【寺子屋騒動.列伝1その3 昭和49〜52年      寺子屋トップページへ


  思い出の卒業生たち   大木 直 その3  −北大進学−     2006.04.25


『 先日、読者のみきさん(東京)からメールをいただいた。『大木 直くんとの話いいですね。なぜ直くんが集中して授業に臨めるようになっていったのか、そこのところが知りたいですね。教師として、人間として、心のある接し方、指導力なのでしょうが、そこをもう少し書いてくれたら、これを読んでいる、教師のみなさんや、未来に教育者になろうとしている若者たちにも、ヒントを得ることができると思うのですが・・・。 現在では教育者を教育する機関が必要になってきたのではと思える事が多々ありますね。』と書かれている。
 教育論とか、授業技術などの話になると、たちまちページ数が増えることになるだろうし、さまざまな検証や学究的な観点からの証明などが必要となる。だからここでは、いろいろな出来事のあった生徒たちとの交流を、章くんのサイドから独善的に書いていくことにして、読んでいただく方にご判断をいただくことにしようと思う。 』


 大木 直の学力習得の要因をあえて言えば、人間的に逞しくなったことがその要因だろう。子どもたちやそのお父さんお母さんに、章くんはいつも言ってきたが、それぞれの学年段階に応じて、自分の役割を果たすことの出来る子供になること…してやること…が、その子の学力を伸ばす必要不可欠の要因である。
 自分のことが自分で出来る子どもになってこそ、学力も身につくのであって、人間的に成長しない子に学力をと望んでも、それは本末転倒した話である。中には、ワガママで自分勝手な子どもでも、才能に恵まれて学力を伸ばす子供もいるけれど、豊かな人間性に裏づけされない学力は、将来、決して大成することはない。
 大木 直は小6の3月に、初めて教室に来たときにはパジャマを着ていたのに、それからの2年と何ヶ月かの間に、立ち居振る舞いが、その学年の発達段階にふさわしいものへと成長してきた。
 着ているものの良し悪しを言っているわけでなく、大木 直はお母さんを亡くしているから、お父さんやおねえちゃんの助けがあるとは言うものの、多くの部分を自分でやらなくてはならない。当然ながら着るものは自分で選び、教育センターへ来る日には、夕食を自分で済ませて出かけてくる。来れば必ず11時や12時ごろまで遊んで(笑?)いくのだから、腹ごしらえはしっかりしてこなくてはならない。
 もちろん、これらの点について、章くんはときどき「がんばれよ」ぐらいの声は掛けたとしても、何らの手助けもしていない。全て、大木 直が自分で乗り越えてきたことである。


 大木 直が中3の夏、章くんは肋間神経痛が痛んで、「イタタタッ」と言いながら授業を進めていたのだが、ピリピリと痛んだので、「大木、授業をかわれ」と教壇に立たせたことがある。
 大木は問題の解説を進めていく。「え〜、これはこうなってこうやから、答はこうなります。ハイ、2番はどうなりますか? 和ちゃん、答えてみなさい」とか言って、順調である。鋭い質問が飛ん窮地に陥ると、胸を抑えて「あっ痛たたたーっ」と章くんの肋間神経痛の真似をして、みんなが爆笑…、ピンチを乗り切っていた。


 「高校入試なんて、中3の秋から頑張りゃ十分…」というのが、章くんの持論である。今の中学校の教科書の内容なんて薄っぺらなものであって、みんなは一通り学習してきたのだから、中学生としての普通の言語能力があれば、2ヶ月で完全に自分のものにすることが出来るというわけだ。
 「高校なんて、余裕で行け。高校受験のための勉強なんかするな」も、生徒たちがよく聞かされた言葉だ。中学時代から机にかじりつくような勉強をしていては、将来は知れている。この多感な時代、文学や科学や哲学に触れて、幅広く立体的なものの見方や考え方を身につけていくことが、確かな学力をつけていくために…、将来の人生のためには、何よりも大事なことだ。
 話はさらに逸れるが、三重県教育センターの教室には、『学級文庫』があった。日本と世界の名作全集はもちろんのこと、人文地理や物理科学、歴史、天文、美術など、さまざまなジャンルの本が、5段6列の本棚に並べられていた。それぞれの本には「図書カード」がついていて、借り出すものはそのカードに名前を書いて事務員さんに渡していく。今も、章くんの手元にはその全集が残っているが、貸し出しカードには当時の生徒の名前が書き込まれていて、懐かしい財産である。
 「本を読め」「なぜだろうと思え」「自分なりの答えを見つけろ」と、章くんは生徒に言い続けてきた。『勉強を、教えてもらおうと思うな。自分の力で切り開いていかなければ、自分の学力にはならない』という。「全ての答えは、本の中にある」と。


 10月、津高校の合格ラインまで、大木 直はあと1歩…、ではない…5歩ぐらいである。合格するかどうかといわれれば、合格しないといわねばならない状況だ。
 「大木、この問題集をやれ」。秋も深まりつつあったある日、章くんは国数理社英の5教科の問題集を買ってきて、大木 直に差し出した。ノートに3cm・12cmぐらいの間隔で縦線を引いて3分割させ、日付・解法と答え・評価を書き、提出させた。毎週、月・火・木・金の4日間、1日に2教科ずつ各45分、1時間30分ほどの取り組みを課したのである。
 「1日の進むペースを決めて、もし時間内にそこまで行かなかったら、やめてしまえ。次回は、次のセクションからやり始めよ」
 「でも、先生。それなら、やり残したところは、手つかずで残ってしまう」
 「入試までに、この問題集を、3回やるンや。2回目は、1回目よりも早くなるし、1回目にわからなかったり間違った問題のいくつかが、必ず理解できるようになる。3回目には、全てできる。高校入試には、これ以外には何もしなくてよい。」
 大木 直は、10〜2月の5ヶ月間に、この問題集を4回やった。4回目には、答えを覚えているものも多いから、進みが早いと笑った。学力をつけるには、1冊の問題集や参考書を、繰り返してやることである。同じ本を繰り返すと、1回目に取りこぼした事柄は2回目に拾うことができ、1回目に解けなかった問題の多くが2回目には解けていく。学力がつくというのは、こういうことなのだ。1冊をやり終えて別の本に移ると、取りこぼした箇所はまた取りこぼしてしまう。


 年が明けて1月になった。大木 直の学力は、見違えるように確かなものになったが、相手は津高校である、あと5歩の距離は入試までには完全に縮まったとは言いがたい。
 高校への受験願書を提出する時期になった。県立高校の入試は一発勝負だ。ダメならば2期校というわけにはいかない。不合格ならば、私立高校へ進学するしかないのだ。
 今の大木 直の学力は、合否ラインすれすれ…。しかし、章くんは思う、「大木は今、上昇カーブを描いて合否ラインに到達してきた。下降線を描いてきたものは不合格の確率が高いけれど、向上してきたものは必ず合格する。大木ィ、絶対通る、受けろ!」。


 「先生、通ったわ」。
 合格者発表の日、合格を報告に来る生徒の中に、大木 直の顔があった。


 その3年後、大木 直は、1教科1冊主義で、北海道大学の合格を果たす。
「先生、大木が、北海道大学の医学部に通った」
と、同級生だった辻 富男が報告に来た。
「なにぃ、北大病院には死んでも入院するなよ」
と言っていたら、大木が顔を見せた。
「北大の獣医学科に行く」。
獣医かぁ…とみんなのけぞって、なぜか…ひと安心した。


 農学部獣医学科を卒業する年の正月、大木 直か章くんの自宅に顔を見せた。
「小野田セメント(現、太平洋セメント)に入社することになりました」。
大木 直は、今、セメントをこねている。いや、工事をしているのではなくて、研究のためにこねている。
 お姉さんは嫁ぎ、一人になったお父さんを引き取って、奥さんと2人の子どもといっしょに東京都下のマンションに住んでいる。季節の便りには、津市の元の家もまだそのままで、東京の生活に飽いたお父さんが時々帰って、何ヶ月かを過ごしていると書いてあった。
 大木 直が津に帰ってくることは、もうない。



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