【003】 南京で、本当は何があったのか B     2008.05.31


  「南京大虐殺」を伝えた宣教師・新聞記者とは


 近代戦は、情報戦である。日中戦争当時の情報戦について、「南京大虐殺」がどのように世界に伝えられていったかに焦点を当てながら見てみよう。


 『南京で虐殺が行われた』との記事は、南京陥落から2日後の12月15日、「シカゴ・デイリーニューズ」(アーチボールド・スティール記者)、5日後の18日「ニューヨーク・タイムズ」(ティルマン・ダーディン記者)らが、『何千人もの生命が犠牲』『南京は恐怖の町に』と報じている。
 さらに、アジアで最も多くの部数を誇る「ノースチャイナ・ディリーニュース」は宣教師の話として『南京で虐殺・強姦・略奪』を報じ、翌年1月、のちに東京裁判で証言台に立つ宣教師ベイツの手紙をもとに、『南京で1万人の市民虐殺と、8千から2万の強姦があった』との社説を書いた。同紙は多くの欧米人に読まれ、漢口や香港の新聞に転載されている。
 その「ノースチャイナ・ディリーニュース」紙に、イギリスの一流紙「マンチェスター・ガーディアン」のティンバーレー記者が寄稿し、7月、冊子にして「戦争とは? −日本軍暴行録−」が出来上がり、世界各国で訳され刊行された。中国語の序文を文学家の郭沫若が書き、日本語版は日本人の鹿地亘と青山和夫が書いている。


(鹿地亘は、再建共産党事件で逮捕され、保釈されたのち中国に逃れて、武漢で軍事委員会政治部第三庁第七処所属の顧問となる。青山和夫は、鹿地とほぼ同じころ武漢に向かい、ここで最高戦争調査委員会の顧問となった。)


 南京戦当時の中国の戦時宣伝は「軍事委員会政治部」が担当していた。蒋介石は「政治は軍事より重し。宣伝は政治より重し」と述べているように、戦時下の宣伝の重要性を熟知している。
 また、彼の妻の宋美齢は9歳からアメリカで過ごし、名門女子大のウェルズリー大学を首席で卒業、
第2次世界大戦中にはアメリカに滞在してアメリカ全土を回り、自ら英語で演説して抗日戦への援助を訴え続けた。43年2月18日には、アメリカ連邦議会において抗日戦への更なる協力を求める演説を行い全米から賞賛を浴びるなど、夫である蒋介石のスポークスマン兼ロビイスト的役割を果たした。特にフランクリン・D・ルーズベルト大統領と仲が良く、アメリカの対日政策に大きな影響を与えた。蒋介石は宋美齢の勧めでクリスチャンに改宗し、欧米への接近を図っている。
 情報戦の重要性を認識していた蒋介石は、「軍事委員会政治部」の中に対敵宣伝を主たる任務とする「第三庁」を設置した。この庁長が郭沫若である。


 こう見てくると、絡まった糸が解(ほつ)れ出す。ティンバレー記者はベイツ教授と連絡しあって、陥落後の南京に足を踏み入れたこともないのに、「ノースチャイナ・ディリーニュース」紙に南京虐殺の記事を送り続け、「戦争とは? −日本軍暴行録−」を刊行したのだ。その資金や人員は、第三庁が全てまかなっている。国際宣伝をする上で、中国人が顔を出すことを極力避けて、中国の理解者である外国人に代弁させたのである。
 南京陥落を速報した「シカゴ・デイリーニューズ」や「ニューヨーク・タイムズ」の記者が中国のシンパであったかどうかまでは不明だが、ティンバレーとベイツは実は中華民国政府宣伝部の顧問であった。
 「戦争とは? −日本軍暴行録−」の編集には、宣教師ミルズ宣教師スマイルも協力している。スマイルが書いた「南京地区における戦争被害」(南京と周辺の農業被害を調べたもの)も、国民党宣伝部の資金でまとめられている。


 宣教師ベイツ、ミルズ、スマイルやティンバレー記者たちは、このように中華民国政府宣伝部から資金を得ていた中国の代弁者であったが、それでは、南京陥落地の様子を世界に報じたその他の宣教師や記者たちは、どんな立場に居たのだろう。


ジョン・マギー
 アメリカ合衆国ピッツバーグ出身で、1912年〜1940年まで中国で宣教師として活動している。日本軍による南京占領期間中は、国際赤十字南京委員会主席・南京国際委員会会長を務めた。
 東京裁判で南京大虐殺の証人として証言台に立ち、日本軍による殺人、強姦、略奪事件について、被害者からの直接聴取、自ら行った被害調査などを示して膨大な証言を行った。
これに対してブルックス弁護人は「不法行為若しくは殺人行為と云ふものの現行犯を、あなた御自身幾ら位ご覧になりましたか」との反対尋問を行い、マギーは「ただ一人の事件だけは自分で目撃致しました」と答え、尋問されて逃げ出した人物を、竹垣があって行詰りになっていたところに歩哨が追い詰めて、顔に向けて発砲して射殺した件のみ自身が目撃したと話している。
 彼は28年間と中国生活が長いため、中国人との交流も多く、心情的に中国寄りであったことは仕方がないことかもしれない。南京大虐殺とされるシーンをリアルタイムで記録した16ミリフィルム(通称マギーフィルム…日本軍に虐殺されたとする女性や子供の死体が映っている)を撮影していて、このフィルムは、のちにフィッチらが欧米で映写会を開いて日本軍の蛮行を訴えるのにも使用された。


ジョン・ラーベ
 ドイツのハンブルク出身、1900年にジーメンス社の中国支社長となった彼は日本軍の南京攻略の際、上海南市安全地帯をモデルとして、南京市内の欧米人居住区を安全地帯(戦闘員の立ち入らない地域)にしたいと考え、10数人の外国人と共同で日本軍にその提案をして、自ら南京安全区国際委員会の委員長となっている。
 しかし、この提案を日本軍は認めなかった。最大の理由は、上海南市安全地帯はフランス兵が警備していて、誰もその中へは入れないが、南京の場合は警備するものもなく、中国兵は簡単に逃げ込むことができて、はじめから安全地帯の体をなしていなかったからである。(上海南市安全地帯の設置には、松井石根司令官は寄付金を送ってジャノキ委員長(フランスの宣教師)を応援している。)
 12月12日、日本軍の総攻撃が始まる直前、日本の勧告降伏を退けた唐生智中国軍司令官は、「非戦闘員は全て安全地帯へ避難せよ」と呼びかけ、12時の総攻撃開始殻8時間後の午後8時には「中国軍将兵はそれぞれに退路を開いて退却せよ」と命じ、自身はわずかの幕僚たちと揚子江を渡って逃亡している。残された将兵は応戦しながら狭い城門へ殺到して圧死したり、軍服を脱ぎ捨て、一般市民に身を変えて安全地区へと潜入した。
 ラーべも、中国軍の3人の将校をかくまっていたことを自身の日記に記している。その日記をさらに読んでいくと、『13日、日本軍は城門を占拠したがまだ城内に踏み込んできてはいない。…道端に、死体やけが人が転がっている。
日本軍の入城前に多くの死体があった … 中国兵約1000人を武装解除して、外交部(外務省)と最高法院(裁判所)へ収容した。千人の中国兵士をラーべら3人で武装解除は不可能であろう)』などと記している。
 安全地帯に中国兵をかくまうことは、戦時国際法違反である。宣教師たちが非難する日本軍の掃討作戦をさかのぼると、宣教師たちが中立を掲げて作った安全区に、戦時国際法を破って中国兵をかくまったことに行き着くのではないか。敗残兵の相当を問題にするのならば、その原因を作った彼らこそ責任を問われなければなるまい。


 昭和13年3月、南京にいた宣教師のひとりジョージ・フィッチは、南京で撮影されたフィルム
(前出のマギーフィルム)を持ってアメリカへ渡り、政府関係者や新聞社に日本の残虐性を訴え、全米を講演して歩いた。この宣教師フィッチとは、反日朝鮮人テロリストの金九を自宅に匿(かくま)い、反日声明文書を書かせて新聞社へ届けていたという、反日活動家であった。自身も南京陥落から1ヵ月半の様子を、ティンバーレー記者編「戦争とは?…」に匿名で書いている。
 『13日午前11時、安全地帯に入った日本軍に会いに行きました。… 通りには市民の死体が多数転がっていて … 日本軍に射殺されたり、銃剣で突き刺されたものでした』とあるが、市内には日本軍の入城前に中国兵や市民の死体があったし、安全地帯に金沢7連隊が入ったのは13日の夜であったことからも、道端の死体は戦闘や中国督戦隊に射殺された中国兵の死体であったと考えられる。
 

 昭和16年春、アメリカのジャーナリスト、エドガー・スノーの「アジアの戦争」が刊行され、この中でスノーは『日本軍は南京だけで4万2千人の市民を殺した。その大部分は婦人と子どもである』と書いた。南京陥落の前後、スノーは北京・上海・漢口と移動していて、南京には立ち寄ってもいない。宣教師たちの話をもとに書いたのだが、宣教師ベイツ教授は『3万人の兵士と1万2千人の男女子ども、合わせて4万2千人が殺された』と言っていたが、それをスノーは『ほとんどは婦人と子ども』と書き替えている。
 スノーは、昭和12年に書いた「中国の赤い星」がベストセラーになり、新進気鋭のジャーナリストだったので「アジアの戦争」も注目されたのだが、この記述により南京での残虐さはベイツやフィッチの言う状況よりもひどいものとなった。


 アグネス・スメドレーは昭和4年に中国へ渡り
、上海で知り合ったソビエト連邦のスパイのゾルゲと同棲、彼に尾崎秀実を紹介している。彼女は1930年代に始まった国共内戦と日中戦争の取材を積極的に行い、記事をフランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥングやマンチェスター・ガーディアン紙などへ投稿。八路軍へ密着した取材などで詳細なレポートを表している。精力的な活動は、中国大陸での戦争を取材する外国人記者としては飛び抜けたものであった。
 半日活動家のスメドレーは「中国の歌ごえ」のなかで、日本軍は南京で20万人の市民と非武装兵士を殺戮し、赤十字病院を襲って意思と看護婦を殺戮して跡形もなくしたと書いている。エドガー・スノーは4万2千の虐殺と書いたが、ここではその5倍…20万人という数字が、何の根拠もなく発表されたのである。
 南京の赤十字病院は南京外交部に設けられていたが、日本軍の総攻撃を前に病院は傷病者とともに南京を離れていて、医師や看護婦もほとんど残ってはいない。外交部の建物は今でも残っていて、スメドレーの記述は全くの嘘である。


 東京裁判で提出された証拠、証言した証人たちのほとんどが、こうした反日活動家または反日的立場の人たちが揃えた出版物・数字、そして彼ら自身であった。中国人のみならず、当時の欧米人も、戦争で戦った敵国の国民だから、反日的であるという立場は理解できる。しかし、虚偽やでっち上げの出来事・数字を持ち出して、歴史をゆがめたり冤罪を構成しようとすることは許されず、戦時宣伝としての虚報があったとしたら、後世の研究者やそれにかかわる人たちは、歴史を正していく義務があるのではないだろうか。
 戦後の昭和21年3月11日、東京裁判の被告人選定の第1回会合が開かれたとき、南京占領軍司令官松井石根の名前は挙がったけれど、南京で残虐な行為があったといわれているものの確たる証拠が示されず、被告編入の合意は得られなかった。4月1日、大詰めの第13回会合において、中国の向哲濬検事の強い主張によって被告人に編入された。そして、信憑性の無い証拠を裏付け調査もないままに採用して、絞首刑の判決を受けたのである。




 東京裁判は、事後法による裁判、裁判手続きの違法性、判事たちの法律知識経験の欠如、公平さを欠く判決…など、有罪ありきの結論が先行した裁判であった。同時に、裁判の根底にあったのは大東亜戦争というアジアの一国である日本がアメリカと西欧を相手に戦ったことへの、怒りと恐れの感情であった。
 ちょうど出エジプト記で、エジプトのパロがイスラエル人の存在を恐れたように、絶対的優位を信じているものが、その体制を脅かされて抱く、恐れの感情である。だから、東京裁判には報復的気配が多分に流れている。これは、理性の問題というよりは、霊的な問題であろう。
 キリスト教社会の底流にある闇の力を支配する者(サタン)が、社会不安に乗じて反ユダヤ主義の感情を煽るような不気味さとともに、日本的東アジア社会では被差別者をつくることによって社会的不満のガス抜きを図るような卑しさが、この裁判の底に澱(よど)んでいるのである。


 その2へ  その4へ  検証 大東亜戦争 トップページへ