【10】疲れ果てる教師、崩壊する授業 … 
総合学習の罪
       (11.9)

 先日、ある教科の研究会の席上、6年生を担任している小学校の教師の話を聞いた。
 「総合学習というのは、しんどい教科ですわ。構想から作り上げ、教材を準備し、子どもたちに体験させるわけです。今までの積み重ねもないですし、今回やったことは残しておくこともできず、来年はまた一から…。子ども達の中に残ると信じたいのですが、何かやったという経験はあっても、子ども達の力として残るのかどうか? 準備から実施まですごく時間をかけねばならないし、結果に対しての手ごたえを教師も子ども達も確信できずにいます。教科の時間は大幅に取られてしまって、国語・算数の時間もそうですが、理科や社会の時間は、総合学習での合科指導という名目にして、ほとんど学習時間が取れずにいます。」
 隣にいた、3年生の教師は、
 「2学期、総合学習ということで、まんじゅう作りばかりやっとるんですわ。包む皮をほどよい硬さにつくり上げる水加減も難しいですし、あんこを美味しく炊き上げるのも難しい。もう4回、挑戦しましたが、まだ食べられるものは出来上がっていません。2学期は、理科も社会もたいして学習することもありませんから、美味しいまんじゅう作りに専念しています。」
 理念ばかりが先行して現場の実状を省みない、文部科学省の机上の空論の作物である「指導要領」の、現状の姿である。もちろん現場の教師たちは、皆それなりに一生懸命に取り組んでいる。しかし、『子どもたちに生きる力をつける』という理念だけで、教科書も教材も準備せずに総合学習という耳ざわりのよい学習を現場に押し付ける文部科学省は無責任極まりない。何の準備も具体的な提案もできないままに、1・2年生の理科・社会科を廃して生活科を新設し、小学校の教科学習を根底から揺るがせた文部科学省の、研究実践に裏づけされない思いつき政策がまた現場を疲弊させている。今、1・2年の生活科は、新設当時にはあれほど脚光を浴びた研究授業もほとんど行われず、研究会の活動も低調で、もはや形骸化してお遊び授業である。それでも現場からの報告は、子どもは生き生きしているという。立ち歩いているだけなのに…。
 なぜ、各県にある国立大学付属小学校で何年かをかけて授業実践を行い、指導マニュアルの作成や資料や教材の開発を行ったのち、具体的な指導原案を明示するぐらいの準備をしてから、指導要領の公開としないのだろうか。学校が総合学習に戸惑うとともに、国算理社といった教科学習をないがしろにせざるをえない状況を、全く考慮していないのだから困ったものである。
 これで、日本の子ども達の学力低下を招いたら、遠山文相や文科省局長・課長のクビで償える問題ではない。


【9】理数系重視のエリート養成校創設は、裾野を忘れた、高望み! (10.2)


 文科省は、科学技術分野のエリート養成のため、高校や中高一貫校で理数系教育を重視した「スーパーサイエンス・ハイスクール」制度を、2002年度から創設することを発表した。
 「日本の小中学生は、世界一の理科・社会科嫌い」「科学離れの進む日本社会」と各種統計の数字が語る現実を前にして、科学立国日本の旗手を養成しようとしているわけであるが、日本の役所のすることのたぐいで、またまた小手先の策を弄しようとしている感が否めない。
 何度も指摘してきたように、小学校の1・2年に理科・社会科の学習をなくしてしまい、子どもたちは、学校教育に触れる初期の段階で、自然や社会に目を見開く機会を奪われてしまっている。この時期にきちんとした形で、自然に触れ社会を見る学習の基礎を築くことは、ここに指摘するまでもなく大切である。
 1年生になって、「春になると、身の回りのようすはどのように変わってきたでしょう」と問われ、野山に草花が咲き、動物が活動を始める自然の営みに目を見開いて感動した記憶は誰にもあることだろう。その感動こそが科学する心の基礎なのである。6才の時点における科学する心なのである。
 文科省は、生活科やゆとりの時間の中でじゅうぶんに学習できることだというが、理科や社会の教科の学習として形を持たせることが大切である。小学校の低学年に理科・社会科の教科を復活させることをせずに、高校での「スーパーサイエンス・ハイスクール」制度の創設とは、脆弱な基礎の上に高層ビルを建てるようなものである。



 加えて言えば、昨今、総合学習との合科指導と称して、理科・社会科を教科としてしっかりと授業で扱わずに済まそうとする教師が目立つ。理科や社会科の学習事項を、「総合学習との兼ね合いで行うので」などと平気で言って、学習内容をしっかりと定着させる指導を行なわない。総合学習は体験させる学習であって例えばテストもないが、理科や社会科の学習は教科としての学習であってもちろん評価もされる。両者は、全然別物なのである。「総合学習との兼ね合いで」という言葉は、教科の授業をしっかりと行い得ないことの言い訳に映る。



【8】手錠少女放置の犯人は、中学校教諭だった!(9.10)


 世間を騒がせたセンセーショナルな事件の犯人は、中学校教諭だった。現今の教育界を見ていると、さほど驚くほどのことはないと思える。世の中の反応も、「学校の先生がねぇ」といった程度で、先生たる者が何という事を…などの憤りも、有ってはならないことだというリアクションもないのがむしろ不気味である。
 法の執行官や番人である、警察官が窃盗や強盗を働いたり、裁判官が痴漢をする世の中である。政治家や中央官僚の汚職や不正行為は当たり前なのだから、学校教諭が生徒を相手に破廉恥極まりない犯罪行為を犯したところで、何ということはないのだろう。
 この国の人間としての誇りや、職業に対する倫理観は、地に堕ちた。教育においても、「教師は労働者である」と教師自らが宣言して以来、教育は一般社会や家庭から見て同等の視線を持つようになり、教師は生徒や親たちの尊敬を集める対象ではなくなった。今の生徒や親たちにとっては、成金の社長は尊敬すべき成功者であるが、学校の先生は何らの意味も持たない関係者なのである。人生の導師などとは片腹痛く、勉強の指導すら塾の講師にも劣る存在なのである。
 教育は、学習内容を削減したり教師の指導力低下を放置したりするのでなく、自らの努力によって世の批判に応え、聖域としての地位を取り戻さなくてはならないのではないか。教師は生徒にとっては尊敬の対象としての存在でなくてはならない。そうでなくては、教師自身にとっても、また、生徒たちにとっても不幸である。教師としての学習もせず本も読まない先生に、誰が何を教えてほしいものか。
 教師自らの努力は当然として、教師たちにその社会的意義を自覚させ、自ら何を努力しなければならないかを教えることも必要である。現在の半分以上の教師が不的確者ならば、これを矯正しまた取り替えていくことが、文部科学省がやらなければならない第一の教育改革であろう。



【7】 文明が発達すると、人間は必ず堕落するのだろうか(8.18)

 親が自分の子どもを虐待して、死に至らしめる。近頃、この手のニュースが新聞やテレビで伝えられることが多い。母性・父性の喪失であるが、社会が人を守り育てることについて、人としての尊厳さを失っている。

ヒトにおいて、母性・父性は備わった本能ではないらしい。それは時代の価値観によって影響され移ろっていくもので、遺伝子に組み込まれた天与のものでなく、学び重ねていくものであった。

 貧しい時代には、がんばって生きていかねばならない。嫌なことにも耐えて努力しなくてはならない。そんな親や社会の人々の姿を見ながら子ども達が育つ。しかし今は、お金と文明の力で、人類が経験したこともないほどの唯物的機械的愛の形へと、知らず知らずのうちに親の愛は変貌を遂げている。

「経済が発達すると人間は壊れる。親は便利な子育てを望み、赤ちゃんのころは、つけておけばおとなしいという理由でテレビをつけっ放しにし、少し大きくなればテレビゲームをさせる。その中で子どもは、『殺せ、殺したら万歳』といった価値観を身につける」(久徳重盛著『母原病』…子離れの出来ない母親の心の病気や執着が多くの子どもの病気の原因であるとする)という。ものが豊かになると、人間は堕落する。

だとすれば、それに対する策をヒトは持たねばならない。それが教育であり、行政であり、なによりも人としての尊厳であろう。





E もう、学校はいらない! こんな教育で責任が果たせるのか。 (8.4)


 2002年度から、文部省の定める新指導要領が実施され、小学校の学習内容が大幅に改定される。一連の改定事項を調べれば調べるほどに、学校教育の果たす役割は低下し、もはや学校は教育機関としての責任を放棄したのではないかと思われる。

平成9年に9万人を超えたと報告された不登校児の数は、平成11年度には13万人を数え、ますます増加の一途を辿っている。学校ばかりに責任があるという問題ではないが、ここで言いたいことは、「不登校の諸君、学力をつけるのならば、もう学校へ行く必要はない」ということである。

学校は、学問の場であることを自ら放棄した。学力を習得するには、もう、学校を頼ってはいけない。ある中学校の数学教師が生徒に言った。「こんなことも解からないのか、お前、何をしに塾に行っているんだ」。この教師は正しい、もう学校は学問の場ではない。

 新指導要領では、小・中学校の国・数(算)・理・社の4教科の授業時間数と学習内容が3割も削減される。小学校での4教科の学習時間数はすでに80年と92年に合わせて500時間削減されているが、今回さらに500時間が削減される。70年代と比べると1000時間も授業時間が少ないことになる。

 詰め込み教育・受験競争が、切れる子どもを生み、学校崩壊を起こすから…を理由にして、授業時間と内容を減らして20年を経た今、少年非行はますます増大の一途を辿り、非行年齢はますます低年齢化しいてる。教育はこの事態にどう責任をとるのか。ゆとり教育と称してお遊び授業を増やした結果、学級崩壊は低学年に及んでいる。そして来年、文部科学省は、円周率は3、漢字は読めれば書けなくてよい…などという、新指導要領を実施しようとしている。もう、学校へ行く必要はない!





D 小学校に、理科・社会科の専任教師の配置を (7.18)

 前回の提言で、科学離れが進むわが国の小学生のことを報告した。ここでは、小学校における理科・社会科の授業について目を向けてみたい。
 今年、中学1年生の生徒に聞いてみたところ、その子は小6の1年間に理科の実験をしたことがないという。この例は特別かも知れないけれど、小学校3〜6年生の理科の教科書に出てくる「実験」のうち、半分以上を実験せずに黒板だけの授業で済ませているという小学校の教師は、それほど珍しいことではない。

 教師に言わせると、実験やその準備の時間がない、子どもに扱わせるのは危険なものが多い、大掛かりな実験で実際の授業で取り扱うのは無理…などさまざまな理由を挙げるが、本当のところは実験を準備から正しい手順で行い目的の結果を導く指導力がないのである。理科を専門とする教師は、「理科ほど面白い教科はない」と言うが、理科の授業を苦手とする教師は意外に多い。
 社会科についても同様の事象が見られ、調べるために商店街や工場・市役所・県庁・警察・消防署に見学に出かけたり、通行人や農家の人に尋ねたりすることを重ねて、社会科学・人文科学に対する目を見開き、追求する態度を身につけさせる訳であるが、これも時間がないの一言で片付けようとする。実際は、教師自身が社会科の指導方法を修得していないのである。
 小学生のころ、朝顔の種をまいて芽が出たときは嬉しかったし、採取した二酸化炭素の中へ入れたろうそくの炎がスーッと消えたときは何でだろうと思った。日食の日には、ガラス片をススで焦がして太陽を見たし、消防署員の訓練を見学して「火の用心」のポスターを作り、近所に貼ったりした。
 今は、小学校の1・2年生には理科・社会科の授業時間すらなく、3年生以上の理科・社会科も、総合学習の名のもとに、自然科学・社会科学の基礎を修得させる学習は行われていない。こんなことで、日本の科学技術の将来に、教育はその責任を果たすことができるのだろうか。
 授業準備の時間がない、教材研究ができない、指導方法を持たない…など現場からは悲鳴に近い理由が並べられるが、それならば小学校にも理科・社会科の専任教師を配置するべきである。理科・社会科は、指導に際して、確かに専門的な知識や技量が要求される。多くを専任教師に委ねるべきであり、またそうすれば担任は他の教科の研究や準備に万全を期すことができる。
教師にとっても、また何よりも子ども達にとって、必要かつ最良の体制であると思う。





C 小学校1・2年生に、理科・社会科の復活を             
(7.9)

 平成4年度以来、小学校1・2年生の時間割から、「理科と社会科」の時間がなくなっている。新設された生活科という学科の中で、理科・社会科の学習内容を修得することとされている。
 ここで、文芸春秋の1999年2月号に掲載された、立花 隆氏の論文からの一節を参照いただきたい。

『最近、「大学の物理教育」(日本物理学会発行)という雑誌にのった風間晴子・因際基督教大学準教授の「国際比較から見た日本の『知の営み』の危機」という論文を読んでショックを受けた。これは国際教育到達度評価学会の国際教育調査を紹介したものだが、図4を見ていただきたい。これは各国中学一、二年生の理科に対するマインドを調査したものである。日本が「理科が好きな生徒」の割合でも、「将来、科学を使う仕事をしたいと考えている生徒」の割合でも、世界最低なのである。この他、「理科は生活の中で大切と考える生徒」の割合でも、「理科はやさしいと思う生徒」の割含でも世界最低である。見ていて恥しくなってくるとともに、中学一、二年生でこれほどの理科離れが起きているこの国には、未来がないとつくづく思った。これからの社会はますますサイエンスが重要になってくるのに、日本にはその時代をになうべき若者が欠けつつあるのである。』

 さらにこの論文は、科学離れしている日本社会の現状も示しているが、それはまた次の機会に紹介することにしたい。

この状況の中、わが国においては、冒頭にも述べた通り、小学校1・2年生に理科・社会科の教科はなくなり、それに代わるものとして、生きる力を養成するとのキャッチフレーズのもと生活科が創設され、10年になろうとしている。
 学問の基礎として、自然科学の探究の方法を学んだり、人々の生きる姿を調べたりすることは、幼稚園保育の延長としての手法しか確立できない生活科において、指導できることではない。
 加えて見逃すことができないのは、1・2年生から理科・社会科が亡くなってしまったことによって、小学校においては、理科・社会科の全校的な研究への取り組みができなくなってしまっていることである。このままでは、小学校における理科・社会科は、1・2年生だけでなく、3年生以上の学年でも本格的に研究体制を組むことができなくなるという構造上の破壊を招くこととなり、この教科を専攻する教師の姿勢も危うくなる。

 繰り返すが、小学校1・2年生に週2時間程度でも、教科としての理科・社会科を復活させることの必要を考えなくてはならない。同時に、理科・社会科を魅力ある教科として教えることのできる、造詣と技能を持った教師を育てることの重要さを考えてほしい。
 さもなければ、『20世紀に起きた、全方位的な知識の爆発は,21世紀に入ると、さらに進むと考えられる。そのような事態に対して、教育の面からも、一般市民の意識の面からも、情報公開をもとにした社会全体の知的情報の流れのレべルアップの面からも、早急に対応策をとらないと、日本は確実に21世紀に沈没してしまうだろう。』と続く立花氏の警鐘は、杞憂では済まされなくなってしまう。





【教育1・2・3】 教育の論理の確立を         
(2001.6.16) 


1.混迷からのスタート
 我が国の教育は、戦後の50年間を、何を基準にして教え、何を支柱にして導くのか…のよりどころがまったく示されないままに、日を重ねてきました。太平洋戦争の敗戦によって、明治以来の国家的精神基盤が全て否定され、GHQから示された民主化を至上の命題として、戦後教育は、教育理念を明確に掲げ得ないまま、まさに混迷からのスタートでありました。
 国民の皆が食べることを第一義とした戦後間もない時代、教育はそれでもまだ人間の生きるということに立脚する足場を失ってはいなかったと思います。吹きすさぶ社会主義活動や学生運動の時代にも、教育に対する信頼と教師・生徒・父兄の間の信頼関係は、まだ太い絆に結ばれていました。


2.教師の聖職者否定宣言
 やがて、高度成長期にさしかかって、日教組の組合活動が経済闘争からイデオロギー闘争へと方向転換する頃、衣食住の要請から一息ついた社会はようやく教育に対して大きな注目をもって見つめるようになり、教育は、自らの基盤を定め得ぬまま、洪水のように押し寄せる各方面の意見の中を、荒波にもまれる小船のごとく迷走を始めます。この時期に日教組は、『教師の聖職否定宣言』を出し、教師は、児童生徒に学問することの意義と楽しさを教え、その秘める心霊に点火し、よりよい進路への指針を示す存在であることを、自ら否定してしまいました。父兄や地域の人々の信頼や尊敬を集める矜持を保持することもなく、自分たちの日常を営む地域社会や遠くは日本と世界の未来を創っていくことに深く関わる職業であることを放棄したのです。このことは、教育に関わるものが社会の敬愛を集めることができないという、今日の教育が抱える病根の原因をなす、誠に残念な出来事であったと思います。



3.教育の論理とは
 しかし、教育が聖なる行為であることを否定した日教組に代って、文部省あるいは大学や教師自身からも、教育を確立するための理論の提示はありませんでした。
 ここで、『教育の論理』とは何かの定義を示さねばなりませんが、それは『日本国の学校教育の目的、その目的を達成するための方法、そのために保証された権利、そしてその結果に対して負うべき責任。さらに、日々の学校は何を教材として、どのように教えるかの概要。もうひとつ、教育研究・研修体制の整備を明確に示すこと』となるでしょう。


4.教育の論理のない現場では
 今、教育に対しては、その論理が確立していませんから、実に多方面から、ありとあらゆる意見が出されます。そして、教育はまた、その論理が確立していませんから、怒涛のようなその指摘に、明確に示す答えを持ちえません。世間や父兄の勝手な主張にさらされて、現場の教師は言葉もなく立ち往生し、おびえるばかりです。
 現実に報告された事例として、「他の生徒に暴力をふるう生徒を取り押さえようとして、教師がその生徒に傷を負わせた」という出来事がありました。学校〈校長)はその事件を外に知られないようにしようとし、教委は生徒の家庭にそれ以上大きな問題にしないよう折衝し、同僚は「あの先生は目ごろからやりすぎるから」と冷ややかであったと開きます。これでは、その教師は救われません。
 なぜ教育は、例えば「暴力をふるう子供に対して、教師は、その生徒に傷を負わせても取り押さえることは正しいことだ」と主張しないのでしょうか。取り押さえたはずみでその生徒に傷を負わせた教師を、学校は…教育委員会は…そして同僚たちは、「彼は正しい、立派だ」と擁護するのが当然でありましょう。そうでなければ、教育の現場で正義は行われません。教師は沈黙して、意欲の高揚は期待できず、教育の将来は暗黒です。

 また、評論家やマスコミは当事者でないという意味において論外としても、文部省も教育審議会も、「教育の論埋」を提示しようとはしません。概要や外枠はもっともらしくまとめ上げますが、いつの場合でも仏作って魂入れずで、提示した理念を具体化する方法は自ら示さず、学校現場に任せると言います。
 例えば、小学校低学年の生活科を新設したときも、その理念や目的は高く掲げられましたが、どのような教材でどのような授業を行うのかという実施方法は全く提示されず、今日、多くの学校現場での生活科は、極言になりますが思いつき授業のお遊び会です。授業の内容はそれぞれの地域の特色を生かした独創的なものを学校現場で工夫して活動的に行うことという概要は結構ですが、各現場の教師にそれだけの時間的な余裕(そして、敢えて言うならば、それほどの能力)があると思っているのが甘すぎる幻想です。さらに、低学年にはもう理科と社会科の教科はないので、理科・杜会科の学校全体での研究には取り組めなくなっていることに、教育行攻の担当者は気づいているでしょうか。日本の子供たちの科学離れが進み、科学が好きかという問いに対して『好き』と答えた子供の割合は、先進国中最低(立花 隆著「20世紀知の燥発」文芸春秋)となってしまっている現状をどうするつもりなのでしょうか。




5.教育基本法の改定も視野に入れて
 日本国憲法前文に謳われています理想と目的は、「国政の権威の由来するに足る国民であること、世界の恒久の平和を念願し、世界の人々との公正と信義を信じ合うこと」など、ひとしく教育の目指すものであると思います。もっとも、この理想と目的を実現していく方法には、各種異論のあるところであり、私も率直に申し上げて、戦後も50年余が経過した現在、日本国憲法の条項は、現実にそぐわないところが出てきていることは事実なので、改正することが必要であると思っています。
 
 教育基本法は、教育における自由と平等を保証した、戦後教育の方向付けとしての意義は深いと思います。633制などの制度や民主的な理念と教育のありかたを規定したこの法は、今日的な教育の根幹を定めたものとして、おおむね適切でありました。特に第10条でしたかの、教育の自由と行政の民主的あり方の規定は、戦後日本の教育を今日に導く上で大きな役割を果たしました。
 ただ、教育基本法は、教育の内的事項である、教育内容には何人も干渉させないように定めていると理解してよいと思うのですが、だからこそ、『教育の論理の確立を』と提案したかったのです。教育制度や設備などの外枠(建物といえばわかりやすいでしょうか)は、これら法律に定めていたり、文部省や教育審議会などからもたくさんの提示がなされますが、教育は何をよすがとして行なえばよいのか、何をどのように教えるのか、教育のよりどころは何なのか…など、中味についての理念と方法論が確立されねばならないと思うのです。

 教育にかかわる全ての英知を集めて行う、『教育の論理の確立』こそが、21世紀を開く教育への必要条件です。





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