理科・社会科ノート盛衰記
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 3.2年目の全面改訂


 改訂版完成  − 1年目を上回る採用部数 −


 初年度の「理科ノート」がたいへん難しい内容のノートであったことから、2年度目に全面改訂することを決定して、11月、改訂作業を開始した。改訂版の「理科ノート」へは、現場の意見もしっかり取り入れたいとの意向から、各郡市から編集委員を1〜2名出してもらい、総勢20名ほどの先生たちが冬休みを返上して改訂に取り組んで、3月、新版が完成した。内容を思い切って簡素化し、実験・観察も合わせてできるものはひとつにするなどの工夫を加えた。
 初年度版の難しいノ内容から、2年度目は売り上げが落ちるのではないかと危惧していたが、小理振の会員は早速に改訂への取り組みを見せた編集委員会や役員たちを支持して、採用への協力・尽力を惜しまなかったし、現場の先生たちは即座に全面改訂して新版を出した「理科ノート」の対応を評価してくれて、2年度目の採用部数は初年度を上まわった。
 津市の理科部会長の小坂先生(修成小)は、「内容に問題があるというのならば、使ってみて、具体的な意見を出し合っていくというのが、建設的・教育的な考え方であり態度でしょう」と言って、修成小学校は全校採用であった。津市理科部会の役員のスクラムは磐石で、足達先生の敬和小、石見先生の育生小、坂野先生の南立誠小、紀平先生の新町小など、押し並べてほとんどの学年で採用があった。
 林会長の志摩郡では鵜方小はもちろん、山下勇治先生の浜島小、山下文明先生の迫塩小、池田先生の磯部小、大形先生の波切小、中村先生の国府小などが全校採用で、ほとんどの学校が何学年かの採用を出してくれた。
 そのほか、藤島先生の阿山郡、森口先生の飯南郡、浜口先生の鳥羽市、沖中先生の安芸郡、朝倉・前田先生の久居・一志なども採用率が50%前後と高く、福井・藤本先生の名張市に至ってはほとんどの学校が全校採用で、採用率は80%を越えていた。
 また、猪飼先生の桑名市、坂崎先生の三重郡、上村先生の伊勢市、山川先生の熊野市などは20〜30%ほどの採用で、こうした「理科ノート」採用への一丸となった取り組みは、それから後の小理振活動の隆盛に確かな基礎を築いたと言えよう。
 しかし、採用の低い郡市は極端に低く、員弁は全く採用がなく、四日市、鈴鹿市、亀山市、松阪市、上野市、尾鷲市などは、理事・幹事の在任校に採用が出た程度で、他の学校は素知らぬ顔であった。採用率の低い郡市への対策は、今後の小理振活動の大きな課題であった。


 結果的に2年度目は初年度よりも1割増の24000部余りを売り上げた。


「理科ノート」にかける先生たちの熱い思い


 まだ、人件費などの間接経費は出ない苦しい経営であったが、章くんは各郡市からの新しい委員を加えた編集委員会に対しては、第1次委員会のような自弁という訳にはいかないことを思い、交通費や飲食費を含む会議費などの費用を用意して、編集委員には一切の負担をかけないように配慮したばかりか、原稿完成のときには打ち上げの費用も用意して、その労に報いた。
 先生たちも、小理振のため、「理科ノート」編集のために、一生懸命に尽力してくれているのがひしひしと伝わってきたし、費用の面でその先生たちに負担をかけないようにするというのは、出版を引き受けた章くんの責任範囲だと思ったからである。
 以後30年ほどの間、編集委員や役員の先生たちの「理科ノート」にかけるご苦労・ご尽力は一方ならぬものがあり、この事業を手伝うことに、章くんも大きな喜びと誇りを持ち続けて来たのである。例えば、林会長は志摩郡の理科部会はもちろんだが、他の郡市の理科部会へも研究会があると聞けば出かけて、「理科ノートをよろしく」と頼んで回っていただいた。章くんは見本を用意していくので、ほとんどの場合、林会長を最寄り駅で車に乗せてご一緒したのだが、飯南郡の部会へ出かけたときには、出席した先生たちは林会長を教材業者かと思って口を利き、部会が始まって挨拶されたのを聞いて、小理振の会長で現役の校長であることを知り、たいへん恐縮していたというような顛末もあった。帰り道、松阪で食事をしながらそのことに触れると、「相手によってものの言い方を変えるのは、あまり感心したことではないわな」と笑っておられたのを思い出す。
 章くんは、「理科ノート」に対する、こうした先生方の熱い思いに間近で触れているから、採算などは度外視して、先生たちには経費の負担をかけないようにし、「理科ノート」にかかわって良かったと言ってもらうよう、配慮してきたつもりである。そして、「理科・社会科ノート」の出版は自分の目の黒いうちは何んとしても続けていくことが、これらの先生たちの熱意に報いる道であろうと思っているのだ。
 

 小理振への研究助成金も、それまでは定額の1部につき5円であったが、6学年で3万部(1学年平均5千部)を売り上げることができれば、1部あたり定価の7.5%(90円×0.075=6.75円)に引き上げるという約定を定めたのも、この頃であった。
 5円が6.75円と、わずかに1.75円引き上げられたに過ぎない計算だが、後に価格の引き上げに伴い、小理振には200万円を越える研究助成金が入ることになる。


 3年目、4年目…と、「理科ノート」は、わずかずつではあったが順調に売り上げを伸ばしていった。


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