理科・社会科ノート盛衰記

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 1.「理科ノート」、 誕 生 !


 きっかけ



 「弱ったなぁ」、三重大付属小学校の理科実験室…、章くんの耳に
富山春樹先生の溜め息が聞こえた。
 昭和44年秋、運動会もすんだ10月のある日、パラフィン紙のミニ落下傘にアルミ箔で作った小皿をぶら下げ、その中で蝋(ろう)を燃やして熱気球を作り、飛ばしッこをする授業を計画していると聞き、面白そうなので、章くん、見物に行った。子どもたちと一緒に作って飛ばしてみると、結構よく舞い上がる。火が大きすぎて熱気球の傘を燃やしてしまうものや、皿に油を入れ過ぎたために重くて全然飛ばないものなどもいて、大いに盛り上がった。
 終了後、理科実験室でそのあと片付けをしているとき、富山先生の溜め息が聞こえたのである。
 「何で弱っとるンですか?」と聞くと、
 「三重県の理科部会で編集して、東京の大和図書から発行している「理科ノート」が、売れ行きが悪いので、大和が辞めたいと言ってきてなぁ。その還元金で、年間2〜3万円やけど、部会の運営費を賄っとったから、弱っとるンや」
 富山先生は、三重県の小学校の理科を専攻する先生たちの研究団体である「三重県小学校理科教育振興会」(以下、小理振)の2人いる書記のひとりで、もうひとりの
足達充彦先生とともに運営の中心的存在である。
 その理科ノートなるものを見せてもらうと、初めの1ページに「理科ノートの使い方」として記入に際しての注意事項と簡単な記入例が書いてあり、2ページ目からは全て方眼用紙で、定価90円であった。こりゃぁ、文房具屋で市販の方眼ノートを買うのと同じであり、しかも市販のものは70円ほどで値段も安いから、売れるわけがない。「理科ノートを作る」というのならば、そのノートを使って授業をすれば生徒は学習内容を確実に習得し、授業の効果が上がるものでなくては、作る意味もないし、使うほうも喜ばない。
 「こんなノート、誰も使いませんよ」と言いかけた言葉を飲み込んで、章くん、
 「大和図書がやめやと言うンなら、三重県で作ったらいいんやないですか」
 「どこで作るのさ」
 「三重県の印刷屋を使って、僕が作りましょうか? ただ、内容の編集については、しっかりと取り組んでください」。


 このころ、章くんはA新聞大阪本社を退職し、郷里の津市へ帰ってきたばかりであった。母親が体調を崩したことが直接の原因だが、章くんちは母ひとり子ひとりだから、いずれは津に戻らなくてはならない。そんな話をA新聞大阪の吉野資材部長に話したら、「関連の写真新聞社が、三重県で仕事をする人を探している。よければやらんか」と話をつけてくれて、日本写真新聞社三重支局長の職を拝命したのである。
 (日本写真新聞社の仕事については、長くなるので別ページでご紹介しています。
  興味がお有りの方は、 ここ をクリックしてください。)


 編集委員会


 「三重県版 理科ノート」作成の話はトントン拍子に進んで、1週間ほどで編集委員会を組織し、教科書会社「経綸堂出版」の全面的な協力も得て、作業が始まった。
 編集担当は、1年…酒井 巧(付属小)、2年…富山春樹(付属小)、3年…川戸 綏(亀山)、4年…足達充彦(津)、5年…久保嘉雄(一志)、6年…橘 達(付属小)という、その名前を聞けば三重県では知らない教職員はいない、理科のエキスパートたちであった。6人の先生は、10〜11月の土曜日はほとんど付属小学校の宿直室へ泊り込みで資料を持ち寄り、検討を重ね、原稿を書き上げていった。資金もなく、自費でラーメンの出前を取り、夜を徹しての作業が続いた。
 「経綸堂出版の指導書では、こんなデータが出ているけれど、実際に実験すると結果は違うぞ」
 と言いながら、付属小の理科実験室で実験を繰り返してデータを取り、
 「気温などにも影響されるなぁ。このこともノートには『■留意点』として書いておこう」
 といったやり取りが繰り返される、レベルの高い編集作業であった。


 編集委員の先生が集まる毎週土曜日には、章くんも差し入れを抱えて付属小の宿直室へ必ず顔を出し、授業論や指導論を聞いて、この門前の小僧は雪ダルマ方式とか水道方式とかいった授業指導の方法を学習した。ハイレベルな先生たちの会話を聞くのが、楽しみであった。


 そんな編集作業が続くある日、章くん、富山先生から「小理振会長の林 三義先生です。現在、志摩の鵜方小学校の校長先生をしてみえる…」と、林会長を紹介いただいた。この編集作業の1ヶ月ほどの間、何度も志摩から陣中見舞いに出て来ていただき、再三、「今日のラーメン代は、わしが出すわ」とお世話に相成り、章くんも何度もご相伴に預かった。
 「物静かな人やけれど、なかなか…」と富山先生は林会長のことを評して居られたが、章くんはこれから十数年間…退職されてからも長いお付き合いをいただくことになる。編集委員の先生方がご苦労いただいた「理科ノート」だからと、会長自らいろいろな郡市の理科部会を訪ねて、採用を依頼して回られるなど、その人となりには敬服するばかりであった。穏やかで優しい先生だったが、ただ優しいばかりではなかった。
 数年後、章くんが鵜方小学校を訪れたある日のこと、校長室で林会長と話し込んでいると、職員のひとりが、「今日、午後から組合の会合がありますので、半休で出席させていただきます。マル公でよろしくお願いします」と言ってきた。
 林会長、「あぁ行っといで…。ただ、規定に従って、きっちり処分はさしてもらうからな」とキッパリ…。当時、組合関係の出張は暗黙の内に公休扱いにするという了解があり、この鵜方小学校の先生も当然マル公のつもりで届け出に来たのだ。ところが、この1ヶ月ほど前に「組合の仕事は業務外」との県教育長通達が出されていて、多くの学校ではまだ馴れ合いのまま公休扱いだったけれど、林会長は「規定に則って処分する」と宣言したのである。
 そんな林会長だから、在任校の鵜方小学校の「理科ノート」は、新年度の最初の職員会議で、「全学年とも注文しておきましたから、よろしくお願いします」と言って、全校採用であった。



 11月末、小学校1年〜6年の「理科ノート1学期」の原稿が完成した。印刷は、付属小に出入りしていた「ひかり出版印刷梶vに依頼することにして、早速、製版作業に取り掛かった。
 「理科ノート」の出版は、一般の文字だけの図書と違って、学習のための絵や図表をたくさん入れなければならない。「ひかり出版印刷」さんも、そのあたりの作業は今までに手がけてきた出版物とはかなり違ったらしくて、イラストレーターの手配や確保に苦労したみたいだし、また、学習ノートの絵だから漫画みたいなものでは採用できない。描いてきた絵を、これはダメ…あれはダメ…と章くんがダメ出しするものだから、「ひかり出版印刷」さんもかなり苦労してもらった。


「理科ノート」初版 完成


 年が明けて、昭和45年2月、「理科ノート 1〜6年 1学期」版が完成した。


 2月末、新学期に向けて、各学校での採用を啓蒙すべく、三重県下の小理振全役員を集めて、「小理振 理事・幹事会」が開催された。
 当時、小理振は県下それぞれの郡市に理事(校長)と幹事(教諭)を置き、研究や行事、また連絡などが行われていた。北牟婁郡の先生の研究を全県に紹介したり、名張市の先生が鳥羽市の先生と知り合って臨海学校の世話を依頼するなどといった交流が、全県的に行われていた。
 「小理振の一大事業であります「理科ノート」が完成いたしました。その採用につきまして、皆さんのご協力とご尽力をいただきたい」という林会長の挨拶…。
 富山先生から、「会長名で各市の教育長と各教育事務所長に協力依頼をし、見本の配布は教育委員会・事務所の逓送を利用して、県下の全校に届けるよう手配します」「4月1日付で、小理振より公文書で各小学校の校長宛に採用依頼を発送します」「各郡市の校長会と教頭会には、すでに採用依頼を申し入れてあります」などの報告がなされた。
 さらに、足達先生からは、「見本は学校別に袋に入れてありまして、今日、ご出席いただきました理事・幹事の皆さんにお渡しします。3月末までに教育委員会・事務所の逓送箱へ入れてください」「各小学校の理科主任に、採用の取りまとめをお願いしてください」など、具体的な依頼が行われた。


 これを受けて、各郡市では理科主任会が開催され、各小学校の理科主任が集まって、理事・幹事の先生から採用への協力が要請された。理科主任会では、先生たちから、「現場の理科指導が向上することが期待される「理科ノート」の発行は待ち望んでいたこと。小理振の仲間たちが作ったこのノートを使い、これからも育てていこう」と、力強い歓迎の声が相次いだ。
 鳥羽市の幹事・浜口勘次郎先生は、鳥羽市役所の会議室で理科主任会を開き、市内各校の理科主任ひとりひとりに、申込書を渡しながら採用への尽力を依頼していただき、飯南郡の幹事・森口勝典先生は郡内の全小学校へ電話を入れて採用協力を依頼していただいた。
 他にも、全県下の理事・幹事の先生たちは仲間が一生懸命に作ったノートなんだから…という思いで、採用に向けての努力をいただいた。また、小理振の会員をはじめたくさんの先生方が新しい「理科ノート」の誕生を歓迎し、大きく育てていこうという気持ちを持って見守ってくれていたのである。


 4月、新学期の幕が開いた。「理科ノート」は順調に採用数を伸ばし、在庫切れの学年が出るほどであった。印刷能力に限界がある「ひかり出版印刷」では増刷に2週間以上もの時間がかかって、現場には待たされることに苛立ちの声が上がったりもした。
 南牟婁郡の樫野友三郎理事(鵜殿小校長)は、「せっかく各校の先生にお願いして採用してもらったのに、注文してから2週間以上たってもまだノートが来ないとはどういうことや。電話では話にならん。これから行く」と南紀の鵜殿から国鉄に乗って、「いったい、どうなっとんのかのぉ」と章くんの会社までやって来た。こののち樫野先生には、紀州地区の採用にずいぶんとご尽力をいただいたのである。


 予想以上の売れ行きを示した「理科ノート」であったが、同時に、初めて出版した「理科ノート」はさまざまな問題を抱えていて、章くんはその対応に追われることになる。


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