【85】 黒部立山アルペンルート  その3             2005.07.17


  黒部16℃  立山(室堂)11.5℃   −雲上の別天地−  その1  


  室堂平 … … … 「松本ツーリストホテル」(松本市深志)

トロリーバス 室堂駅前
室堂駅前の人の波 
正面は雷鳥沢の大雪渓

 ターミナルを出ると、目の前には立山連峰の大パノラマが広がっている。今日の人出は大変なものだというが、その人並みもこの大自然の景色の中に分散して溶け込んでいて、気にならないほどの雄大さである。             【拡大】
 標高2450m、気温11.5℃。章くん、長袖シャツを着てきたのだが、下界から来ているので両袖を捲り上げている。むき出しの腕に当たる風は涼しく、歩いているうちに肌がひんやりとしてきたが、日差しがあるので寒いということはない。ほとんどの人が、半袖やノースリーブで歩いている。
 雲は峰々を覆っているがところどころ切れていて、そこから太陽が顔をのぞかせる。天気予報は、曇りのち晴れ…。期待していいのだろうか。
 ここ室堂平は、立山信仰登山の基地となった古い宿泊の施設「室堂」(重要文化財)の名前に由来する地名で、信者たちはこの室堂で休憩宿泊して、雄山の山頂に祀られている雄山神社に詣でた。室堂は日本最古の山小屋ともいわれ、最初の建物ができたのは、少なくとも14世紀末より以前と伝えられているから、鎌倉時代のことであって、その歴史は古い。
 立山の昔話には、「室堂小屋はものすごく強い作りで、1本の柱を見ても大人一人でかかえきれない太さ。中はムシロが敷かれていて、いくつかの囲炉裏(いろり)があり、間仕切りはなくて、泊まる人は雑魚寝(ざこね)する。客の多いときは横にもなれず、足をのばすこともできない。食事などは、宿から鍋釜を借りてみんなで作るが、高山のためメッコご飯でまずい」とある。気圧が薄いので圧力がたらずに、芯のあるご飯になってしまったということだろう。
 また別のガイドブックには、建物は2棟に分かれ、北室は1726(享保11)年、南室は1771(明和8)年に再建されたものを、1992〜94年の解体調査後に復元した。屋根は切妻造で、柱はタテヤマスギの太い角材を等間隔に並べた堅牢な構造。内部には解体調査で出土した陶器などの貴重な遺物を展示している…とある。江戸時代に、修復されているのである。


 一帯は国立公園内だから、どこを歩いてもよいという訳にはいかない。遊歩道(登山道というべきか)が設けられていて、出発点には案内板があり、ミクリガ池一周は45分、室堂周辺の周遊は1時間30分、雄山神社往復は3時間、剣御前小屋までは5時間30分…とか書いてある。
立山 室堂平から見た立山三山 【拡大】
(左から、富士ノ折立・大汝山・雄山)
 去年、南アルプスへ行ったときには、片道1時間30分と書いてあったコースを3時間で踏破した章くんだから、雄山神社往復コース以遠へ行ったりしたら、今日中には帰れない。今夜は、松本にホテルが予約してある。
 章くんは、大きなリュックを担いだ屈強な連中がとる右側の道は避け、家族連れのうしろを付いて真ん中の道をたどった。5分も歩けば、ミクリガ池のほとりへ出る。



雪の残る ミクリガ池
残雪のミクリガ池【拡大】
左の歩経路は人の列が続き、
カガミ谷からは雲が湧き上がっている
 ミクリガ池は、立山の火山活動で生まれた爆裂火口にできた池で、水深は15mと日本アルプスでもっとも深い。その名称は、元和3年(1617年)、越前法師の某が掟を破ってこの池で遊泳中、三回り目に湖底へと姿を消してしまったことに由来しているとか。【拡大】
 室堂から立山を眺めるなら、ミクリガ池湖畔がナンバーワンのビューポイント。「立山神の祭壇」といわれるだけに、立山連峰の眺望はもちろん、高山植物も乱れ咲く別天地で、近在には日本最高所の温泉「みくりが池温泉」がある。
 室堂一帯の雪解け水はこの池にいったん蓄えたられたあと、伏流水となって北西200mの地獄谷に面した斜面から湧水となって流れ出していく。眼下にあるこの残雪もやがて溶け出し、数十年後には称名川の流れを作って、落差350m、日本一の高さを誇る巨瀑「称名滝(しょうみょうのたき)」として下り落ち、成願寺川へ合流して、日本海へと注ぐ。

立山室堂平 ぐるっと360度。 左端が右端の風景と重なります。
丸山・鍬崎山(アルペンルート)奥大日岳(雷鳥沢)別山・富士折立・大汝山・雄山(ザラ峠)鷲岳

 ミクリガ池のほとりのベンチに腰掛けて、360度の周囲を見渡す。上の写真は、そのときにパチパチと撮った写真をつなぎ合わせてみたものだが、右手の高い山が鷲岳、その左手が立山雄山である。この2つの山の間、右側の遊歩道の先の峠が「ザラ峠」と呼ばれて、日本史好きの章くんのような輩には、大いなるロマンを馳せる峠なのだ。


 今、ケーブルカーとロープウェイを乗り継いで、ハイヒールで3000mへと登れるこの道を、1584(天正12)年12月、吹き荒れる吹雪をついて、北国の戦国武将が数人の家来とともに越えていった。武将の名前は、越中富山の城主「佐々成政(さっさなりまさ)」。三河浜松の徳川家康に会うために、極寒の立山を越えていったのである。
 佐々成政は織田信長麾下の勇将であり、信長より、北国の雄上杉勢に対する備えとして、越中富山城主に任じられた。本能寺の変のあと、柴田勝家を破って勢力を得た豊臣(羽柴)秀吉は、忠勇一筋の彼からしてみれば、天下を簒奪した横着者と見えたのであろう。織田家に天下を返すことこそ筋であると、信長の次男信雄を擁して徳川家康とともに秀吉に対峙して小牧長久手の戦いを行うのだが、秀吉と信雄・家康の和睦が成って、成政は苦境に立つことになる。
 なおも織田家再興を願う成政は、家康に会って直談判しようと、その居城の三河浜松城へ赴くことを考えるのだが、当時、越中富山から東海へ出る道は、西の加賀藩前田利家、東の越後藩上杉景勝たち秀吉方の大名の領地を通らなければならなかったし、南の飛騨の姉小路頼綱は家康方であったけれども、その先の美濃は秀吉の領地であった。それぞれの国を通過する旅人は厳しく詮議されるこの時代、武士であり、しかも富山城主であった成政が、敵方の領地を秘密裡に通過して遠路を旅するなど、戦国の常識としては考えられなかったのである。
この遊歩道の真っ直ぐ先がザラ峠
 成政は諦めなかった。春になったら、秀吉の大軍は富山城を攻めるであろう。時は今しかない。厳冬の雪深い立山連峰を越えて、家康の支配地であった信州に降り、伊那路から浜松を目指すことを決意したのである。富山から常願寺川沿いに立山へ入り、連峰をザラ峠で越えて黒部の谷に下り、針ノ木峠から信州に至る大走破をなし遂げて、浜松までを往復したという壮大な物語だ。
 「室堂」の紹介のところで、この立山へは鎌倉時代の頃から立山信仰の人々が入山していたことはすでに述べた。その他にも、キコリとかマタギ(猟師)といった人たちも、常時、山に踏み入っていたと思われるが、いずれも春から秋の入山であって、厳冬期の立山を越えたものはいない。今日でも、黒部立山アルペンルートの春季ツアーの目玉には「雪の大谷」といわれる箇所の見物があり、両側20mの雪の壁の間を登山バスが走っている。冬は、20mを越える雪が吹き積もる山なのだ。
 成政は、歴代の越中藩主と同じように、立山信仰連を手厚く保護したようである。立山に住む人々にも、施しは及んでいたことであろう。1584(天正12)年旧暦12月半ば、十数人の家来とともに立山に入った成政たちを、立山の富山側ふもとの村落「芦峅(あしくら)」の山男たちが案内した。ただ、彼らの先導を受けたとしても、この時期の成政たちの立山往復は奇跡と言うしかない。
 「12月25日、越中の佐々蔵助(内蔵助成政)殿、浜松へお越し候」と家康の家臣松平家忠の「家忠日記」は記す。「武功夜話」(前野家文書)にも同様の記述があるから、成政の浜松入りは紛れもない事実なのだが、登山の装備も技術も未発達の当時に、ホントに厳冬の道を成政たちは往復したのか。時期は…、道…も、本当は違うのではないかと、山岳の専門家たちの間からも疑問の声が上がっている。
 旧暦12月25日は新暦の1月下旬、立山の雪がもっとも深い時期である。吹き荒れるブリザードは休む間もなく、その中で人間は息つくことも出来ない。また、信州へ降りるには黒部川を越えねばならないわけで、黒部ダムで堰き止められていなかった当時の流れは、跨いで渡ることなどはできない奔流であった。厳冬期の渡河である、濡れたら死ぬ…、流れに足を入れることなどは考えられない。
 実は、近年になって、この時期のこのルートを踏破した何人かの人がいる。東京大学スキー山岳部OBの故海野英明氏は単独で正月に、後年には同山岳部の現役生数人が後立山連峰から針ノ木近くの赤沢岳を抜けて黒四に下っている。さらに『岳人』編集長の永田秀樹氏もそのルートを踏破したとある。ただ、近代装備を施し、水流を絶たれたダムサイトの直下で黒部川を渡って、はじめて厳冬期の立山越えは可能なのだ
雷鳥沢に残る雪渓 【拡大】

 では、成政たちは、どのようにして富山から浜松に至ったのか。現代の諸説を読むと、まず時期については、11月に小牧長久手の戦いの和議がなされたことから、翌年の春には秀吉の攻撃を受けると危機感を持った成政だから、「家忠日記」などの資料をもとに、この年の冬に出発したことはゆるがせないとする説が有力である。ただ、そのルートについては、@あげろ路(越後親不知のルート)、A針ノ木路(ザラ峠より南の峠を越えていくルート)、B安房峠越え(飛騨路、現在の国道158号線のルート)などが挙げられている。
 成政はいずれのルートを辿ったのか…、今としては歴史という時の彼方のロマンである。四百数十年前に成政たちは、現代の登山家たちが考えつかない方法で吹雪と厳寒の立山と黒部川を越えたのか…。いつかまた、動かせない証拠資料が発見されて真実が明かされるのかもしれないが、章くんにとってはホントのことはどうでもよい。今、成政たちが踏みしめて行ったであろう室堂平に立ってみて、自らの命と家の興亡を賭けて雪嵐の中を行った成政の決意が、この道に記されているようであわれであった。


 成政のその後についても、少し触れておかねばなるまい。決死の決意で訪れた浜松での家康の態度は冷たく、失意のうちに富山に戻った成政は、翌年、秀吉の軍に降伏して領地は越中国新川郡のみとされた。翌々(天正15)年、秀吉の九州征伐に出兵して、肥後一国(今の熊本県)を与えられるも、その翌年の肥後国一揆の責任を問われて切腹、その生涯を閉じた。
 佐々成政の生涯は、秀吉との相克の歴史であった。現在の成政像は、成政のあとに越中を治めた前田氏が、成政を慕う領民に対して悪材料を流したことや、その伝記は「太閤記」などの豊臣サイドから書かれたものが多いため、陰湿な暴虐残忍の暗主というイメージが多い。
 しかし、冬の立山越えに象徴されるように、彼は勇敢で強固な意志を持つ武将であった。それだからこそ、織田家の中で、要領や才覚で後からのし上がってきた秀吉とはソリが合わなかったのであろう。それこそが、彼の不幸であった。雪渓の上で遊ぶ人たち


 章くんの目の前では、遊歩道にまでせり出して来ている大きな雪渓の上で、家族連れの数人が歓声を上げて雪を投げ合っている。この雪の上を、もしかしたら成政たち一行は、決意を秘めて往き、失意を抱いて戻ったのかもしれない。


 ミクリガ池を一周してターミナルへ戻り、章くんは立山を後にした。まだ3時30分、少し早い下山であったが、帰途の混雑を考えると早い目に降りるのが得策であろう。

 大観峰でロープウェイに乗るのに約1時間待ち。下へ降りてきてから、駐車場のおじさんに、あと30分下山が遅れれば2時間以上は待たなければならなかっただろうという、ゾッとするような話を聞いた。


【拡大】


 【拡大】 帰り道の黒部ダム湖。
   正面に、薬師岳(2926m)、赤牛岳(2984m)、
  水晶岳(2986m)などが見え隠れしている。



 扇沢から大町までの大町アルペンラインは、くねくねと下る片側1斜線の山岳道路。前を何台かの観光バスが連なっているから、大名行列のように連なってゆっくりと下っていく。
 大町市内を過ぎたところで、ガソリンを入れることにした。昨日、津を出る前に満タンにしてきてから495Kmを走ってきている。そろそろ補充をと思ってガソリンスタンドを探したところ、まず見つけたスタンドの料金表示を見て仰天した。1リットル当たりレギュラー133円、ハイオクに至っては144円なのである。
 初め、133円はハイオクの価格かと思った。それでも、長野は高いなぁ…と思ったのだが、よく見てレギュラーガソリンの価格だと知り仰天。ハイオク144円に気づいて、そのスタンドを素通りしてしまった。
 もちろん、付近は統一価格のようだから、みんなその値段である。そうとは解っていても、なお数店を行き過ぎなければ覚悟が決まらなかったのだが、いずれにせよ入れなきゃならないガソリンなのだと覚悟を決めた。57リットル入って、8208円! 帰ってきてからガソリンの価格が値上がりしたが、それでも津市ではハイオク129円。値上がり、平気である。


 「松本ツーリストホテル」は、シングル1泊7300円。松本駅至近の気楽なホテルだ。ホテル横の駐車場が小さくて、徒歩5分ほどの市営立体駐車場を案内された。一泊駐車代850円が別料金というのは、ホテル代が安いから仕方がないか。
 夕食は松本駅前に繰り出して、「だんまや水産」という居酒屋に上がりこんだ。マグロ、カツオの刺身、くらげのポン酢、カレイの一夜干し、水菜と鳥のサラダ、マグロの漬け丼、そして寿司と飲み物で、3000円少々…。ガソリンは高いけれど、食い物は安い!

ホテルのテレビで、全英オープンをやっていました。
 ホテルのテレビをつけたら、「全英オープン」をやっていて、ついつい最後まで見てしまった。セントアンドリューズ(オールド)を舞台に、タイガー・ウッズの優勝。熟睡に入れる結果であった。







7月18日(月・海の日)



  松本 … (国道158号) … 高山グリーンホテル(昼食) … 高山西IC〜
  (東海北陸)〜(東名)〜 一ノ宮JC 〜(名古屋高速)〜(東名阪)〜 津IC


 目覚めたのが8時30分。ずいぶんゆっくりの、旅の朝である。今日はもう帰るだけ、朝食は頼んでなかったのだけれど、「いい?」と聞いたら「どうぞ」という返事で、ホテルのモーニングで済ませた。
 松本市外を抜けて、158号線を西へたどる。何度も走り抜けた、上高地→安房峠→乗鞍→平湯峠→高山のルートである。
 松本を市外へ出たところに、国土交通省の職員がヘルメットをかぶって立っていて、「158号線、上高地方面通行止め」と書いたパンフレットを配っている。沢渡の手前が土砂崩れで、車が通れないらしい。「高山へ抜けられないの?」と聞くと、「上高地・乗鞍スーパー林道へ迂回してもらってOKです」という返事。
 以前は、乗鞍は乗鞍スカイラインをマイカーで上って2600m地点の畳平駐車場まで行き、あとは連峰中最高峰の剣ヶ峰頂上(3026m)へも約1時間で登ることができた。3年ほど前からマイカー乗り入れが禁止されて、ふもとの駐車場へ車を置いて専用バスに乗り換えなければならなくなった。上高地・乗鞍スカイラインから望む乗鞍岳
 迂回路は乗鞍スカイライン(?)と聞いて、章くん、『乗鞍へ登れるのか、ラッキー』と喜んだのだが、実は上高地・乗鞍スーパー林道への迂回…。途中で白骨温泉へ回る、車対向不可能のくねくね道を走り、沢渡で158号線へ戻る。


← 上高地・乗鞍スーパー林道から
 乗鞍岳をパチリ




 上高地も乗鞍も、今日はパスして、安房トンネルを抜けた。そのまま西へ走って、12時過ぎに高山へ入る。ここの市内もたいへんな人出だ。車で走りながらチラッと見た上三之町は、観光客でごった返している。
 お昼ご飯を食べねばならない。市内はどこも混雑していそう…。しばし考えて、「高山グリーンホテル」へ向かう。駐車場整理の女の子に、「お勧めは?」とたずねると、「…と…と、ランチバイキングがご好評です」と言う。
 品数も品質も、申し分のないバイキングであった。「愛・地球博開催記念 世界の料理ランチバイキング」と謳ったこのランチ、料金は1575円。
 食後にのぞいてみた本館横の物産館は、飛騨の特産物を展示即売するコーナーで、館内の造りは古い飛騨の民家を再現したレトロな雰囲気である。2階の匠の名品を並べたコーナーが興味深かった。


 高山西ICから東海北陸自動車道に乗った。東名合流。本線は渋滞している。車は多いけれど、流れは順調だ。1時間少々で東名に合流。ここで大渋滞にぶつかるのだが、章くんは一宮ICから名古屋高速〜東名阪へと走るので、東海北陸自動車道が東名と合流する一宮JCTから一宮ICまでは数百m、しかもここだけ左に1車線増幅されていて、本選は動かないけれど、左斜線はスイスイと走れたのである。
 津ICを降りたのが、午後5時30分。ちょっと早すぎる到着なのだが、実は今夜7時から打ち合わせがある。


        完



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