理科・社会科ノート盛衰記
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 10.小理振の変遷


 先の項に、『理科ノート編集委員会には格式があって、役員や会員からはその研究と仕事ぶりに対して礼節をもって接していた』と書いた(【参照】)が、小理振の役員会が理科ノート編集委員会に対して全く評価をしなくなってしまったのは、岡田会長(一志)の頃だったろうか。「理科ノート」は小理振の事項書に載ることもなくなり、採用・増販が議題になることもなくなった。
 小理振の歴代の会長は、林会長のあとに就任した、川戸先生(亀山市)は熱心な会長だったが、中部中学校の校長になったため小学校を離れたとして、会長職を同じ亀山市の渡瀬先生に託した。
 ところが、この渡瀬先生は小理振役員としての経験は全くないままに会長に就いたので、小理振の体制や事業の内容を知らず、やることなすことチンプンカンプンで、「会長の仕事は金を取ってくることですから、必要ならば言ってください」なんて言っていた。小理振の会長の仕事は、会員の結集を図り、研究活動の実を挙げることである。小理振の財布は章くんが賄っていることも知らないようなのだ。まだ小理振の活動予算は数万円の時代であったが、編集委員会の交通費・飲食費だけを計算して「1年間活動しようと思えば、最低でこれだけの活動費が要ります」と20数万円の金額を提示したところ、「こんなに要るのですか」と絶句していた。
 2年で勇退願って、その後に稲垣 稔先生が就任。5年間務めてもらったが、当時の理科ノート編集委員長が沖中隆男先生で、小理振黄金時代の足がかりを築くのである。稲垣先生が安濃町の教育長に出たあと、山川先生(志摩郡)、戸野先生(鈴鹿市)、中井先生(志摩郡)、そして岡田先生と続いたのだが、実は章くん、中井会長、岡田会長とは、会長になるまで面識がなかった。「理科ノート」が4万4000部を達成した戸野会長の頃から、章くん、小理振の会議への出席は社員の大西君や紀平君に任せていたから、この頃の小理振の役員会の皆さんはほとんど知らない。
 中井会長や岡田会長はそれまで「理科ノート」の編集委員に名を連ねたこともなかったし、章くんが役員会へ出席していた頃には役員ではなかったから、顔を合わせていないのである。


 岡田会長は、当時の事務局長の前田久志先生が同じ一志で会員に名前を連ねていた岡田先生を、校長だからというので会長に引っ張り出したものである。だから、岡田先生は小理振の歴史も人脈も、「理科ノート」編集委員会の位置づけも、このノートが小理振運営の資金としてどれほど重要なものであるかなどの認識を持たないままに会長になったのだろう。
 副会長の海野信夫先生が、章くんに電話をしてきて、「小理振の会合にいつも出席するようにしてください。「理科ノート」のことも、解ってないようで…」と嘆いてみえたのも、小理振を知らない会長に業を煮やしたという事情だったのだ。が、それは、若い頃から小理振で揉まれて、先輩諸氏の薫陶を受け、小理振とは何をするところで…何をしなければならないかを知っていた、それまでの会長とは経験が違うのだから仕方のないところだったろう。
 小理振に人材が枯渇してしまったのは、生え抜きが教育委員会や事務所などに転出していったことが、その原因のひとつである。若い頃から小理振で活躍して本部役員などを務めてきた先生たちは、現場でも仕事のできる人たちであって、妙齢になると教育委員会や事務所、教育センターなどに引き抜かれていく。当時、県教委の指導課に行くと、過半数が小理振か三社研で活躍した先生たちであった。


 岡田会長からあとの小理振の役員はそれを継いでいくわけだから、当然、小理振の何たるかを体験していない人たちが就任することになる。小理振活動において、会員を結集し、研修の実を挙げ、満足して帰ってもらうためには何をしなければならないかを、身をもって体験していない人たちは、自分が役員となったとき何をしたら良いのかがわからない。
 章くんは、臨海実習において鳥羽・志摩の先生が講師となって多くの参加した先生たちが磯の生物を採取・観察し、その年以降の何年間かは鳥羽や志摩に生徒を連れて臨海実習に来る学校が増えた事実を知っている。名張市や阿山郡の先生が、鳥羽や志摩の先生に依頼して、会場や宿泊を世話してもらっていた。小理振は、理科の先生たちの全県的な交流の舞台としても機能していたのである。
 あるいは、熊野市の森倉先生は、当時、シダ類の研究で全国的に知られた先生であった。小理振では、その講演を津市を会場にして何回にも渡って聞く会を設け、県下各地の先生たちが集まって研究が進んだし、当然、紀北・紀南の小理振活動は盛んであった。それらの事業は受け継がれることなく、現在、紀北・紀南に小理振の活動はない。


 岡田会長のあとは、中野先生(四日市)、棚瀬先生(三重郡)、吉住先生(名張市)が会長職を継いだが、いずれの先生たちも、会長になるまでに役員の経験はほとんどなく、「理科ノート」の編集委員に名を連ねたこともない。
 畢竟、「理科ノート」の採用に対する取り組みもずさんなものとなり、販売部数は目に見えて減り始めたが、そのあとも章くんが小理振の役員会などに顔を出すことはなかった。章くんの出席を招聘するという習慣が、すでになかったのである。


 「理科ノート」の採用数の減少によって、約定通りに小理振への還元金の計算も、長年続いてきた定価の0.075(平成15年当時で定価350円、その0.075で26.25円)から、定額の10円に切り下げられた。約38%に下がったのだから、小理振の会計にも大きな影響が出たことだろうが、そこまで会計を逼迫させた要因は何なのか、その責任はどこにあるのかといった反省はもとよりなされず、昔日の盛んな小理振の姿を取り戻そうとする意欲も、すでにこの時代の小理振役員会にはなかったのである。
 ここ20年間ほどは、小理振会計も潤沢であったから、「理科ノート」編集委員会の旅費などは本部会計の予算の中から支払うことになっていたが(飲食費などは、全て章くんの負担であった)、その支払いも滞り、再び章くんが賄うことになる。





 平成12年1月、プレステージ津で開催された小理振役員会に、章くん、約20年ぶりに出席した。「理科ノート」採用の余りの凋落振りに、昔一緒に仕事をした先生たちからも、応援のような…叱責のような…エールを貰ったので、「理科ノート」作成の歴史から、かかわった先生たちの思いや努力と盛んであった頃の活動の様子を説明し、採用増加に対する協力を要請するためであった。
 この頃の役員の先生たちは、小理振の活動がいかに隆盛を極め、「理科ノート」も全県の津々浦々の小学校に採用されていたか、そのために役員はどんな取り組みをし、会員たちはどのように協力を行なったかを知らず、凋落した現状をこんなものだと受け入れている。
 この先生たちに、昔日の隆盛を取り戻せというのは無理なのだろうけれども、せめて「理科ノート」の増販を小理振の役員会の議題として取り上げ、会員の先生たちに協力を呼びかけてほしいと依頼するために出席したのである。
 会長…棚瀬 護先生(三重郡)、副会長…木村清勝先生(上野市)、高橋正彦先生(伊勢市)をはじめ、会計など役員の先生たちの出席の中で、章くん、「先日、小理振の大先輩の先生方とお会いする機会があり、小理振の活動は現在は会員数も減少させ衰退の一途です。それを象徴するように、「理科ノート」は最盛期の10分の1になっていますと話したところ、それはたいへん残念なことで、小理振活動にはそれだけの意義と魅力があり、改めての取り組みを期待したいとおっしゃってみえました。華やかで面白かったその頃の小理振の活動を思えば、昔日の感がされたのでしょう」と話し始めた。
 「今、小理振は会員の減少、収入の激減という現実に直面しているわけですが、昭和44年、当時の林会長のもと、富山先生や足達先生と一緒に私たちが「理科ノート」を作り、小理振の組織を整備してきたあの頃も、会員数は各郡市に数人…、会員の居ないところもありました。予算も年間数万円で、「理科ノート」の編集には自前のラーメンをすすって原稿を書いていたのです。
 それを、「理科ノート」の出版と平行して、各郡市で開催した研究大会に参加してくれた先生たちを会員に誘い、夏期講習会や合宿研修会での楽しい企画で活動に取り込み、さらにまた「理科ノート」の採用に協力してもらい…といった努力を重ねて、小理振活動を大きくしてきました。
 今、全てを一度に取り戻してと言うわけでなく、まずは編集委員会が研究と努力を結集してきた「理科ノート」の採用を会員に呼びかけるところから、活動の浸透を図っていただけないかとお願いをいたします。役員会の取り組みをいただけるならば、見本をお送りするなどの実践や活動費用は、私どもで全て賄うことをお約束いたします。」と、小理振に会員を結集して研究の実を上げ、参加した会員には充実感を持ってもらって、小理振活動が向上するように取り組みを…とのお願いをしたわけである。


 翌年5月の役員会で、会長・副会長は総辞職…、章くんの願いは水泡に帰した。


 そのあと、会長に就任したのは吉住博光先生(名張市)で、章くんは何度も名張を訪ねて、組織や「理科ノート」増販についての相談を繰り返した。
 吉住会長は、小理振活動に対しても努力し、「理科ノート」の編集にも、役員の皆さんと共に自らあたられるなど、積極的な取り組みをいただいた。
 ただ、小理振の凋落は吉住会長の努力をもってしても止まらず、研究大会、各種研究・講習会や支部活動なども、内容に新機軸を打ち出すことはできず、会員の積極的な参加を得ることは望めなかった。


 「理科ノート」の採用部数は、依然、減り続けている。


 そして、平成18年、前田 悟会長が誕生して、現在に至っている。前田会長は、沖中隆男先生や平岡 仁先生という歴代の編集委員長と同じ安芸支部で小理振に参加し、その活動を目の当たりにしているし、平岡先生のあとを継いで編集委員長を10年間以上務めてもらった、小理振の生え抜きである。
 章くんとも、編集委員長時代を通じて小理振活動についてさまざまな話をしてきた。その中で、前田先生は、「小理振研究にかかわる先生たちの活動を、学校現場での理解を向上させ、公務出張や旅費の手当てなどを確立しなければならないこと。小理振での研究活動や県内外での発表などを、勤務評定上の評価として認定していくこと。「理科ほど面白い教科はない」のだから、現場の先生たちの理科への目をより開かせ、子どもたちへ愉快な理科教育を実施していけるよう啓蒙すること。そのために「理科ノート」は大いなる手段なのだから、その内容の充実と増販を図っていきたい」など、自らが小理振の会員として抱いていた考えを繰り返し述べていた。
 この先生の手によって小理振再生が成らなければ、小理振の将来はない。いわば、小理振の最後の希望の星であろう。前田先生が小理振を再浮上の軌道に乗せ、後進を育てることに成功しなければ、もはや小理振は衰退を深め、やがて消滅するばかりであろう。
 「会長になった今、会員として抱いていたさまざまな考えを実現する立場になったわけですね」と期待する章くんに、「いよいよその立場になりました」と前田先生…。


 平成20年、今年は、その前田会長の3年目である。                 




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