理科・社会科ノート盛衰記
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 4.県外への販売


 販売部数も順調に伸びてきているとは言うものの、採算点まではいまひとつであった「理科ノート」の事業を、何とか安定した軌道に乗せたいと思案していた章くんは、このノートの注文が大阪や愛知県の小学校からポツリポツリと舞い込むことに着目した。
 三重県版として作成しているこの「理科ノート」は、県外の小学校に見本を出したこともないし、もちろん宣伝もしていない。県外の先生はその存在すら知らないはずなのに、ときどき注文の電話がかかるのだ。
 電話をくれた先生に「どこで、このノートのことをお知りになりましたか」と聞いてみると、三重県の小学校に勤務していてこのノートを使った先生が、大阪や愛知へ転勤していって、『理科のいいノートがある』と転勤先の学校で紹介してくれたとのこと。『使ってみると、ノートらしいノートであり、内容もしっかりしているから、毎年注文するのだ』と話してくれた。
 

ノートのカラー印刷はするべきでない


 ほとんどの小学校教材用のノートがカラー刷りとなってきた中で、このノートはスミ(黒)とアイ(青)の2色刷りである。「カラー刷りの派手さに負けてしまう」という声も多かったが、章くんは「ノートは図鑑じゃない。花や鳥の色などを調べるには『図鑑』を使うことを、きちんと指導するべきだ」と主張して、ノートのカラー化には断固としてOKを出さなかった。


岐 阜 へ


 『何のつながりもなく、見本も出していない県外でも、注文があるということは、内容が良いと評価してくれているからだ!』…、元気付けられた章くんは、県外販売に本格的に取り組むことを計画した。
 まず、愛知、岐阜、そして大阪の3府県を、当面の重点販売地区と定め、それぞれの教育委員会を訪ねることにした。各県の教科書の準拠と理科・社会科の研究会組織はどうなっているかを聞くためである。
 昭和46年9月、章くん、25歳の秋…、まずは岐阜へ。最初に岐阜を訪ねたのは、愛知・大阪という大都会の前に、岐阜で手ごたえを確かめてみようという算段だ。
 岐阜市の中心部から南西へ約3Km、新しく整地された新興市街地の一角に新築の岐阜県庁舎が聳え立っている。まだ周辺には大きな建て物はなく、国道21号線を走りながら、かなり遠くからでも、その威容を見つけることができた。
 県庁舎の12階、岐阜県教育委員会学校教育課を訪ねると、
伊藤卓也課長補佐が対応してくれて、「岐阜県の教科書の採用状況、研究体制と教科研究会の実態、理科教育研究会の役員・在任校、副読本・副教材などの使用について」などをこと細かに説明していただき、「岐阜県小学校理科研究会の事務局長は、長良西小学校の占部貞義先生が担当してみえますから、委細はそちらへ行って相談されるとよいでしょう」と教えてもらった。
 

 長良西小学校は、金華山横を北へ抜け、長良橋を渡ったすぐ左手に位置する、1学年5〜6学級のマンモス校であった。少子化と都市のドーナツ化を迎えた現在では、生徒数が1000人を越える小学校は珍しくなったが、昭和45年のこの当時は、多くの生徒数を抱える学校は珍しくなかったのである。
 訪ねていった占部先生は40歳を少し過ぎた頃か…、授業に差し支えないように放課後の4時過ぎに訪問した章くんに、先生は6時前まで時間を割いてくれ、岐阜県の研究組織と体制について細かく話しをしてくれた。
 「この理科ノートを研究会で推薦できるかどうか、あるいは岐阜県版のノートを作るかどうか、それらは当然これからの検討事項です。役員会に諮り、方向が出れば、来年4月の総会にかけて決定してもらい、具体的に動くというのはそれ以後ですね」という先生の話は当然過ぎることで、もとより章くんに異存はない。
 「今年の2学期と3学期分を、先生のクラスだけでも生徒数分を無料で送らせていただきますから、一度、授業でご検討いただけませんか。もし、よろしければ他のクラス分も無料でお届けしますので、みなさんで内容をご検討ください」。
 占部先生の学級の生徒数分とあと50冊ほどの余分を送り、理科の関係の先生方に配って、内容を見てもらうことにして、「会長さんにもご挨拶したいのですが、どちらへお訪ねすればよいでしょうか」というと、「会長は高山市ですから、行ってもらうのにはちょっと遠いですなぁ」と先生は笑った。まだ、高速道路も名神高速道路が開通しているだけという時代で、高山市へ行くには国道41号線を長良川沿いにひた走り、中央アルプスを越えていかねばならなかったのである。


そして 大阪へ


 岐阜県に足がかりを得た章くんの次なるターゲットは大阪である。


 岐阜の次は愛知というのがものの順序のようであるが、実は愛知県には思いもかけない難問が存在していたのだ。
 まずひとつは、愛知県の理科の教科書は「大日本図書」を使っているところが圧倒的に多くて、章くんの会社が出版している「大阪書籍」版には合わない地区がほとんどであること。
 そしてもうひとつは、愛知県は校長会が出版している「理科学習ノート」があって、愛知県下の全小学校はそのノートを使っているのである。章くん、後日に愛知県の理科研究会を訪ねたときに、そのノートを一式もらってきた。教科書準拠には関係なく、1年生の理科ノートならば、「花・風・あわ…」といった項目が並んでいて、絵が描いてあるだけという荒っぽいものであった。それでも、A・Bの2種類があって、Aは絵にある程度の設問が書かれているもの、Bは絵と白紙のページがあるだけで自由に使えといったカンジのものである。AにしてもBにしても、指導する先生の技量が必要で、授業に使うには自分でどのように展開するかを工夫しなければならないだろう。
 しかし、愛知県は管理職の権限の強いところである。校長会が出版するノートを使わないわけにはいかないから、そのノートが全校に採用されている。だから、章くんの理科ノート売り込みは、その余地がなかったのである。
 ただ、そんな荒っぽいノートを使って日々の授業を進めている愛知県の先生たちは、そのノートを使ってどのように授業を組み立てていくか、生徒にどのように記入させるか…など、授業をするにあたっての準備は欠かせなかったことだろう。構想力を養うには格好の教材で、愛知の先生たちの指導力の向上には大いに役立っていたのかもしれない。
 後年、章くんが「社会科ノート」を持って愛知県を訪ねたとき、三重県では社会科教育研究会の役員でさえもが難しいとか面倒だとか言って忌諱したノートを、「このノートは使いやすい。内容の厳しさも手応えがあっていい」と、尾張東部の各校(教科書の準拠が合っていた)で全校採用が続出した。愛知県の先生たちの指導力は鍛えられていると思わされたのである。
 

 さて、話を大阪へ持ち込んだ「理科ノート」に戻そう。大阪は、章くん、訪問する前に「大阪府教科書供給センター」なるところが大阪の教科書販売の総元締めだと聞いて電話を入れ、府下の準拠の状況について問い合わせてみた。それによると、大阪市内はやはり多くが教科書準拠が違っていて、章くんの「理科ノート」が使えるのは東大阪・八尾・松原・堺市などの東部地区と、池田・箕面・豊中市などの泉北地区であった。しかし、そこは大阪である…、東大阪(51万)・八尾(27万)・松原(13万)・堺(84万)とこの4市だけでも人口は175万人で、三重県の総人口180万人に匹敵する巨大市場である。
 まずは東大阪市の理科部会を訪ねてみた。事務局の山本小学校竹本先生は、章くんのノートをぱらぱらとめくりながら、「今までの市販のものとは違って、実験すべきは実験する、調べなければならんことは調べることを要求してるノートですな。話の筋は解りましたので、いっぺん理科部会で紹介してみますわ」と好感触であった。
 次に、堺市の大仙台小学校杉尾先生。高層マンションが林立する間を縫って高架の自動車道が走り、当時としてはこれが日本かというほど近代的な町の中にある、近代的なデザインの小学校の応接室で、じっくりと内容を見ていただいた。そのうえで、「見本を各学年30冊ぐらいずつ送ってください。周辺に配って検討してみます」とお話いただき、章くんの大阪訪問秋の陣は終了したのである。


 岐阜の伊藤課長補佐・占部先生、東大阪の竹本先生、堺市の杉尾先生など、皆さん、ものごとに前向きで、対応も建設的であられたのは、さすがに各県・各市のリーダーの方々であると感心させられた。決して、自分の仕事に協力的であったから言っているわけでなく、見ず知らずの年端も行かない若造が、「三重県で作りました」などといって、突然「理科ノート」を引っさげてやって来たのである。
 並の先生ならば、まずは『難しい・現状で困っていない・僕の独断では…』などと、まずは否定的な逃げ口上を弄するものである。それを、内容を見る目も鋭く、面白いじゃないかと判断すれば、即座に「やってみましょう・検討します」…と言ってくれたのだから、ものごとを成し遂げていくのはこういう人たちなのだろうと思わされたのである。
 後日談になるが、東大阪の竹本先生は府教委の市町村教育室長として大阪府の小中学校教育の指導・助言・援助、市町村支援にあたられ、章くんは大阪府の多くの先生方と知り合うきっかけをつくっていただいた。また、堺市の杉尾先生は三国台小学校の校長時代に「経綸堂出版」の教科書編集委員を努められ、のちに章くんが同社の編集委員としてかかわる先鞭をつけていただいたのである。
 章くんは、いろいろな局面で、人に恵まれてきたと思う。この、県外販売の企画においても、章くんが最初に出会った4人の先生方はどなたも前向きで、否定的な理由を並べる先生はひとりもいなかった。すばらしい先生たちとの出会いを契機として、このあと「理科ノート」は、奈良・京都・滋賀の各県へと広がっていく。


   
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