理科・社会科ノート盛衰記
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 7.小理振組織の整備


 「理科ノート」を通して、章くん、小理振の先生たちのさまざまな活動に一緒に参加して、『雪だるま方式、水道方式』などという指導の形態があることを知り、また三重県下を初め、東海・近畿の各県に親しく付き合うことのできる知己を得た。
 「夏休みに大台町でキャンプをするんだけれど、子どもたちに陶芸教室でもやらせたい。誰か、指導してくれる人を、その近くで知らんかなぁ」などといった相談を受け、伊勢市の陶芸の野呂さんをたずねて依頼したりしたものである。「家を新築したんだけれど、庭木がほしい。どこか値打ちに手に入れるところはないかな」という相談には、津市高野尾の農協共済連の植木市へ案内してセリ落としてきた。サツキやドウダンなどは20本とか10本とかまとめて買わなくてはならなかったので、「半分は僕が貰うよ」と章くんが引き取り、今、庭で大きな木になっている。
 先生たちとさまざまな交流を重ねながら、章くん、小理振活動の活性化について考えさせられることが多いことに気づいた。研究会や講習会、あるいは大会に参加した先生たちは、みんなが有意義だった・為になった・面白かったと思ってくれているだろうか、次回もまた参加しようと思って還っているだろうか、と考えたのである。研究会や講習会を主催するものは、参加してくれる先生たち・来てくれた人たちに、満足して帰ってもらう責任があるのではないかと思ったのだ。
 もとより小理振の役員の先生たちはサービス業ではないから、他の人を喜ばせる仕事をしているわけではない。しかし、日々、子どもたちと接してその心を捉え、学習意欲を涵養するということは、学校は面白い・授業は楽しい・先生は信頼できるという気持ちにさせることが基本にあるはずだ。人を喜ばせるとか、もてなすとか…、そういう配慮が大切なのだろう。
 ある日、富山先生とお茶を飲んでいたとき、「理科の指導にとって大切なのは、資料の知識と授業の技術だ」という話があった。『じゃぁ、それを小理振の主たる研究課題に据えて、会員の先生たちの研究・研修を進め、それぞれの技量を高める方向を明確にすればいい』と思った章くんは、その夜のうちに「資料研究部」「授業研究部」を研修の2本の柱として、「理科ノート編集委員会」「小理振ニュース」などの事業部を加えた組織票を作り上げ、翌日また富山先生と会った。
 その場ですぐ足達先生に「ちょっと学校を抜け出してきてくれ」と電話を入れ、3人で練り上げたのが、30年を経た現在もなおそのまま使われている『小理振の組織表』である。
 運営にもさまざまな工夫を加え、合宿研修会には一流の講師を招聘して講演を聞き、研修の終わりには豪華景品のクイズで成果を試したりの催しを行った。夏期臨海講習では美味しい「浜汁」を振る舞い、お代わりをしながら講師の話を学ぶ趣向であった。景品を用意したり、資金の手当ては、もちろん章くんの役割である。
 後年、「理科ノート」の売り上げが伸びて小理振の予算が潤沢になったときには、研究大会の開催校には30〜50万円の協力金を支払い、参加した先生たちには昼弁当を用意する周到さであった。「記念品のお土産も用意しよう」と言ったところ、「さすがにそこまでは…」と言われて実現しなかった。
 この頃の小理振活動には、参加するものに充実感と喜びがあった。自分の研究が三重県の名だたる先生たちの目に触れて評価され、指導を受けることは、若い先生たちにとっては充実感のあることだったし、評価・論評する側の先生たちも日常の実績において十分に信頼を得ているメンバーが揃っていた。
 そして何よりも、人をもてなし楽しませようとする配慮が、指導者にあったと思う。だからこそ、会員のみんなは小理振に集まり、その活動を楽しみ、成果を喜び合うかたちが出来上がっていったのだろう。
 

 3年ほど後、富山先生は一身上の都合で教育界を退くことになる。44歳、惜しまれる早期退職であったが、個人的な問題であるので如何ともしがたい。章くんと富山先生との付き合いは、もちろんこの後も続く。
 この後しばらく、小理振事務局は足達先生がひとりで切り盛りしていた状況であった。数年を経て若い先生たちが育ってきて、小理振活動は「理科ノート」の販売部数に象徴されるように隆盛を続けることになる。足達先生は、津市教育委員会管理主事に転出し、後年には三重県校長会長の要職に就いた。


編集委員長 沖中隆男先生


 3年に1回の文部省指導要領の改訂にともない、「理科ノート」もその内容を全面改訂するわけだが、昭和50年は、「理科ノート」にとって3回目の全面改訂であった。
 編集委員長は、それまでの富山先生が退職されたのに伴い、沖中隆男先生(安芸郡)、副委員長に丸山 正先生(津市)が就任し、編集委員は桑名市から熊野市まで、三重県下のほとんどの郡市から1〜2名を選出してもらって、総勢25〜26名の陣容であった。


 編集委員長に沖中隆男先生を迎えたことは、「理科ノート」にとって大きな節目の出来事であった。沖中先生の「理科ノート」に向かう姿勢は、他の編集委員の熱意を誘った。上に立つものは全体のやる気を喚起するためにも、身を以って行動しなければならないものだが、沖中先生は、特に頑張っているという風ではないのだけれども、周囲の熱意を掘り起こす何かを持っている人であった。
 例えば、四日市で理科の研究大会があって講師などで招かれて行くと、必ず「理科ノート」を50セットほど持っていって、四日市の先生たちに「小理振の理科ノートです。見てください」と声をかけて手渡してくるといった調子であった。4月の採用時期には、各郡市の知り合いの先生に、「理科の教材に何かを使うのやったら、小理振の「理科ノート」を使うように、他の先生たちにも頼んどいてな」といった世間話のような電話を欠かさなかった。
 章くんが、「先生、こまめですね」と感心すると、「林会長は、三重県内の学校を「理科ノート」を持って回られたというやないか。わしは、そこまで出来やんわ」と笑った。先輩の先生のそうした姿を見ているから、沖中先生も「理科ノート」に対しての格別な思い入れを持つことが出来るのだろうか。沖中先生が委員長を務める「理科ノート編集委員会」が一丸となるのも、また、その編集委員会に役員や会員たちが敬意を払うのも、また当然であった。
 


編集委員会の毅然たる格式


 このときの小理振の会長は稲垣 稔校長(安芸郡)で、沖中隆男先生の編集委員会を全面的にバックアップする体制を整え、編集委員の選出、教科書会社との折衝と資料の入手などにも、滞りなく手配を整えてもらった。資金的には、章くんが全ての費用を賄ったのは言うまでもない。
 当時、編集委員会には毅然たる格式があって、編集委員の先生たちの研究や努力を役員や会員の皆さんも認めていたから、その努力を無にしないためにも、「理科ノート」を現場に採用してもらうように、真摯な対応をしなくてはならないという礼節があった。小理振が作成した「理科ノート」は学校現場に採用され、授業に役立ってこそその意味を全うするのだから、採用を依頼し啓蒙するのは小理振活動の重要な一環であるという理解が、役員や会員に染み渡っていたのである。
 教育委員会・教育事務所に見本の逓送の協力を依頼したこともそのひとつであったし、各郡市の校長会・教頭会に採用への協力依頼を行ったこと、また、4月には全校の理科主任と小理振会員に採用依頼の公文書を発送した。毎年3月に召集された小理振理事・幹事会では、新年度の採用に対して入念な打ち合わせと対策が検討された。
 「理科ノート」の創刊以来、小理振の全ての会合に章くんは出席している。各回の事項書には「理科ノートについて」の項目が必ず設けられていて、採用・編集・校正・要望、また現場の意見の汲み上げなどが議論されてきたのであった。
 

 沖中編集委員長以来、「理科ノート」は順調に売り上げを伸ばしていった。そして、昭和59年に
戸野 稔会長(鈴鹿市)、前田尚久事務局長(久居)のとき、4万4000部の最高売り上げ部数を達成する。
 研究助成金は、定価250円×0.075×4万4千部×3学期≒ 240万円に上り、研究大会の開催校には30〜50万円の協力金を支払い、研究紀要の製作は実費負担、参加した先生たちには昼弁当を用意したり、また合宿研究会や夏期臨海実習の内容にも工夫を加え、さらに県内県外の全ての会合には小理振から旅費を支給するなど、手当ての面でも手厚い配慮を行う活動が実現したのである。


それでも出ない経費…。北野くん、退職へ



 採用部数4万4千冊、学期あたり9百万円を売り上げた「理科ノート」であったが、売れれば売れたで県下全域をカバーするとなると、営業社員は3名は必要となる。例えば集金期は学期末に集中するから、11月中ごろから始めたとしても4週間16日間程度が実働日数である。1日に集金に回れる学校は、たくさんの先生に会わなくてはならないから8校程度が限度で、ひとりの営業社員が管理できる学校数は100校ほどである。
 学期あたりの印刷費用が540万円、その他の直接経費(運賃25万円、ダンボール・事務文具5万円、アルバイト30万円、小理振還元金80万円、その他)が150万円かかり、これで約700万円。残りの200万円で事務所経費や事務の給与などの間接費用と、この頃の営業社員、北野くん、藤本くん、大館くんの給料を賄っていかなくてはならない。
 北野くんは3年目にして、「理科・社会科ノートでは採算ベースを維持する自信がありません」と言って、退職していった。
以後、何人もの営業社員が「理科・社会科ノート」にかかわることになるが、ひとりが100校を担当するのが限度である状況だから、この仕事で独立して事業を確立することは極めて困難であった。
 章くんとしては、営業社員が学期初めの配達時と学期末の集金時の中間期に販売するため、工作用具や粘土・焼き物などの商品を扱う取引先を探してきたりした。これらは、先生たちへの技術指導も必要であり、既存の業者は対応しきれない分野でもあった。しかも、焼き物などは、一点が1200円ほどの単価がつけられて、利益率も6割ほどに上る商品であったが、章くんが直接に出向く学校では顔見知りの先生が注文をくれたものの、社員のみんながひとつの仕事として定着させることはできなかった。
 「理科・社会科ノート」という学校出入りのベースになる商品を持ちながら、入社してくる営業社員に仕事を教えて、彼らを一人前に育ててやることができなかったことは、章くんとしても痛恨事であった。


理科教科書の採択が、2社に分かれる。 出版のピンチ!


 昭和55年、三重県の理科の教科書採択が、それまで全県で「経綸堂」の教科書を使っていたのを、中勢第1地区(津・安芸・久居・一志)が「東京出版」の教科書を使うことになった。
 まだまだ採用部数も多くない「理科ノート」なのに、経綸堂版と東京出版版の2つを作るのは、出版費用の面からもたいへん苦しいことであった。販売する市場は三重県というのは変わらないのに、2倍の出版費用をかけなくてはならないのである。従来の赤字に、さらに2倍の赤字を上乗せすることを覚悟しなければならない。
 また、編集作業も2倍となって、編集委員の補充と編集費用の手当ても必要であった。現在の1学年3名体制=18名を2倍にするのだから、36名の編集委員が必要である。もちろん、それに伴って編集費用、飲食費、旅費なども36名分を用意しなければならない。利益の上がる事業ならば、それもたやすいことなのだろうが、ようやく部数は上昇して来たと言うものの、人件費などの間接費用は全く出ない赤字体質である。
 しかも、昭和50年には、まだほとんど売れない「社会科ノート」の作成も始まっていたから、理科の6学年2版とあわせると、18学年の原稿を作成しなければならないという大車輪となる。
 出版費用と編集費用の倍額負担…、仕事量も倍増…というのだから、出版の継続を揺るがしかねない大問題であった。
 

 大問題…のはずであった。しかし、章くんは2版とも出版することを即座に決めていた。ここまで、さまざまなことを乗り越えて出版してきた「理科ノート」である。この事業にかかわってきた先生たちの情熱や正対する姿勢を見てきた章くんには、その情熱や姿勢を受け継ぐ責務がある。ここで「ヤメタ」という選択肢は、微塵もなかった。
 そもそも章くんは、ノートの出版にあたって、利益を考えたことはない。もし、利益でこの事業を見るならば、「社会科ノート」は出版以来30年間ずっと赤字のままだし、「理科ノート」も当初の10年間と最近の10年は赤字である。しかし、章くんには三重県版のノートを出版しているという責任と自負があるし、繰り返してきたように、かかわってくれた先生たちの思いを考えれば、章くんが目の黒いうちは「ヤメタ」という訳にはいかないのである。
 最近の役員連中の中には、「『理科ノート』の採用に尽力することは、「Sankyo出版」といういち業者に協力することだ」などと、志の低いことを口にするものもいる。会員数を減らし、「理科ノート」の採用部数も激減させ、活動も先細りとなっている現状に、為す術もない自らの力不足を弁解する言葉なのだろうが、「理科ノート」を作り上げてきた先生たちの思いや、今日までそれを支えてきた会員たちの努力を思えば、口にできない言葉だ思うのだが…。
 「理科ノート」の大儀は、このノートを学校現場で使ってもらうことによって、三重県の小学校の理科授業をレベルアップし、理科教育の前進を図ることである。それはすなわち小理振活動の実を挙げることに直結する。
 採算を重視するならば、章くんの会社のみんなや取引銀行が言うように、さっさと足を洗うのが賢明というものだろう。しかし、章くんには多くの先生たちの思いが詰まったノートを背負っていこうという覚悟と、自分の目の黒いうちは…という意地があるのだ。
 

 「理科ノート」の東京書籍版は、津・安芸・久居・一志という狭い範囲…。大きな赤字を出すことは、目に見えている。それでも、経綸堂版・東京書籍版という2版の作成がスタートした。



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