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「カラマーゾフの兄弟」 第2巻   
       (ドフトエフスキー、亀山郁夫訳、光文社文庫)        2008.01.30


 
「カラマーゾフの兄弟」第2巻、やっと完了(苦笑)。なかなかに中身が難しくって、てこずりました。
 ドフトエフスキーは、文中、イワン(カラマーゾフ家の次男)の口を借りて、「ほとんどの人間は自由なんか欲していない。 あなた(キリスト)が自由を保障したので 人間は苦しむことになった。人々が欲しいのは 天上のパン(自由)ではなくて、地上のパン(食料・富・名誉)なのだ」と言っています。


 文豪は、侮蔑的発言も怖れていません。イワンの話…「トルコ人の残虐さは、母親の腹の中から胎児をえぐり出すなんてのは序の口で、果ては乳飲み子を放り上げ、それを母親の前で銃剣で受け止めてみせるというんだから」と徹底的です。さらにさまざまな児童を虐待する大人の例を挙げて、「こんな奴らを許すのか、銃殺にするのか」と、敬虔なキリスト僧の修行を積んでいるアリョーシャ(主人公、カラマーゾフ家の三男)に問いかけ、「銃殺にすべきです」と叫ばせます。
 「やれやれ、たいした修行僧だよ。お前の心の中にも、悪魔のヒヨコが住んでるってことだ」。
 「馬鹿なことを言ってしまいました」とつぶやくアリョーシャに、イワンはさらに続ける。
 「世界はその馬鹿なことの上に成り立っているのさ。…そしてついに悟るのだ。自由と、地上に十分にゆきわたるパンは、決して両方一緒には手に入らないことを。なぜなら、人は、お互い同士、分け合うということを知らないからだ」と。


 兄イワンと別れたアリョーシャは僧院に戻ります。そこでは、アリョーシャが師と仰ぐゾシマ長老が死の床についていました。苦しい息の下で、長老は集まった人たちに切々と説きます。
 「人生こそが天国なのです。…、科学にあるものは人間の五感に属するものに過ぎない。怖れず欲求を満たすところにこそ、自由があると思っている。財産や権力は孤立を生み、それを追い求める果ては自己喪失です。酒で紛らわしても、いずれは酒の代わりに血を吸うようになることは目に見えている。
 罪のある人間を愛しなさい。動物たちを、子どもたちを愛しなさい。愛の謙虚さは、世の中で一番恐ろしい力であり、それに類するものなど何もない。…、愛はなかなか手に入らず、高い代償と長い期間にわたる労苦によって初めてあがなわれるものだから、人は愛を手に入れる術を学ばなくてはならない。人は、誰の裁き手にもなれない。最後まで信じることだ。
 地獄とは何か、それは、これ以上はもう愛せないという苦しみだ。私は存在する、だから私は愛する。…、人生こそが天国なのです。」


 この第2巻は、テーマ的にも、内容的にも、大きな充実感を持っています。「カラマーゾフの兄弟」全体を通しての思想的・哲学的な要因が描かれています。上に要約した、イワンの熱弁とゾシマ長老の説教は、宗教の主人公は悪魔か神か、人間の歴史とは何なのか…を問うかの展開ですが、ドフトエフスキーはまだここでは、その結論を急いではいません。
 僕の知識は、「カラマーゾフの兄弟」を読破するためには脆弱すぎて、注釈や解説を参照して合点しています(苦笑)。いや、理解不能の箇所もあったりするのが実のところです。
 上に抜粋した、「人々が欲しいのは 天上のパン(自由)ではなくて、地上のパン(食料・富・名誉)なのだ」という表現は、『40日の間、何も食べずに荒野をさまようイエスに、悪魔がささやく。「もしお前が神の子ならば、この石に、パンになれと命じてみろ」と。答えて、イエスは言う。「人はパンだけで生きるものではない」』…という聖書をもとにしていることは言うまでもありません。
 この言葉は有名で、僕も断片の知識は持ち合わせていたつもりでしたが、「新約聖書『ルカによる福音書』第4章」に記されている続きには、さらに「世界の国を見せて、『もしお前が私の前にひざまづくならば、これらの国々の全てをやろう』と言う悪魔に、イエスは『ただ神のみに仕えよと書かれている』…、イスラエルの宮殿の頂上に立たせて「ここから飛び降りてみよ。もしお前が神の子ならば、使徒に命じてお前を守らせるだろう」と詰め寄る悪魔に、『神を試すなとも書かれている』とイエスは答えた」といったふくらみがあることにも気づかされました。
 ドフトエフスキーの描写は、聖書はもちろん、ドイツの詩人シラー(ベートーベンの第九「歓喜に寄す」の作者)の詩や、ゲーテの「ファウスト」などを伏線としているところも随所にあって、その知識がなければ、せっかくの表現も面白くもなんともないことになります。
 そんな悲哀を何度も味わわされながら、第3巻に取り掛かることにします。


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