本のムシトップページ 飯田 章のホームページへ

【26】「やがて中国の崩壊が始まる」(ゴードン・チャン著、草思社)(9.14)

 この本、確か正月に買った何冊かの内の1冊だったと思うのだが、やっと読み終えたというところである。ゴードン・チャンは中国系のアメリカ人。アメリカ生まれ、コーネル大学を卒業した弁護士。中国企業の法律顧問を務めるかたわら、アメリカの新聞・雑誌などに健筆を振るうジャーナリストだ。

 チャンは、『「中国は5年以内に崩壊する」と大胆に予測する。その理由は@人権抑圧政策に民衆の不満は爆発点に来ている。A倒産しない国営企業は瀕死の危機にある。BWTOへの加盟によって共産党の政治優先を旨とする統制経済は、大幅に制限される。C軍事力を背景とする権力は、人民解放軍の意向を無視することはできない。D一党独裁の共産党支配は、工業・商業にも農村解放にも役人の腐敗を生んでいて、人心は政府から離れている。…などを挙げ、今年(2002年)後半の第16回党大会で党大会の60%が引退(bQの李鵬、3の朱鎔基も)し、2003年には江沢民も交代が予定されている。この政変期に大きな変化があるだろう。
 中国は、台湾との戦争に勝てない。航空機も艦艇も台湾のほうが圧倒的に優れている現在、中国は一撃で台湾にダメージを与えられず,アメリカが出てくれば勝利することはできない。
 今、中国経済は外国との交流に依存している。この国が、現協賛国家を貫くことはできない。インターネットで情報公開は飛躍的に進む。
 外国からの圧力か、国内の腐敗の糾弾か、人権弾圧への抗議か、あるいは台湾との戦争か…、何らかのきっかけがあれば中国の体制はもたない。』…という。


 中国は日本にとって決定的に関わりの深い国である。歴史的にも地理的にもそうであるが、近年の政治的軋轢や経済的影響を考えるとき、もっとも気にかかる国である。今の中国ならば、一旦早く崩壊して民主的な国として生まれ変わってくれと願う国である。東アジア共栄圏成立のために、パートナーとして手を携えることのできる国になってほしいと思うのだが、中華思想の国は臣民の礼を取らなければ紫辰殿へ登らせてもらうことはできないのだろうか。


【25】「有事法制 考証」  (潮 匡人 著、 正論9月号)  (8.31)


 8月の終戦記念日に、東京裁判の考証をまだしていないことを思ったのだが、仕事に追われていて果たせなかった。その代わりというわけではもちろんないのだが、「有事法制」についてのこの一文を読んでみた。著者の潮 匡人氏は最近売り出しの評論家で、舌鋒鋭い。

 その要旨を紹介しよう(…は、省略した部分)。『小室直樹博士は新刊『日本国憲法の問題点』(集英社インターナショナル)でこう説いている。「警察の場合、その行動は厳密に法律によって定められている。(中略)ところが、軍隊はそれとはまったく違う。軍隊の実戦活動においては『これだけは絶対にやってはいけない』ということだけが決まっていて(主として国際法)、それ以外のことは原則無制限である」。…。
 他方、わが国防衛法制は「原則制限」というポジティヴ・リストに縛られている。法的根拠がない限り、自衛隊は大震災にも不審船にも対処できない。ひとり、わが国だけが歪な防衛法制となった理由は明白である。自衛隊が警察予備隊として発足したからである。…、さらに「自衛隊は軍隊ではない」との虚構の答弁を重ね、その本質を糊塗し続けた結果である。有事法制が座礁した今こそ、防衛法制全般を見直す好機であろう。原則制限から原則無制限へと百八十度反転させる抜本的な「ポジ・ネガ反乾」。それこそが防衛法制の構造改革である。本来の有事法制とは、こうした抜本改革を成し遂げた上で、はじめて整備されるべきものであろう』。
 日本の有事法制は、「やってよいことだけを定めようとしている」から、有事法制整備は必要であるが、こんな有事法制なら要らないというわけだ。現在提出の有事立法は憲法違反であり、自衛隊法や地方自治法と齟齬をきたす。もとより、自衛隊そのものが憲法違反なのだから、自衛隊法や防衛庁設置法も違憲である。しかし、「相手国の軍隊に攻撃命令が発せられたときに、自衛権は行使できる」と国際法の通説を引用して、有事法制整備は必要であると主張する。
 ただ、「攻撃を受けた場合は、自分達も武器を取って戦う」とある対談で語る野坂昭如氏らに対して、『彼らが武器を取り戦うなど、言語道断である。…、一民間人に過ぎない彼らが戦闘行為を行うことは、明白な国際法違反である。法的にはテロリストの自爆攻撃と変わるところがない。…、彼らが、この道理を知らないのは、わが国が、ジュネーブ条約が求める国際法の普及義務を怠った結果であろう。ちなみに国際法先進国のスイスでは、「民間人は軍事行動を行ってはならない。孤立した行動は何の役にも立たない。それは無用な報復を招くだけである」と明記したパンフレットを一般家庭に配布している。最終的に整備される予定の完成版有事法案では、ジュネーブ条約を受けた規定も盛り込まれるはずだ。そうなれば、今後こうした的外れな評論も少なくなるであろう。やはり有事法制は必要である』と、ここでも有事法制は必要とは言うものの、一般国民が武器を取ったら戦争犯罪だと冷たく言うのは、法律論に偏向しすぎている分析でないか。


【24】「田中康夫主義」  (田中康夫 著、ダイヤモンド社)  (8.30)


 長野県知事選たけなわの今しか読めないと思って、この本を読み出した。田中康夫が98年〜2000年にかけて「週刊現代」に連載した『田中康夫の新聞私評』を中心に、新聞記事を論評して世相を論じたものである。したがって、一話完結式の短評が並ぶ。
 この男、全然、人の話を聞かないことがわかった。各論は正当性があり、彼の脱ダム宣言も脱物質主義を示すプロジェクトの方向として評価される。ただ、彼の論評はいつもどんなことにも必ず自分が正しい。言葉を弄して正しいことを結論づける。
 主張とはそういうものかも知れないが、作家の彼はたくさんの言葉と表現技巧を駆使して、自分の主張の正しいことを結論しようとする。ただそのことにのみ精力的である。他人の話を聞かない。
 60年にわたって固陋なボス県政が続いてきた長野県の体制を打破するには、田中康夫が必要なのだろうと思う。時代が、新しい世界へと脱皮していくときには、強力に旧体制を破壊し去るパワーを必要とする。田中真紀子しかり、叩かれてもそしられてもこの道を行くパワーが、時代を開くのである。
 長野県知事選は、田中康夫の圧勝に終わることだろう。木曽路は全て山の中にある…と始まる長野は、強烈に開かれた世界への飛翔を希求している。それこそが2年前に、この決して人格高潔とは言い難い田中康夫知事を誕生させた原動力であり、その大きなうねりは、長野県の時代を逆流させることはない。



【23】「田中角栄の遺言」 (小室直紀 著、クレスト社)    (8.2)


 10倍速く本を読める方法は、今のところまだ身についていない。それで、このところ人並みに忙しくて、まとまった本が読めていない。今日はPLの花火大会に行き、会場で半日開演を待った。カバンに放り込んでいった、この本を読み終えることができたというわけである。

 「今、日本にデモクラシーはない」と小室はいう。デモクラシー=民主主義とは、立憲政治=国会の自由な討議によって政治家が法律を作り、国策を行う体制であるが、有能な政治家のいない今の日本は、政策も法律も国会問答集も全て官僚が作る、官僚クラシーの国であるという。
 デモクラシーが古代ギリシャにおいて萌芽し、ローマの共和制・封建社会の形成・ルネサンス・絶対王政・イギリス名誉革命・アメリカ独立戦争・フランス革命・ナポレオン・産業革命と帝国主義・民族独立運動を経て、至難のもとに成立してきた課程を説き、いかにデモクラシーが危ういものかを述べる。
 日本において、田中角栄だけがデモクラシー政治家であった。言論によって国会活動をし、議員立法によって国策を進め、法律の下に官僚組織を駆使し、近代政治学の手法を持って外交を行なった、最後の政治家であった。彼なき今、政治は官僚テクノクラートの手に落ち、横並び集団主義の減点を恐れる、夢のないものになってしまった。田中角栄よ再び出でよ!
 田中裁判は違法である。日本の法律にない司法取引によるコーチャン証言を唯一の根拠とし、しかもそれに対する反対尋問は一切ない。こんな裁判が成立するわけがない。明らかな憲法違反のこの裁判を批判する憲法学者もいない。これを成立させたのは、田中を圧殺しようとする日本のエスタブリッシュ(支配階層)と三木・福田の執念、体制の意向を受けて動く裁判所と検察、魔女狩りムードで走るマスコミとデモクラシーを持たない日本国民の無知であった。
 自由な言論によって国策を決定すことのない立憲政治の終焉。政治を官僚が簒奪しているデモクラシーの窒息。社会的責任と公正を喪失したマスコミ。体制へ擦り寄った裁判所という三権分立の瓦解。自らの意思で社会の正義を判断できない国民の無知。
 これらが田中角栄の残した課題である。最高裁はロッキード裁判の結果を出せず、ひたすら角栄の死を待っていたという。角栄の遺言はかくも大きい。



【22】「10倍速く本が読める」という本を、1ヶ月読んでいるのはなぜか?
      (ポール・R・レーシー著 神田昌典訳 フォレスト出版)   (7. 8)

 「10倍速く本が読める」という本が、1ヶ月かかってもまだ読み終わらない! まえがきには、「25分でこの本を読んでみよう」とあるのに、…。
 かねてから『速読法』に興味があった。空海も『虚空蔵求問持法』を会得していたという。『虚空蔵求問持法』とは、常人の10倍の速さで書物を読む秘法である。
 この本に紹介している「フォトリーディング法」とは、3D法でページを脳裏に焼きつけ、内容を画面として理解してしまうという読書法である。
 @まず、頭の上にりんごを浮かべているイメージをして集中力を高める。A各ページを3D法(フォトフォーカスと称す)で写真に撮るごとく脳裏に写し取り、Bその中から必要な事項・データを取り出すというわけである。各ページを眺めるのはほんの数秒、気になればまた見直せばよい。かくして1冊の本はものの1〜2時間でめくり終えてしまい、「あなたは1日1冊の本が読める」ということになる。
 大事なことは、集中とフォトフォーカスというページを3D法で見て脳裏に写し取ること。そのための訓練を毎日何分か繰り返して行い、修得しなければならない。その訓練に耐え切れないものは、修得をあきらめることになるわけだが、私はそのコースをたどりつつあり、これからも1冊の本を数日〜数週間かけて、あれこれあれとつまみ読むことになりそうである。


 追.「正論」の今月号に『日本の男はなぜかくもダラシナクなってしまったのか』という特集があったが、寄稿者は櫻井よし子・金美齢など全て女の人であったことがちょっと気になった。今や日本の男は、唯一の味方であると信じていた同胞の女の人からも叱られる、ダラシナイ存在になってしまった。「もう遠っくの昔に、男なんて見捨てている!」と言われそう。



● 高野山 金剛峰寺をたずねて  ー空海の夢はるかー    (6.3)

 「空海の風景」(司馬遼太郎 中央公論社)を読んで、無性に高野山を見たくなった。真言密教の聖地として秘法を守り、隔世の秘境に聳える大伽藍…。1200年の遥かな時を越えて、空海の夢を伝える金剛峰寺。先週、やっと読み終えた「空海の風景」の記述によれば、真言密教の修験の地を捜し求める空海に「山頂は平坦にして、水豊かに東へ流る。昼は常に奇雲たなびき、夜は霊光を発する」と土地の祭神が告げて導いた高野の山…、中世末期の最盛期の頃には燦然たる宗教都市を形成した高野山…を無性に見たくなって、31日金曜日の夜中、一度は布団に入ったのだが、午前1時45分にガバと飛び起きて、車に乗り込んだ。
 名阪国道を天理まで走り、国道24号線に乗り換えて橋本市へ向かう。途中、五条市で市内を走らせないようにか、24号線から口蓋を迂回する県道方面へ出ていた「和歌山・橋本→」の矢印に従って曲がったところ、途中で案内板が表示されなくなって、道に迷ってしまった。国土交通省の担当官の頭には地図がないのか。案内板に従って行けば目的地に着くように、最後まで指示するのが責任であろうに。アメリカの道路案内板は、初めてのものにも大変わかりやすかったのと比べて、残念な思いがした。
 それでも夜中の24号線はとても走りやすく、途中天理で30分間の休憩を挟んで、橋本市に着いたのは4時30分。朝もやの中、町がようやく起き出そうかという時刻であった。
 橋本市は、まだ独身の頃だったから30年ほど前に、「橋本CC」へゴルフに来たことがある。橋本CCは、当時、三菱ギャランのトーナメントが開催されていた有名なコースだったが、そのアップダウンの凄さに難関コースの思いを強くした。夜に泊った「紀の国苑」という旅館で、「芸者さん、呼んでくれる」と頼んだら「橋本には居らんのです」というので、「じゃぁ、和歌山から呼んでよ」と頼んで、タクシーで駆けつけてくれたお姐さんに、『潮の岬は男の岬、沖で○○の虹が立つ。わたしゃ紀州の串本育ち、ショラさん 舟歌 胸焦がす』という歌を教えてもらった。題名と○○の部分は忘れてしまったけれど…。

 橋本から高野山までは国道370から480号線を乗り継いで50キロ足らず。あと一息である。ところがこれが遠い!。山中の左折右折の続くつづら折の道で、延々と50分もかかってしまった。大門
 5時30分、ええかげんにせいよ…と左へ大曲りのカーブをグイと曲がったとたん、赤塗りのとてつもなく大きな門が目に飛び込んできた。高野山の西の端に聳え立つ「大門(だいもん)」で、宗教都市「高野山」はここから弘法大師の御廟所「奥の院」までの4kmの境内地に、大塔伽藍と117寺、そしてみやげ物店・食堂・学校・民家などが立ち並ぶ。高野山町は、人々の暮らしの全てが境内で営まれる寺内町である。
 なんといってもまだ6時前。朝の早いお寺さんといえども、庭を掃く人たちの姿はチラホラ見えるが、拝観は8時30分から。人影のない境内地を心ゆくままに散策する。が、一つの堂塔を拝してから次の伽藍へは車で行かねばならない。大門から金堂・根本大塔までは900m、そこから総本山金剛峰寺までは1100m、さらに奥の院まで1000mで、その道筋にみやげもの屋や食堂などが並んでいる。それぞれの拠点の前に駐車場がある。
金剛峰寺
 金剛峰寺は、思いのほかこじんまりしたたたずまいであった。遠く平安の昔に、空海が浄財を募って建立し整備を重ねたというこの寺は、官寺として国家が造営した東大寺や延暦寺とは成立の背景が違う。むしろ、当時の大寺が都にあって、時の政治と密接につながっていたのに対して、俗化を嫌い、修行の純粋を求めた空海の志が、この寺のたたずまいであるといわねばなるまい。
 いや、この寺でさえも、豊臣秀吉が亡母の供養のために建てた清巌寺という母体であって、明治2年に改称されたものという。拝観しているときにはこの疑問に気づかずに、坊さんに尋ねることもせずに帰ってきてしまったが、空海の建てた金剛峰寺は草堂のたぐいのものであったのかもしれない。むしろその方が、密教を極めるものとしての空海の覚悟が伝わってくるような気がする。

 大門・金堂・金剛峰寺と早朝の境内を巡り歩いて、奥の院の駐車場に着いたのが7時30分。拝観の始まる8時30分まで、ちょっと寝るかと木陰に停めた車の中で仮眠…。つい寝過ごして9時になってしまった。いつの間にか、あたりは乗用車・観光バスがびっしりと停まっている。
 寝ぼけ眼をこすって、弘法大師御廟所「奥の院」へ向かった。駐車場から御廟所まではおよそ1.2kmの参道が続く。直径が2〜3mほどの杉の大木が並ぶ道の両側に、延々と墓石が続く。弘法大師のひざの中で、来世を過ごそうと夢見る人々の墓であろうか。道の両側に筋状に続くだけでなく、左右の杉林の奥深くに大きく広がって墓石が林立しているのである。福助
 墓石を見ながら歩いていくのが、また面白い。著名な会社の墓所も多く、従業員慰霊碑と記名された碑石と、その横に社長家の墓がちゃっかりと並んでいる会社もある。新明和工業の墓石はロケットだし、福助株式会社のそれはフクスケが座っている。
 10〜50坪ほどの広い敷地に大きな墓石は、大名諸家のものだ。筑前黒田家とか奥州伊達家とか立て札がある。豊臣家墓所と書かれた一角があり、豊臣秀吉の墓を見つけた。江戸時代には徳川家も手厚い庇護をこの山に加えていて、3代将軍家光が10年の歳月をかけて徳川霊台なる壮麗な御堂を建て、家康・家忠の霊を祭っている。
 さまざまな宗派の開祖の墓があったのも興味深かった。親鸞聖人とか浄土宗開基上人の墓所などと書かれている。陸軍第15連帯慰霊碑とかレイテ島玉砕者鎮魂塔などと記された墓標も随所に見られた。
 この墓所の一番奥に、この地で大師が入定(にゅうじょう)されたという真言宗の聖地「御廟所」がある。御廟前の拝堂には「貧者の一灯、長者の万灯」と言われる、全国から献ぜられた灯篭が火を点して輝いている。
 この灯篭に油を注ぎに来ていた若い僧侶に声を掛けてみた。「高野山では、お大師さんはご入定ということで、今も生きているままのお世話をされていると聞きますが、そうなのですか」。『真言密教の僧侶には、これが僧侶かと思われるほど、常人よりもだらしなく思えるものもいる。私が会った東寺の僧は、僧侶でなければ生きていけないと思われるほど、朝から酒を飲み、一日中寝っ転がっていて、雨を降らす修行をしているといっていた』と司馬遼太郎氏は「空海の風景」に書いていたが、私の問いに対してこの若い僧は、「はい、朝昼晩のお食事はお供えしていますが、実際には生きておられるということではございませんので…」と明快に答えてくれた。
 奥の院を後にして、金剛峰寺の拝観に戻った。この時間になるとたくさんの人が訪れていて、団体で参拝している人たちも多い。高野山の中の何々院という寺が信者を持っていて、大師講を企画して全国から参拝の人を募るのだろう。院はそれぞれに宿坊を持っていて、参拝客を宿泊させ、1泊2食をつけて何がしかの宿代をとるという旅館のような仕事もしているらしい。そういえばこの山内では、ホテル・旅館のたぐいのものは見かけなかった。
 その参拝客が総本山の金剛峰寺を参拝するというと、宿泊したお寺の住職などが付き添う。団体客は本山の僧侶の解説つきで寺内を見て回るのだが、一般の参拝客が入れないようなところも「ここは、ふつうは入れないのですが」などと言いながら少し案内したりして、付き添いの寺の住職の顔を立てたりしている。私は、その団体客にまぎれ込んで、皇室の勅旨が来られたときにのみ使うという開かずの間に入れてもらってきた。
 今考えてみると、金剛峰寺のご本尊は何だったのだろう。真言密教は大日如来が信仰の中心だから、ご本尊として安置されているのだろうと思うけれど、どこもかしこもお大師さんの軸や像が印象に残っていて、ご本尊の記憶がまるでないのである。
 最後に立ち寄った霊宝館は耐火耐震のコンクリート作りで、金剛峰寺と各寺の秘法が展示され、さすがにたくさんの仏様にお目にかかることができた。が、ここでも印象に残っているのは、少し左を向いた弘法大師坐像で、目線の正面に立つとその眼光の鋭さに射抜かれて、身のすくむ思いがした。写しであったが「三教指帰」が展示されていて、19歳の頃の空海の筆に触れることができた。

高野山・竜神スカイライン
 霊宝館を出たのが午後2時半。高野山の堂塔に別れを告げて、新緑のまぶしい山道をたどる。高野山の南50km、竜神温泉を目指してのドライブである。
 山中をぬって走る「高野龍神スカイライン」はすれ違う車もまばらで、カーブの多い割には走りやすい。車窓からの展望は山々がどこまでも重なり合って、高野の地は山深いことを思い知らされる。
 途中の茶屋で、山掛けそばを食べた。この道の左手の谷に、野迫川温泉という出で湯があると聞き、林道を下る。車がやっと1台通れる幅の道で、上りは車が吠え、下りは転げ落ちるよう。25分ほど下った川沿いに、1軒の温泉があった。湯量は豊かで、入ったときは誰も居ずに、ひなびた温泉気分を満喫していたところ、10分ほどするとどやどやと人が増えて、近くでの作業を終えた電気工事会社の人たち、リュックを持った山登りの帰りのグループ、高校生ぐらいの男の子が4人と、瞬く間に10人ほどになって満杯になってしまった。地元の人たちも、毎日通っているらしい人気の湯なのである。
 ぽかぽかとした気分でまた山道をとって返し、竜神温泉を目指す。この山道、曲がりくねっていてやはりずいぶん時間がかかり、知り合いが、数年前に行ったことがあって、車に酔ったしたので二度と行かん…と話していたのもむべないことかなと思った。
 竜神温泉へ着いたのは午後5時。日高川の河岸に沿って、30軒ほどの温泉宿が軒を連ねている。ここからは、西へ山道をぬって紀伊田辺・和歌山へ出るにも、東へ山を超えて新宮・熊野に出るにも、3〜4時間はかかる。覚悟を決めて、宿をとることにした。
 竜神の湯は、湯温も高くて水量も豊か。温泉としては申し分ないが、しかし、あまりに遠い。明日は和歌山に出て、紀伊大納言家の和歌山城に寄っていくことにしよう。



【21】「空海の風景」  (司馬遼太郎 中央公論社)   (5.30)


 「空海の風景」は、中央公論に連載されていたのを知っている。もう25年ほど前になる。私が「中央公論」を読んでいるのを見て、亡妻が付き合いに「婦人公論」を本屋に頼んで届けてもらって読んでいたのを思い出す。連載中のときはときどきめくってみた程度で、内容についてはほとんど記憶にない。
 今なぜ「空海の風景」かと問われれば、真言宗の開祖にして日本三筆の一、かつ大規模なる土木を行い、日本の各地に足跡をしるす天才「空海」の姿を通して、仏教世界に触れてみたいと思ったからということになろう。しかし、この書は、なまじ一人の僧の生き様を描くなどといったいわゆる小説などではなく、精密な筆による仏教という形而上思想の案内書であり、密教とは何かの入門書であり、唐王朝と当時の日本を描いた平安時代史であった。
 空海は、19歳のときに書いたという「三教指帰」において、現世的処世を説く儒教やあやかしの道教に比して、人間の生きることの意味を問う仏教の優位を説く。
 のちの空海の体系における根本経典というべき「理趣経」についての記述は、衝撃的である。「妙適清浄の句、これ菩薩の位なり。欲箭清浄の句、これ菩薩の位なり。蝕清浄の句、これ菩薩の位なり。愛縛清浄の句、これ菩薩の位なり」。妙適とは唐語で男女が交合して恍惚の境に入ることを言う。以下は推して知るべしであるが、この「理趣経」は、今、奈良の東大寺において朝晩の勤行に最も多く読まれるお経であるという。
 諸国の山野を宇宙の真理を求めて行脚した空海は、土佐の室戸岬で星の光が体内に飛び込む異体験をする。役の小角の修験道のように部分的に民間に伝えられていた雑蜜を集めて自ら組織化し、行法を憶測してそれを修め、諸寺の経蔵をむさぼるように学んで、自分なりの密一乗の世界を構築する。
 そして渡った唐において、密教の2つの系統である大日経系と金剛頂経系とのただひとりの相伝者である青竜寺の恵果から正密のすべてをゆずられ、真言密教第8世の法主になった。
 帰国してのち空海は、新しい仏教である密教の正当な伝承者として真言宗を開き、平安朝に活躍する彼は多忙である。思想書「十住心論」、詩文解説「文鏡秘府論」、字書「篆隷万象名義」などを著すとともに多分に伝説であるところの「いろは」と五十音図を製作したという。もちろん真言密教教団の形成に努め、また庶民の学校「綜手芸種智院」を開校している。
 終章に向けては天台宗開祖の最澄との交流などが描かれていくが、空海の経典を借り出して密教を書物から学ぼうとする最澄に対して、密一乗をきわめるには行を修め相伝による伝承しかないとする空海の態度は次第に冷たく、この後のことは歴史のとおりで十分であろう。

 43歳のとき、都の喧騒から遠く離れた紀伊国高野の山に修法の寺を立てたいと、ときの嵯峨天皇に請願する。勅許を得て建てたといえ高野山は空海の私寺で、これから空海の死まで19年の歳月のうちも堂塔伽藍の造営ははかどらなかった。この頃の高野は、宗教都市というべき華やかさをみせる中世末期の最盛期の100分の1も整えられてはいなかったというが、空海は高野の寺にみずからが描く密教世界を見たのであろう。あるいは時として赤青に彩られ建立される新寺の建設に、長安の風景を垣間見ていたのかもしれない。



【20】 「空想科学大学」  (江田康和 宝島社)   (3.20)

 先日、奈良のとある喫茶店に入って、コーヒーを飲む間に読もうと、店の本棚から少し分厚い本を取った。ほかにおいてあった本が、もう読んでしまった漫画週刊誌とか女性誌とかであったので、それらの本の間に置かれていたこの本を手に取ったのだが、1ページの1行目から面白くて、運ばれてきたコーヒーの存在も忘れて読み耽ってしまい、我に返ったときには、せっかくのブレンドコーヒーがぬるい濃褐色の液体になっていた。

 何がそれほど面白かったのかというと、筆者は、ゴジラ・ウルトラマンなどの空想科学映画の主人公や、アトムやキャンディキャンディなどアニメのアイドル達に焦点を当てて、彼らの偉大なパワーに科学のメスを入れるのである。

 例えば、ウルトラマンは地球上では3分間しか活動できないのはあまりにも有名な話だが、それではエネルギーの補充はどうするかというと、ウルトラマンジャック(帰ってきたウルトラマン)は、なんと太陽のそばまで行って補給していた。

 そこで、このとき補充するウルトラマンのエネルギーを計算してみると、太陽のそばで(そばというと、大ざっぱな書き方になるが、この本では太陽の質量は地球の33万倍、表面の重力は地球の28倍で、太陽の引力圏から、ウルトラマンの准進力でも脱出できなくなるのは、太陽表面から180万Kmの地点…とチャンと書いてある)エネルギーの補強を受けるのだが、体重3.5万トンのウルトラマンは4万トンの怪獣ガバドンを抱えてマッハ5で飛ぶことができたから、その最大出力は1秒間に1.2×10の12乗ジュール(16億馬力)。3分間闘うと原爆6個を爆発させたエネルギーを使うという。

 これを太陽の108万Kmまで行って補給すると、ウルトラマンの表面温度は銀をも溶かす2300度になるが、それでも20時間36分もかかるのである。それでは危険をおかして太陽に近づいた甲斐がないんじゃないかって? 仕方がないのだ。地球上では1367万8630年もかかるので全然話にならないのだから。

さらに往復のエネルギーはというと、行きは太陽の引力に引っ張られるからむしろ楽なのだが、帰りは太陽の引力を振り切って地球まで帰らなければならない。このエ充電中のウルトラマンネルギーはどのくらい必要なんだというと、ええっ! 1.9×10の18乗ジュールものエネルギーが要る。ばかばかしいがウルトラマンジャックは戦うためのエネルギーどころか、まずこのエネルギーから何とかしなければならない。この補充には、太陽から108万Kmのデンジャーゾーンに踏ん張りつづけても、20年と320日かかってしまう。

その間地球はどうなるのだろう? ベムスターに滅ぼされているに違いない。あるいは、ベムスターが待ちくたびれて帰ってくれるかもしれないが。

 というところで、右のようなイラストが入っている。待ちくたびれて、「おっせーよ、どこ行ってんだよ。帰るぞ、オラー!」と煙草をくゆらせて怒っている怪獣が面白い。

 あっ! もう一つ重要なこと。地球から太陽までは光速でも8分19秒かかるのだ。ウルトラマンジャックはなぜか、通常の飛行形態になって飛んでいた。残り少ないエネルギーの節約にしても、マッハ5では3年と127日かかってしまう。往復で6年と254日だ。

 これら全てに必要な時間を計算すると、27年209日20時間36分である。こりやあもう、ウルトラマンに頼ってはいられない。地球は僕らの手で守らなきゃあ! … というのが、ウルトラマン編の概要である。

 さらに、「ガメラの吹く火球は東京都を蒸発させる」「何を食べても原子エネルギーになるドラえもんがドラ焼きを一つ食べると地球が吹っ飛ぶ」「となりのトトロに登場するネコバスの衝撃は震度6」「うる星やつらのラムちゃんが放つ100万ボルトの電撃制裁はわたるを黒焦げにするが、50ボルトに手加減してもアタルくんは無精子性になる危険がある」「大きすぎる目を持つキャンディキャンディは視界300度、常人の16倍の集光力で、昼間はサングラスなしでは絶対に外出できない」などと続く。

全編26話がこの調子で、全て数字を駆使しての科学解説書なのである。しかも、筆者は、東大理T時代に物理学・生物学に加えて、アニメ・ヒーロー・怪獣学を専攻したと言う空想科学大好き人間なので、「そばかすっなんて気にしない…ったって、見えすぎる目を持つキャンディの心は痛む」と解説の行間から主人公に対する愛情があふれている。

 冷めたコーヒーを飲み終えても、まだ5分の1も読み終えていなかったので、店主のおじさんに交渉して、定価1200円のこの本を1000円で譲り受けてきた。



本のムシ 第1ページへ  本のムシ 第2ページへ  飯田 章のホームページへ

 今年になってから今日3月21日までに買った本は、ざっと数えて67冊。そのうち完全に読んだのは11冊で、一部読んだのは31〜2冊。ということは、25冊ほどは、買ってきただけ!
本のムシ
3ページ