【93】 間人(たいざ)の蟹                    2006.02.01〜02


 「京都の丹波に、美味い蟹を食べさせるところがあるらしい」と言うと、「行こ、行こ」とすぐに話がまとまった。
 目的地は、京都府京丹後市丹波町間人(たいざ)漁港。間人では、その日に獲れた蟹を「間人ガニ」と称して、客の食膳に供するのだという。鮮度は抜群で、そのために他所では味わえない蟹の風味が口に広がるという。
「間人」と書いて「たいざ」と読むのはなぜか。宿のパンフを読んで初めて解った。「間人」=「たいざ」=「退座」なのだ。
 『6世紀末、大和斑鳩(いかるが)で蘇我氏と物部氏の間に争いが生じ、用命天皇のお后(きさき)で聖徳太子の生母の穴穂部間人(あなほべのはしうど)皇后は、乱を逃れるため、ここ「大浜の里」に逃れてこられた。当時、間人は大浜の里と呼ばれていた。
 やがて争いも治まって、皇后は大和の斑鳩に帰られることになった。大浜の里を離れるみぎわ、皇后はこの浜を自分の名を取って「間人(はしうど)村」と名づけられた。
 ところが、大浜の里の人々は、皇后の御名を口にするのは恐れ多いとして、退座されたことにちなみ、「たいざ」と呼ぶようになったとのことである。』


 午前10時30出発。雪道に備えてスタッドレスタイヤに履き替え、伊勢自動車道〜西名阪。奈良香芝SAでお昼…。夕方には蟹のフルコースが待っているから、ここは軽く肉うどん。松原JCTから近畿道。中国吹田ICから中国道へ乗り、吉川JCTで舞鶴若狭自動車道へ。このあたりは、道の両側にたくさんの名門ゴルフ場が点在しているところだ。舞鶴道へ入ってほどなく、西紀SAでコーヒータイム。今日は良い天気でポカポカ陽気だけれど、あたりには先日降った雪が説け残っていて、雪国の風情だ。
 綾部JCで宮津方面へ向い、宮津天橋立ICを降りたのが、午後3時30分。ここから178号線を北上、雪道は大きな道を行かないと危ないからと、このあと312号線を回って482号線に乗り、間人港へ向かう予定であった。
 ところが、昨日・今日と暖かい晴天に恵まれて、丹後市の気温も9℃。日陰には溶け残りの雪が残っていたけれども、日の当たるところは雪の気配など何もない。ましてや道路は全く問題なし。
 そこで178号から県道を通って482号へショートカット。山間の道の両側には雪が積み上げられていたけれど、ここも道路は全く問題なし。午後5時前、間人に着いた。
 港を一回りして、5時30分ごろ宿に入る。まずはひとっ風呂…温泉らしい。「泉質…ナトリウム・カルシウム・硫酸塩温泉、泉温…40〜41度」と書かれている。風呂場は2階にあって、暮れていく間人の町並みの向こうに日本海が広がっていた。
 風呂を上がってから、調理場を見学に行った。「今日あがった蟹がたくさん入っていまして、今、蒸し上げています。ご覧になりますか」と言ってもらって、出かけたのである。
 湯気の立ち上る部屋には、蟹、蟹、蟹…がひしめいている。調理する人、蒸し上げる人、選別していく人など、手際よく作業がこなされていく。
 足ばかりが詰められた箱が、5〜6こ積み上げられている。「足が1本でも途中で欠けたり折れたりすると、商品価値がぐっと下がって、値段も安くなるんですよ。それらを詰めた箱です」とのことだが、蟹の味に変わりはない。通常ならばこれで十分…、狙い目である。
 まだ動いている蟹もいて、足に札をつけている。この蟹を捕った漁師の名前が書いてあるとのことだ。



 部屋へ戻ると程なく仲居さんが、「お食事の準備を始めてよろしいでしょうか」と声を掛けに来てくれた。「あっ、お願いします」と、いよいよ蟹尽くし料理の始まりである。
 まずは、『蟹刺し』。間人の蟹は今日捕れた蟹を食卓に出すという新鮮さが売り物だが、たとえ活き蟹でも良いものと悪いものの差は歴然とあって、その状態を見るには蟹刺しを食べてみ米粒がぶら下がっているような蟹刺しるのが一番である。
 丹後沖の海でつい先刻まで活きていた蟹は、蟹の身が殻に絡みつく、新鮮な粘りを持っている。関節の部分を持って剥き身をぶら下げ、先端に山葵醤油をチョンとつけて、下からぶら下がった身にかぶりつく。身肉が米粒のようにプチプチしていて、ほんのりとした甘みがあった。ツアーを企画している旅行社の話だと、「間人の蟹は大きくて、この蟹を食べるとよその蟹は食べられない」と言っていたが、確かに絡みつくような食感とほのかな甘味は逸品であ鮮度の象徴 生蟹味噌る。
 活き蟹の鮮度のよさを測るもう一品(ひとしな)は『生蟹味噌』。新鮮な蟹味噌は、つややかで黄色がかった色をしている。一匙すくって口に入れると、やはり舌先にほのかな甘さが漂い、続いて蟹味噌独特の風味が口いっぱいに広がり、鼻に抜けていく。まだ味噌の残っている甲羅は、焼き蟹のコンロに乗せておいた。
 それにしても、次々と運ばれてくる料理の、このボリュームはどうだ。
あつあつ蟹チリ
 章くんは魚好き。刺身の盛り合わせも頼んで、食べきれるのだろうか。「『セコ蟹』もつけてね」と頼んだのだが、「1月10日で漁が終わったのですよ」とのこと。絶品の外子・内子を楽しみにしていたのだが、見果てぬ夢に終わった。
 茹で蟹・焼き蟹・蟹しゃぶ・蟹ちり…食べ始めてから3時間、もうお腹はいっぱいだ。
 「雑炊にしてください」と仲居さんに頼むと、「その前に、これを一口…」と作ってくれたのが『蟹味噌ご飯』。味噌を平らげたあと、焼き蟹のコンロで焼いて甲羅焼きを楽しんだ甲羅をもう一度取り出し、少し味噌を足して焼き上げていく。蟹足の肉とご飯を加えてこんがり焼くと、よい香りがあたり一面に漂い、蟹味噌ご飯の出来上がりである。焼き上げた味噌の香ばしさがたまらない。ネギをまぶしていただく。
 雑炊を軽くひとすすり。メロンとアイスクリームのデザートを詰め込むと、もう動けない。実に4時間近く、ただひたすら食べまくっていたわけである。
間人漁港
天橋立

 飲み物と若干の追加も入れて、料理の料金は6万5千円。たかがカニを食べるのに、宿泊して7万を越える料金は安くはないが、一度は行かねばならない間人の蟹である。


 翌日は、前日の晴天が嘘のような雪模様。冬の日本海、こうでなんっちゃ。やっとスタッドレスタイヤの威力が発揮されたというものだ。

 帰途、天橋立をちょっと見て、舞鶴若狭自動車道から中国道〜近畿道〜名阪自動車道と乗り継いできた。
 

 間人の蟹…、また行きたいかって? 「高っかいなぁ」という驚きを忘れたころに、きっとまた行くことだろう。




【88】 京都の秋 2005 その1                2005.11.30−12.01


    嵯峨野竹林〜野宮神社〜常寂光寺〜落柿舎〜ニ尊院〜祇王寺〜化野念仏寺


 溜まっていた仕事が昨夜片づいたので、「今日しかない」と思い立ち、京都の秋を訪ねてみようと、急遽出発することにした。今回の目的は「化野念仏寺」。8000余体の無縁仏が眠るという、洛西の霊地である。


 午前5時05分、出発。栗東ICから名神に乗ったころに東の空が白み始め、京都東ICで降りるころには夜が明けた。京都の秋 2005 早朝の嵐山
 五条通を西へ走って京都市内を突き切り、西大路で右折し、四条大宮を左へ折れてさらに西進、桂川堤防へ出た。早朝なので渋滞などは全くなし。春の桜のときには、まだここから1時間かかったなと思いながら、7時15分に、嵐山渡月橋へ着いた。


         朝もやにかすむ 嵐山 愛宕山 →
京都の秋 2005 朝日の渡月橋  



 ← 朝日に照り映える渡月橋



 駐車場も店屋も、まだ開いていない。各地から来ている車が、市営駐車場の入り口近くに列を作って、会場を待っている。僕の前の車は京都の秋 2005 モーター・ハングライダー、沼津ナンバーだ。


 駐車場が開く8時までの時間を潰そうと、川原へ降りたり、渡月橋を渡ったりして、辺りをブラブラしていると、バリバリという爆音を立てて、モーターハングライダーが、桂川の川面を川下から飛んできた。橋の上から眺めていると、橋では急上昇してうまく飛び越え、上流へと飛び去っていった。
京都の秋 2005 渡月橋から小倉山を望む




 7時30分、駐車場のおじさんがやって来た。入り口の鎖は閉めたままにして、出口を開けて入っていった。
 待っている車列の10台目ぐらいにいた僕は、開け放たれた出口の真ん前…、おじさんに付いて、駐車場へ入っていった。
「あれ、まだ…」というおじさんに、「前の道へ車を止めていると危ないから」とかいって奥の区画へ車を止めると、そこには既に1台のワゴン車が…。中で70歳ほどのご夫婦が、おにぎりをほおばっている。どこから入ったのだろう。
 7時40分、おじさん、少し早くに入り口の鎖を開けて、道に並んでいた車を誘導…。待ちかねていたみんなは、「おじさん、やさしいね」とか言って、次々に入ってきた。京都の秋 2005 嵯峨野の竹林


 渡月橋のたもとの茶店で、自転車を貸りた。免許証を出して800円を払うと、1日貸してくれる。10年ぶりに乗る自転車は、前のバスケットに荷物を入れているからか、ちょっと不安定だ。
 「人の少ないこの早朝に、ぜひ竹林を訪ねてみてください」という自転車屋のおじさんの勧めに従って、天竜寺の横を左へ入って、竹林の中の道を走る。
 

 風に鳴る竹笹の道を抜けると、錦の衣を纏ったかわいい小社に出た。伊勢神宮の斉宮の皇女が伊勢に行く前に潔斎をしたという「野宮(ののみや)神社」、もちろん祭神は天照大京都の秋 2005 野宮神社神におわしはべる。黒木鳥居と小柴垣に囲まれた宮のいでたちは、源氏物語「賢木の巻」に美しく描写されている。


 ← 竹林の中にひっそりとたたずむ野宮神社
      嵯峨野めぐりは ここから始まる





 
京都の秋 2005 常寂光寺 山門横の参道
常寂光寺山門横の参道

 山陰本線の踏切を越えてダラダラとした登り道の両側には、赤や黄色の彩り多い木々を植え込んだ邸宅が続く。
 その突き当たりの一角に、秀吉建立の方広寺大仏殿供養に宗門が違うことを理由に出仕せず、この地に隠棲した、本圀寺(ほんこくじ)住職の日禎(にっしん)上人が開いた「常寂光寺」がある。
 常寂光とは、仏教上の天台四土の一つ、生滅変化を超えた永遠の浄土を言い、日禎はこの小倉山の山すその地にその浄土を見たのである。            
京都の秋 2005 常寂光寺仁王門
 
 茅葺きの山門をくぐると、そこは色鮮やかな錦繍の世界だ。僕たちは、開門を山門前で待っていた朝一の訪問客だから、まだ喧騒前にこの庭を歩くことができたが、もう1時間もしたら、「常寂」ではなく、ただただ「光寺」となることだろう。


← 常寂光寺仁王門


 歌聖、藤原定家が百人一首を選定したのは、この小倉山。定家の山荘「時雨亭」は、この寺の境内に位置していると伝えられる。
京都の秋 2005 常寂光寺の庭1 京都の秋 2005 常寂光寺の庭2 京都の秋 2005 常寂光寺の庭3
  常寂光寺の庭園

 パンフレットには、「開山日禎上人は、本圀寺にて修行、十八才で同寺の法灯を継ぐ。宗学と歌道への造詣深く、三好吉房(秀吉の姉婿)、瑞竜院日秀(秀吉の実姉)、小早川秀秋、加藤清正や、京都町衆の帰依者が多かった。
 当時、歌人としても著名であった上人に、歌枕の名勝小倉山に隠栖処を提供したのは、角倉栄可(了以の従兄にして舅)と了以(りょうい)であった。
 その後、慶長11年(1606)、了以が大堰川(おおいが京都の秋 2005 常寂光寺から京都盆地を望むわ)改修工事を行ったとき、上人は備前の本圀寺末檀家であった瀬戸内水軍の旗頭、来住(きす)一族に書状を送り、熟達した舟夫の一団を招き、了以の事業を支援した。云々」とある。
 上人は元和3年(1617)この地に遷化、時に57才であった。


 本堂の奥に建つ、多宝塔(重文)に登ると、紅葉の波の重なりの向こうに、京都盆地が見晴らせた。


    遠くに、ポコンと高く比叡山が見える→

 
京都の秋 2005 落柿舎
落柿舎
 郊外らしい畑が広がる中を自転車を漕いでいくと、すぐに江戸時代の俳人向井去来の草庵「落柿舎」がある。侘び寂びの世界に遊ぶ洒脱な俳諧人の住処らしく、門口を入るとすぐに裏に抜けるような、藁葺きの閑居であったが、いかにも住み心地の良さそうな幽棲である。
 去来は蕉門十哲のうちでも、芭蕉が最も信頼した弟子であった。元禄4年(1691)には芭蕉がこの草庵に滞在し、『嵯峨日記』を記しているが、一時(いっとき)朽ち廃れ、今の庵は京都の俳人井上重厚が再建したものだとある。
 落柿舎の名は、庭にある40本の柿の木の実が、一夜のうちにほとんど落ちたことがあり、以来、去来は自ら「落柿舎の去来」と書くようになったということだ。
 家舎の前にしつらえられた木製の長椅子に掛けて、僕は20分ほど居心地のよい時間を過ごした。見上げると、すでに葉を落とした柿の木に、7〜8個の熟した実がぶら下がっている。一句ひねろうと思案したが句才に乏しく、この素晴らしい秋景色を愛でる五七五が出てこない。

京都の秋 2005 ニ尊院 紅葉の馬場
『モミジの馬場』と異名をとる参道

 小さな可愛いお土産物屋さんが並ぶ道を走って5分ほど行くと、「ニ尊院」に出る。本尊に釈迦如来と阿弥陀如来のニ尊を祀っているためにこう呼ばれている。角倉了以が伏見城の「薬医門」を移築した総門をくぐると、唐門までの間の参道は『モミジの馬場』と異名をとる紅葉の見所だ。
 本堂に上がり、ニ尊に参拝。左手の茶席「御園亭」前の庭の色づきに、目を見張った。赤、朱、ももいろ、オレンジ、黄色…、さまざまな色合いの紅葉が生垣の緑と見事なコントラストをなして、縁側に座って眺めていて、いつまでたっても見飽きることがない。
京都の秋 2005 ニ尊院奥庭


 ← ニ尊院 奥 茶亭前の庭

 

 この寺にも、藤原定家の山荘「時雨亭」があると記されている。再度、常寂光寺のパンフレットを広げて読んでみると、『嵯峨に時雨亭三ヶ所あり。常寂光寺、ニ尊院、厭離庵これなり。いずれも定家山荘跡とうたい、後世の好事家になって造営されしもの、乃至その跡なり』とある。さらに『昭和十年代に国文学者の考証ほぼ出揃い、常寂光寺仁王門北、即ちニ尊院南にして…、穏当なる推測…』とある。

京都の秋 2005 祇王寺の庵








 「祇王寺」のしおりに『嵯峨野の史跡を探るのは、晩秋初冬のころ、また晩春のころがよいとされる』と記されていた。ならば、今こそは絶好のシーズンではないか。
 壇林皇后と呼ばれた橘嘉智子(嵯峨天皇后)ゆかり    陽光に映える祇王寺の中庭↑
の大寺「壇林寺」の奥に、ひっそりとたたずむ祇王
寺は、『平家物語』に名高い白拍子「祇王」ゆかりの寺である。
 平清盛の寵愛を受けていた祇王は、仏御前の出現によって捨てられ、母と妹とともに嵯峨野に庵を結んで、尼となる。後には、清盛の寵を失った仏御前も祇王を追ってこの寺に入り、4人の女性はここで念仏三昧の余生を過ごしたという。時に、祇王18歳、仏御前20歳であった

 京都の秋 2005 祇王寺2世の中の栄枯盛衰に身を任せ、運命を恨みもせずに、その赴くままに生きた祇王のこころを思い遣るほどに憐れである。しかし、その時代に生きた女性として祇王は、自分を通り過ぎていった清盛や、自分の身を木の葉のように浮きつ沈みつもてあそんだ時代の波を、懐かしみこそすれ、恨みに思う気持ちはなかったのかもしれない。


← 祇王寺の庵




 「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり … 奢れるものは久しからず ただ春の京都の秋 2005 祇王寺の庭3夜の夢の如し」。
 平家一門が滅び、鎌倉の世となっても、祇王はこの小倉山の庵で、一代の夢に心を残して死んだ清盛の供養を仏に祈った。「沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす」…、清盛の心変わりや自分を捨てた冷たい仕打ちを、恨むのは詮無いことを、彼女は知っていたのだろうか。
 この寺の庵の左手の小高い一角に、小さな4つの墓がある。春は花、夏は緑、秋は錦、冬は白雪に包まれて、彼女たちは静かな眠りについている。


 先ほどから曇っていた空が晴れて、太陽が顔を出した。光に照り映えるモミジ葉が、一段と鮮やかである。


 京都の秋 2005 竹林の奥の紅葉が鮮やかコントラストを描く


 途中の竹やぶを覗いたりしながら、北への道を走った。京都は、北へ向かうことを上るという。必ずしも坂道になっていて登りが続くという意味ではないが、総じて北へ行くほど土地が高いのも事実である。
 自転車を漕ぐ足に、疲れが溜まってきた。うしろから来た70歳ぐらいのおばさんに、スイッと抜かれてしまった。「あれっ、抜かれたぁ」と叫んだら、振り返り「私らは、毎日乗ってますンよ」と笑って行ってしまった。僕も、毎日、足腰の鍛錬をしないといけないなぁ。


 喘ぎつつ漕ぐこと5分、左手に石段が見えてきた。これを登れば、今日の目的地「化野(あだしの)念仏寺」だ。

京都の秋 2005  化野念仏寺1 なぜ、今回この寺を訪ねてみようと思ったのかというと、まず化野(あだしの)という土地の名前が妖しげで魅力的であった。そして、ここ化野の一帯は、昔、死者の遺骸を棄てる、風葬の場所だったとか。遺棄された死者の遺骸は野ざらしにされ、その霊魂がさまよう荒野だったのである。


← 山門を入ると、塀の横に並ぶ石仏たちが
  出迎えてくれる。


京都の秋2005  念仏寺の鐘楼
 石仏で知られる念仏寺は、弘法大師が、弘仁2年(811)、化野の風葬の惨めさめを知って五智山如来寺を開創し、野にさらされていた遺骸を埋葬して、里人に土葬という埋葬を教えたことに始まる。その後、法然上人がこの地に念仏道場を開いたことから、化野念仏寺と呼ばれることになった。
 徒然草第七段の書き出しは、『あだし野の露消ゆるときなく、鳥部山の煙立ち去らでのみ、住み果つるならひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそ、いみじけれ(化野の露が消える時がないように、この世にいつまでも住み通すことが出来るなら、趣などない。人の寿命は定まっていないからこそ、妙味があるのだ)』とある。
 この世は無常であるからこそ素晴らしいという、兼好法師の無常観の現れであるが、寄る辺なき世の遺骸をさらすあだし野の露…、やはりこの地は密教の妖しさを秘めて魅力的だ。

京都の秋 2005  化野念仏寺 西院の河原 石塔のまわりに多くの石仏が並ぶ

← 石塔の周りに多くの石仏が並べられている。
 たくさんの石が敷き詰められていることから、
 賽の河原になぞらえて「西院の河原」と呼ばれ
 ている。

京都の秋2005









 燃えるような紅葉の境内に並ぶ、8000体を越える石仏は、往古あだし野の山野に葬られた人々の墓である。何百年という歳月をの流れの中で無縁仏となり、一帯に散乱埋没していた石仏を、明治中期から地元の人々の協力によりこの寺に集め、十三重の石塔の周りに並べて安置した。ひときわ高い石塔の周りに、無数の石仏が並ぶ様は、釈迦の説法に集う人々の姿を思わせる。
 毎年、8月23・24日の地蔵盆には、無数の石仏石塔にろうそくを灯す千灯供養が行われる。無明の闇の中に、寄る辺なき石仏たちが幾万の炎に揺れる光景は、この世を離れて幻想的である。


 本堂横の水子地蔵に手を合わせて、その奥の竹林の小径を歩く。「竹の秋」とは、俳句の春の季語だというが、ならば京都の秋2005  念仏寺本堂奥の竹林今は竹の春か…。
 それにしても、この化野を歩いていたときも、そして、この旅行記を書いている今も、背筋がゾクッとするのは、霊魂といったものに対する怖れであろうか。目に見えないものへの恐れが人間を謙虚にするのだろうが、現代人は、夜が明るくなったせいか、無明の闇に潜むものに対する畏怖の念を忘れてしまって傲慢である。
 静かな竹林の中の凛とした気配が、深い秋の冷気と溶け合って、あだし野の山里に不思議な荘厳さを漂わせていた。



京都の秋 2005  化野念仏寺5

 しおりに、化野の「あだし」は、はかない…むなしい…という意味…。そして「化」の字は、「生」が化して「死」となり,さらにこの世に再び生まれ化わることや,極楽浄土に往生する願いなどを意図している…とある。
 古来、京都には、大文字の送り火や鞍馬の火祭りなど、亡き人の霊を慰めるさまざまな行事があったが、ここ化野をさまよった霊は人々の厚いとむらいに静かに鎮まり、辺りは晩秋の涼気に清々しい。
京都の秋 2005  化野念仏寺 巫女猫

 石段を降りてきたら、生垣の山茶花の下に大きな猫がいた。僕に向かって、大きな声で「ニャーニャー」と呼びかけてくる。まるで「私は化野の巫女…。そなたの肩に水子の霊が見える」と呼んでいるみたい。近づいて頭を撫でようとし京都の秋 2005  化野念仏寺から清滝へたら、「フー(無礼者)!」と叱られてしまった。


 念仏寺下の道を更に北へ上れば、愛宕山一の鳥居から試峠を越えて清滝に至るのだが、この先は山道で、ここまでの倍ぐらいの距離を走らなくてはならない。
 ちょっとお腹も空いてきた僕は、渡月橋界隈に引き返すことにした。



【89】 京都の秋 2005 その2                2005.11.30−12.01


     〜嵐峡館〜大悲閣〜亀山公演〜大河内山荘〜清滝〜水尾〜先斗町 泊




 化野念仏寺を後にした僕は、渡月橋界隈へと引き返すことにしたのだが、もと来た道を帰るのでは能がないと、清涼寺方面へ走ってみた。途中、「寂庵はどちらでしょうか」と男の人に声を掛けられ、僕も知らなかったのだが、すぐ横に表示板があった京都の秋 2005 寂庵(瀬戸内寂聴邸)前にて。この旅でタダ1枚のショットである。ので、「こちららしいですね。寂庵って何ですか」と聞きながら、一緒に行ってみた。門に「瀬戸内」と表札がかかっていた。瀬戸内寂聴さんの京都の私邸だ。隣が空き地で、「売り地相談」の看板が立っていた。
 邸内には何本かの見事なモミジの大木が、真っ赤な葉をつけていた。門の前で、男の人にシャッターを押してもらった。
 京都の秋2005

← 渡月橋近くの旅館で、舞妓姿のモデルを使って、写真撮影をしていた。宣伝用のパンフレットを作っているのだろうか。

京都の秋2005  嵐峡館の庭

 渡月橋を渡って川沿いの小道を上流へ走り、「嵐峡館」でお昼をとった。ここの屋号は、頭に嵐山温泉と付いていて、日帰り入浴客も受け入れている。「ナントカ着物学院」の会があり、50人ほどの和服姿のご婦人方がお越しであった。ほとんど妙齢の方々…。



 嵐峡館の左手の山の中腹に、豪商角倉了以が晩年を過ごした「大悲閣」がある。了以は京都生まれ、祖父のころより土倉(今の質店)を営み巨大な高利貸資本を蓄積、朱印船で海外交易(角倉船)も行い、莫大な富を得た。国内では河川の開削・改修を手がけ、京都木屋町の高瀬川開削は有名。ここ嵐山を流れる大堰川や、富士川・天龍川などの開削も行っている。
 ちなみに、嵐山の山あいを流れるこの清流は、京都市の北部の山(佐々里峠)を水源とし、世木ダム・日吉ダムを経て、上流部は上桂川・大堰(おおい)川と呼ばれる。亀岡の保津橋より保津川と名を変え、保津峡を下る。嵐山に至り、渡月橋を過ぎると桂川と名前を変えて南流したのち、大阪府との境で宇治川大悲閣へ登る階段途中に微笑む石仏と合流して淀川となる。
 了以は、岩だらけの大堰川を開削して船が通れるようにし、丹波・山城間の物流に大いに貢献した。今、保津川を観光船が下っているのも、了以の開削のおかげである。
 「大悲閣」は大堰川の工事で命を落とした人を弔うために、了以が建立した仏閣である。嵐山の中腹にあって、保津川を見下ろす景観の地にあるから、入り口の看板には「絶景」と大書されている。ただ、急な階段を登らねばならず、自転車で消耗した僕の足は、途中で2回ほどの休憩を余儀なくされ京都の秋2005 た。
 展望窓からの眺めは、ここまでの疲れが吹き飛ぶ見事さだ。嵐山や小倉山の山肌の紅葉の間を保津川が流れ、視線を上げると京都の市内の向こうに東山連峰が連なる。


      大悲閣の仏間の窓からの眺望→


 ↓ 上流から渡月橋を望む
京都の秋2005






 観光客には知られていないのか、渡月橋から遠すぎるのか、訪れる人は少ない。了以は晩年をここで過ごしたと聞いたので、「年とってからの住家としては、階段がきついね」と言うと、若い住職は「昔の人の健脚は、今の人とは全然違いますから」と言って笑っていた。



京都の秋2005 嵐山公園のモミジ
 また、渡月橋を渡って右岸へ戻り、嵐山公園(亀山公園)を訪ねてみた。


 公園の奥、京都の秋2005 大河内山荘大乗閣小倉山の南麓に広がる「大河内山荘」は、丹下左膳などの時代劇で活躍した、ご存知「大河内傳次郎」が、36歳のころから約30年かかって築き上げたという大庭園である。京都で撮影があると、傳次郎はこの山荘に滞在し、瞑想にふけったり念仏を唱えるなど、思い思いの時を過ごしていたとか大河内山荘から、西の山を望む。嵐山の中腹に大悲閣が見える。
 2万uの敷地に傳次郎が命を注いだという庭園は、歩を進めるごとにさまざまな表情を見せてくれる。
 入口には竹林、大乗閣には紅葉、持仏堂には松、滴水庵には苔を配し、月香亭からは市内の眺望…。振り向けば、保津川対岸の嵐山の山肌に、先ほど訪れた大悲閣が鎮座している。京都の秋2005









     縁台に腰掛けてお抹茶をいただく↓

京都の紅葉 2005 大河内山荘

← 月香亭からの
  京都遠望

 


 せっかくここまで来たのだからと、邸内の「静雲亭」で一番安い湯豆腐を食べた。




 京都の紅葉 2005 清閑 清滝午後4時過ぎ。駐車場へ戻って車に乗り、清滝へ向かう。清滝道の両側の紅葉も美しい。試峠を越える清滝トンネルは、車がやっと一台通れるという狭さだ。対向車線は、山の上を走っている。
 訪れた清滝の町は、時間が遅いせいか、家々の戸は閉ざされ、全く人影がない。渓谷の紅葉は少し盛りが過ぎたころ…、あたりが薄暗くなってきて、紅葉の色もいまひとつ映えない。




 今日はそろそろ終わりにして、市内へ戻ろうか…とも思ったのだが、この界隈でどうしても訪れたい地がひとつ残っている。清滝口から愛宕山の山麓を北西へ10Kmほど登った「水尾」の村落を訪ねてみたかったのである。
 水尾は、京都市右京区嵯峨水尾町…という地名だ。右京区ナニガシという町名や位置的に見て、京都の奥座敷といった風情かと思っていた。ところがいってみると、車の対抗もできない細い曲がりくねった山道を、30分ほど走ったところにある、山間の暗闇に潜むひなびた里であった。
 1582(天正10)年5月のある夜、水尾は、誰にも知られないままに、日本の歴史を変える舞台となる。
 同年6月12日未明、中国地方へ向かうために老いの坂を下っていた明智光秀の軍勢は、急遽矛先を転じて、京都市内に宿営していた織田信長を襲った。世に言う、本能寺の変である。
 これに先立つ5月下旬、光秀は愛宕山に参詣し、愛宕五坊の一つである西坊威徳院で催され連歌の会に参列している。席上、発句を光秀が詠み、脇句を威徳院の行祐法印、第三句を連歌師の里村紹巴がつけた。全九名で100韻を詠み(愛宕百韻)、書き留めた懐紙を神前に捧げた。
 ここまではよく知られた、歴史の表舞台の光景であり、このとき光秀の詠んだ発句『ときは今 あめが下しる 五月哉(さつきかな)』は有名で、古来、さまざまな解釈がなされている。
 さて、光秀はなぜ信長を弑したのか。ここに、愛宕山のふもとにひっそりと黙座する「水尾」が登場する。
 愛宕山で連歌の会に参列した光秀は、そのあと一人で念仏を唱えて一夜を明かすとして、愛宕権現の念仏堂へ篭る。その夜、正親町天皇は密かに水尾に行幸され、念仏堂を抜けて山を下った光秀と密会したというのである。
 本能寺の変のあと、秀吉による厳しい詮議が行われ、この夜の連歌に参会した人々にも聴取が行われたが、誰一人として、この夜、光秀が山を下ったと証言したものはいない。


 愛宕山一の鳥居横の小道を入ると、もう車の対向もできない細い山道が続いている。すでに日はとっぶりと暮れて、暗闇の中を曲がりくねった細道をひたすら走る。10分ほど走ったところで、左下に灯りが見えた。山陰本線「保津峡駅」の灯りだ。
 まだ、水尾までの道のりの3分の1ぐらい来たところ。車に積んでいたビスケットをかじりながら、さらにつづら折の道をひた走る。途中、2台の対向車に行き交ったが、走り慣れているのか、こちらのヘッドライトを見て、広がっている箇所で待っていてくれていた。2台とも山仕事の帰りだろう、軽四輪のトラックだった。
 暗闇の中の山道を30分ほど走っただろうか、左手に人家が見えた。薄暗い蛍光灯の光に浮かんだ文字は「水尾公民館」、着いたーッ。それにしても、人っ子一人歩いていない京都の秋2005 水尾「柚子風呂丸源」の看板。ところどころにポツンポツンと家の灯りが見えるが、その周りは漆黒の闇である。
 一軒、門口に明かりをつけて、門を開いている家があった。看板が掛かっていて、「柚子風呂 丸源」と書かれている。お風呂屋さんなのだろうか、通行人も見かけないところで、風呂屋って何だ?風呂好きの僕も、さすがに入ってみようかという気にならずに帰ってきた。あとで聞いてみると、水尾は「枇杷や松茸とともに柚子が特産品で、冬季、水尾の各家でたてる柚子風呂は薬効があり、最近は入湯に訪れる人も多い」とか。銭湯だったンだ、知っていれば、入ってきたのに…。
 この道も、かつては丹波と京都を結ぶ主要な街道であった。戸数は100戸を数え、人口も1000人近くを擁したという水尾だが、延宝7(1679)年の大火を契機にさびれ、山陰本線の開通以降は、より寂びしい山里になってしまった。
 清和天皇の崩御の地と伝えられる水尾では、天皇に仕える女官の赤い袴の遺風を伝えて、今も女の人は赤い前垂れを身にまとうという。正親町天皇が光秀との密会場所にこの地を選んだのも、あながち根拠のないことではない。光秀は水尾の密議で、天皇直々に信長弑殺を宣下賜ったのだろうか。信長を誰よりも恐れ、信長によって取り立てられてきた光秀の謀反を決意させたものは何であったのか…。全ては、水尾の夜の暗闇だけが知っている、歴史の彼方のロマンである。




 市内へ戻り、食事…。今夜の宿は、「ホテル アルファ京都」に空き部屋があった。三条川原町の角だかM88 Kyoto2005-ら、車を入れておいて、歩いて食事に出たほうがよい。
 すでに時刻は午後7時過ぎ。ご飯を食べる前に、南座で演っている「坂田藤十郎襲名公演」をのぞいてみた。良い演目があれば、立ち席でも一幕見ていこうかと思ったのだが、夜の部の開始は4時45分から…。8時になろうかという今は、当然ながらもう口上も終わって、本朝廿四孝藤十郎の八重垣姫の最中だという。あとの演目には藤十郎は出ないし、空きっ腹を抱えて入るほどのこともないかと、食事にした。


             京都の歳末風景 南座のまねき →


 先斗町「招月庵」。カウンターの端っこに陣取り、今日のおまかせM88 Kyoto2005-招月庵…、椀物、蒸し物、鴨の治部煮と秋野菜の合わせ煮など、その温かさが美味しい。もう、そんな季節になってきているのだ。


 明日は、6時から津で会合がある。「欠席してもいい?」と電話したら、「絶対にダメ」と言うので、午後2時過ぎには京都を発たなくてはならない。
 ブラブラ歩いて、11時半、ホテルへ戻った。





【90】 京都の秋 2005 その3                2005.11.30


     2日目  金福寺〜詩仙堂〜圓光寺〜曼殊院 … 午後 帰津




第2日目 12月1日


 朝食をホテルで済ませて、午前8時15分出発。今日は午前中に一乗寺の詩仙堂や曼殊院の辺りを歩き、お昼過ぎに京都をあとにして、津に帰るつもりだ。金福寺 僧房横の大モミジ


 まず、松尾芭蕉、与謝蕪村ゆかりの金福寺(こんぷくじ)へ向かう。まだ開門の9時になっていないからか、人出は少なく、10数台ぐらいしか停められない駐車場に入ることができた。
 しばし待って開門。石段を登って小さな門をくぐると、僧房横の大きなモミジか朝日を浴びて色鮮やかに出迎えてくれた。
 金福寺は、平安時代に創建、もと天台宗の寺院であったが、一時荒廃。江戸中期に圓光寺の鉄舟和尚が再興し、臨済宗南禅寺派の寺となった。鉄舟は松尾芭蕉と親交が深く芭蕉庵を建てたが、これも荒廃。のちに与謝蕪村が再興した。
 幕末、井伊直弼の愛人村山たか女(第1回NHK大河ドラマ「花の生涯」(作・舟橋聖一)のヒ
京都の紅葉 2005 金福寺芭蕉庵
金福寺芭蕉庵
ロイン…淡島千景だったっけ)は、文久2(1862)年、金福寺に入って尼として14年間を過ごし、この寺で生涯を終えた。


 「うき我を さびしがらせよ 閑古鳥」 (芭蕉)


 この寺の裏山…、蕪村、たか女をはじめ多くの文人墨客が眠っている墓地は高台になっていて、京都の市内が一望される。


 次の目的地「詩仙堂」までは数百メートルの距離。車を、このまま金福寺の駐車場へ置かせてもらおうかと思ったのだけれど、あまり広くないからすぐに溢れそうで、それでは申し訳ないから、詩仙堂近くのパーキングへ入れ、そこから歩くことにした。

京都の秋2005 詩仙堂
 「詩仙堂」は、大阪夏の陣で抜け駆けをしたとして、軍律違反の罪に問われた徳川家康の家臣石川丈山が、寛永18(1641)年に造営し31年間隠棲した庵である。現在は丈山寺という曹洞宗の禅寺だが、狩野探幽による中国36詩仙の画を掲げた詩仙の間にちなんで、「詩仙堂」と呼京都の秋2005ばれている。
 丈山は90歳で没するまで、ここで清貧を旨とし、聖賢の教えを実として、風雅の道を楽しんだという。金銭物欲を離れた生き方があるように思い、僕も清雅に生きる決意を固めようと京都の紅葉 2005したのだけれど、誰かが「名園を造るカネはどうするんだ」と言ったので、夢から覚めたような気持ちになった。



            落葉の絨毯 →






 詩仙堂から更に数百歩、慶長6(1601)年、徳川家康が学問所として伏見に建立し、圓光寺学校としたのが起こりとされる「圓光寺」がある。多くの僧が圓光寺僧房ここで学問を修め、寺に伝わる木版活字約5万字の「孔子家語」版木は重要文化財に指定されている。
 寛文7年(1667)年、現在地に移転。明治以降、最近までは臨済宗の尼寺であり、今は南禅寺派の修験道場になっている。運慶作と伝わる千手観音像をはじめ、円山応挙作の「竹林図屏風」などの寺宝も多く、洛北ではもっとも古いとされる栖龍池(せいりゅうち)がある庭園は、十牛の庭と名づけられている。
 庭の名前の由来は、中国の宋の時代に廓庵禅師が作った禅の手京都の秋2005引き書「十牛図」。さまざまな姿勢の10頭の牛が描かれていて、禅宗の修行の過程を牛になぞらえているという。
 例えば、第1図は「尋牛」といい、牛を見失って途方に暮れて草むらを歩いている人の姿が描かれているが、これは自己を見失いあてもなく迷っていることを示しているとか。
 十牛の庭には、さまざまな形の10個の石が置かれていて、もちろん十牛図の10頭の牛を表しているわけだが、どれがどの牛かはサッパリわからなかった。京都の秋2005 圓光寺 十牛の庭
 「十牛図」(模写だと思う)は、本堂にかかっているから、また観光客が少ない時季に来て、じっくりと見てみよう。
 本堂前に水琴窟があって、紅葉のなかで妙音を聞くことができた。


← 10個の、牛に見立てた石が配されている



 圓光寺を出てから北隣の西圓寺の境内を抜け、北白川の住宅地をブラブラと歩いていくと、10分足らずで「曼殊院」に着く。
 ここ曼殊院は、最澄が比叡山に築いた道場に起源を持つとされているが、平安時代に曼殊院と改名、江戸時代の明暦2(1656)年に良尚親王が、この地に改めて移築造営した。皇族が住職を勤めた寺だから当然門跡寺院で、勅使門には門跡であることを示す五本の白線がある。京都の秋2005 曼殊院勅使門付近の大モミジ
 
京都の秋2005 曼殊院参道

← 勅使門横の大モミジ



     参道は 紅葉のアーチ →



 良尚親王は、桂離宮の造営で知られる智仁親王の次男だから、曼殊院も桂離宮の美意識の流れを汲んで、江戸時代初期の代表的な書院建築である。大書院を舟、白砂を水の流れにみたて、静かに水面に浮かぶ大舟を表現した庭は、遠州好みの枯山水。鶴をかたどった五葉の松、ふくろう京都の秋2005 曼殊院の手水鉢の台石は亀を擬している。
 寺の所蔵物も、狩野永徳の虎の間の襖絵や、わが国最初の版画とされる竹の間の壁紙など、素晴らしいものがたくさんあるが、中でも藤原俊成筆と伝えられる古今和歌集(国宝)は感動ものであった。


← 山門横の白壁と紅葉


 そろそろ帰らなければならない時間だ。途中で食事を取ったりしながら、休憩を入れて帰ることにしよう。




 今年は11月に入ってからも暖かい日が続いていて、全国的に紅葉が遅れているとは聞いていたのだが、12月をまたいで訪れた京都だったので、時期的にはちょっと遅いかなと思いながらの訪京であった。
 確かに少し盛りは過ぎていて、訪ねたところはどこも、落ち葉の絨毯を踏んでの探索であったけれど、それはそれで往く秋の風情があり、錦繍の京都を堪能した旅であった。


                             京都の紅葉 2005 



【87】 紅葉2005 鈴鹿スカイライン                 2005.11.22


 昨夜は久し振りに出かけて、帰宅したのが午前3時…、寝たのが4時過ぎ。それで、今日は10時ごろに起きてきたのだが、朝昼兼用食を食べながら外を見ると、今日も良い天気だ。
 えいっと、昼過ぎに飛び出して、滋賀県側から鈴鹿スカイラインを登り、四日市へ抜けてみた。この道は、20年ほど前に初めて走ったのだが、両側の雑木林が赤や黄色に色づき、植林された杉の深緑との対比が、パ紅葉2005 裏鈴鹿スカイラインッチワークのような美しさを見せる。
 

 鈴鹿峠を越え、滋賀県に入って間もなく、猪鼻の交差点を右折したところに「火頭古神社」がある。鳥居の前に大きなカエデの木があり、燃えるような紅い葉を木いっぱいにつけている。


  「火頭古神社」前のカエデ→
    何と読むのか解らない



 この道は、四日市から登る三重県側のほうが道路が整備されていて、圧倒的に登りやすい。なぜ、今日は滋賀県側から登るのかというと、午後からの入山なので、四日市のほうから登ると西へ向いて走ることになり、逆光でせっかくの紅葉を愛でることができないからである。

火頭古神社


 ← 「火頭古神社」正面



 この辺り一帯は、滋賀県土山町…「坂は照る照る、鈴鹿は曇る、あいの土山 雨が降る」と鈴鹿馬子唄に唄われた、あの土山である。




 5分ほどで土山町黒川の部落を抜け、道は野洲川の最上流部に沿って、鈴鹿山系を登る。程なく、野洲川ダム。改修工事が行われているらしくて、紅葉2005 裏鈴鹿スカイライン5たくさんの工事用車両が停まり、作業の人影が見えていた。


      行く手の山肌は、赤・黄・深緑のパッチワーク →



鈴鹿スカイライン



 ←野洲川最上流部
   


 川べりの紅葉は、水蒸気が色づきを促すのか、一段と鮮やかだ。




 道は、曲がりくねって高度を上げていく。山が高くなってくると、木々は枯れて土色のものが増えてくる。

紅葉2005 裏鈴鹿スカイライン2
  下のほうの葉は枯れ落ちているが、
  日が当たるからか、上のほうの葉は
  残って、なお色鮮やかに紅葉している →
 



 山道を、カメラを構えながらの運転で、ちょっと危ない。絶景ポイント(?)へ来ると、急に停まったりするものだから、うしろの車は迷惑なことだ。交通量が少ないから、許されだろう…と、勝手な解釈。

紅葉2005 裏鈴鹿スカイライン7
 ← 見上げると、日の当たる上の部分の紅葉が鮮やか



 車の中からシャッターを押したものは、ガラスが吸紅葉2005 裏鈴鹿スカイライン6収した光を介在させるのだろうか、白っぽい画面になってしまった。単に、車を洗ったことがないのがバレただけ…という説もある。





 白いススキの穂が、風に揺れていた。振り返ると、折からの西日に、逆光のなか、ススキたちが銀色に輝いて、紅葉の中に踊っていた。やっぱりススキは、逆光がいい。





 程なく峠のトンネルを抜けて、三重県側に出た。急に視界が開けて、晩秋の伊勢平野が眼下に広がる。
紅葉2005 裏鈴鹿スカイライン4
 標高813m、武平峠展望台に車を止めて、辺りを歩いてみた。峠の風が、頬をかすめて吹き抜けていく。


 ← 武平峠から 伊勢平野を望む。
     中央に見えるのは、湯ノ山温泉の
     ホテルの尖塔



 四日市へ降りて「わさび屋」へ寄り、マグロの刺身、海老の塩焼き、サトイモの煮付け、どて煮、赤だしを
かっ喰らって帰ってきた。


           第2名神 架橋
紅葉2005 裏鈴鹿スカイライン







   【付録】 →
     土山町で、国道1号線をまたぐ、
     第2名神の架橋。
     工事は 着々と進んでいる。




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