理科・社会科ノート盛衰記
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 9.「社会科ノート」の改訂


 「社会科ノート」の編集委員会は、第2回目の改訂から森 信久先生(亀山)が努めてくれたが、編集委員は相変わらず鈴鹿・一志・津地区の先生のみで、県内各郡市から集める体制にはならなかった。編集などに、より広い地域の先生の参加を得ることが、ノートの啓蒙につながることは確かだったが、現有のメンバーが強力で、編集作業については十分な陣容であったことから、章くんも三社研に対してそれ以上の要望をしなかった。
 森 信久先生が亀山市教育委員会へ転出してから、編集委員長は山出義治先生(一志)に引き受けてもらっている。森先生、山出先生には、改訂教科書(白表紙)を初めとして、指導書資料や学習計画表などを入手いただくなど、たいへんお世話になった。


生活科の導入


 平成4年、小学校1・2年生の理科・社会科は生活科に統合された。1・2年生に理科・社会科の教科がなくなり、それに代わるものとして、生きる力を養成するとのキャッチフレーズのもと生活科が創設されたのである。
 章くんは、学問の基礎として、自然科学の探究の方法を学んだり、人々の生きる姿を調べたりすることは、幼稚園保育の延長としての手法しか確立できない生活科において、指導できることではないと思っている。教科としての理科・社会科に向き合う姿勢を、1・2年生では楽しいだけのお遊戯にしてしまって、3年生になって初めて理科・社会科の学習方法を指導しようというのだから、遅きに失するというもののである。子どもたちの理科離れ、社会科離れが生じているのも無理ないことであろう。子どもたちは、小学校入学時から、楽しみながら学問として自然や人文に接し、理科的なものの見方や社会科的な考え方を習得していくのが望ましいと思う。生活科とは、これもまた文部省の役人が机上ででっち上げた妄想の産物でしかない。
 加えて見逃すことができないのは、1・2年生から理科・社会科がなくなってしまったことによって、小学校においては、理科・社会科の全校的な研究への取り組みができなくなってしまっていることだ。小学校で理科・社会科の研究に取り組むことは、1・2年生の先生をある部分で外さねばならないということになり、3年生以上の学年でも本格的に研究体制を組むことが難しいという懸念が生じる。理科・社会科を専攻する先生たちの立場も微妙だ。

 生活科は、ゆとり教育のように明確な学力低下の数字が出ないから、その弊害を指摘する声も小さいが、理科・社会科の指導を阻害していることは明らかである。学校現場では、生活科を理科・社会科に結び付けるべく努力工夫を行っているが、それならば生活科をやめて理科・社会科を復活させるべきだ。生活科はいずれ、ゆとり教育や高校の学校群制度と同じように、理念ばかりで中身のない如何物(いかもの)であるという正体が発覚し、修正されることだろう。


生活科ノート、3学期届かず



 生活科のスタートにあわせて、「理科・社会科ノート」も1・2年生の代わりに「生活科ノート」を作成することになった。小理振・三社研のメンバーの中から、低学年の担任経験の豊かなメンバーを募り、原稿作成を開始した。
 生活科は教科書もなく(教科書会社から「副読本」が出版されて、多くの学校はそれを採用した)、記載する学習事項もなく、評価もテストに拠らずに、体験学習を主体とするとされ、「生活科ノート」は作成に試行錯誤を繰り返した。
 初めての試みであって原型がなく、編集に携わってくれた先生たちはそれぞれにたいへん苦労されたと思うのだが、それでも1・2学期はなんとか原稿の締め切りに間に合ったけれども、3学期分が出来上がらず、1月の初めに学校へ届けることができないという事態を招いてしまった。
 生活科ノートの普及にお骨折りをいただいた、鈴木早苗先生には「3学期分、来なかったね」と笑われてしまった。3学期は短い。2月に届いたりしても、学習する期間はない。お世話になった先生がたには、誠に面目なく申し訳のない仕儀であった。
 この当時にはすでに河芸町の教育長に就いていた沖中隆男先生には、「あってはならないことだね」と諭されたのだが、「原稿が遅れた」などと編集委員の責任を問うようなことを言うわけにはいかず、「誠に力の及ばぬことで、理科・社会科ノート出版の歴史に汚点を残してしまい申し訳のないことです」と謝るしかなかった。ところが、どこで聞いたのか原稿が遅れたという事情を知っていた沖中先生は、「たとえ原稿が遅れたとしても、それでも間に合わすのがアンタの腕や。原稿なんて、先生のが上がって来るのを待っていずに、アンタが書けばいいんだから」と諭された。さすがに「理科ノート」の草分け期から手がけて育ててこられた先生の言葉で、深い含蓄を含んでいた。


 平成7年の改定時には、「社会科ノート」の創刊時以来の編集メンバーは、教育委員会や事務所に転出したり、管理職となっていって、編集委員会の人員も枯渇してきた。急遽、津市の役員であった萩下慈恵先生に加わってもらったのだが、萩下先生には急な欠員を埋めるために奥方の文世先生にも執筆をお願いしてもらったり、また後年には、三社研の事務局長として「社会科ノート」の拡販に一方ならぬ尽力をいただくことになる。
 平成11年には、更に伊勢市の山崎光代先生、鈴鹿の山本智康先生を加えて改訂作業を進めた。年に3回ほどの定期会合と、編集前には5〜6回の打ち合わせを兼ねた会合を、乙部の料亭や中華料理のタウタウなどで繰り返した。


三社研役員会への出席


 平成13年度の編集に際して、「社会科ノート」の編集委員会は初めて役員会が選出したメンバーとなるのだが、この編集委員会の発足に先立って、章くんは初めて三社研の役員会に招聘を受け出席することになった。
 章くん、「社会科ノートの還元金(研究助成金)が残念ながら何年間か、三社研会計へ納入されていません。編集委員会の費用すら出ない部数しか販売できない状態が、長年の間続いています」と採用状況を説明し、出版に際してはたいへん厳しい状況であること、県外において採用が順調で出版の継続の支えになっていることなどを説明した。
 この当時、会長に就いていた出口昭和先生は、
「社会科ノートの採用状況がそんなに低いとは知りませんでした。三社研の会員なのに採用していないという状態ですか」
と驚いていたが、
「三社研の組織として採用向上にに取り組んだということは、かつて一度もありません。その採用に組織を挙げて取り組んできた歴史を持つ「理科ノート」が、4万部を越える採用部数を達成した小理振との違いは、この点だと思います」
という章くんの説明に、
「今度の編集には、三社研の組織を挙げて編集委員の選定を行います」
と約束してくれた。
 ただ、事務局長の黒川雅雄先生が、章くんの「社会科ノートの増販に向けて協力をお願いします」という要請に対して、「カラーでないし、内容が古い感じがする」などと述べて、具体的な体制作りにまで話が進まなかったのは、最近の三社研の限界だったろうか。「ノートのカラー化は本義にもとる(【参照】)」と説明し、「内容についての問題は、編集委員会に意見や要望を出して、検討・改善してほしい」と申し入れたのにも、明確な返答はなかった。小理振の小坂先生が、「内容に問題があるというのならば、使ってみて、具体的な意見を出し合っていくというのが、建設的・教育的な考え方であり態度でしょう」と言って、修成小の全校採用を促したのとは180度異なる消極さであった。
 「社会科ノート」の編集は三社研の事業である。その事業を支え、成果を高め、かかわる人たちの努力を尊重して報いることが、事務局としての責任ではないのか…と、章くんの話は続く。「だいたい三社研の会員の先生が、他の社会科ノートを使うなんて、ホンダの社員がトヨタの車に乗っているようなもの。正門から入れてもらえませんよ(事実、ホンダ鈴鹿工場では、ホンダの車以外は正面の駐車場へ入れず、横の駐車場へ誘導される)」と章くん、持論を展開する。「そもそも先生たちは子どもに、『仲間を大切にし、支え合い、協力し合おう』と教えているのに、自分たちの仲間である三社研や小理振の先生が作ったノートを使わないのは、日ごろの指導は口先だけということじゃないのか。」と。
 

社会科ノートの採用増加


 この「社会科ノート」は、近年、採用部数が伸びている。平成16年は2791部だったものが、17年には3180部、18年は3747部となって上昇カーブを描いている。これは、萩下慈恵先生が事務局長に就任して、会合の度に「社会科ノートをお願いします」と声をかけてくれたからである。「編集委員の先生たちが努力して作ってくれたノートを啓蒙していくのは、本部役員の役目です。ただ、ノートの内容の向上には、章さん、責任を持ってください」と萩下先生は言う。章くんの責任は、ノートの内容に対してだけでなく、萩下先生の信頼に対しても大きくなった。


 平成19年夏、萩下先生の奥方、文世先生から一通の封書が届いた。


 『…夫、萩下が逝去しました…』。このころ、他の仕事にかかっていて、「理科・社会科ノート」から少し遠ざかっていた章くんは、その便箋を手にしたとき一瞬、何が起こったのかと混乱した。
1年前に編集作業でご一緒し、「社会科ノート」についてだけでなく、三社研のこと、学校のこと、そして教育からはなれてのことなども話し合ったが、物静かでなお力強いその語り口が昨日のことのように思い出された。
 『…萩下はもともと社会科の専攻ではなかったのですが、社会科ノートの編集にかかわらせていただいて…』と綴られた奥方の手紙は、さまざまなことを本気で話し合える相手であった先生をしのばせる言葉に満ち満ちていた。


 平成19年夏、萩下慈恵先生ご逝去、合掌。




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