【83】 黒部・立山アルペンルート  その1      2005.07.16〜18


  黒部16℃  立山(室堂)11.5℃  −雲上の別天地−   その1  


 16〜18日の3連休、黒部〜立山を歩いてきました。東海・関東地方の梅雨明けが告げられたこの日、名古屋の気温は34度。万博に21万人の人々が繰り出したとか。
 黒部ダム(1470m)の気温は16℃、立山室堂(2450m)は11.5℃。雲上の涼気をお伝えできれば幸いです。 


7月16日(土) くもり一時雨   松本城 〜 安曇野
 
中央自動車道 瑞浪IC付近にて
  津IC〜(伊勢自動車道)〜(東名阪)〜楠IC − 
 国道19号 − 春日井IC〜(東名)〜(中央道)〜
 (長野道)〜 松本IC … 松本城 …
 「リゾートイン グリーンベル」
 (
長野県南安曇郡穂高町大字有明3613-14


 7月16日(土)、朝9時、津ICから伊勢自動車道を北上。計画では長野まで高速道路を走るはずだったのだが、3連休の初日だからか、「名古屋高速小牧線13Km渋滞」の表示を見て、楠ICで19号線へ降り、春日井ICから東名へ昇った。小牧JCから中央道へ乗り、一路、長野を目指す。
 伊那IC付近で、前も見えない驟雨に遇った昼食をごった返す恵那峡SAで取り、伊那IC付近で木曽駒ケ岳から降りてきた雨雲に覆われて前が見えないほどの驟雨に遇いつつ、さらに北へ走って、長野道へ入ったのが午後2時30分頃であった。
 今夜の宿は、常念岳・大天井岳などの山すそに広がる安曇野の一角、穂高町有明「リゾートイン グリーンベル」。先日、インターネットで空室を見つけた宿だ。唐松林の中にひっそりとたたずむ風情と、シングル朝食付き9500円の値段が気に入ったのだ。午後9時ごろ到着…と申し込んであるので、これから向かったのではちょっと早すぎる。松本市内で時間をつぶすことにして、松本ICで降りた。松本城
 一昨年に松本を訪れたときには、開智学校、松本第一高等学校や山葵農場などを訪ねたのだが、一緒に行ったみんなは松本城に入ったと言い、行ったことがなかったのは僕ひとりだったので、登城させてもらえなかった。だから、とりあえずは松本城を訪ねねばならない。 

 市営駐車場へ車を入れて、徒歩3分。「国宝 松本城」と彫られた大きな石碑の脇を抜けて、大手門をくぐり城内へ…。
 松本は、平安時代信濃国府の置かれていたところ。中世には信濃国守護小笠原氏の本拠地。天正18(1598)年、石川数正が入って8万国を領した。現在の松本城は、この数正親子が築城し、現存する天守閣のうち、大天守(6階),渡櫓(わたりやぐら)(2階)、乾の小天守(3階)は文中庭より禄3(1594)年に築かれた。

 ゆるい勾配の石垣の上に建ち,外壁は黒漆塗の下見板と白漆喰壁で,窓はなく,連子(れんじ)格子に突上げの板戸という造りも古風である。漆(うるし)塗りの壁と黒い瓦を乗せた姿から「烏城」とも呼ばれているが、築城当時の姿を今に留めていて、国宝に指定されている。
 城主は、数正以後、小笠原氏・戸田氏・松平氏・堀田氏・水野氏と変わり,寛永期に戸田氏が志摩国鳥羽から6万石で在封、9代続いて明治維新を迎えた。
 明治になって城は売却され解体の危機に瀕したが、幸い天守は街の識者の尽力により破壊をまぬがれた。その後、荒廃の時期を乗り越えて、明治の大修理・昭和の解体修理(昭和30年完了)を経て、現在の姿があるという。


 大手口から城内へ入る。おびただしい柱の数…、天守1階は柱だらけだ。2階は武者窓が3方にあって、光が採り入れられて明るい。逆に3階は小さな窓が1箇所…。この天主閣は外から見ると5重なのだが内部は6重になっていて、この3階が外から見えない隠し部屋。戦さの時には、武士たちが潜むところだったのだろう。階段
 4階は「御座所」と書かれた札が置いてあったから、戦時にお殿様がおわす所だったのだろう。心なしか、丁寧な造りである。5階は天井が高い。戦さのときに重臣たちが作戦会議を開いたところ。そして6階は望楼。周りを一望できる階であるということと、この城を守護する「二十六夜神」という神様が祭られている。
 この城見学のポイントは、急な階段の昇降である。5階から6階に至る階段だけは途中に踊り場もある造りだが、そのほか階段2は全て急な勾配の人ひとりがやっと通れる狭い階段だ。戦時に敵を防ぐ工夫であることは言うまでもない。
 日ごろ鍛えていない章くんは、喘ぎながら手すりを掴んでよじ登った。最上階へ着いたときには、膝が震え、高股(たかもも)が張っている。このあとの2〜3日、筋肉痛が残った。
 女の人は、スカートではまずい。あきらめて、下で待っていたという人がいた。登らなかった理由が、スカートだからだったのか、体力的なものだったのか、微妙なご年齢ではあった。


 帰路は2階から辰巳櫓を経て、月見櫓()へ渡る。文字通り月見をするための櫓で、太平の世となった寛永年間に建てられた。三方の戸を外すと吹き辰巳附櫓と月見櫓(赤い回廊が付いている)抜けとなる、解放的な造りである。
 天守閣前の平地は、今は芝生が張られて公園になっている。かつては本丸、二の丸御殿が並び、政庁と藩主の居所となっていたが、1727(享保12)年、本丸御殿が炎上。以後再建されず、政務は二の丸御殿を使用して行われた。明治に入って松本城が民間に売却されたとき、老朽化した建物は取り壊され、現在、本丸御殿跡は芝生が張られ立ち入り禁止、二の丸御殿跡は史跡公園として復元され解放されている。
西側壁面と石垣 江戸時代が中期に入ろうという貞亨年間(1684〜)から、昭和25年の昭和の修理まで、およそ260年にわたってこの天守は大きく傾いたままであったという。貞亨騒動(嘉助一揆)の首謀者である多田嘉助が磔刑に処せられたいまわのきわに、天守を睨んで絶叫した怨念によって傾いたという伝説があるが、修理時の調査で傾斜の原因は心柱の腐朽によるものと判明したとか。
 

 松本城の界隈を歩いてみた。大手門から南へ真っ直ぐ伸びる大名通りを行くと、女鳥羽川にかかる千歳橋に出る。左へ折れて、川沿いに開けた商店街を歩く。歩行者専用に造られた新しい町並みなのだろう、ハイカラな歩道の両側に店々が並ぶ。その中の一軒、ベーカリーハウスに入って、ケーキとアイスティで疲れを癒す。前を流れる女鳥羽川でイベントが行われているのか、テントが張られ、何人かの家族連れが訪れていて、子どもたちは川幅5mほどの流れを浮き袋に乗って歓声を上げながら下っていく。


 夕刻5時30分、松本城に別れを告げて、今夜の宿泊先「リゾートイン グリーンベル」へ向かった。
 国道19号線を西へ越えて、147号線を北北安曇野アート・ロード西へ…。この道は松本から新潟県糸魚川市を結ぶJR大糸線と交互に渡り合い、その一帯は北アルプスのふもとの田園地帯である。左手には西日から伸びた陰が色濃い大森林が広がり、右手にはアルプスの水の恵みを受けた水田が、大きく伸びた稲葉を風に揺らしている。
 穂高駅の傍らを西へ曲がりアルプスの裾野へ入ると、ブナの林の中にホテルやペンションが点在し、林の間を縫って走る道路の名まえは安曇野アート・ロード。宿の数よりも多いのではないかというほどの美術館が並んでいる。穂高町内を走るわずか5Kmほどの道沿いに、ジャンセン美術館・安曇野絵本館・ちひろ美術館(http://www.chihiro.jp/top.html)・有明美術館・碌山美術館・橋節郎記念美術館・山岳美術館・大熊美術館・ホソノ色彩美術館・田淵行男記念館・豊科近代美術館…などなど、見応えのある展示品を並べている美術館がこれほどある。

 アート・ロードからさらに一筋左へ折れた、安曇野山岳美術館の手前、林の奥にひっそりと、今夜のお宿「リゾートイン・グリーンベル」はたたずんでいた。生垣のバラの花が出迎えてくリゾートイン グリーンベルれる。
 実は、予約の段階では「午後9時の到着」と申し込んでおいた。夕食を頼むと時間に縛られてしまう。どうせ予定の立たない旅なのだから、食事はどこででも取って、宿は寝るだけといった調子である。だから6時過ぎに着いてしまったのは、早すぎる到着なのだ。
 部屋は2階の角部屋、ツインルームのシングルユース…。部屋に荷物を置き、「食事に出るから」と断って、また穂高町の市街に引き返した。一刻一刻と暮色に染まっていく安曇野の風景は、詩情たっぷり…。月の光がこぼれる夜には、妖精たちが道を横切るとか。
 夕食は「ふくらい家 笑福」、宿へ向かう道筋で見つけておいた和食どころである。店のお勧めはまず「岩魚のお刺身」。店のパンフレットには『安曇野の清流で育った岩魚は、とても歯ざわりが良くておいしく、活き造りなのでお皿の上で跳ねております』とある。骨は「骨せんべい」にして出してくれる。もうひとつの名物は、信州といえば「馬刺し」、馬肉にはコルニチンが含まれており、体内からコレステロールを排出する効果があるとか。そのほかに、煮いかのわさび添え、山菜のてんぶら、信州そば小鉢と食べて満腹…。
 道端で手を振る妖精たちに挨拶して宿へ戻り、地下1階の温泉に浸る。男湯には人の気配もなく、誰かが先に入った形跡もない。隣の女湯は、何人かのグループが来ているのか、結構にぎやかだ。
 その人たちとも顔を合わすこともなく部屋に戻り、ベッドに横たわった。もう、人声が聞こえることもなく、静かな山里の夜である。旅の疲れもあってか、いつの間か深い眠りへ…。誰だ、窓を叩くのは〜?



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