理科・社会科ノート盛衰記
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 教科書会社との談判


 昭和46年4月、「理科ノート」の新学期見本を、岐阜県(岐阜市・大垣市・各務原市とその周辺)、大阪府(東部・泉北地区)の教科書準拠該当校と、京都・滋賀・奈良の一部の学校へ一斉に発送した。反応は上々で、新規採用の学校から次々と注文が舞い込み、三重県内での売り上げ部数の半分ほどの採用部数…約12000部ほどの新規採用部数を得ることができた。
 改訂した「理科ノート」の内容についての評価も良く、採用してくれた先生たちの口から口へと評判が伝わり、この後、数年で「理科ノート」は三重県内の売り上げよりも県外での売り上げが勝ることになった。
 順調に売り上げを伸ばしていった「理科ノート」であったが、後になって考えてみると、その順調さが以後の県外販売に対する努力を殺(そ)いでしまったかも知れない。
 岐阜の占部先生は「理科ノート」を周辺の学校に紹介してくれて、岐阜市はかなりの採用を出す地域となっていたが、岐阜県理科教育研究会への強い働きかけは、このあと行なってはいない。当初掲げていた「岐阜県版の理科ノートを」という目標は、達成するためには更に5年ほどの歳月と岐阜に通う努力を要したであろうが、そこそこの売り上げを簡単に達成してしまったことで、見果てぬ幻となってしまった。
 この時期、章くん、次なる目標として、『三重県社会科研究会編集 三重県版 社会科ノート』の作成に着手したことも、岐阜や大阪の研究会への働きかけが中断した一因であった。


 「社会科ノート」の作成は後の項に譲るとして、「理科ノート」が順調に売り上げを伸ばしたら、既存の教材出版社や業者たちから横槍が入って、教科書会社の「経綸堂出版」から『県外販売を中止してもらえないか』という要請が入った。
 昭和48年6月、章くんは大阪の「経綸堂出版」本社営業部へ出向いた。経綸堂からは営業部長と三重地区の担当者が章くんの会社(日写三重)へ来るという連絡であったが、章くん、久しぶりの大阪だし、夜の街も見てみたいと泊りでの大阪出張を組んだ。
 お昼過ぎ、経綸堂出版本社の応接室で山口営業部長と岩田三重地区担当が迎えてくれて、早速に話が始まった。
 経綸堂の言うのは、
 @ 教科書準拠の出版物は、普通、教科書会社にロイヤリティ(著作権使用料)を支払って許諾
  を求め、許可を得てから出版する。
 A 三重県内で研究会の先生方と共に理科ノートを作成し出版していることはたいへん意義があ
  ることと思うが、県外販売は既存の教材社や教材店の既得のテリトリーを侵すことにもなり、
  中止してほしい。
 というものであった。県外販売を中止しなければ、版権使用不許可を理由に、出版の中止を迫るという構えで、最初から緊迫した話し合いであった。その背景には、見本を送って採用をお願いしますというだけの「理科ノート」が、初年度に予想外に売れたので、驚いた教材出版社や地域の業者たちが、教科書会社に泣きついたという構図が見えている。
 経綸堂出版の申し出を受けて章くんは、
 @ ロイヤリティ(著作権使用料)の支払いを求められるならば、支払う用意がある。
 A 出版・販売はそれぞれの自由であり、当社としては「理科ノート」を多くの先生がたに評価
  いただき、学校現場で使っていただくことで出版の意義を確かめていきたい。
 と答えた。
 経綸堂出版へ、既存の教材出版社や業者たちからの「出版を認可しているのか」「差し止めることはできないのか」といった抗議や苦情が寄せられていて、山口部長と岩田さんがそれを受けて話をしていることは判っていたが、県外販売の中止要請は既存の教材出版社や業者たちの既得権を守ろうという勝手な要望であって、章くんが従わなくてはならない理由は何もない。また、教材出版社や業者たちの要請を受けたからの話だから、経綸堂出版としての要求は何もない。言ってみれば、この話が壊れたとしても、経綸堂出版として失うものは何もないということである。
 章くんはさらに、「この「理科ノート」の販売を、ロイヤリティやテリトリーなどを理由として断念しなければならないならば、これから後、新規に事業を興すことができなくなります」とも言って経綸堂出版の申し出を断った。
 (後年、教科書準拠出版物の著作権使用の許認可は裁判で争われ、許認可を取る必要はなしとの
  判決が確定している)


 この大阪出張の前、章くんはひとつ手を打っておいた。教科書会社の「経綸堂出版」は、姉妹会社として一般書店用の学習参考書を出版する「文研学習社」という出版社を持っている。「理科ノート」の出版のほかに学習塾を経営している章くんは、600人ほどの塾生が使うサブ教材として、「文研学習社」の数学・英語の問題集を、年間180万円ほど購入している。大口の顧客だから、書店だけでなく「文研学習社」の営業員が直接に注文を受けに来て、担当の高木さんと章くんは昵懇の間柄だ。だから「経綸堂出版さんへ出向くので、よろしく伝えて置いてください」と申し入れてある。
 もちろん話がこじれたとしても、『「文研学習社」の問題集は買わない』なんて言うことは決してない。それでも、この日の話の中で、「「文研学習社」の高木からも話は伺っております。お世話になっておりますそうで」といったフレーズが随所に出てきたから、高木さんはよろしく伝えてくれていたようである。
 2時間ほどの話し合いの末、「@ロイヤリティの支払いは不要、A「理科ノート」の県外販売を中止する理由は何もなく、従来の通りの販売を継続する」ことを確認して、章くん、経綸堂出版を辞した。


 帰りがけ、教科書会社の様子を見てみたいという章くんのお願いで、岩田さんが社内のさまざまな部署を案内してくれた。この30年後、章くんはこの会社に教科書編集の委員として参画することになる。


 この夜の泊まりは「大阪ロイヤルホテル」。深夜、ホテルに戻って窓の外を眺めると、赤や青の灯が中ノ島の川面に映って揺れていた。晴れて大阪に「理科ノート」を堂々と売ることができるのだという思いが、どこまでも広がる光の海を見ていると、無限の可能性を持って実感された。




オイルショック


 章くんが大阪「経綸堂出版」へ出向いた年の翌年…、昭和49年に中東戦争のあおりを受けて石油の輸入がストップし、石油製品が枯渇するという噂が流れて、人々はトイレットペーパーの買い溜めに走った。いわゆるオイルショックで、原油代やパルプ代が高騰し、印刷費もインク代・運送賃・印刷会社の人件費などが軒並み跳ね上がって、「理科ノート」の印刷原価は2倍を越える価格となった。
 定価を、それまでの90円から一挙に180円としたけれど、それでも学校現場からは大きな抗議の声は上がらなかった。テストやドリルなど、他の教材も2倍以上の値上がりだったからである。




   
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