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【16】新しい津市がスタートして半年             2006.07.28
   ― 岡村〜近藤〜松田市政へ ―

 津市や三重県についてのページが少ないというご指摘をいただいた。確かに、日本の政治・経済・社会に対するメッセージの【112】に対して、津市や三重県を対象とするページはそれぞれ【15】と【11】と極端に少ない。
 身近すぎて、評論し辛いのである。北川正恭前知事は衆議院議員時代からの懇友で、付き合いは故久保田藤麻呂元文部大臣の頃からだから、もう30年以上になる。近藤康雄前津市長は高校の先輩で、同じクラブに在籍して親しく挨拶を交わす仲である。個人的に親しいということに加えて、周囲の方々にも親交があり、辛辣な批判はまわりの人たちのご注意をいただくことになる。
 衆議院時代の北川正恭は前向きで、抜群の行動力を持っていた。希望にも燃えていたし、知事に転進した当初も、三重県政に対するビジョンを、夜の更けるのも忘れて熱く語ったものである。ところが、知事というお山の大将を4年努めて、2期目の選挙で難なく再選されると、地方政治のチェック機能なんて知れているから、やりたい放題になってしまった。加えて、取り巻き連中が悪すぎた。利権に群がる輩の顔が見え隠れする。この頃から、僕と北川正恭との交流は途絶えた。
 3期目を前にして、彼は突然に不出馬を表明する。この頃には、既に彼は「伊賀県民局知事印濫用詐欺事件」「多度RDF貯蔵槽事故問題」「特別秘書一家の行方不明事件」など、疑惑にまみれていて、三重県のビジョンを語った頃の瞳の輝きは既に失われていた。一説には、これらスキャンダルの刑事訴追と数十億の公金横領容疑を不問にする代償として、3戦出馬を断念する取引が囁かれた。青雲の志に燃えたころの同志としては、地に落ちた偶像を見送る結果となり、誠に残念な引退であった。
 近藤康雄氏の市政(1994〜2006、12年間在任)に対しても、その前の岡村初博氏(1974〜1994、20年間在任)からの30年間余、津市には1本の道路も通らなかった市政の停滞を、厳しく問わねばなるまい。
 地方自治の首長は、何もしないのが延命の秘訣であるといわれる。地方自治には批判勢力がない。マスコミも地方駐在員は記者クラブの椅子を危うくすると取材できないから、刑事事件でも起こさない限り、チョウチン記事ばかり並べることになる。何もしなければ保守勢力からの抵抗に合うこともなく、多選の首長になれるが、発展的なことをすると、抵抗勢力は利権を侵され、推進派には路線の選択で異論が出たりして、短命で終わるとされている。
 岡村市政20年は、津市民の民位度を表すバロメータである。津は、鳥羽伏見の戦いで友軍であった幕府軍に突如として砲火を向けた藤堂藩の城下町らしく、保身・変わり身・諂いを処世とし、進取の気風に乏しく、若い芽を摘み取り、長いものに巻かれるという、江戸庶民の保守性をそのまま受け継いだ保守的な町である。市民自らは、何をするにも手も足も出なくて、例えば三重一区の代議士は全て伊賀選出の2人である。選挙民の数では、圧倒的に津市が多数であるのに、津市から芽を出そうとするものを育てるどころか、寄って集って潰そうと奔走する卑しさである。
 津は、県庁と三重大がなければ、何もない町である。この30年間、中味を充実することなく放置してきた。工業生産額をとっても、四日市・鈴鹿市には大きく水を開けられているのはもちろん、伊賀上野市にまさに追い抜かれるまでに肉薄されている。旧市の人口比は、津市18万人、上野市6万人のである。日本の国民総生産が大きく膨れ上がってきた時代に、津市は旧態依然のまま停滞し、上野市に抜かれるところまできても、何の危機感も持たず、何の努力もしてこなかった…、それが岡村市政の20年であった。
 議会は、一部のボスに支配され、岡本・稲森・井口らの利権のままに動いていった。そのおこぼれを安藤金太郎らがつついて回っていたというのが、市議会の実情であった。
 さて、新しい津市の市長として松田直之氏が選出された。松田氏も、北川正恭事務所にいた頃からの知り合いで、当時は国政・県政・市政について何かと力を尽くしてもらった経緯がある。
 自民党三重県連が自民所属の溝口元県議をなかなか推薦しなかったことや、小倉元市議の立候補宣言の立ち遅れなど、相手方の不透明さや失策によって、松田くんは見事に拡大した津市の初代市長となった。このこと一つを考えてみても、三重県は新左翼王国である。自民党三重県連会長の川崎厚労大臣は、自らの選挙区の大票田津市に連合三重がかかえる市長の誕生を傍観していたのだから、理解に苦しむ。
 県都の首長が民主党系になれば、今後の三重県の進路はどこへ舵取りをすればよいのか。その問題は改めて論じるとして、松田新津市長に対しては、北川事務所時代から培った政治的見識と手法を取捨選択し、負の部分を切り捨てる覚悟を持って、三重県の顔としての津市をつくるために、政治の王道を歩んでほしい。
 岡村・近藤時代の30年間、太平の眠りをむさぼっていた津市民は、松田新市政の行方を、期待と関心と警戒心を持って見守っていくことが必要であろう。


【15】白山町へのごみ処理場建設は愚策       2005.12.30

 平成18年1月1日、2市8町村が合併して、新しい津市が発足する。人口28万8千人を擁する、三重県第2位の都市である。
 さて、その新津市の新しいゴミ処理場として、白山町の三ヶ野地区が建設予定地に決まり、この12月に津地区清掃事業組合(理事長、近藤津市長)と白山町との間に建設確認書が締結された。合併前に、地方自治体としての白山町という形がある間に、契約書を巻いてしまおうとの急ぎ方であった。
 ゴミ処理場という社会の負の部分を受け持つ施設の建設であるから、地元の三ヶ野地区住民は当然反対の声を上げているが、白山町全体としては200億円といわれる工事費を見込んで、町内の土木建築業者を中心に、むしろ歓迎の意向が示されている。新津市は1月末に市長・市議の改選が行われるが、白山町を地盤とする立候補予定者は圧倒的に建設賛成派が多いのである。地元の関係業者としては、膨大な建設費は大きな魅力なのだろうが、その恩恵の外側にいる住民の声が聞こえてこないのは気がかりなことである。

 さて、流れは白山町の三ヶ野地区へ新しいゴミ処理場を建設する方向へと向かっているのだが、果たして津市のゴミ処理の方法として、それが最良の方法かどうか、大いに疑問である。
 第1に、人口の密集する旧津市内から遠くに建設することは、輸送の労力とコストにおいて、将来に渡り大きな負担増となる。
 第2に、現在埋められている片田のゴミについては、そのまま埋めたままに放置するわけで、何らの処理もなされない。盛り土して公園にでもするのだろうが、現在埋められたゴミからの廃液は、今後何10年も流出し続け、今でも周辺の水田の米は売買されないといわれているのに、これからも更に広範囲の土壌を汚染し続けることだろう。
 第3に、白山町の三ヶ野地区にゴミ処理場が建設された場合、その廃液が雲出川に流れ込み、津市民の飲料水が汚染される懸念が指摘されている。

 これらを解決する、ゴミ処理計画はないのか。
現在の片田に新式のガス化溶融炉を建設し、公害のない近代的ゴミ処理工場を完成することだろう。
 片田は、新津市のどこからも交通の便は良い。旧久居一志地区からは165号線から至近であり、安芸地区からは中勢バイパスを利用して至便である。
輸送コストを大きく節減することができるであろう。
 また、片田に新式のガス化溶融炉を建設するということは、現在の片田に埋めたままにされている廃棄物を、順次掘り起こして高温で焼却処理をしていくことを含んでいる。
放置される片田のゴミをも、全て処理できるのである。
 ゴミ処理場の建設地はこれまで、負担の公平さなどといって、それまであった場所とは異なる地区への建設を、たらいまわし方式で決定してきた。しかし、ゴミ処理問題は 処理場さえ決めれば そこが満杯になるまでのあと何年間かは
問題を先送りにできるといった対応をしていては、なにも解決されないことを肝に銘じるべきであろう。
 しかも、繰り返しになるが、埋め立てられたゴミは埋められたままで長年の間に発酵分解を待つだけなのである。当然、汚水の流出や土壌の汚染は避けられない。埋められたゴミを高温焼却して処理するほうが、片田地区の人々の利益にもつながるはずである。
 もちろん、
新しい溶融炉は近代装備され、公害や悪臭とは無縁の設備でなくてはならない。周辺の道路も整備して、生活道路との兼ね合いもより便利なものにしていく必要があろう。そうして完成する新しい清掃工場は、片田地区の人たちにも受け入れられる…、むしろ現在の埋め立てゴミを処理することのできる…、歓迎を持って迎えられる設備であろう。逆に言えば、これから建設される清掃工場は、市民に説明できるものであり、市民に納得され歓迎されるものでなくてはならないということである。

 新亀山市に建設された溶融炉は80億円。新津市は約5倍の人口規模を持つが、効率などを勘案して4倍規模の炉を建設すれば、十分な処理能力を持つ。
建設費用は300億円に近くなるかもしれないけれど、これからの津市のゴミ処理行政を展望すれば、決して高くはない投資である。白山町へ200億円の埋め立て処理場を造るよりは、よほど建設的である。
 また、ゴミ処理問題は、高能力の処理施設を作れば全てが解決するものではない。
行政担当者の飽くことのない真摯な対応と、そして何よりも市民の協力なくしては、一歩も進みはしない。
 例えば、越谷市が1995年に竣工した清掃工場は、「ごみを使った火力発電所」が売り物で一躍全国に名を知られた。1日あたりの処理量は800トン(200トン×4基)だったが傘下自治体のことごとくが分別なしで、最初からプラスチック、紙、木など高カロリーごみが次々と運び込まれ、ペットボトルまで燃やされる有様で、炉はクリンカーができ、極限まで傷んでしまった。
 あわてて1炉ずつオーバーホールしたりしていたが、その間もごみは途切れることがなく運び込まれ、通常3日から5日分が常識のピット滞留量が15日分という事態を招いてしまった。工場内にはゴミが溢れ、現場は悲鳴をあげている。
 このゴミが、上野市まで運ばれていたということで、ご存知の方も多いことだろう。現地上野市の了解も得て1日あたり80トンが産廃業者の焼却炉に運ばれたのであるが、こんな歪んだ処理方法を招いた根底には、ゴミ分別の必要性を訴えて住民の協力を得ることに努力を怠った行政の誤りと、まだ金さえ出せはゴミは処理できるという、考え方の甘さがあった。

 行政にとって、ゴミ処理の問題は、いずれもが英知を絞って取り組まねばならない大問題である。だからこそ、解決を先送りするような安易な処理法を求めずに、誰もが納得して歓迎する処理策を組み上げ、住民の理解と協力を得て、将来に渡る解決方法を作り上げることが大切である。
 行政は、すべからくそうであろう。英知を絞り、畏れず、怯まず…、
新津市のゴミ処理問題を根底から解決するために、片田に溶融炉の近代処理センターを建設完成したい。


【14】津市の夕焼け −心癒される 茜色の輝き−     (04.02.09)

 津の町から望む、西空の夕焼けには、いつも心が癒される。

 今日、ZTV新町に用事があって出かけたところ、入り口の受付は2人、ひとりのご婦人は来客中で、その隣の女の子は電話中であった。私は10分ほど廊下のポスターを見たりパンフレットをめくったりしながら待っていた。その間、廊下を通る女子職員もいたし、机に座ってこちらを眺めたりしている職員もいる。来客があれば、自分の仕事を中断して、「どういうご用件でしょうか」と聞き、「担当に伝えました。すぐに参ります。こちらでお待ち下さい」と対応するのが企業の対応であり、社会人というものだろう。
 電話を終えた女の子が、「お待たせしました」とやってきた。「飯田といいます。先刻、電話で用件は伝えてありますが…」と言うと、「あっ、伺っております。担当に伝えてまいりますので…」と奥へ消えた。出てきた担当が、「どうなってるんだ、君ンところの対応は…」と、僕から小言をいただいたのは言うまでもない。三重県の先端を担う企業であるからこそ、組織としての体制を整えてほしいと思ったし、窓口の女の子に言うのでなく、組織の中枢にいるものに考えてほしいかったから、彼に言ったのである。
 おじさんとおばさんでやっている床屋へ行って、「おじさ〜ん」と5度ほど呼んでも返事がないので、店においてある去年の週刊誌を見ながら待っていると、「おぉ、来とったんか」と顔を見せるのは、それはそれで味わいがある。しかし、ZTVは三重県のITの先端企業…、それが社会的な対応ができていないというのだから情けない。
 『ヤフーBBに替えるべきか…。事業内容は信頼できるし、通信トラブルも少なくて、対応もすぐに飛んで来てくれるというから…。でも、ZTVは地元の企業だから、育ってほしいしなぁ…』 津市の夕焼け
 帰り道、あれこれ考えながら中勢バイパスから西の空を見ると、うす雲の漂う間にやわらかな紅色が布かれ、心いやされる夕焼けが広がっていた。『まぁ、ZTVでいいかッ!』


 津市は進取の精神に乏しく、企業も人も育たない。市政は停滞していて、三重県の県都としてのリーダーシップを発揮することはおろか、産業力と人口構成で四日市・鈴鹿にはるか遅れ、この30年に渡って主要道路の1本も通らず、新市街の構築も行われていない。
 津北部サイエンスシティという企業用地を用意しながらも、亀山市にシャープが、伊勢市に新しいIT企業が進出することが本決まりになっている現状にあって、新しい企業の誘致は実現していない。
 城下町の住民らしく、人々は自分の損得ばかりを勘定し、嫉妬心に駆られて人の足を引っ張るばかり…。だから、この地域を代表する産業もできないし、国会議員の一人も出せない。三重県第1選挙区の代議士は2人とも伊賀市の出身だ。第一、津市を象徴する文化…祭りも、郷土誌も、銘菓もない。

 つくづく情けないと思うのだけれど、この夕焼けがあるから許せる。「何やってんだ、しっかりせい」と思っても、四季それぞれの…、日によって表情を変える、茜色の輝きが全てを溶かして、素敵な彩りに変えてしまう。
 ン、津市民の正義の憤りが形を成さないのは、素晴らしい黄金色の夕焼けのせいなのか。
 いや、素晴らしい自然に恵まれている地は日本中にも、世界各地にも数多くあって、人々はその自然に恥じない営みを築いている。私たち津市民も、恵まれた自然の美しさに甘えるばかりでなく、この美しい大自然から力を貰って、我がふるさと津市から発信する改革を進めていくよう考えねばならない。



【13】 たけなわ 津海岸の潮貝掘り           (5.2)

 お昼過ぎに、海鳥達にえさをやろうかなと思って、贄崎海岸に行ったら、30mほど潮が引いた瀬に、たくさんの潮干狩りの人が出ていた。
 御殿場や五主海岸などは、浜茶屋が自分の店の前の浜辺を囲って、そこに稚貝を播いて育て、客に採らせるのだという。プライベートビーチである。
 贄崎には浜茶屋などは1軒も出てい贄崎海岸の貝掘りない(灯台よりに1軒あったm(-_-)m)ということは、天然ものの貝ということになるが、これだけの人出に耐えられる天然貝がいるとなれば、津の海も捨てたものではない。
 


【12】 津市は、県都としての責任を自覚しているか(雑談会) (4.25)

 4月20日、市議選に出馬する同級生を激励するために、県内在住の面々が集まった。県知事選の結果から市町村合併の見通しまでを語り合った、同級生たちの話である。

飯田 章…「先日の知事選を見ると、三重県では、民主党や連合三重は改革を阻
 止しようとする抵抗勢力やな。県庁のカラ出張や教職員の組合専従者給与返還
 問題などに象徴される公務員の綱紀粛正…すなわち県民主体の県政の継承は危
 ぶないな」
県庁勤務…「公務員だけやない。県内の銀行・電力会社・土建屋などの勢力が結
 集して、三重県政を田川時代に戻そうという強烈な巻き返しがあったんや。
 『もとの濁りの田沼恋しき』…県民がぼやぼやしとると、20年もどるぞ」
河芸在住…「しかし、みんな何を考えとるのかなぁ。結局、北川改革は三重県民
 に根付いておらず、北川正恭個人のパフォーマンスやったということか。改革
 先進県三重は、中身の伴わない紙風船やったんや」
飯田 章…「野呂知事誕生で、津市再生のキーワードやった『中部国際空港へのア
 クセス港』も、松阪へ移るかも知れんなぁ。『なぎさまちプラン』も、行き止ま り道路が残るのか」
白山在住…「津はホントに情けない。県都としての自覚も具体策もない。合併も近
 隣の市町村は当然、津市へなびいてくるものとタカをくくって、自分から働きか
 けようとせんからなぁ」
県庁勤務…「市町村の合併は、対等合併やわな。津市は、発展材料も金もないのに
 プライドだけがあるのやから困ったものや」
河芸在住…「河芸も、鈴鹿市へ合併したらインフラの切り替えだけでも何十億の金
 が10数年間に渡って必要やから、津市への合併に踏み切ったけれど、津市は中
 心都市として求心力を発揮するよう、細心の配慮をする必要があるよな」
関町在住…「津市も津市民も、中心都市としての自覚や責任に欠けとるさ。三重県
 が向上するためには、県都としての津市が発展せんことには、いくら四日市・鈴
 亀や松阪・伊勢、伊賀、南紀などの地域力が向上しても、三重県全体が活性化す
 ることはない。その自覚が、今の津を見とると全く感じられんわな。国会議員の
 ひとりも出せやん県都なんて、存在価値はないよ。関町へ県庁を移せ!

 みんなが、津市の現状を嘆いていると同時に、その努力に期待していることが判りました。津市の市勢を高め、県都としての役割を果たしていく存在となるよう、市民の英知を結集していかなければならないことを痛感しました。
 私たち津市民は、何をするべきでしょうか…。


【11】津市 桜散歩 −私の好きな津市内の桜 ベスト8−    (4.9)

 3時ごろから、デジカメを手に市内の桜を撮りに行ってきました。
 他に、お勧めの桜があれば教えてください。

第1位 社会福祉センター(藤方) 第2位 忠盛塚(片田) 
第3位 津城址のお堀 北勢角  第4位 ひばり公園(中央)
第5位 彰見寺西の墓地 第6位 日本たばこ産業三重支店(綿内)
第7位 津公園西の墓地の入り口 第8位 津(皆楽)公園の桜たち


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