【159】 古都に春を告げる 東大寺二月堂のお水取り           2009.03.10


 天気もいいし、お昼から奈良へ走っていった。3月1日〜14日の間、東大寺二月堂で修二会が勤められている。12日には若狭の井戸から清水が汲み上げられ、大松明が舞台の欄干に勢揃いするクライマックスを迎えるが、その夜の人出は数万人とか。二月堂前の広場の収容人数は3000〜4000人とのことだから、お堂に近づくどころか、立ち止まることもできないと聞いて、今日、出かけたのだ。

  奈良公園のお約束…鹿さん
  小鹿はおとなしくて、人に
  近づいてこない

  広沢池からの
   興福寺五重塔【拡大】



 東大寺横の大仏前駐車場へ車を入れたのが、午後3時。鹿せんべい(150円)を買って大仏殿への参道を行くと、たくさんの鹿が寄って来て、コートをくわえて引っ張り、体当たりを食らわし、僕の鹿せんべいはたちまちのうちに奪い取られてしまった。


 
  久しぶりの大仏様は、ご機嫌麗しきご様子です【拡大】 →


 大仏様に参拝したあと、南大門脇の茶店に入ってコーヒーを飲み、どら焼を食べた。

↑ 二月堂


← 午後5時、二月堂へ到着。お堂へ上がって、堂内を拝観することができた。


 若草山に至る登り勾配の高台に懸崖作りに立てられているお堂からは、暮れていく奈良盆地が一望される。

  

 

← お堂の下には、すでにたくさんの人たちが集まって
 いました。



 でも、まだ5時40分。ちょっと小腹が空いてきたので、二月堂の前の「絵馬堂茶屋」に寄って、にしんそばと柿の葉寿司をほおばっって、夜の冷え込みに備えた。




 6時10分、腹を満たしてお堂下へ行ってみると人波で詰まっていて、囲いの竹矢来をたくさんの人が取り囲んでいる。「しまった、『そば』食べてるときじゃなかったか」と思いつつ、人ごみを分けて囲いの出入り口まで行ってみると、係員の姿も見えず、入り口は開いていたので、スルリと中へ滑り込んだ。
 さらに人混みを掻き分け、懸崖を登って、欄干の下へとたどり着く。7時の松明着火まで、あと30分…、風もなく人波に囲まれているから、さほどの寒さもない。


 7時、あたりの明かりが全て消され、暗闇の中に二月堂のお堂の軒下に吊るされた灯篭のロウソクの灯ばかりが浮きあがる。ジャンジャーンと半鐘の音が響き渡る。
 と…、左の階段下に赤い炎が現れ、石段を駆け上がってお堂の左手から堂前の廊下に出て、欄干から燃え盛る大松明が夜空に高々と突き上げられた。
 孟宗竹の先につけた杉の大玉に油を染ませた大松明は、バキバキと音を立てて夜空を焦がしていく。お堂の庇が燃えるのではないかと気遣うほどの、火の勢いだ。


    舞台の欄干から突き出された大松明【拡大】


 夜空に突き出されて「これは今宵このあたりを照らす大松明にて候…」と口上を述べた大松明は、欄干の間際まで引き込まれて、今度はそこでグルングルンと回されて大見得を切る。
 激しく回される大松明からは燃え盛る大玉からこぼれた杉の小枝が炎を上げながら、滝のように糸を引いてしたたり落ちる。
 堂内では「韃靼の妙法」が行われているのだろうか。ダンダンと激しく床を踏み鳴らす音が聞えていた。


 ← 舞台の上で激しく身震いする大玉。【拡大】
   左下に、次の大松明が上がってきています。



 しばし、舞台の左手で見得を切っていた大松明は、しばらくするとバラバラと火の粉を落としながら、一気に右端へと運ばれる。そして舞台右手に止まってまた身を震わせ、燃え残りの杉玉を激しく下へと落とす。
 華やかな炎の乱舞と、人々が待ち受ける位置で振られる大松明の演舞に、見上げる参拝客から拍手が湧き起こる。


 クルクルと回りながら廊下を走る松明から間断なく火の粉が落ちる見事さを見せると、「うわぁ…、あれはベテランさんやね!」と賞賛の声。
 時には振りすぎて、燃え盛る大玉が大きな塊りのままドスンと下に落ちることもある。下に控えた消防の人たちが、箒を持って急いで駆け寄り、はたいて消す。「あれは新米や」と観衆の評は手厳しい。


    滝のように降り注ぐ、大松明の火の粉【拡大】 →



 合計11本の大松明は次々と掲げられて、7時20分、終了! 


 大松明のあと、再度お堂へ上って参拝…。お堂下や石段で、みんなが何やら拾い集めている。聞いてみると、杉玉の燃えた残りを拾っているのだとか。懐紙に包んで身につければ、「厄除け」になるのだろう。
 本堂右手の小戸が開けられていて、くぐって中に入ると、勤行の行われている堂内の隣の部屋に入ることができた。帳が下ろされていて、中の様子は見ることはできないが、ろうそくの明かりがこぼれ、読経の声をもれうかがうことができた。


← 大松明のあとの、お堂の中


 かすかな明かりの中に身を潜めて、低く響く読経のリズムに身をゆだねていると、湧き上がる有り難い思いが全身を包む。これが、1258年続くという伝統の力だろうか。


 古都に春をもたらす伝統の行事は、12日の水汲みをクライマックスに、14日に幕を閉じる。
 厳しい寒さを耐えた大和盆地に、春の花が咲き始める。




【158】 春 見っけ、その2!  −多気郡多気町仁田−       2009.03.06


 国道42号線を松阪市内から南へ約15分、多気町仁田の交差点を過ぎたところの大きな右カーブを曲がりきったところ、道の右手に「佐奈神社」が鎮座する。


 その入り口の鳥居の横に、満開のピンクの花をつけた木を見つけた。桜かな…?












← 桜かな? 【拡大】
 





 


 
   
 幹には黄緑色の若い葉がついていて、その下に、小さなたくさんの花が垂れ下がるようして咲いている。 【拡大】


 


 葉と花が一緒に出ているところから、日本の各地に古くから咲いていた里桜かと思って調べてみたのだが、「普賢象(ふげんぞう)」「関山(かんざん)」などといった古くから知られた代表的な品種は、色は濃紅色であでやかな美しさがあるが、花は大形の八重咲き…。この花は一重だ。 
【拡大】



 
 そんな中で、「御車返し(みくるまがえし)」という、なんとも雅な名前の桜の写真を見つけた。      →


 一重と八重の花が混在するのが特徴だとある。
 車上でこの花を眺めた人が一重か八重かで言い争い、車を引き返した事が名前の由来とされている。車はおそらく大路をゆるゆると進む牛車だったのだろうと思う。


 多分この「御車返し」だろうと思うのだが、正確なところはわからないから、近日、多気町役場か佐奈神社の社務所へ問い合わせてみようと思っている。


3月9日(月)追記

 多気町役場に問い合わせてみた。「調べてご連絡します」と丁寧な対応ののち、しばらくしてから農政商工課のKさんから電話をいただき、「『ソメイヨシノ』です。農政課にも確認しました」とのご返事を頂戴した。
 「ありがとうございました」と電話を切ったが、… 僕は今のこの時期に溢れるばかりに咲いていることと花の形から、早咲きの何かの品種だと、まだ思っている(失礼、苦笑)。
 もう少ししつこく関係各方面へ問い合わせてみるつもり…(嫌がられそう。多気町役場の皆さん ゴメンナサイ!)。



【157】 梅は咲いたか 桜はまだかいな −鈴鹿で見つけた満開の桜−  2009.03.03


 ということで、昨日 結城神社の梅をアップしたところなのに(見に行ったのは、2月26日でしたが)、今日は桜の報告です。
 (写真をクリックすると、拡大画像にリンクします。)


 鈴鹿市の箕田町を走っていたところ、道端に見事な花をつけた桜の木を見つけました。
 それほど大きくはない若い木でしたが、いっぱいに花を咲かせていました。
 少しピンクの濃い、小さめの花弁です。


 先日来の記録的な暖冬から一変して、昨日今日は真冬に逆戻り。
 南下してきた寒気団によって、東京に雪が積もりました。


 鈴鹿にも 冷たい雨がポツリポツリとこぼれていましたが、でも小さなピンクの花びらは元気一杯…!


 春は そこにもここにも…やって来ていますね。





【156】 結城神社の梅 満開!   2009.02.26


 先日から前を通り過ぎていた結城神社の生垣から、梅の木が花をつけているのが垣間見られました。そろそろ見ごろなのかなと思い、今日は境内を訪れてみました。


 結城神社の縁起や歴史は、
先の項【参照】に記していますから、今日は梅の花の写真を中心に紹介します。写真をクリックすると、大きな画像にリンクします。


梅の花に囲まれた社殿 ちょうど見ごろ 花に勢いがあります


社務所前の枝垂れ梅 日本一といわれる狛犬 降り注ぐばかりの…


舞い踊る舞妓さんの姿のよう… 絢爛…!



 梅は、「万葉集」の昔から、桜よりもはるかに多くの歌に詠まれています。
 中国が原産で、遣隋使や遣唐使が苗木を持ち帰って伝えたとか。
 日本では江戸時代に、たくさんの品種の育成・改良が行われ、現在では300種以上あると言われています。

 
咲き零れる白梅



 この簾(すだれ)の向こうは、拝観料500円を要する梅園です。毎年訪れている僕は、今年は無料の境内で失礼してきました。


 梅の香りに誘われて、春はもうすぐそこまで来ているようです。




【155】 松阪牛「和田金」 −肉を食べるときの章くん流作法−   2009.01.29


 先日のラウンドで、僕が奈津ちゃんにグロス負けしたという話をどこで聞きつけたのか、名古屋のゴルフ仲間の真美ちゃんが、「いつ、私たちにご馳走してくれるのさ」と電話してきた。『ン、私たち?』…真美に約束した覚えはないが、嗅ぎつけたご褒美に一緒に連れて行くことにした。
 「お昼ごはん、抜いてきたからね」と言う2人と、松阪へ向かった。市中へ入ると、「この町は金と銀に制圧されてるね」と真美が笑う。いたるところの電柱や街角に『和田金』と『牛銀』の看板が溢れているからだ。今日は、そのうちの金のほうへ行く。真美のように松阪初めて…という人には、『和田金』の名前はブランドらしい。(実は僕は、銀にはあまり良い思い出がない【参照】


 和田金は外観も5階建ての大きなビルだが、中へ入るとそのロビーの豪華さにまた驚かされる。「何これ、温泉旅館もやってンの?」と真美はたまげている。
 仲居さんに案内されて、部屋へ通された。

 奈津子もよく食べるが、真美は輪をかけて大食漢である。まず、すき焼きと網焼きは外せないから、それぞれ2人前ずつ頼んだけれど、それではとても足るまい。で、「ステーキも食べる」と言うので1枚注文し、僕は牛刺しを頼んだ。




   注文を聞きながら、仲居さん、炭を積んでいく。パチパ
  チと音を立てて熾っている種火を真ん中にして、見事に備
  長炭を組み上げた。                →







← まずは肉刺し。
  刺しが入った霜降りと赤身の2種。
  大根を添えて、しょうが醤油で
…。
 







     ステーキが出てきた。        →
      まぁ、とうってことはないステーキ…。


 

 次は網焼き。名だたるすき焼き店では、伊賀肉の金谷も、近江牛の毛利志満も、飛騨牛の鳩谷も、焼くのも炊くの盛り分けるのも、全て仲居さんがやってくれる。客はただ、箸を持ってスタンバイしていればいい。


← 2枚で1人前。たまり醤油をたっぷり入れた鉢にドボンと漬け、焼いている最中にもたれを塗って焼き上げる。焼きあがると、あらかじめ温めてあるお皿に取り分けてくれる。
 

 
てかてかの出来上がりィ  →
  
バターか、タレか、からしで


 この分厚い肉が箸でサラッと切れる…なんて驚いてちゃいけない。松阪の住人に言わせると、「箸で切れないなんて肉と違う」らしい。


 これって、シャトーブリオン…? (通常、筋肉は運動している部分ほど硬くなるが、このシャトーブリオンはサーロインと肝臓の間に存在する部位で、運動にほとんど関わらないところだから、とても柔らかである。1頭から500g程度しか取れないという) しかも、松阪牛の…。
 そもそも松阪牛とは、但馬地方(兵庫県)より、生後7ヶ月〜8ヶ月ほどの選び抜いた子牛を導入し、約3年間、松阪市近郊の指定地域の農家で1頭1頭手塩にかけ飼育するものをいう。特に、牛の食欲増進のために与えるビールや、焼酎でのマッサージは有名だ。
 ついでに、もうひと講釈…。「和田金」の店名は、初代の松田金兵衛が修行した東京深川の料理店「和田平」の和田と自分の名前金兵衛の金をとって、東京京橋に仕出し料理店「和田金」を開店したのが始まりである。金兵衛は1876年(明治9年)に松阪へ帰り牛肉店を開店。その一環として鋤焼き(すきやき)を始め、それまでぶつ切りが常識だった牛肉の切り方を薄く大きく切ることによって一層うまみが増すことに気づき、店は大繁盛した。その後、直営の和田金牧場を開設し、常時約2,500頭の黒毛和種(雌牛)を育てている。 
松坂 すき焼きやいてます


とき玉子に浸してパクリ… →

← さて、すき焼だ
。まずは肉(1人前2枚130gだから1枚は65gか)をすき焼き鍋に入れてたっぷりと砂糖をかけ、割り下で味を調えてしばし待つと、こってりしたすき焼きが出来上がる。





















 『和田金』には、懐かしい思い出がある。まだ僕が中学生の頃、母や親戚の叔父叔母と一緒にこの店に上がったとき、すき焼きの材料が整えられて仲居さんが席を外したので、パチパチと爆ぜる炭火を勿体ないと思ったのか、母が家でしているように鍋をかけて肉を入れはじめたところ、戻ってきた仲居さんが「私どもで全ていたしますので」と言って、鍋も肉もむ新しいものに取り替えていた記憶がある。母はその後、長い間、「和田金では叱られてしまった」と苦笑いしながら人に話していたのを思い出す。


 さて、肉を美味しくいただく作法だが、網焼きでもすき焼きでも、焼き(炊き)始めたら、参加者一同、箸を持って待ち構える態勢づくりが肝要である。薄切りの肉片を鍋に入れて砂糖と割り下をまぶし、さっと焼いて半分ぐらい赤くなったらすかさず器に取って即座に食べないと、せっかくのおいしい肉が台無しになる。鍋に肉を入れてから、「あっ、トイレ…」なんて立ち上るものは、松阪肉のすき焼きを食べる資格はない。
 焼肉だって網焼きだって、とにかく炊き(焼き)始めたら集中しなくてはいけない。肉を食べるときに、もっとも大切なのはタイミングだ。
 焼肉ならば、網の上に置いて表面の色が変わったらすかさず裏返し、内部の赤みが残っている間に取り上げてタレをつけ、口に放り込むことだ。そうすると肉の柔らかさは損なわれず、中から肉汁が旨味となって口の中に広がる。「よく焼かないと寄生虫がこわい」なんて言って、何度も裏返して焼き、最後は消し炭みたいになったのを食べているのがいるが、それでは牛に対して失礼だ。食べるほうも命を賭けて食べてこそ、食べられる牛も浮かばれるというものである。牛を食べて寄生虫病になったというなんて人を、僕は知らない。それよりも交通事故に遭う確率のほうがはるかに大きいから、車に轢かれて死ぬほうが先だろう。



← 最後に、すき焼きの出汁で野菜を煮る。



 「ン、肉なしで煮るの?」と、肉はもうみんな食べてしまった真美が物足らなさそうに言う。「まだ入るのか」と聞いたら、「まだまだ食いてぇ」と言うので、1人前を追加した。その追加分にも、野菜がついてきた。終わらないじゃないか(笑)。
 

 野菜と一緒に炊くと関東風の「煮る」系すき焼きになるが、それでも『肉は赤いうちに食べる』心得を忘れてはならない。
 肉の出汁をたっぷりと吸った野菜も、なかなかに美味しい。水分が出ないようにという配慮だろうか、シラタキや白菜などは入っていない。


 最後のご飯はお腹一杯で苦しかったが、すき焼きのあとのご飯には美味しい食べ方がある。ひとつは、肉や野菜を浸したとき玉子とすき焼きの出汁とを白飯にかけて、すき焼き汁玉子かけご飯にするもの…。もうひとつは、すき焼き鍋の中の具材を平らげたあと白飯を入れて火を加え、すき焼きチャーハンを作るのである。すき焼きの旨味が沁み込み、肉の脂でピカピカしているチャーハンは絶品である。この日はもう満腹で、チャーハンづくりは披露してこなかったが、さまざまなところのすき焼き店で好評だった。


 腹ごなしにカラオケスナックへ寄って、10時過ぎに帰途に就いた。


 帰り道、真美は気持ちが悪くなり、東名阪のSAへ次々と寄って、ゲーゲーしながら帰ったという(笑)。
 僕が0.5人前、奈津子が2人前で、真美は3.5人前は食べている。
食べすぎだぁ〜!




野宮神社
【154】 往く秋 厭離庵・直指庵     2008.12.02


 今朝は珍しく早起きしたので(と言っても8時前だったけれど)、9時ごろから京都の紅葉へ出発…。
 草津インターで朝昼兼用の食事をとって、嵐山に着いたのは12時を少し過ぎた頃だった。市営駐車場に車を置いて、嵯峨野を歩いてみた。天竜寺の前を通り過ぎ、竹林を抜けて源氏物語千年紀ゆかりの野宮神社へお参り。今日は常寂光寺や祇王寺などポピューラーな寺院は失礼して、まずは清涼寺の横にある「厭離庵(えんりあん)」を目指した。
 
 「厭離庵」は小倉百人一首を編んだ歌聖「藤原定家」の山荘「時雨亭」があったと伝えられるところ。「時雨亭」の所在地については、他にも2ケ所ほどの候補地があるのだが、定家はその庵で歌を詠み、百人一首を選定し、80歳の天寿を全うした。
 その後は荒廃していたが、江戸時代、歌道に秀でた零元法皇によって「厭離庵」の名称を賜り、臨済宗の庵寺として再興された。明治になって山岡鉄舟の娘が尼として入り、以後、尼寺として今に至っている。



 苔むす庭園の上に落ち葉が降り積もって、紅と緑の対比が色鮮やかであった。嵯峨野の住宅街の裏手にひっそりとたたずむこの庵は、知る人ぞ知る名園である。


← 桂離宮を模した四畳向切の茶席「時雨亭」の内部


 普段は非公開。11〜12月の紅葉の時季だけ、一般に公開されている。
 
 
 厭離庵をあとにして、清涼寺の北の小道を東へ歩くと、やがて大覚寺だ。今日は、その屋根を東に見ながら左に折れ、畑中の道をゆっくりと北へ歩く。農家の庭先の柿の木が、たわわに実をつけてていた。
 大覚寺からゆっくりと歩いて10分足らず、やがて細道は北嵯峨野の竹林のなかに入り、竹薮のトンネルの先に小さな庵が出迎えてくれる。

 境内は、鮮やかな紅葉であった。



 
 
 「直指庵」は、江戸初期に南禅寺の禅僧「独照」がこの地に庵を編んだのが起源である。江戸後期には荒廃していたのを、幕末、NHK大河ドラマ「篤姫」にも登場した、近衛家の老女「村岡局」によって再興され、浄土宗の庵寺となった。
 村岡は、西郷隆盛らの討幕運動を助けたため、安政の大獄のとき捕縛され、江戸に送られて拷問を受けたりするが、30日間の押し込み(拘禁)ののち京に帰されている。帰郷して後も討幕運動にかかわって再逮捕されたりしたというから、かなり積極的な女の人だったのだろう。晩年はこの庵に住んで、近所の子女に手習いなどを教えて慕われ、88歳で没したとある。
 
 
威容を誇る山門

 帰り道、「清涼寺(嵯峨釈迦堂)」に寄ってみた。この寺、去年も寄ったので、往きには素通りを決め込んだのだが、去年は拝観しなかった庭が素晴らしいと聞いて、まだ時間があったのでのぞいてみることにしたのである。
 この寺は嵯峨野でも有数の古刹で、五台山清涼寺と号する大寺である。源氏物語の光源氏のモデルとされる平安貴族の源融(みなもとのとおる)の別荘を、寺に改修したもので、本尊の三国伝来の釈迦仏は、霊験あらたかな御仏として人々に崇拝されている。
 
 
 
← 庭は、小堀遠州の作


  江戸期の島原「扇屋」の名
 妓「夕霧太夫」(のち大阪の
 新町に移る)が分骨してこの
 寺に眠る。姿が美しく、また
 芸事に秀でた名妓で、若くして病没すると、大坂中がその死を悼んだという。享年は22とも27とも伝えられるが、彼女の命日2月27日は「夕霧忌」として、俳句の季語にもなっている。
 初代中村雁次郎は大阪新町の「扇屋」の生まれだが、その娘「中村芳子」はその縁で「夕霧太夫」を襲名し、嶋原の太夫として活躍した。
毎年11月の第2日曜日にこの清涼寺で「夕霧供養祭」を行ってきた(彼女の死後は現役の太夫が行事を引継いでいる)。清凉寺境内に、彼女の歌碑が建てられている。

造り 明石鯛の薄造りと
近海鮪・車えび
炊き合わせ

 『あでやかに 太夫となりて 我死なん
   六十路過ぎにし 霧はかなくも
』(昭和62年、逝去)


 夕食は、たん熊北店のおまかせ。予約時間よりも早く着いてしまったけれど、「どうぞ、どうぞ」と迎えてもらった。
 谷崎潤一郎はこの店が贔屓で、席はいつもカウンターの奥の一角。板前さんに声の届くところが、お気に入りだったのだろう。今日は、僕もカウンターだ。まぁ、おまかせコースだから声をかける必要もないのだが、料理を造る手元を見ることができるのと、あれこれ聞きながら食べるというのはいいものである。


  右の写真の造りの鯛は2.5キロの明石ものの薄づくりで、紅葉
 おろしとポン酢でいただく。近海鮪と車海老は醤油で…。
  炊き合わせはホッとする温かさ。鯛の子とフキに、削りたての
 鰹節が添えられ、木の芽の香りがたちのぼる。



 二汁八品で満腹…。そのあとは木屋町筋を歩いて居酒屋をのぞいたりしたて、10時過ぎに帰途に就いた。




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