誌「人民日報」でさえ、平気でウソを書く。「同誌の記述で真実なのは『人民日報』というタイトルだけ。発行年月日さえウソがある」といわれ、真実など公開したら、たちまち国家は崩壊することだろう。


 中国が行ってきた自力更生の試みは、全て失敗してきた。洋務運動・戊戌維新・辛亥革命・五四運動・社会主義革命・文化大革命…といった一連の運動は、全て中国伝統文化や中華の価値観を完全否定する変革運動であった。
 中国が、中華思想と排他的体質を捨て去って、世界への窓を開放しない限り、この中国の発展はないだろう。このまま行けば、虐げられ見捨てられ続けてきた中国人民の不満が爆発するのは、それほど遠い将来ではない。
 私見であることを断って、インターネットや携帯電話が浸透し始めている中国の地方都市の状況と、徐々にではあるが市場社会に組み込まれつつある農村の変貌ぶりをみれば、10年から…遅くとも20年以内には、中国大爆発といわれる、国家体制の大変革が行われることだろう。それが、歴史が語る、時代の必然というものである。





【120】 語り継ぎたい日本の歴史  ― A級戦犯とは、何だ―

                 (中條高徳・渡辺昇一、致知出版)  2006.05.08


 第2次世界大戦における罪科について、連合国が日本を裁いた「極東国際軍事裁判所」の誤謬については、『119 昭和史の常識』で取り扱ったので、ここでは繰り返さない。
 その裁判で、特にA級戦犯として絞首刑になった人たちが祀られていることを理由に、日本国の首相が靖国神社へ参拝することを問題視する風潮を考えてみたい。


A級戦犯
 日本は太平洋戦争の遂行を、立憲君主制をとる民主国家として手順を踏み決定した。1人の独裁者とその側近が起こした戦争ではない。今、A級戦犯として、参拝することをを問題視されている人たちは、当時の国際法や文明国の法律に照らして、個人的な罪を問われる存在では決してない。
 A級戦犯とは、『119 昭和史の常識』で述べたように、日本の戦争当事者の罪状を裁判を開いて明らかにすると記されているポツダム宣言が出された時点には成立していない、「平和に対する罪」「人道に対する罪」という事後法によって有罪とされている。事後法によって罪を問うというのは、いわゆるデッチアゲであって、法治国家としては絶対に行ってはいけない恥ずべき行為である。
 「非戦闘者を無差別に殺戮する」という人道に対する罪は、一瞬のうちに婦女子を含む何万人もの一般市民を殺戮した原子爆弾の投下、無差別爆撃を行ったトルーマンやマッカーサー、20数万人の捕虜を長期間抑留して極悪な条件下でシベリア開発に使役し、数万にも及ぶ犠牲者を出したスターリン等をこそ裁かなくてはなるまい。
 戦争中の局面においては、時に非人道的な行為がなされたことは、いずれの戦争を見てもそうであるように事実であろう。しかし、それは戦争という非日常的な状況の中の出来事であったということであり、また、国際法に照らして違反する罪状があるならば、彼我の区別なく正常な法廷において第三者の手によって裁かれることが妥当であろう。
 「極東国際軍事裁判所」においてA級戦犯とされたもののうち、生き残ったものは、のちに首相(岸信介)となって日米安保条約を改定し、法相(賀屋興宣)として国会・内閣で活躍し、日本が国連に復帰したときの外相(重光葵)として総会で演説しているものなどがいる。彼等の活躍について、国際社会は当時何らの異議をも挟んではいない。
 絞首刑に処された7名の名誉についても、全く同様であろう。命を失ったものだけが、太平洋戦争の責任を背負っていかねばならないというのだろうか。
 昭和27年にサンフランシスコ講和条約が結ばれ、日本が主権を取り戻した28年、社会党の堤シズエしらの尽力によって、4000万人の人が国会へ「戦犯の方面赦免を求める請願書」を提出している。戦火に遭い、辛酸をなめた国民の半数もが、「ともに戦い、一番苦労した戦争当事者を救え」と立ち上がったのだ。今、中国の政府指導者は「日本国民も、中国人民とともに、戦犯たちの被害者である」といった妄言を吐いているが、当時の日本人は、戦犯とされた人々がこの国のために戦ったことについて、揺るがぬ信念を持っていたのである。
 繰り返すが、立憲君主制をとる民主国家が開戦を決議したのである。国家が決めたことにしたがって、政治家や軍人の本分を尽くして戦った。結果は、敗戦であった。戦争行為についての責任を、あとから定めた規定によって問われ、有罪となった。まさに、彼等が有罪となった根拠はただひとつ、戦争に負けたことでしかない。


従軍慰安婦問題
 「私は韓国の済州島で婦女子を強制連行して、日本軍の慰安婦にした」と書いた「従軍慰安婦問題」が吉田清とかいう男の捏造手記であったことは、今や既に明白なことであるが、日本の政治の奇妙なところは、それから10年もしてから、宮沢喜一内閣の官房長官河野洋平大臣が「慰安婦の募集に官憲の関与が明らかになった」という談話を発表したことである。
 これはまた、全くの捏造である。河野長官が「明らかになった」と語った根拠が、今日に至っても何一つ文書一枚も公表されていないのである。


教科書書き換え問題
 1982年6月、朝日新聞が「文部省が検定で、戦前日本の大陸侵略とあるのを、進行と書き改めさせた」と報じた。中国・韓国からも抗議があり、他のジャーナリズムも一斉にこの問題を報道した。
 ところが、詳細に調査してみると、ひとつとして支那への侵略を進出と書き改めた教科書はなかったのである。
 ところが、当時の鈴木善幸内閣の宮沢喜一官房長官は「今後の教科書検定は、アジア諸国の感情に配慮する」という談話を発表する。何でもかんでも頭を下げて…という、謝罪外交のはしりであった。


南京大虐殺
 中国の南京市には「南京大虐殺記念館」があって、中国各地からの見物客とともに、日本からの修学旅行の高校生らも訪れて、あとで「感想文」を書かされたりするという。日本の教育現場の一端を象徴する話ではないか。
 館内には「300000」の数字のレプリカが、そこここにはめ込まれている。日中戦争のもと、松井石根師団が南京市に進駐して殺戮した市民(30万人)を顕示する数である。
 南京市街戦で日本軍によって殺戮されたという人に関しての証言を見ると、東京裁判でアメリカ人のマギー牧師が「たくさんの虐殺が行われた」と言った証言が有名である。「何件見ましたか」と尋問すると「1件です。走ってきた支那人の青年が『止まれ』と言われて止まらなかったので撃たれた」と言う。「強姦は?」「1件」。「略奪は?」「1件」と答えている。
 ティンパリーというイギリス人の記者は「数万人が死んだ」という記事を書いているが、彼は蒋介石政府から金銭を受け取っていたことが判っている。
 大虐殺の証拠として公表されている写真143枚についても、東中野亜細亜大教授が検証したところ、全てが捏造・合成または関係のない写真であったという報告がなされている。
 現在までの調査で、日本が入城するまでの南京市民の数は約20万人、日本が占領してから1ヵ月後には25万人に増えている(南京学会調べ)。そもそも30万人も殺戮する人間はいなかったし、何万人かの虐殺と呼ばれるような行為が行われたとするならば、そんな現場へ市民が戻ってきて人口が増えることなどあろうはずがない。
 南京大虐殺を構成する捏造文書やインチキ写真は、現在、膨大な数に上っている。日本政府は、そのひとつひとつを検証し暴露し、出版物にまとめて世界に公表するとともに、相手に抗議することを、日本国と国民の名誉を賭けて行うべきだろう。
 この問題で、国家としての品格が傷つけられていることも勿論であり、名誉を喪失している人たちも数多くいるのである。


竹島問題
 竹島問題を国際裁判所に持ち込むことを、韓国が拒否しているのは、負けるのがわかっているから。李承晩ラインによって一方的に囲い込んだ竹島に、既得権を積み重ねようとしている韓国に対し、日本はこの問題を国際的に認知させることが大切だろう。


憲法改正
 占領下においては、日本に主権がないことは明らかであり、言論思想の自由のない時点で成立した憲法は、民主的成立の要件を備えていない。だから、現憲法は無効である。



【119】 昭和史の常識  ―東京裁判が誤れる裁判であったことは、世界の常識―
                     (渡辺昇一、WAC出版)   2006.05.08


 日本の戦後思想を支配してきた「東京国際軍事裁判(東京裁判)」は、国際法や慣習法、条約などとは一切無関係なく、マッカーサー司令部がこの裁判を開くために作成した条例によって開廷した。
 裁判の冒頭、清瀬一郎弁護人は「世界が理解している戦争犯罪人の定義とは、@戦闘者の不法行為、A非戦闘者の戦闘行為、B略奪行為、Cスパイ行為の4つである。この裁判の法的根拠は、昭和20(1945)年7月26日に発せられたポツダム宣言(第10項)にあるが、その時点においてこの裁判所が裁こうとしている『平和に対する罪』『人道に対する罪』といった類の罪の概念は、国際法にも先進国の法律にもなく、この裁判の管轄権はどこに根源を持つのか」と問うたのである。そもそもポツダム宣言が発せられた時点で国際法にない戦争犯罪を裁くなどといったことは、法的根拠がなく、できないことなのである。
 ウェッブ裁判長は、「あとで回答する」として裁判をそのまま進め、回答することはなかった。アメリカのスミス弁護士は「管轄がこの場で明らかにできないのであれば、控訴棄却すべきだ」と強く主張し、裁判長から忌避されてアメリカへ帰国してしまったほどである。
 どの国際法にも定められていない犯罪を、あとになって新しく法律を作って裁こうとするのは、『事後法禁止の原則(法の不遡及)』に抵触する。東京裁判では、絞首刑7名・終身禁錮刑16名・有期禁錮刑2名の判決が言い渡されたが、その法的根拠はおよそ文明国では認められない事後法によるものであった。


 東京裁判は満州建国を日本の中国侵略と断じているが、そもそも満州は万里の長城以北の地で、中国の領土ではない。古来、満州族(女真族…ヌルハチが出て、清朝を建てた)の土地であって、支那を支配した清朝が辛亥革命によって倒壊したあと、父祖の地に逃れた満州族(清朝遺臣)が溥儀を皇帝とし、日本の後押しを受けて自分たちの国を造ったのが満州国である。大臣や宰相に就いたのは、全員が満州人または清朝の遺臣であった。
 日露戦争前は満州全土と遼東半島は、実質的にロシアの支配地であった。日露戦争によってそれらを清国の手に返し、日本は南満州鉄道の経営権や旅順・大連などを租借する。溥儀の満州建国を助け、指導した石原莞爾は、「日本は満州経営を援助し協調することに専念すべきであって、支那に攻め入る必要はない」と明言し、戦線不拡大方針を明らかにしている。(だから、彼は東京裁判の被告として償還されていない。)
 国際的にも満州国は、1933年に蒋介石が建国を認め(塘沽協定)、第2次世界大戦の終結までには世界23カ国の承認を受けている。満州建国以来、治安は安定し、年間100万人の単位で人口は増加していった。
 こうして築いた満州国について、溥儀は東京裁判で「日本の傀儡国家であった」と証言する。このときの溥儀は、満州に侵攻してきたソ連軍に捕らえられ、家族とともにハバロフスクに隔離されていて、ソ連の監視の下に証言台に立ったのである。


 日本を自虐的に語る、東京裁判史観の根拠のひとつとして、「日本はサンフランシスコ講和条約を受け入れている」という指摘がある。
 条約の11条に、『日本国は極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷のjudgements(諸判決)を受諾し、且つ日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が科した刑を執行するものとする』と書かれている。
 すなわち、日本が受け入れたのは絞首刑とか禁錮とかの判決を執行することを受け入れたのであって、裁判そのものや日本が犯した罪を認めて受け入れたわけではない。
 しかも11条には、『これらの拘束されているものを赦免し、減刑し、仮出獄させる権限は、各事件について刑を科した一またはニ以上の政府の決定及び日本国の勧告に基づく場合のほか、行使することができない』とある。
 すなわち、「一またはニ以上の政府の決定及び日本国の勧告に基づけば、赦免・減刑・仮出獄させてもよい」のであって、日本政府は直ちに各国政府に働きかけ、全ての戦犯とされた人たちを釈放したのである。東条英機らの絞首刑になった人たちも、もしそこまで生き延びていれば釈放され、A級戦犯であった岸信介・賀屋興宣・重光葵らのように、多くが戦後の日本で活躍したことだろう。
 昭和28年、主権を回復した日本は衆議院本会議において、「戦争犯罪の受刑者の赦免に関する決議」を全会一致で可決し、極東軍事裁判における全ての戦犯は赦免・釈放された。当時の日本の人口は9000万人ぐらい、そのうちの4000万人が…実際に太平洋戦争を戦い、戦火にさらされた人々の半数近くが…、いや、総人口9000万人の中には子どもや乳幼児もいたことを思えば、戦争を体験した人々の実に半数以上が、国会へ戦犯の赦免釈放を求める請願を出した。それを受けて国会は、戦犯を通常の戦死者と同じに扱うことを、社会党・共産党を含む全会一致で決議し、戦争犯罪人とされた人々の名誉を回復したのである。


 昭和26年、マッカーサーはアメリカの軍事外交委員会で、こう証言する。「日本は8000万の人が4つの島にひしめき、… 固有の産物はほとんどない。… 彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障上の必要に迫られてのことだった(日本は自衛のために戦争した)」と。



【118】 尊敬される国民 品格ある国家
  -日本近代史の認識を正せ-

  (岡崎久彦・渡辺昇一 対談、WAC出版)              2006.05.03


 国家の品格は、祖先への尊敬に始まる。「人々の誇りとは、自分たちは偉大なる民族に属するという意識から芽生え、国としての品格は、先祖の偉大さを受け継ぎ永続させるという意識を国民が持ったとき形成される」という『品性論』(イギリス、スマイルズ著)や、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」(ビスマルク)を引用して、日本国民が誇りを持つためには、日本の歴史を正しく検証することが不可欠であると説く。
 近代日本の歴史認識は、東京裁判史観を出発点として、GHQの占領政策とコミンテルン32年テーゼの影響が大きいが、戦後の長い期間を支配した戦争否定の偏向思想(戦争の彼我論を一切せずに、戦争をしたから全て間違いであるという思想)から抜け出て、近代日本史を見直すことが大切である。
 明治期…、国家の存亡を賭けて日清戦争を戦った日本軍は、当時、世界で最も規律正しいといわれた軍隊であった。北清事変のとき、日本軍が占領した地域には、現地調達を旨として住民を苦しめる支那軍や略奪をほしいままにした匪賊から逃れ、多くの地域住民が保護を求めて流入してきた。義和団の乱によって北京の大使館が襲われ、天津の租界(外国人居留地)が焼き討ちされたときも、手薄であった諸外国の居住区を守り、居留民と現地民を守ったのは日本軍であった。
 規律ある軍隊の目覚しい働きと、開国からの日は浅くとも確固たる国を造ってきた日本という国家に信頼があったから、イギリスは『日英同盟』を締結した。この盟約を後ろ盾として、日本は戦費の調達・戦力の整備を行って日露戦争を戦うことができ、誰もが勝つとは思っていなかった戦いに勝利することができたのである。日露戦争の勝利が、アジア各国の自信と自立につながったことは、歴史が証明する通りである。


 昭和になって…、日中戦争の発端となった「盧溝橋事件」は、対峙する日中両軍の間に、偶発的に撃たれた一発の銃弾から起こったわけだが、その銃弾を発したのは中国共産党のスパイであったことが、中国の内部資料や傍証によって明らかになっている。日中戦争は日本が仕掛けた戦争であるという「東京裁判」を根底から見直すべき、歴史の新事実である。


 近年…、湾岸戦争のとき、ソ連のシュワルナゼ外相は多国籍軍に参加することを決め、ソ連国内の調整を始めていたが、保守派の反対で実現せずに、彼は外相を辞任する。実現していれば、米ソの同盟も不可能ではなかった。
 経済が追いつかなかった中国は、中国首脳部の決断がなされなかったが、もし多国籍軍にどんなかたちの部隊であれ派兵していれば、日米友好は吹っ飛んでいたことだろう。中国の出兵が、中米関係・日米関係に及ぼす決定的なインパクトを、ケ小平が測りきれなかったのは、日本にとって天の恵みであったと言わねばならない。
 かつての「日英同盟」と同様かそれ以上に、日本の安定した繁栄のために「日米同盟」は重要である。1940年、日米関係悪化によってアメリカは日米通商航海条約を破棄し、このため日本は自力で経済圏を獲得せざるをえなくなった。その結果として、日本軍は仏印へ進駐し、米の対日石油禁輸、そして真珠湾攻撃へとつながっていく。


 駐タイ大使を務めた岡崎氏は、「現在、東南アジアの国々のうちで、マスコミが報じるような反日感情はどこにもない」と断言する。
 中国・韓国が主張する「教科書問題、従軍慰安婦、南京大虐殺」などは、近年の研究で全て捏造された事案であることが判明していて、朝日新聞を始めとする中国御用達マスコミが騒ぎたてたものを、中韓が政治的材料として利用してきたものであった。


 日本は今後も繁栄するであろうが、経済的に豊かになったとしても国としての品格がなければ国際社会では尊敬されず、リーダーシップを発揮することも出来ない。今、日本は近代の歴史的事実を明らかにして、国民に知らしめ、世界へ発信し、学校教育において次代を担う子どもたちに教えていくことによって、民族としての誇りを築いていかなくてはならない。


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 このところ、靖国参拝を理由とした中韓の首脳外交の拒否や、韓国の竹島問題などがかまびすしい。そこで、日中韓の近代史についての著書に目を通してみた。