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【88】 史 記 T    (司馬 遷 著、小川環樹 訳、岩波書店)    3.15


 司馬 遷  前145年(諸説あり)、洛陽の西南夏陽に生まれる。(漢、景帝)
       董仲舒に儒学(春秋公羊伝)を、五経博士に易・詩・書・礼・春秋を学ぶ。
       20歳、2年間の諸国漫遊の旅に出る。
       23歳、郎中(侍従見習い)に任官、漢の官吏としての第一歩を踏み出す。
       35歳、南越国へ宣撫と視察に。
       37歳(前108)、大史公(暦を作り、祭祀をまつる役)に任官。
       46歳、匈奴討伐の李陵を弁護して宮刑に処さる。
       49歳、武帝の特赦により放免。新設の中書令に就任。
           以後、史記(太史公書)の編纂に取り組み、全130巻を完成。
       59歳(前86年、諸説あり)、逝去。


 史 記   本紀12巻・表10巻・書8巻・世家30巻・列伝70巻の計130巻から
      成っている。黄帝を初めとする五帝から夏・殷・周の三代、秦、漢楚抗争期を
      経て前漢の武帝までの歴史を著述した通史。武帝在位時の完成
のため、司馬遷
      は公表を避けて正本を隠し、後世の批評にゆだねた。前漢の宣帝の時代、外孫
      にあたる楊ツ(よううん)により世に出たとされている



 前2550  三皇五帝
   三皇 伏羲(ふくぎ、漁労の発明者)・神農(農業の発明者)・
      燧人(すいじん、火食の発明者)の三人の神
   五帝 黄帝(漢民族の祖先)・せんぎょく(黄帝の孫)・帝こく(黄帝の曾孫)・
      尭・舜
      特に、尭・舜の世は理想的な政治が行われた時代と讃えられた。
      尭は舜に位を譲り、舜はに位を譲った。
      禹は黄河の治水に成功して、舜から譲位されて帝位につき、夏王朝を創始。

 前2144  王朝。以後17代450年間続いた。(実在の遺跡は未発見)
      暴君(けつ、殷のとならぶ暴虐な君主の代名詞)…妲己、「酒池肉林
 前1711  湯王、夏を滅ぼす。(殷は、現在確認できる中国最古の王朝。
                  殷の発掘は20世紀に入ってから … 甲骨文字)
      文公が諸侯に支持され、王となる。
 前1066  文王の子、武王は渭水のほとりで釣りをしていた太公望呂尚と出会い、
      軍師・総司令官として迎えて「牧野の戦い」に勝ち、殷を滅ぼす。
      周王朝の成立… 太公望呂尚(兵法書「六韜」)は功績により、斉王となる。
      魯・燕・衛・晋・曹・蔡・呉・陳・宋・斉・楚の諸侯を封じる封建制度
      
 前722   春秋時代 始まる。
    ・斉(桓公)、晋(文公)、宋(襄公)、秦(穆公)、楚(荘王)、
     呉(闔閭(こうりょ)、夫差)、越(勾践)などが、天下の覇を競う。
    ・斉 管仲・鮑淑 … 管鮑の交わり
        富国強兵 「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る
    ・晋の公子 重耳、荻から斉・宋・秦とわたり、秦軍の支援で晋の文公 62歳
     
    ・楚の伍子胥、冤罪で父と兄を殺され、呉へ亡命。
     16年後、呉王闔閭は軍師孫武(孫子)と伍子胥とで楚を破る。
     伍子胥は、楚の平王の亡骸を掘り起こして鞭打つ … 死者に鞭打つ
      日暮れて途遠し  死者に鞭打つその行為を批判した申包胥に、伍子胥は
       「日暮れて途遠し、吾故に倒行してこれを逆施するのみ」と答えた。
       「手段を選んでいるヒマなどない」という意味である。
    
    ・越王句践、呉王夫差   会稽山の戦いで越は大敗 「臥薪嘗胆
     {天、勾践をむなしゅうするなかれ、時に範蠡(はんれい)なきにしもあらず
     呉で伍子胥 自決。亡骸は馬の皮袋に入れて長江に流される… 端午の節句
     越(内政の文種・軍事の范蠡)の句践
      夫差の覇者の儀の日に呉を攻め、7年後に夫差自決 … 呉、滅ぶ

   「文事ある者は必ず武備あり」(孔子)
     セットになる言葉に「武事ある者は必ず文備あり」がある。外交交渉を行う前
    には、軍備を忘れてはならない。また、軍事を発動する前には、まず外交交渉に
    手を尽くせということ。

 前403   覇者 晋の6人の公子が争い、戦国時代 始まる。
    ・魏の西門豹(灌漑土木)。
    ・呉起(孫呉の兵法)は、魏から楚に移って宰相となるが、反乱で憤死(381)
    ・呉の孫子とその後裔(100年後)斉の孫ビン
      孫子の兵法 「風林火山」「敵を知り 己を知れば 百戦危うからず」
    ・秦の商鞅行いを躇うものは名誉を得ず。事にあたって躇うものは功なし
       法治主義 … 謀反の嫌疑で、車裂きの刑(前338)。 富国強兵策


 【89】 史 記 U                           3.22


 斉 … 第29代で田氏斉となり、5代ビン王のころ秦と並ぶ強国に。
  ・属国 燕の太子平(昭王) 国の再興を図る
    → 郭隗 … 「先從隗始 … 隗よりはじめよ
    諸国から人材が集う。 楽毅は五カ国連合を成し、上将軍として斉を撃破
    昭王が没して、恵王は楽毅を追放 「反間の計」
     楽毅は、昭王の遺徳をしのび
     「君子は人と絶交してもその悪口を言わず、…その身を弁明せず」
  ・斉の田単 … 1000頭の牛の角に剣、尾に葦の束をくくりつけて火を放つ
          即墨の牛の策などで 燕に奪われた70余城を回復
  ・斉の孟嘗君 … 食客三千人 
      鶏鳴狗盗 偽の鶏の鳴き声で函谷関の門を開けて秦を脱出、斉を復興する。
  ・合従連衡策 (蘇秦「むしろ鶏口となるも、牛後となるなかれ」、張儀

 秦 … 白起将軍 韓・魏の連合軍を破り平定
    ・逍 藺相如は「和氏(かし)の壁」と十五城交換の使者として、秦へ赴く
        「完璧」… 壁を完うして帰らん
       藺相如廉頗将軍 … 刎頚の友 頚を刎ねられても悔いのない交わり
  ・魏の范雎(はんしょ)、雪隠漬けの辱めを受けて秦へ 「遠交近攻策」を説く
  ・前261 「長平の合戦」にて、白起(秦)は趙括(趙)を破り、40万人を生き埋め
  ・白起、宰相范雎の和議に不審を抱き将軍職を辞職
  ・逍の邯鄲を攻めるも、楚の春伸君、魏の信陵君らが援軍し大打撃を受ける。
    → 秦の人質子楚は、呂不韋の導きで邯鄲を脱出。 政(3歳)捕われる。
  ・白起、昭王の招請に応じず。前257、自決。
  ・范雎、昭王の在位中に宰相の職を辞して、余生を全うする。


  ・前251 昭王 逝去。孝文王(安国君)が即位し、子楚(荘襄王)太子となる。
        → 趙の人質となっていた、帰国。10歳。  
  ・呂不韋、秦 荘襄王(子楚)の丞相となる。 「奇貨、居くべし」  


【90】 史 記 V                          3.24


 前246  秦 荘襄王 死去。 秦王政 即位(13歳)。
        呂不韋、相国となり、仲父(父の次の意)と呼ぶ。 「呂子春秋
  ・楚の李斯 呂不韋の推挙により、秦王政の近侍となる。
    「われ、鳥獣にあらず
       地位もなく財もなき身でありながら、機会をつかもうとしないものは、目の
      前のえさを食らう鳥や獣と同じである。人間として出世する機会があるのに、
      出世の努力をしようとせず、貧乏に甘んじて世間に背を向けて、富貴を憎み、
      うぬぼれて高貴と納まっているのは、人間の本性に反するものである。
  ・ロウアイの乱。 ・呂不韋、服毒自殺。
  ・秦王政、強国策を進める
 前233  韓の公子 韓非、請われて秦に入り、政に絶対君主制を説く。
       繋がれ獄死。
 前232  燕の公子 丹、人質となっていた秦から脱出
  ・秦王政、王翦の秦軍を60万から20万に編成替え
       反対した樊於期は家族を処刑され、燕に亡命
 前230  韓 亡ぶ。
 前228  趙 亡ぶ。
 前227  燕王丹、秦王政の暗殺を企て、ケイ軻を送り失敗。(樊於期の首を持参)
        「風 蕭蕭として 易水寒(つめた)く、
           壮士 ひとたび去(い)かば 覆(ふた)たび還(か)えらず

 前225  魏 亡ぶ。
 前223  楚 亡ぶ。
 前222  燕、代  亡ぶ。
 前221  斉を平定して、秦王政 天下統一を成し「始皇帝」を名乗る。(38歳)
       ・李斯を丞相に任命、国づくりを進める
  ・天下を36郡に分け、守(行政長官)・尉(司法長官)・監(監察官)を置く。
  ・度量衡・通貨・文字の統一  ・有力者12万戸を咸陽へ移住
  ・咸陽宮の造営        ・皇帝専用道路の敷設 → 全国巡幸 
 前219  泰山山上にて、「封禅の儀」  → 不老不死の薬を求める方士 徐福
  ・第3回巡幸の途上、韓の末裔張良は 分銅を温涼車に投げて、始皇帝暗殺を図る。
  ・名将 蒙恬(もうてん)、匈奴を討伐  → 万里の長城を築く
 前211  焚書坑儒  460余人の儒者が生き埋めとなる。
        諌めた長子 扶蘇を、北方警備の蒙恬のもとへ追放
  ・九源から甘泉までの直線道路 700qの大工事
  ・始皇帝陵(驪山陵)の築造     ・阿房宮の建設
  ・健康のすぐれぬ始皇帝は、政務を宦官の趙高を通して行う
 前210  始皇帝 5回目の巡幸。途中 死去。 49歳
  ・扶蘇を世継ぎとする遺言を、趙高が書き換え、李斯を引き込んで、
   末子の胡亥を世継ぎとする。
  ・扶蘇を謀殺、蒙恬を冤罪で投獄、後に自害。
  ・始皇帝の葬儀を行い、始皇帝陵(驪山陵)へ後宮の女性・工匠らは
   寮母の秘密を守るために生き埋めとされる。


  ・公子・公主、大臣、官吏などの不満分子の粛清 → 趙高による恐怖政治


  ・辺境(漁陽・今の北京市密雲)の守りに徴用された農民たちが、長雨の洪水により
   期日に遅れる ← 秦の法 … 遅れたものは死刑
   → 農民のリーダー 陳勝は、呉広と計って、農民軍を起こす
      燕雀 いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや
  ・陳勝の蜂起に、楚の貴族 項梁・項羽、魏の貴族 張耳・陳余、劉邦らが呼応。・
     ・項羽、叔父の項梁と組んで郡主を倒し、反秦軍を起こす。
      ・六(りく)の鯨布(英布)らも、項梁軍に合流
      ・軍師 范増の献策で、楚王の末裔を立てて壊王とする → 楚軍
     ・沛(はい)の劉邦、亭長となり、呂公の娘 呂雉をめとる。
      ・囚人を咸陽に届ける途中に逃げられ、自らも逃亡。
      ・沛県の県令を討ち(曹参・蕭荷らの働き)、県令として軍を起こす。40歳
  ・秦の章邯 囚人軍を編成して、農民軍を撃破
  ・陳勝は、敗走の途中、自分の御者に討たれて死亡。


  ・李斯、謀反の疑いで獄死。 趙高は、宮廷で我が物顔
   「鹿を引いてきて、馬だと言い、鹿だと言い張った者を捕らえて処刑 → 馬鹿
  ・秦の章邯と20万の軍が、項羽軍に降伏。
  ・趙高、胡亥を自決に追い込み、子嬰を秦王とする。
  ・子嬰、趙高を自宅に誘って殺害。

  ・前209 匈奴の冒頓、父の頭曼を殺し単于を名乗る。
   有力部族の東胡・月氏を破り、百以上の部族に分かれていた匈奴をまとめる。
   → のちの漢は、娘を嫁がせ、綿・絹・米・酒を納めて、和親政策を採る。


【91】 史 記 W                            4.11


 ・楚の壊王、二軍を咸陽制圧に向かわせ、先んじたものを関王とすると約束。
  
 宋義軍(北路)             劉邦軍(南路)
 ・宋義 趙の鉅鹿救援を命じられるも、   ・昌邑攻略に、彭越が加わる。
  安陽で46日間動かず。
  ・息子宋襄を斉の大臣に送り出す。    ・高陽にて?食其(れいいき)を得る。
 ・項羽 怒って、宋義・宋襄の親子を     ・陳留の県令を説いて、無血帰順
  誅殺し、楚軍の上将軍に就く。      ・韓王を援けて秦軍を撃破、張良を得る
  ・秦の章邯軍を破って鉅鹿城を救援    ・南陽・宛城・武関を諜略、買収などで
   その強さに、諸侯も従う。        帰順させる
 ・秦の章邯・司馬欣・董翳、20万の    ・嶢関を撃破
  秦軍とともに投降            ・咸陽へ入り、関中一番乗りを果たす。
  ・秦兵20万を生き埋め          ・宝物・後宮を保護 ← 樊膾の忠言
                       ・法は三章
 ・項羽、函谷関に着く    ← 対峙→  ・函谷関を閉じて、兵士に守らせる。      

 ・項羽、函谷関を撃破して、鴻門に布陣
   『范増、項羽に説きて曰はく、
   「沛公山東に居りし時、財貨を貪り、美姫を好めり。
    今関に入りて、財物取る所無く、婦女幸する所無し。
    此れ其の志小に在らず。
    吾人をして其の気を望ましむるに、皆竜虎を為し、五采を成す。
    此れ天子の気なり。急ぎ撃ちて、失すること勿かれ」と。』


   鴻門の会(前206)  項羽・范増・項伯・項荘 ←→ 劉邦・張良・樊膾
    亜父剣を抜き、玉斗を撞き之を破りて曰はく、
    「ああ、豎子、謀るに足らず。将軍の天下を奪う者は、必ず沛公ならん」と


 ・項羽、咸陽に入る(このとき26歳)
  ・秦王一族と官人4000人の処刑
  ・宝物・後宮の美女を奪い、咸陽宮・阿房宮に火を放つ …3ヶ月間、燃え続けた
  ・始皇帝陵(驪山陵)をあばき、財宝を略奪、放火
 ・項羽、諸侯と諮り、壊王を帝とし、自らは「西楚の覇王」を号す。
  劉邦(沛公)は漢中王となる。「左遷」 (この年(前206)は漢の元年である)
 ・劉邦、張良の進言に従い、漢中に入るに蜀の桟道を焼く。
   → 韓信 項羽(楚)軍の雑兵から、劉邦軍に参加
        蕭荷の推挙により、劉邦軍の上将軍として兵を鍛え、軍を統率する
      「韓信の股くぐり」、「国士無双」、「砂嚢の計
 ・項羽、楚の義帝を殺す。


  ・斉の田栄・田横は、反楚の軍を挙げる 
   → 劉邦、東進を開始(漢中入りから、わずか4ヶ月)
 前205 劉邦軍56万、項羽の本拠地 彭城を落とす
  ・引き返した項羽軍3万に大敗。 単騎、馬車にて脱出(御者 夏候嬰)
   「逃げる途中、娘(のちの魯元公主)息子(同 恵帝)を馬車から放り出すも
    夏候嬰に諌められ、収容して榮陽の城へ逃げる」
    錐水の大敗を見て、諸侯が離反
   → 韓信の北伐 … ・西魏を木おう筏の計で破る
      ・趙の20万を3万の兵で背水の陣
        「兵は死地に置かれて、はじめて存す」
      ・敗将 広武君李左車を懸賞をつけて捕らえ、兵法を聞く
        「敗軍の将、兵を語らず。亡国の官、国の経を計らず
      ・レイ食其が降伏の説得に赴いていた斉を、中止命令がないとして攻撃
        レイ食其は釜ゆでの刑。い水の戦いで、楚の援軍 龍旦(りゅうしょ)
        砂嚢の計にはまり20万の兵は全滅、斉 滅亡。 
  ・天下は、項羽・劉邦・韓信の3大勢力に分立
   ・魏の陳平、魏・楚(項羽)を渡ったのち、漢に仕える。
     → 離間の策 … 范増、疑われて項羽のもとを去る。
   ・斉王となった韓信に、説客カイ通(かいとう)は、天下三分を説くも
    劉邦と対立できない韓信は、この策を退ける。
     「主を震わしたる者 身危うく、功天下を蓋う者 賞されず」
     「狡兎死して 良狗烹られ、高鳥尽きて 良弓蔵わる」
     「功は成り難くして 敗れ易く、時は得難くして 失い易し」
     「天の与うるを取らざれば その咎を受け、
            時至って行なわざれば 返ってその殃を受く」
     答えて、韓信の曰く、「人の食を食する者は、人の事に死す」
       自分を取り立ててくれた恩人には、一命を賭してその恩に報いるという意。
       韓信が斉を平定した後、漢から独立すべきだとの上のような進言に対し、
       この言葉をもって漢王(劉邦)の恩義に背くことはできないと語った。

  ・劉邦、韓信・彭越とともに、項羽討伐の軍を挙げる。
     「むしろ智を闘わさん、力を闘わすこと能わず
       項羽から一騎打ちで勝敗を決めようと持ちかけられた際、劉邦が言い返し
      た言葉である。「俺は知恵で闘う。力で争うようなことはしない」という意
      で、この場合、勝負を逃げるというよりも、相手を逆上させ正常な判断を失
      わせ勝利を得ることに真髄がある。
       劉邦は武では項羽に劣っていたが、舌戦において項羽を逆上させ、見事、
      手玉に取った。
 
  ・前202、垓下の戦い
    「四面楚歌」 項伯・鐘離昧・季布将軍たちも、項羽の陣を離れる。
    『力 山を抜き、 気は世を蓋う、しかれども 時 利あらず 騅 ゆかず
     騅のゆかざる 如何せん、 虞や 虞や 汝を 如何せん』
   ・烏江のほとりで、項羽 自決。(30歳)
   
【92】 史 記 X                            4.18

 漢建国の三功臣 … 蕭何、張良、韓信
  ・蕭何 沛県の役所の文書係。劉邦に蜂起をすすめ、県庁占拠に内部から誘導。
      項羽打倒の東進に関中に残り、前線への兵站に尽くす。
    「一旦の功、万世の功
     劉邦は、蕭何に第一位の席次を与えた。一同は攻城野戦に功績をあげた曹参を推
     挙したが、関内候が異をとなえた。「曹参は戦において功績を挙げたが、これは
     一旦(一時)の功である。一方、楚との5年間にわたる戦の間、蕭何は幾たび戦
     に敗れても兵や兵糧を補給し、最後まで関中を確保し続けた。これは万世の功で
     ある。一旦の功を万世の功より高く評価するわけにはまいりますまい」と。
     戦で全面に出て活躍しなかった地味な蕭何を見事に評価した言葉である。
  ・張良 留侯に封じる
  ・韓信 謀反の企みありとして、楚王から淮陰侯に格下げ。
 ・都を、関中の長安に定める。
  ・韓王信、趙王の末裔趙利ら、反乱の狼煙を上げる。
  ・鋸鹿の陳キが反乱。韓信、鋸鹿討伐に向かった劉邦の留守を狙いクーデターを謀るが
   捕らえられ処刑。
  ・梁王彭越、淮南王鯨布ら反乱を起こす。
  ・蕭何、猜疑心に固まった晩年の劉邦(高祖)に、全財産を提出し、その心を安らぐ。
 ・劉邦、漢の後継者に溺愛する戚夫人の子如意を推すも、周昌らの重臣に諌められる。
   翻意した劉邦は、如意を趙王に封じ、宰相として周昌をつけ、その保護を依頼。

 前195 劉邦(高祖)死去。「劉氏以外のものを王に立てるな」。恵帝 即位。

  ・呂后の専横
   ・戚夫人への復讐 … 捕らえて首かせをはめ、一日中労役に就かせる
      如意を都へ呼び出すも、周昌は病気と称して拒絶
      周昌を呼び、次いで如意を呼ぶ → 如意 毒殺。
     戚夫人の両耳を焼き、目をくりぬき、両手両足を切断して、厠にしずめる。
   ・母 呂后の残忍さにショックを受けた恵帝は、酒におぼれて23歳で死去。
     恵帝の側室(毒殺)に生ませた子を、張皇后の子として即位させる(恭帝
   ・真相を知った恭帝を毒殺。 幼少の弘帝を立てる。
   ・劉邦の子、趙王友・梁王恢・燕王健の太子を謀殺、呂氏の勢力を拡大
   ・趙王に呂緑・梁王に呂産を充て、それぞれ北軍・南軍の上将軍に任じる。
  ・前180年 呂后 死去。 呂氏誅伐の動き急。
   ・朱虚候劉章、兄の斉王と謀り、呂氏討伐の兵を挙げる。
   ・平定の命を受けた灌嬰は、榮陽城に入り造反、諸国の劉氏諸侯に連合の檄を発す
   ・丞相陳平、大尉周勃と謀り、北軍大将軍呂緑の指揮権を簒奪。
   領国の梁を連合軍に制圧された呂産は、クーデターを起こすも、宮中で惨殺される
  ・呂后の死去から2ヶ月で、呂氏一族はことごとく処刑され、呂氏滅亡。

  ・幼少の弘帝は、恵帝の実子ではないとして廃嫡。
  ・代王即位 文帝 
    … その日のうちに、弘帝と呂氏の息のかかる済川王・淮陽王・常山王ら謀殺
   ・丞相の陳平は位を周勃に譲り引退
   ・周勃、謀反の疑いをかけられ投獄される ←袁央・薄太后らが無実を訴え放免
   ・文帝、兆錯に「尚書(書経)」を学ばせ、太子(のちの景帝)の守り役とする。
  
   ・前166 匈奴の老上単于、14万の兵をもって漢領に攻め込む。
    文帝、戦車千両・騎兵十万を出動 → 匈奴、退散 → 漢、和親政策を維持

  文帝崩じ、景帝即位。
  ・兆錯、御史大夫となり、厳しい領地削減策を献策 ← 袁央、強く反対
  ・温央、呉の宰相となるも、兆錯の姦計にはまり、収賄で投獄される
  ・兆錯の厳しい領地削減策に、劉氏の諸王が兆錯を討てと反乱→「呉楚七か国の乱
  ・文帝は温央の策を容れて、兆錯を殺し、呉・楚の王を攻めて乱を平定(前154)

 前140 第7代 武帝(孝武帝)が16歳で即位  (のちの光武帝と区別)

  ・国力も豊かになった漢は、対匈奴政策を強硬に転ずる。
    張騫を西域に派遣し、衛青霍去病の二将軍に匈奴を討たせる・

 前110 始皇帝をしのぐ領土を得た武帝は、泰山で「封禅の儀」を執り行う。

 史記 完

  ● 太史公曰はく …云々…「桃李言わざれど、下自ら蹊を成す」

  当用漢字の中に見当たらない人名などについては、コンピュータのIMEパッドを
 検索して、できるだけ正しい文字を探したが、そこにもない文字については、やむな
 く充て字を用いた。

 日本の古代史が定まらないのに飽き足らず、史記を読むことにした。紀元前の中国史は確かな驚きに満ちている。さすがは漢字の国だ。
本のムシ 6