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  思い出の卒業生たち  ― 崖っ淵でのふんばり ― 金 児 由 衣  その2


 「この子は英語は上位にいるのですが、数学が苦手で…」、津高校を受験するということとともに、お母さんが章くんに相談した第一声である。「中学校ぐらいの内容で、英語は良いけれど、数学は苦手というのは、能力の問題ではありません。きっかけがつかめれば、すぐに学力は上がりますよ」と軽く言う章くんに、半信半疑の眼差しを向けながらお母さんは「よろしくお願いします」と帰っていった。


 申し込みに来たその日の授業から、金児由衣は参加…。学習進度は公立中学よりはずっと早い高田中の生徒だから、教育センターでの授業内容は、彼女にしてみればかなり以前に学校でやったことである。
 一次関数の演習問題。『 直線y=2x+a―1、x軸、
x=3aの3本の直線で囲まれる図形の面積を求めよ 』と
いう問題で、ふつうは右のような図を描き、まずは数をあて
はめて、考え方を確認していく。生徒の一人Aに
章くん「例えばa=3のときを考えると、このとき直線式は?」
 A 「y=2x+2。… X切片は―1、Y切片は2です」
   と始まり、次にBに、
章くん「直線x=3aはx=9と決定されるから、交点Pの
    座標は…?」
 B 「(9,20)です」。次にCに、
章くん「この直線がX軸と交わる点は…?」、
   Y座標が0だからY=0を代入してX=―1、
 C 「(―1、0)です」。よってDに、
章くん「この図形…三角形の底辺と高さは?」、
 D 「−1から9までですから底辺10と、高さは交点のY座標ですから20です」
章くん「いいね、みんな、計算してみろ」と進む。
 答は、1/2×10×20=100となり、座標軸のひと目盛りの単位が与えられていないから、答は値があるが単位はないことを確かめさせ、単位をつけてはいけないと念を押す。
 実際の授業は、黒板の図をしっかり確認させ、生徒にはもっと細かく質問していって、考え方の順を追わせる。


 さて、ここまではa=3として数の場合の考え方を確かめさせたわけだが、この問題はx=3aだから、x座標もy座標もaの文字式で表すことになる。もちろん、値がaの式になるだけで、考え方や計算方法は、数のときと同じだね…と考えさせていく。
 それを金児由衣には、数での考え方の確認を省略して、いきなり「直線y=2x+a―1とx=3aの交点の座標は、何や…?」とやったのである。
 少し慣れれば、上で説明した数の計算と同じに、aの文字式で計算していけばよいことはすぐに解る。x座標は3a、y座標は直線式y=2x+a―1のxに3aを代入すればよいのだから、y=2×3a+a―1=7a―1、よって(3a,7a―1)である。
 ところが、何の説明もなく、しかも最初の授業でいきなり目先の変わった質問をされたものだから、金児は立ち往生をしてしまった。クラスのみんなは、こんな問題には慣れているから、ほとんどのものは答がわかっている。名うての有名私立学校の生徒を見つめる、みんなの視線が痛い。
 章くんは、まだ助け舟を出さない。それどころか、「お前、高田で何を習っとるンや」と追い討ちをかける。「え〜っと…、え〜っと…x=3aですから…」とパニクっている金児は思考がまとまらない。
 黙ってしまう一歩手前で、「x=3のとき、Pの座標は幾らや?」と聞くと、さすがに金児は即座に計算して、「(9、20)です」。「じゃぁ、x=3aのとき、Pの座標は…?」と言われて、金児は全く同じに考えればよいことに気づいた。
 「あっ、え〜っと、x=3aで、y座標はy=2×3a+a―1ですから7a―1。だから座標は(3a,7a―1)です」。「そうさ、簡単なことやないかい」と言われて、金児は下を向いた。
 ひとつには、金児由衣に 「こんなことで負けてたまるか」という気持ちを持たなければ、これから先も越えていけないという覚悟を決めさせるためと、講座のみんなに金児を特別視させない…「自分たちと同じじゃないか」という安心感を持たせるために、少し困らせたわけである。
 後日、金児は「あの最初の授業のとき、この塾、辞めよかなぁと思った」と言っていたから、崖っ淵からよみがえったわけだ。「でも、くじけて辞めるのはいやだった」と付け加えた言葉からみても、やっぱりこの女はタダ者ではなかった。


 金児が通う中2数学講座の授業は毎週火・金曜日。授業のある日、金児は学校の帰りにそのまま教育センターへ来た。彼女の自宅と学校との中間点に教育センターがある。一旦、自宅へ戻っても、とんぼ返りに出てこなくてはならないわけで、学校の下校時間が早いときも、教育センターの事務室へ入ってきて、空いている机に座りノートを広げていた。買って来たパンをかじり、事務室に居る教師連中を捕まえて。「先生、これどーなんの?」と言いながら…。
 1ヶ月もすると、金児は持ち前の明るさと物怖じしない性格でクラスにすっかり溶け込んでいた。いつもパンをかじっている金児に、堀田正志たち男子生徒は、「これ、お茶」などと言って、ペットボトルを差し入れたりしている。金児は、「今度はサントリーの『午後の紅茶』にしてね」とか言っている。
 3ヶ月もすると、金児由衣の数学の成績は目に見えて向上してきた。章くんの授業形態が金児由衣の思考経路にピッタリで、砂漠の砂が水を吸うように数学のメソッドを吸収していったのだろう。学校での進度は、教育センターで学習している単元よりもはるかに先なのだが、数学的な考え方を身につけた金児にとっては数学とは面白い学問であって、わかりやすい教科になっていた。2学期末の成績表を貰うときには、学校の担任に「どうしたの」と言われたというほどの躍進であった。



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