12月31日(木) 良いお年をお迎えください。
今年も、いろいろとお世話になりました。
来年も、何卒よろしくお願いいたします。
12月28日(月) どうなる、三重県の教育研究会
三重県には、小・中学校の教育研究会がないということを、皆さんはご存知だろうか。全国の都道府県のほとんどには結成されている、全県的な教科の研究を行う組織が、三重県には存在しないのである。
(かつては、三重県にも「三重県教育研究会(三教研)」なる、県教委が後援する研究組織があったのだが、もう30年ほど前に解散してしまい、現在は各教科の研究を志す教師たちがそれぞれに参加する自主的な研究団体となっている。当然、費用や校務としての支援はなく、各研究会は研究大会を開くことにも窮して活動は衰退し、会員を激減させている。その解散に至るいきさつや再結成の必要性については、以前に何度も書いたのでここでは省略する。
【参照1】
「三重県教育研究会」の設立を 2001.06.15
【参照2】
教師が実力(指導力と人間力)をつけるためには 2006.0919 など )
今日、ある教科の自主的な研究団体の会長と話をする機会があった。その研究会は、最盛期にはその教科の研究を志す、三重県下の小中学校の教師たち、500余人の会員を擁していた。会員たちは相互に連帯して教科の授業や資料の研究を進め、研究紀要にまとめたり、研究発表会を開催して研究の成果を検証し、さらには三重県下の児童が授業で使う教材を作成・出版したり、子どもたちの発表展示会を催したりして、三重県の教育の推進に大きな存在であった。
それが今日では会員数を激減させ、研究大会も学校を会場として事業実践を公開するなどといった勢いはなく、活動内容も…存在そのものすら…、昔日の面影はない。
衰退の第一の要因として、研究会の役員は、「三重県教育研究会の解散のあと、行政(教育委員会)の支援が得られない(研究会が教育委員会が公認する団体でなくなった)」ことを挙げる。研究会活動が公務の一環として認められなくなったことは、活動の参加に公務出張が認められず、従って旅費も支給されない。食事代や交通費なども自腹で活動しているという。
「それでも頑張っている先生は、研究のためにと自費で活動していますが、しかし、それが何回も、何年も続けば、やはり限界を感じるのも無理からぬことではない。そういった意欲的な先生の活動を支える方法を、教育委員会へ働きかけて研究会への支援を復活させるとか、研究会独自の資金獲得を図るとかする必要があるのではないですか。このままでは、三重県の教育研究は衰退の一途をたどりますよ」と僕は言ったのだけれど、「仕方のないことです」と会長は答えるのみで、淋しそうであった。
組織は衰退し出すと、坂道を転がるように崩壊していく。研究会も、会員数、研究内容、そして事業も、衰退の一途をたどる。この次期に、会長を引き受けたことが不幸と言うしかないということか。
先年、僕は松阪市の教育長に、「教科研究会の現在の惨状は解っているでしょう。再生のために力を貸してくださいよ」と言ったことがある。「私も、どうしていいか、わからないんですよ」というのが、教育長の答えであった。確かに、ひとつの市の教育長がどうこうできる問題ではないのかもしれない。ましてや、ひとりの会長や、いち研究会の役員に、解決せよというのが無理なのだろう。
ただ、彼らの意識の根底に、協力者を募り、教師仲間や教育関係者、そして教育委員会の支援を取り付けて、研究会を再興し、会員の活動を守り保障して行きたいという熱意が見られなかったのが残念である。研究会の会長や役員ならば、運営や活動に魅力を持たして、多くの人たちの参加を促し、また、参加した人たちには満足感を持って帰ってもらう工夫や努力をして当然である。「今の時代に、それは無理」と言うのであれば、「何で会長や役員を引き受けたんだ」と言わねばなるまい。それでは、志を持って集まってきた会員に対して、申し開きできないだろう。
さらに、事業として出版物を作成・発行している場合は、その拡販に努力することも、研究会の活動として重要なことである。多くの人に読まれ・活用されてこそ、それを出版した目的が達成されるのであり、また、編集にかかわった会員の努力に報いることになる。
ある研究会の役員が、自分たちの研究会が作成している出版物について、「その拡販に努力することは、それを出版している会社の利益に協力していることになる」と言うのを聞いて、私は「そんな志の低い発言をする役員に、初めてお目にかかった。みんな、三重県の教育の向上のため、研究会の充実のため、そして自分の研修のためと言って努力してきたのであって、そんなことを言うのならば、その出版物の作成に関わった先輩の先生方、三重県下の学校の教育向上に寄与するためにと拡販に努力してきた先生方、そして、過去と現在にこの出版物のページを執筆してきた編集委員の先生方の努力を、いち出版社の利益を図った行為であると貶(おとし)めるのか」と思わず激しい言葉を使って問うたことがあった。
今日お会いした会長も、「もう、研究会には拡販していくだけの力はありません」と率直な意見を述べていた。自分たちが作成してきた出版物の啓蒙・拡販を、今の自分たちでは行う力量がないことを語らねばならないのである。この時代の会長を引き受けなければならなかったことに、同情を禁じえなかった。
しかし、なぜ、役員の口からは、出来ない理由やいいわけばかりが出てくるばかりで、研究会活動をより実りのあるものにしようという方策を探る努力をしないのだろうか。今日の衰退を指をくわえて見つめるしかなかった、現在のメンバーに再興への努力を期待しても無理というものだろうか。
志を持って、三重県の、また各市町村の、教育研究を向上させたいと考えている有志は必ず居ると思う。全国学力テストの結果を見ると、三重県は中学校の数学A(20位)、数学B(25位)のほかは全国平均を大きく下回り、小学校算数B(35位)に続いて、中学校国語A(42位)国語B(41位)、小学校国語A(41位)、国語B(44位)、算数A(41位)と40番台が軒を並べている。40番台といえば、最下位から数えてすぐという順位だ。
この三重県の教育の現状に鑑みても、教師の研究・研修は喫緊の重要課題である。実現のためには、学校の教師だけでなく、社会のさまざまな人たちの協力支援を得て、「三重県教育研究会」を再興し、県下の教育研究体制を整えていかねばならない。
(教育について書き始めると、次々と問題が出てきて、つい長くなってしまいました。)
12月23日(水) 料亭「平次」のクリスマスディナー
仲間うちの忘年会を、今年はどこでやろうかと思案していたところへ、料亭「平次」のクリスマスディナーの案内が届いた。娘のかおりちゃんは、小さい頃からお琴にいそしんでいて、東京芸大終了後は宮城本家の直弟子に入り、宮城流大師範。近隣の学校の邦楽指導を行っているかたわら、国内・海外公演もこなす本格派である。
例年、お琴の演奏を観賞して、会席料理をいただくというのが、「平次」のクリスマスディナーのスタイルである。今年は、クラリネット奏者の板倉康明氏を招き、一門の皆さんとともに華やかな演奏を聞かせてくれた。

6時30分から1時間半の演奏が終わり、8時からは、「平次」特製の料理をいただくお食事タイム…。牡蠣・南瓜・鮭・柚子など、近場の旬材を使った料理が運ばれてきた。
久しぶりの顔も見ることができ、あっと言う間に時間が過ぎて、気が付くと10時前…。
章くんにしてみれば、夜はこれからだけれど、面々のほとんどが「早寝早起き」になっていて、後ろを振り返ったら人影はまばら…。宴会の後は二次会と決まってるんじゃないのか。日本の景気はどーするんだ!
12月13日(日) 絶景 「ビストロ・グレンデール」
独身につき外食の機会は多いのだが、今日訪問したレストランは特筆もの…。高台にあって、四日市の南の市街地から塩浜のコンビナート、そして伊勢湾を一望することが出来る、絶景レストランである。
もう20年以上続くこの店…、景色だけでなく、モチロン味もお勧め…。また、店の雰囲気も暖かく、シェフの親父さん、接客のママ、そして5年ほど前から娘さんがお店を手伝うようになった。(聞いたわけではないからお店の状況…親父さん・ママさん・娘さんかどうかなどは全て僕の想像である。)
ただ、この店、何度行っても、近くで迷う。もっとも、1年に1回程度しか行かないのだから、同じような道が幾筋もある住宅地のなか、しかも夜では、覚えられないのは無理もないだろうか。今日も近くから電話を入れて、道を教えてもらった。
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店内のようす |
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奥の窓の外には滝が…。 |
午後7時、店へ到着。いや、到着の前にもう一仕事しなければならない。店の駐車場への急激な上り坂を登りきらねばならないのだ。以前、あまりの急傾斜にヒビッて引き返してきたことがある。坂道の方向に車のフロントを合わせて、エイッとアクセルを踏み込んだ。
今夜はママは居なかった。店は娘さんに任せて、フリータイムを楽しんでいるというところか。娘さんの暖かくて控え目な応対が、アットホームで安心する。
ビストロ(小さなフランス料理店)らしい小ぶりの机は、パリ「クゥポール」での食事を思い出させる。小さなテーブルに大男と大女が、肩を寄せ合いながらささやきあっていた光景である。
料理の味は申し分ない。紫芋のスープは、素材の香りを残して優しい温かさが口の中に広がっていく。メインのフィレ肉のトリフ添えは、やわらかく程よい大きさの肉がコク深く味付けされていて、ひと口ふた口…噛むほどに肉の旨味を味わうことが出来た。

そして、この店のもうひとつのご馳走は、四日市の町とコンビナートの光を一望する夜景である。
ひと昔前は、たくさんの工場の煙突から出る排ガスを燃やす炎が、四日市の夜空を赤く焦がしていた。東京などへ出かけた帰り、近鉄電車の窓からあの赤い炎を見ると、「三重に帰ってきたなぁ」という実感を持ったものである。技術の革新によって、排ガスから有害なものを除去したので、燃やす必要がなくなったのだろうが、林立する煙突の先の赤い炎を、何となく懐かしく思い出す。
ガラスの向こうに芝生の庭が広がっているのだが、10年ぐらい前には、親父さんが置いたエサを、タヌキの一家が食べに出てきて、レストランの客たちは料理を中断し、窓に張り付いたものである。そのタヌキたちも、周囲の山の開発で、ここ5年ほどは姿を見せないという。
歳月も風景も移りかわっていくなかに、この店の暖かさと味は変わらない。
12月11日(金) 捕まったァ! − ゴールド免許は諦めた −
国道1号の桑名市内を走っていたところ、渋滞に巻き込まれて車が止まってしまった。と…、コンコンと窓を叩くものがいる。
何かの急な用事か、はたまたバンコクのような物売りか…と窓ガラスを下げると、ヘルメットをかぶった警察官が、「シートベルトの取締りです。そこの角を左へ」と言う。確かに僕は運転中にシートベルトは締めていない。
前後は渋滞しているので、いつものように「おっ、ご苦労さん」と手を挙げて、そのまま通り過ぎてしまうわけにもいかない。誘導に従って左のちょっと広い道に入ると、若い警官が「免許証をお願いします」と寄ってきた。
「まだ、シートベルトの取り締まりなんてやってるのか?」と言うと、「そうなんですよ」と言いながら違反切符を切っている。
僕に、シートベルトを締める習慣はない。シートベルトを締めることを強要される覚えはないと思っているからである。
そもそも、シートベルトを締めないからといって、誰に迷惑をかけるものでもない。シートベルトをしなければ、本人の死亡率が増えるのかもしれない。しかし、それは自己責任であって、他人を巻き込む話ではない。交通事故死者が増えたからといって、警察署長が、本部長が、警察庁長官が引責辞任したという話も聞かない。
自分の命は自分で守るものである。警察が守ってくれるわけもない。だから、シートベルトは自分の意志で締めればよいのである。
こんな僕を、『遵法意識が低い』と友人は言うが、「悪法でも法」として毒杯を仰ぐのが遵法だというのならば、そんな必要は全くないと思っている。正義や理・善といった価値から法を切り離してしまってはいけない。「悪法もまた法である。しかし、法だからといって従う義務はない/従うべきではない」というのが、法実証主義の一般的主張なのである。
でも、今は日本の国民だから、法に照らして違反だと言われれば、それには従うつもりである。シートベルトはしないけれど、それが違反だとは認める…ということである。
こんな法規を作っているから、日本の国民は自己責任を全うしようという逞しさに欠け、自助努力によって自主独立の道を開いていこうとする気概を持ち得ないのであろう。護送船団時代の感覚そのままの法律ではないか。世界の国々と渡り合っていこうという、このグローバルの時代にあって、シートベルトを締めましょうなんて法律を作って国民を統制しようという国家も時代遅れであるが、それをありがたがって甘受している国民もいつまでたっても一本立ちできない半人前といわねばならない。このままいけば、いずれ、歩行者は鎧兜(よろいかぶと)をつけて町を歩くように…という法律が出来ることだろう。
12月8日(火) わが家のネコ軍団
母上のベッドの上で寝そべる、わが家の猫たちです。「寝返りも、うてやへん」と母上は怒るけれど、リハビリ相手としては最適な連中です。
何匹いるか 解りますか? →
正解は11匹です。でも、クロ1匹とシロ1匹が外出中で、現在わが家では13匹が母上のお相手をしています。
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