【102】 駒ヶ根の紅葉  ― 錦繍の千畳敷カール ―          2006.10.03


 台風16号に刺激された秋雨前線が、日本列島の上に雲を居座らせている。長野県上松町の天気をチェックしていたインターネットの天気予報に、かろうじて今日だけ、昼間は晴れ・晴れ・晴れの太陽マーク…。

駒ケ岳ロープウェイ 8時、菅の台駐車場に到着。バスに乗り替えて、ロープウェイ駅まで30分少々…。
 駒ケ岳ロープウェイは、しらび平駅(1662m)から千畳敷駅(2612m)まで、標高差950mを8分で登る。秒速7mの速度は、標高差とともに東洋一とか。


← ふもとのほうは、まだ緑色が濃い

                     










 登るにつれて、
     色鮮やかな紅葉が ↓→

 







 千畳敷駅近くになると、見渡す限りの紅葉の向こうに、宝剣岳など中央アルプスの峰々が顔をのぞかせる。






 ロープウェイの駅舎を出ると、目の前に千畳敷カール…、約2万年前、氷河が削って出来た地形である。
 視界いっぱいに、錦織りなす 天上の秋が広がっていた。






































             


 ここ千畳敷カールの紅葉は、赤色…。夏を彩った高山植物などの草花が黄色く色づき、その上を覆うナナカマドやダケカンバなどの木々が葉を真っ赤に染める。
 鮮やかな赤色が、ハイマツの深い緑と対比されて、きれいなパッチワーク模様を描く。      

                           


 千畳敷カールには遊歩道がしつらえられていて、40〜50分で一回りすることが出来る。もちろん途中で、駒ヶ根市から伊那盆地を一望する眺めにひたるもよし、剣ヶ池に映る宝剣岳を仰ぐのもよし、時間は幾らあっても足らないというのも事実だ。
 この遊歩道は上り下りがあまりないから、楽に回ってくることが出来る。

                  


← 伊那盆地遠望。
  手前は
   駒ヶ根市街、

  その向こうには
  南アルプス


        











                          
 千畳敷カールを歩いたあとは、宝剣岳を目指して山登りだ。
 章くん、いつものサンダルを履いてきてしまった。しかし、ほんの1ヶ月前、カナディアン・ロッキーすら、このサンダルで踏破したのだ。宝剣岳(2931m)ぐらい、軽い軽い。

            









 千畳敷駅は2636m、駒ケ岳へ登るにはカール分岐(2639m)〜八丁坂〜乗越し浄土(2856m)分岐〜宝剣岳〜中岳(2925m)〜駒ヶ岳(2956m)と高低差は320m、歩行距離は4Km、所要時間は往復で約4時間とある。
 時刻はすでにお昼前、下りのロープウェイの最終は午後5時、まぁ行けるところまで行ってみることにしよう。

                                   


 喘ぎながら、「八丁坂」のガレ場の登りをおよそ1時間。たくさんの人に抜かれながら登っていくと、「乗越し浄土」に出る。ここから右へ行けば伊那前岳、左へとると宝剣岳を経て木曽駒ヶ岳の山頂だ。


                 「乗越浄土」分疑点 →

     




← 乗越浄土から望む伊那前岳の山頂



 乗越浄土から、駒ケ岳までは1時間少々、章くんならば2時間…。今から往復していてはロープウェイの最終に間に合わない。しかし、宝剣山頂までは30分、章くんの足ならば40〜50分といったところか。


 山の天気は変わりやすいというが、今まで視界が開けていた山の尾根は、ふもとから沸き立つ雲に見る見るうちに覆われ、あれよあれよという間に視界がさえぎられてしまう。

                               
宝剣岳前のガレ場 乗越し浄土の分岐から、宝剣の山頂は見えている。そこまで行こう…と行ってみたのだが、途中でガスがかかって視界もあやしくなってきた。


       ガスにかすむ、宝剣山頂 →


 こんなガスは問題でもないのか、まだたくさんの人が登っていくけれど、みんな重装備…。サンダル履きの人は居ない。


 宝剣は目の前…、しかし、登山家の理性(? …体力もかなりへばっていたという説もある)でもって、章くん、引き返してきた。

           
 ← 八丁坂の下り


   ↓ ガスの切れ目に ロープウエイの駅が見えている


  













  登りは1時間…、
   降りは30分。

                
 氷河が削ったカールに、見渡す限りに敷き詰められた、強烈な赤色の光景…。どこまでも鮮やかに赤く、大きなスケールを一望できる紅葉である。




← 剣ヶ池から
 宝剣岳を望む




    鮮烈な紅色の
      ナナカマド →





 ここ、千畳敷カールの紅葉は、そろろそろ終わり…。これから秋はゆっくりと山を下って、11月のなかば、およそ1ヶ月半をかけて里に達する。




【物見遊山101】 奈良万灯会  真夏の夜の「ならプロムナード」   2006.08.14-16


 焦げつくような奈良盆地の夏…。灼熱の古都に、盂蘭盆会に里帰りして追善の供養を受けた精霊をふたたび黄泉の国へと送る、一片の風物詩がある。「奈良万灯会」…、東大寺や興福寺などの仏閣をライトアップ、露地に灯籠を点し、大文字のかがり火で故人の霊を彼岸へと送る催しだ。
万灯会会場で準備を手伝う鹿くん
 飛火野の公園広場に、数千個の露地灯籠が並べられ、午後6時30分の点灯を待つ。
猿沢の池と興福寺五重塔

← 万灯会会場で準備を手伝う
  鹿くん



 夕食を済ませてから、奈良ホテルを出て坂を下り、猿沢の池から興福寺五重塔のライトアップを仰ぐ。


       猿沢の池から興福寺五重塔を見上げて →
          (ケイタイ画像です)

                   
東大寺ライトアップ




 ゆっくりと坂を登り、東大寺へと向かう。大仏殿の大屋根の両端に座る大鴟尾(しび)が、ようやく暮れようとしている宵闇の空に、金色に輝いていた。


← ライトアップされた東大寺


             
 
 大仏様へのご挨拶はまたのちほどに伺うとして、飛火野を抜ける坂道を登り、春日大社へと向かう。今宵は、節分の日とともに年に2回、境内の全ての燈籠に火が点される。
 春日大社は平城京の守護のために建立され、その後は藤原氏の氏神として保護されてきた。境内の3000個におよぶ燈籠は、800年の昔より1200年間に渡って、藤原氏を始め広く国内外の信奉者によって奉納されたものである。
 全ての燈籠に一斉に火が入れ春日大社 万灯会られると、回廊沿いの御手洗川の川面に映える灯影が揺れ、幻想の世界が現れる。

  ↑ 春日大社表門


   一斉に火が点された 3000個の吊り燈籠 →



 飛火野の南を回り、「ささやきのこみち」を歩いて、鷺池へと向かう。


 鷺池に浮かぶ浮御堂(大正期建立)は、猿沢の池と並んで、奈良プロムナードの中の、水辺の風景である。橋を渡って御堂まで行くと、水面を渡る風が頬を撫でて、涼しく快い。


← 鷺池に浮かぶ 浮御堂 

                         
浮御堂の向こうに浮かぶ大文字送り火 

 時刻はちょうど午後8時、御堂の背後に山容を浮かべる高円山(たかまどやま)の「大」の文字に火が入った。京都の大文字に一日先駆けて行なわれる「奈良大文字送り火」である。


          高円山の大文字送り火 →


 
奈良万灯会 飛火野の送り火
洋雲園地の燈籠群
 浅茅が原を横切り、露地燈籠の灯りが揺れる奈良国立博物館の前を通って、再び東大寺へと戻った。
 参道から南大門、その両脇に鎮座する金剛力士像も、今宵は光の世界の中に浮かび上がる。
 境内も敷き詰められた燈籠の光に溢れていた。仰ぎ見る大仏様のお顔も、太平の世の光のページェントにご満足の面持ちであった

                       
東大寺ライトアップ











            
東大寺 万灯供養会






  ↑ 南大門前のライトアップ


         境内に溢れる燈籠の光 →








【100】 伊吹山 お花畑  ― 曇り ときどき 霧 ―        2006.07.12


 「12日、伊吹へ行こう」と言っていた同級生の鈴木 聡から、前夜の午後11時になっても連絡がない。曇り…の天気予報なので、てっきり中止かと思い、それから出かけたら、日付が変わろうかという11時55分にケイタイへ電話が入った。「明日、行くよ!」。2時過ぎに家に帰り、寝たのは3時を回っていた。だから、睡眠不足の登山行だ。
ミヤマアジサイ



 午前9時、出発。途中、コーヒー休憩を取って、11時30分、伊吹山ゲートへ着く。
 20分ほどのドライブで、1200m(?)ぐらいの地点にある駐車場へ到着。ハイシーズンなのに、平日で曇り空のせいか、車の数はまばらだ。
 山小屋で山菜うどんと山菜の小鉢を平らげ、いざ出発。山頂まで標準40分と示されている西遊歩道を、1時間30分かけてゆっくりと登っていった。
 歩道の両側には、キリンソウ、野アザミ、イブキトラノオ、シモツケソウなど 初夏の草花が可憐な花を咲かせている。その向こう側には、晴れた日ならば湖東平野から琵琶湖の湖面が広がっていることだろうが、今日は生憎の厚い雲…。山あいから湧き立つ霧が山肌を通り過ぎていき、ときどき霧の中の山中行を余儀なくされた。
                  
伊吹山 2006夏












































 頂上に着き、暫し休憩…。三角点(1377m)、日本武尊(やまとたけるのみこと)像、測候所などを見て歩き、売店でソフトクリームを買った。山頂付近
 「なんで、日本武尊の像があるんだ?」…。東征の旅から大和へ帰還する途中のヤマトタケル一行は、伊吹山中にて悪鬼魔物と戦い、タケルは傷つき病を得て、三重県亀山の登褒野にて絶命する。ヤマトタケルが伊吹に入った時期は判らないが、伊吹山は12mという世界最高の積雪量を記録している山である。おそらく日本武尊たちは遭難したのではないか。その受難を慰めるための碑が、山頂に建てられている。    


 ガイドブックには「厳しい自然のために、それほど高くはない山ながら高木のない伊吹山頂付近は木陰が乏しいので、夏の登山には日よけ対策が必要」と書かれているが、曇り空のせいもあってか、今日の山頂は涼しかった。           
野アザミの群生 約1時間…、辺りを散策して山の涼気をいっぱいに吸い込んだあと、東側斜面を大きく迂回していく、東遊歩道を歩いて、降りていくことにした。
 遠回りの行程のためか、行く人の影も少なく、その分、両側の草花が歩道に茂り出して来ていて、道幅を狭めている。野趣豊かで、自然の趣が色濃く残っている一帯であった。


 約60分と表示されていた道を、「これはオオバギボウシ、ショウジョウスゲ、メタカラコウ…」などと、山頂の売店で買ったガイドブックと見比べながら、2時間をかけて降りてきた。


  遊歩道案内 → http://www.ibukiyama-driveway.jp/flowers/index.html

                           
東遊歩道沿いのお花畑 花の盛りは7月末から8月の初めとか。また、その頃に訪れることになりそうである。


 帰りは桑名市へ出て、「柿安」で夕食を済ませた。「七里の渡し」あとの水門を渡り、「船津屋」などの家並みを眺めながら、本町界隈を歩いてきた。「石取り祭り」の幟りが掲げられ、夏の盛りがそこまで来ていることを告げていた。





【99】 吉野山 新緑                         2006.04.28


 昨夜、ニュースステーションで、「超低空カメラで撮った、吉野山千本桜」と題し、モーターハングライダーから撮った吉野桜を映し出していた。
 先日、京都太秦の広隆寺を訪れ弥勒菩薩にお目にかかったので、今日は法隆寺の百済観音と中宮寺の弥勒菩薩(以前は如意輪観音といっていた)のお顔を見たくなり、昼過ぎ、奈良を目指して出かけた。
 途中、針インターで、昨夜の吉野桜の映像を思い出し、「もしかしたら奥千本に少し残っているかも」と方向転換…、吉野山へ向かった。
 2時過ぎに着いた吉野山は、全山一面の新緑! 桜は…もうない。


    すっかり若葉に衣替えした吉野山
        「如意輪寺」付近にて  →


            
奥千本 金峰神社

 山の上のほうは、まだ花が残っているかもしれない。「奥千本はどうかな…」と外側の道路を走り、下千本・中千本を通らずに、とにかく上へ上へと向かった。
 最奥「金峰神社」、鳥居下に車を置いて坂道を登りはじめたところ、あまりの急勾配に息切れ…。


← 奥千本 金峰神社


 やっとたどり着いた「金峰神社」、ここの桜ももうパラパラ。この奥の西行庵の桜は、南側斜面にあるので、ここよりも早いという。吉野は桜の季節を終えて、新緑へと装いを替えていた。




 ゆっくりと降りてくると、上千本と呼ばれる集落の道沿いに「水分神社」があった。豊臣水分神社の枝垂れ桜秀頼によって再興された本殿に鎮座する「天之水分大神」は、水を司る神様である。
 吉野山はふもとから奥までの標高差が約600mほどあることから、桜の花は下千本〜中千本〜上千本〜奥千本と、ふもとから山頂に向けて咲き登っていく。
 毎年4月3日、ここ「水分神社」で五穀豊穣を願う「お田植祭」が行なわれるが、花期の早い境内の枝垂れ桜は、ふもとの桜の開化と時を同じくして咲き、お田植えの神事のお囃子が峰々にこだますると、吉野山の桜は満開の季節を迎える。
 今日はもう、枝垂れ桜はきみどり色の葉芽が付き出していて、花はまばらにしか残っていない。その前にある白い牡丹桜が、大きな花をつけていた。



 車一台がやっと通れるような道幅の、結構勾配の急な下りが続く。ほどなく、道の左手に「展望随一」の看板を見つけた。『花矢倉展望台』だ。
 狭い入口をグィッと切って入っていくと、一台の車もいなくて、茶店も閉まっている。営業中ならば、駐車料金も要るのだろうか。でも、今日はタダ。「席料お1人500円」と書かれた茶店に陣取って、大パノラマを独り占めである。
 西南に開けた展望は、眼下に中千本、下千本一帯…、蔵王堂を中心とする吉野山の伽藍を収め、その向こうには山深い奥大和から紀伊の峰々が幾重にも重なっている。
 花の盛りには、山肌をピンクに染めた桜の絨毯が広がることだろう。


        



































                      








← 中千本の桜並木も若葉の季節を迎えていた。



吉野葛 黒蜜でね! 





         蔵王堂前の茶店で、「葛きり」→
           黒蜜の甘さがしみわたる。



                              
蔵王堂




← 金峰山蔵王堂




 茶店で、ちょうど5時のチャイムが鳴っていた。
 ゆっくりとお茶を飲み、20分ほど過ごしてから「蔵王堂」へ登ってみると、拝観は既に終了していて、僧侶たちの読経の声が響いている。夕方の勤行が始まっているのだろう。
 拝観終了の立て札の横から、そっと階段を上がって、お堂の縁側から中の様子をのぞいてみた。一心に経を唱える僧侶の肩越しに、立ち上る炎が見える。この寺は、役の小角以来の修験道を伝える道場であった。


 奈良や大和の都を近在に控えて、吉野は歴史のページにさまざまに登場している。
 神武天皇東征の熊野から吉野を通っての大和入り(古事記)。
 応神天皇を歓待した吉野の国主(くず)の話(古事記)。
 大海人皇子(のちの天武天皇)の吉野山隠棲と挙兵(壬申の乱)。
 源頼朝の追討を受けた義経・弁慶らの吉野山逃避行と静御前との別れ(鎌倉)。
 大塔宮護良親王が鎌倉幕府倒幕のために、河内の楠木正成と呼応して吉野で挙兵。
 後醍醐天皇の吉野山での南朝擁立(南北朝)。
 秀吉の勘気を受けた関白秀次の吉野山追放と切腹(安土桃山)。
 こうして吉野山は何度もの戦火に見舞われ、「歌書よりも軍書に悲し吉野山」と歌われている。


 礼拝して境内を巡っていると、読経は太鼓の連打から法螺貝の音に変わり、ボオーボオーという何かを告げているような音が、山々の峰から谷あいへと降りていった。





【98】 信州伊那 高遠城の桜                       2006.04.26
                                         
高遠城跡公園 
↑ 高遠城址公園
 
 毎春、信州伊那の高遠城址には可憐なコヒガンザクラが咲き誇るが、これは明治8年、荒れ果てたままになっていた城跡をなんとかしようと、旧藩士たちが植樹したのが始まりという。ところ狭しと植えられた桜は咲き誇ると、その稠密度で空が見えないといわれている。
 東海、近畿の桜は、みんな葉桜になってしまった。ならばちょっと北へ足を伸ばしてみようと、高遠まで走ってみた。
 高遠の桜は、10年ほど前に訪ねたことがある。最初のときは、評判に期待がパンパンに膨れ上がり、来てみると「それほどでもないなぁ」ということになりがちだが、2回目となると余裕で、歴史に彩られた高遠城の姿をのぞくことが出来た。
 もう、高遠は満開が過ぎて桜吹雪…。桜の下を歩くと、花びらがはらはらと肩にこぼれ落ちた。   
中門前の堀にかかる 桜雲橋
↑中門前の空堀にかかる桜雲橋

 高遠城は、月誉山の西丘陵を利用して築かれた、戦国様式の山城である。伊那市内で天竜川に合流する三峰川が切り出した懸崖の地にあり、流れが城の南の広がりに造った高遠湖を見下ろす景勝の地にある。
 甲斐の国へ通じる街道の要所に位置し、伊那盆地を睥睨する政治上の要衝でもあったこの城には、戦国時代末期、この地を治めた武田信玄の四男勝頼(のち竹田家当主)、五男仁科盛信が入って南信支配の拠点とした。
 信玄亡きあと、長篠で勝頼が破れて武田軍は壊滅。勝ち誇った織田軍は、怒濤の勢いでこの城へと押し寄せる。和睦を拒否し、城を枕にして盛信以下の将兵三千は全て討ち死に。高遠の桜が紅いのは、このとき流された血を吸った大地に根付いた木に咲く花だからともいう。


 関が原の戦いのあと、城代として京極高知がこの城に入っているが、この高知の兄が小浜城主の京極高次であり、浅井長政の遺児三姉妹の二女お初を正室としている。
 なぜ、お初にこだわって書いているかというと、僕は長年の間、高次がこの高遠城の主で、戦国の運命にもてあそばれた浅井三姉妹のひとりお初が、他の二人(長女は茶々…のち秀頼生母の淀君、三女は徳川二代将軍秀忠の正室)のすざまじい生涯に比べて、この桜の下で安穏のうちに生涯を閉じたのかと、正直ほっとした気持ちを抱いてきたからである。
 ところが、この城に入ったのは、高次の弟の高知で、お初夫妻は高遠には来ていなかったのだ。
 お初は高次の正室として、居城は小浜城であった。彼女は他の二人の姉妹に比べると、歴史のひのき舞台に躍り出ることはなかったけれども、京極家
江戸小彼岸桜
↑ コヒガンザクラ  
  花は小粒で、ピンクが濃い
の正室として生涯を全うしている。ただ、自ら好まないとしても、数奇な運命の境遇を生きなければならなかった彼女は、大阪夏の陣・冬の陣では徳川方からの使者として淀君説得に出かけているし、豊臣家の最後を見届け、秀頼の遺児国松の遺骸を引き取り埋葬をしている。
 夫を47歳で亡くしたことも不幸であったが、余生を常高院と称して江戸の京極家上屋敷で過ごし、遺骸は若狭湾を望む常高寺に眠っている。


 城の南西角に、高遠湖を見下ろす展望を持つ屋敷がある。江戸幕府大奥を震撼させた、大年寄り「絵島」が、高遠流罪を受けて生涯を過ごした屋敷である。
絵島囲み屋敷
↑ 絵島囲い屋敷
 絵島は七代将軍家継の生母「月照院」に仕えた大奥女中。32歳にして大年寄りとなる異例の出世をして、大きな権勢を持つに至ったのだが、上野寛永寺への墓参の際、山村座に評判の役者生島新五郎の舞台を見に行き、江戸四条大奥の閉門時間に遅れてしまうという失態を起こした。
 時は1714(正徳14)年、7代将軍家継の時代であるが、将軍が幼いことから、前将軍6代家宣の正室天英院が大奥に留まっていて、家継の生母(家宣の側室)月照院とは幕閣の重臣を巻き込んでの主導権争いを繰り広げていた。絵島の失態はその争いの材料に使われた嫌いがある。
 公務をおろそかにしたという咎によって、絵島は捕らえられ信州高遠に流罪(高遠藩お預け)、生島新五郎は八丈島に流され、山村座は取り潰しにあった。絵島を預かった高遠藩では、城内の一角に屋敷を建て、絵島の生涯を看取ることとなる。
 歌舞伎や映画の「絵島生島」では、着物のつづらに生島が隠れて大奥へ出入りする場面が描かれたりしているが、それは多分に創作で、政争の道具に使うために、ことを大きくデッチあげたというのが真相であったのではないだろうか。
 絵島はその後の28年間をこの地で過ごし、1741(寛保元)年61歳で没した。後年、悲劇の絵島をしのんで、多くの文人墨客がこの地を訪れている。大正5年、田山花袋は桜の古木の下に眠る絵島の小さな墓に手向けて、『縁(えにし)なれや 百年(ももとせ)ののち 古寺の 中に見出し 小さきこの墓』と詠んでいる。




← こぼれ落ちた花びらで 水面が覆い尽くされた池。
    池があるとは判らずに、落ちるところだった。










 夜には名古屋へ戻って、名古屋駅近くのkuk-kik noodle(クックヌードル)で、タイ料理を食べることにした。先日のタイ旅行で出あった奥深い味が、舌の奥のほうに残像を描いていて、美味しいタイブランチ料理を探せとうるさい。
 出てきた料理はまずまずのもので、いずれも食材良し、味も香りも、微妙なスパイスも満足のいくものだったけれど、先日のタイで出会った味とは何かが少し違ったのは、あのタイの暑さの中で食べるのとの違い…だろう。




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