その1


第4日目 2月19日(水曜日)  世界遺産 アユタヤ 見物

今朝も渋滞 オートバイがすごい

 今日はツアーに戻って、アユタヤの見物である。午前8時30分、バスに乗り込むと、「あら、お久しぶり」と同行の皆さんからご挨拶を受けた。
 バンコクは相変わらずの渋滞でノロノロ。信号が変わると、オートバイを先頭にドドドーッと車の波が押し寄せて、交差する車とのバトルを繰り返す。町はどこでもレストラン
 早朝から、町には食べ物屋の屋台が店を開き、出勤途中の人が朝食を摂っている。いや、昼も夜中でも食べ物屋台は店を開いているから、バンコクの通りは24時間レストランである。
 ようやくバスは高速道路へ入り、1号ハイウェイを北へとひた走る。バンコクの郊外へ出ると、道の左右には水田地帯が広がり、その中にポツンポツンと、工場や町並みが固まっているのが見える。
 360度、ぐるりと見渡しても、山は見えない。バンコクは、タイ大平原の真ん中、母なるチャブラヤー川の下流にできた大湿原に開けた町なのだ。 一面の水田
 タイの稲作は、田植えは行なわない直播きで、1月と6月頃に収穫する2期作であるという。年中暑いのだから、作ろうと思えばもっと作れるらしいが、そんなに作ると土地がやせてしまって、かえって出来が悪くなると言っていた。直播きも、上手に播かないと、出来上がりにムラがあるとか。6月に取る米は出来がよくて美味しいので人が食べるが、1月の米は粒にムラがあり味も悪くて、家畜の飼料にする。
 タイで聞いた話…。『以前、日本の備蓄米が底をついたといって、タイ米を緊急輸入したところ、籾殻や土の混ざった粗雑な米で、タイ米はダメだと言われたことがあった。ホントは、日本の米はなくなっていたわけでなく、タイを経済的に援助してやってほしいというアメリカの要請で、日本はタイ米の輸入を決めたのだが、日本から大勢の農林族議員や農協役員が来て、上級のタイ米の輸入はしないで欲しい。代金は正規のものを渡すから、家畜のえさにする粗悪なものを日本に送るようにと要求したのだという。人の口に入るタイの米は完全な機械化で袋詰めされるので、籾殻やまして土など入るわけがない。日本に渡ったのは日本からの要求によって、家畜のえさになるタイ米だった。それにしても、安い方のタイ米を仕入れた差額のどれほどが、日本の関係者に還流されたことか…』と。
 一帯は水田地帯だ。水田というよりも沼地で、そこへもみを播いて稲作をしているというべきかも知れない。このあたりの民家は高床式の住宅で、古いものは取り壊しが自由にできるものが多い。水辺で生活していて、雨季になって氾濫すると、家をずっとうしろへ移動させるのである。水が引くと、またもとの水辺へ戻ってくる。池に浮かぶ御堂


 アユタヤへの途中、バスは王族が警備兵と一緒にパチリ夏の間を過ごした離宮跡「バンパイン宮殿」に寄った。広い庭園の中に大きな池を配し、その周りにタイ様式、中国式、あるいはギリシャ風の美しい建物が並んでいる。
 不動の姿勢で立つ警備兵と一緒に写真に納まる人がたくさんいた。イギリスのバッキンガム宮殿の警備兵は、話しかけても知らん顔、横に並んでも微動だにしなかったが、ここの兵士は「いいかな」と聞くと、「どうぞ」と会釈を返して、それまでダラ〜ンとしていたポーズを直立不動に取り直す。直射日光を避けて、日陰に位置を変えていた者もいた。タイはイギリスと違って、暑1881年に完成した 見晴台いからねぇー。
 洋館の中をのぞいたら、素晴らしい調度品が並ぶ中に祭壇が組まれ、制服のタイの女子高生80人ぐらいが参拝の途中であった。引率の先生が、何か説明しているのを一生懸命に聞いている。館内は写真撮影禁止であったが、純真な女子高生の姿を感動的に撮ろうとして、章くん、デジカメの電源を入れたら、係りのおじさんに見つかって追い出された。不運…!



3基のチュディを背景に 100バーツの帽子をかぶっています。
 さらにバスは北を目指して走る。やがて道の左右に、苔むしたレンガ積みの瓦礫が見えた。アユタヤの遺跡である。
 バンコクの北およそ80q。このあたりではまだそれほど大きくはない流れのチャブラヤー川とその支流に囲まれた中州に、アユタヤ王朝の遺跡は時を刻んでいる。1350年から400余年間、5つの王朝35人の王が壮麗な歴史を刻んだ古都だ。
 1767年、侵攻したビルマ軍の手によって、アユタヤは徹底的に破壊される。かつて黄金色に輝いていたというワット・プラ・シー・サンペットの3基のチュディは、今、黄金の装飾をはがされて黒ずんだ石の素肌をさらし、3人の王の遺骨を抱いて歳月の中に静かに眠る。
 遺跡群の周辺に、たくさんの物売りがいた。彼らはなかなかにしつっこい。ガイドのちえさんは、「口を利いてはいけない。いらんと言うと、幾らなら買うかと言ってくるから、とにかく黙っているのが一番だ」と言う。それで、章くんたちのツアーの多くの人は、物売りが来ると硬く口を閉ざす。相手は引き下がらないから、「買ってよ。安いよ」と食い下がる物売りをずーッと引き連れて歩くことになって、その光景もなかなか愉快だ。
 章くんは調子がいいから、あれこれと相手をしながら歩く。「要らん」と言うと、話題をいろいろと変えて迫ってくる。日本の500円玉を見せて、「これはいくらか。何バーツか?」と聞いてくる子がいたので、「170バーツだ」と答えていたのだが、このアユタヤだけで3人の売り子から、同じ質問を受けた。彼らは、「要らん、要らん」と言う客に、話の接ぎ穂に500円玉を見せて「何バーツ?」と聞くのだ。アユタヤ遺跡
 なんだかんだと話をつなぐ女の子に、章くんは帽子を買ってしまった。「幾ら?」と聞いたとき、「200バーツだけど、100バーツでいい」と言うので、日差しの強さも相まって買ってしまったのだ。でも100バーツならば300円。往きの飛行機で隣だった、吉本さんの旦那に「300円ならば安い買い物ですよね」と褒めて貰った。
 横を歩いている奥さんは、素知らぬ顔をしている。ン…ちょっと雰囲気が違うなと、章くんは思う。
注意していると、ビルマ軍に首を落されたという石仏奥さんが旦那を呼ぶときは「ヨシユキさん」と名前で呼んでいる。二人では談笑しているけれど、他の人が入ると、旦那は愛想よく受け応えをするが、奥さんは話題に入ってこない。人を避けている。
 「失礼があってはいけないから、あの2人…」とちえさんに確かめてみると、「ご夫婦…というわけじゃぁないの」と小声で答えてくれた。そうと判ったあとは、我が儘そうな女のしぐさもどこか可愛く思われた。男が妙に優しいのも合点がいった。

アユタヤには像が80頭もいるという。
 それよりもお昼ご飯だ。バンコクへ戻る途中、日本人町跡の近くに、日本人が経営しているレストランがあって、昼食はそこで摂った。
 ターンテーブルの上に肉の煮たのやエビを蒸かしたもの、野菜とトリ肉の煮付けなどがまわる。最後のスイカが美味しかった。

 帰りのバスに揺られること1時間30分。ちょっと疲れ気味の章くんは、今日も最後部の席で寝てしまった。ホテルへ着く直前、「夕食の後のニューハーフショー、行く?」と聞きに来たちえさんに起こされ、「行く、行く。どこでも行く」。また明日、ツアーを外れてゴルフに行くつもりの章くんは、ちえさんの誘いは断われない。


■ タイ舞踊、 ニューハーフ・ショウ


 シャワーに入って小休止したあと、6時30分、またバスに乗り込んで出発。今日の夕食は、タイ舞踊を観ながらタイ料理をいただく予定である。
タイ舞踊 7時すぎ、料理が並べられて食事が始まった。トムヤンクン、グリーンカレーなどのタイ料理が、小皿に盛り付けられて並んでいるが、レッド・ペッパーの味には及びもつかない。それでも章くん、おかわり自由と聞いて、トムヤンクンをもう一杯と注文していた。
 タイ舞踊は、ヘルスセンターの出し物程度のものであった。背景が描かれていたのは1幕だけで、出演者も5・6人。まぁ、翔くんたち観るほうも、タイ舞踊の知識もなく、舞われているのが最高の格式とされるラコーン・ナイ(宮中舞劇)なのか、ラコーン・ノーク(宮外舞劇)なのか、あるいはラコーン・チャトリー(民間演劇)なのかも判らない。
 ラーマーキエンに由来する古典舞踊は衣装も豪華で振る舞いもメリハリがある。民間舞踊は男女がからみあい、やさしく楽しく踊られていく。微笑みの国タイのゆえんだ。

男なんかなぁ?
 タイ舞踊を堪能したあとは、向いの劇場で、ニューハーフショーである。オカマというと、どうもよいイメージは湧かないが、タイのオカマたちは市民権を与えられていて、このショーも評価の高いエンターティメントであるらしい。
 午後9時30分から始まったショーは、10幕以上あったと思う。最初は男だと思っているから、化粧や整形できれいになるんだなといった意識で観ていた。
 3・4幕ごろになると、ン…ホントに男だホントは女か?ったのかなと思い、5・6幕ごろには、ホントは女じゃないのかと思い、7・8幕ごろには、拍手また拍手。フィナーレには、何かプレゼントをしたいと思うほどで、宝塚の追っかけファンを裏返したようなものである。
 タイは、整形医術が世界一であるとか。顔かたちを変えたり、胸を大きくしたりなどは簡単なことで、タマをチョン切るのもお手のもの。タイ女性の7・8割は何らかの整形をしているという。
もう、全然判らんようになってきた!
 ショーがはねてから、舞台に立っていた子たちはロビーに並び、客と一緒に写真に収まる。1枚40バーツだ。ショーを観ながらお目当ての女の子(?)を決めていた客達は、キャーキャー言いながら何枚も写真を撮ったり、一緒に撮ってもらったりしていた。
 章くんもショーを観ながら、「キレイな子だなぁ」と思った子がいて、ロビーに出てくるとその子と目が合ってドギマギしてしまった。その素振りに何かを感じたのか、その子が章くんの腕を取って、「写真、撮りましょう」と誘う。『タイまで来てオカマの誘惑に屈しては、ふるさとのみんなに会わせる顔がない』とここは踏ん張って、翔くんは一緒の写真は撮らずに帰ってきた。… 摂ってくればよかった!




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その6
タイ・ゴルフ紀行
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