【20】 「三重県教育振興ビジョン」       2007.01.15

  学校が 教育力を取り戻すために


 (このページは、教育モニターとして、三重県教育委員会の提言募集に応じて提出した、
  「三重県教育ビジョン」をテーマとする愚見です。)


プロローグ


 教育基本法の改訂を果たした安倍内閣は、「教育の改革」を2007年の最重要課題と位置づけています。経済が上向いて物質的豊かさを享受したとしても、イノベーションの推進によって人々の生活が効率化されたとしても、そこに生きる人々が脆弱であっては、この国の将来はありません。「教育改革」は、何ものにも先駆けて行わなければならない基本的な改革です。

 それでは、今の日本の、そして三重県の教育においてなさねばならない根源的な課題とは、何でしょうか。

「国家の品格」の著者として最近注目を浴びています藤原雅彦氏は「武士道」を挙げ、「卑怯な行いをするものは、理屈抜きで許すな」と言われています。

 人としての道を生きていくためには、人間としての誇りを持つことが不可欠であり、それを忘れたとき人は醜く卑しい姿をさらします。最近の日本では、醜いことを気にしない生き方がもてはやされ、卑しいことに気づかない生き方が主流となりつつあるようにさえ思われます。「お金で買えないものはない」などと誇らしげに言う人を成功者と讃え、教育の現場では「子どもと教師の人権は対等だ」などという過ちまでが堂々と主張されています。

 社会を糺し、子どもたちの精神を鍛えて、生きる力を持たせるための人間教育は根源的に重要なのでしょうが、問題があまりにも多岐に渡りますので、「社会の中で果たさなければならない学校の役割と責任」や「小中学生の親たち世代の現状と学校」…などについての提言は別の機会に譲ることとし、ここでは「教科の学力を向上させるために」について、愚見を申し上げたいと存じます。


学力向上こそ最大の課題


 昨年9月19日、私は「三重県教育課題モニター意見交換会(津会場9/16)を振り返って」と題した文書を貴教育委員会に差し上げ、その中に「予算も人員も時間も…、学習塾より潤沢に与えられている公教育が、学力を習得させるという知育教育の基本の部分ですら、学習塾の後塵を拝しているのはなぜでしょうか」と書きました。

 本日の提言は、まさにこの部分であり、「学力の習得に当たって、学校は子どもたちに、最高の結果を保証すること」、平たく言えば、「学習塾に出来ることが学校に出来ないはずはない。出来ないのは甘えであって、学校は子どもたちに学力を習得させる具体的方法を示し、数年間の間に結果を出すこと」を求めたいのです。

 ここでいう学力とは、生きる力などといった漠然としたものではなく、点数に現れる教科の習熟度です。「教育とは知育のみならず」「学校の教育を教科の点数だけで論じるな」…という意見ももっともと思いますが、「教科の学力」という学習の基本部分を習得させることにおいて学習塾に及ばない現状では、その言葉は言い訳・隠れ蓑に過ぎず、学校に対する世間の信頼を得られるものではないことを、まず自覚するべきです。「学力をつけるためには、塾へ行け」という言葉ほど、学校に対する侮辱はないと奮起するべきではないでしょうか。


教師の自主的な研究・研修機関「三重県教育研究会(仮称)」の結成


 では、子どもに学力をつけるためにはどうすればよいのか。

 教科の学力の向上を図る上で、指針(教育プログラム)を示すこと、教師の研究・研修と実践、地域社会・PTA・家庭の協力は欠かすことが出来ません。

 魅力ある授業を展開して児童生徒の学習意欲を高めることと同時に、生徒の授業や生活の態度をしっかりと指導していける教師の育成を図るために、私は、かねてより教師の自主的な研究・研修機関としての「三重県教育研究会(仮称)」を組織し、制度を定めるべきであると提案してきました。

 この組織は、基本的には教師の自主的な研究・研修機関であって、教育委員会などの行政がバックアップする形が望ましいと思います。なぜ自主組織を提案するかというと、適宜、有識者やPTAなどの参加を求めたり、予算を自主財源でまかなうなどの方法をとることが望ましいと思うからです。

 「三重県教育研究会」は、三重県下の全教師を会員の対象として、各教科の研究・研修を行なう部会、全体の計画・検証、学校・学級経営、生徒指導などを扱う部会、そして事務局を持ちます。


三重県独自の教育プログラムを


 そこではまず、三重県独自の教育プログラムを作成することです。文部科学省が提示する指導要領などは遵守する必要があるでしょうが、地方分権の推進による地方自治体の裁量権をもって、理念・目標を掲げ、条例・法案の整備、予算の確保、教師や関連職員の確保と配備などを、教育委員会がバックアップして行わなければなりません。

 現在、三重県には、「教育振興ビジョン」が策定され、種々の取り組みがなされています。しかし、先日お送りいただきました2006(平成18)年12月「第四次推進計画(素案)」と、手元の1999年3月刊「三重県教育振興ビジョン−21世紀を拓く三重の教育プログラム−」らに目を通しながら本稿を作成していますが、学校における教科指導について具体的な方策を示した内容はなく、また、掲げられた諸計画の結果を検証した報告は全く見られないことは、まことに残念なことです。

 安倍首相は政権のスタート時に「政治は結果責任」と言われましたが、結果を検証してこそ次の計画に反映されるのであり、責任を明らかにすることが出来るのです。それをないがしろにしては、行政に積み重ねがなくなり、緊張感もなくなります。


 教育プログラムの作成時には、どんな内容をどのように教えるかという基準マニュアルを示さなくてはなりません。

 何をどのように教えるのかを、現行のような学校現場任せにするのでなく、基本的にやらねばならないことを指導案形式にまとめて現場の教師に示し、言うなれば「毎時間の授業はこのように行なうこと」といった具体的なマニュアルを提示するべきです。

 授業内容は現場に任せるといえば、一見、現場の自主性を重んじる方策のようですが、現場には、示された教育内容をどのように教えるかをまとめあげる時間も能力もありません。例えば、小学校4年生の算数で、教科書にない小数点以下2桁の計算を教えようとする場合には、教材と具体的な授業方法を示した指導案を計画プログラムの立案者の側で示すべきです。

 民間企業においては、当然、明確な目標が示されますが、同時に何をどのようにしてその目標を達成するかの原則的な方策(設備や手段)も示されます。担当部署やチームによって、さらに具体的な肉付けがなされて、達成のための取り組みが行なわれていくわけですが、教育プログラムにおいても、立案者から目標と原則的な方策を示し、各市町村や学校現場においてさらに具体的な工夫が加えられて、日々の授業が行われることが望ましい姿です。


三重県教育研究会の部会


 各教科の部会は、地域の教科の部会と連携して教科の研究・研修を行い、夏休みに3週間程度の、冬休みに5日間程度、各学年の教科内容についての研修講座を開催します。研修内容は、各年度にまたがる内容とし、5〜6年で1サイクルを履修する内容とするなど、受講者にとって有益で実効あるものでなければなりません。
 教科部会では、モデル指導案や、日々の授業で使用する教材教具の研究や作成を行い、現場の授業に供していきます。 指導案や教材教具を作成していくことによって、担当者(教師)らの専門知識や教育的な造詣は深められることでしょう。

 各教科部会は、研究の集大成として、年に1回の研究発表を行い、研究紀要を刊行するものとします。

 
専門部会は、生徒指導学校経営上の研究を行なう部会を持ち、日々の問題点を解決していくための研究・研修を行なうとともに、問題に当たってはともすれば孤立する教師をバックアップし、連帯して取り組む体制作りを図っていきます。また、計画の立案や結果の検証、全体の調整、関係機関やPTA・家庭などとの連携なども、担当部会を設けて担当します。研究成果は、年1回、研究紀要にまとめて発表します。


県下の学力テストの実施


 結果を検証するために、学期に1回程度の全県統一学力テストの実施を図ってはどうでしょうか。文部省の学習指導要領や三重県教育プログラムに定められた内容が、きちんと教えられているかを見るためのテストであり、著しく低い点数を示した指導者は再教育を受ける必要があります。

 民間企業においては、目標達成への検証と評価は当たり前に行なわれていることであり、著しく達成度の低いものは解雇を含む再教育がなされることが当たり前であることを思えば、教育界における結果の検証と評価も当然なのでしょう。むしろ、今まで行なってこなかったことが、問題を引き起こす甘さにつながっているというべきではないでしょうか。
 
 
エピローグ


 「三重県教育振興ビジョン」という概念に対しては、数多くの提言が浮かびます。「学校・学級崩壊、いじめ、暴力」「無責任・自分勝手な親たちとそれに毅然と対応できない教師たち」「ゆとり学習の問題点」「市町村指定業者の怪」…などなど、思いつくままに列記しただけでも数行に及び、これらについての対応策の提言となれば、さらに何十ページかを要することになります。
 その中から、今日は敢えて「学力の向上」というテーマを選んで、提言としてまとめてみました。「学力の向上」こそが、学校教育に化せられた最大の責任であると考えられるし、その向上を果たしてこそ、学校に対する社会の信頼が回復すると思うからです。
 「学力の向上」についても、授業時間数の確保、小学校の教科担任制の推進、小学校1・2年生の生活科の見直しと理科・社会科の実質的復活、ゆとり学習の問題点、児童生徒の学習意欲を向上させるための取り組み、国語の古典漢学の素養・省略される理科の実験と社会の見学調査…など、取り上げたい問題はまだまだ多くありますが、長くなりすぎますので、また別の機会に譲ることといたします。



 (添付資料 … その1 2ページ、 その2 2ページ、 計 別紙4ページ
    その1 「小学校1・2年生の生活科」と「総合学習」の問題点
    その2 三重県教育課題モニター意見交換会(津会場9/16)を振り返って
   を、添付しました。                  【添付資料 略】)



【19】 いじめは、人間社会の業(ごう)…!      2006.11.22
      ― いじめぐらいで、死ぬな ―


 福岡県筑前町の中2男子(13)がいじめを苦に自殺してから11日で1カ月が過ぎた。触発されるように各地で児童生徒の自殺か相次ぎ、文部科学省にいじめを苦に自殺を予告する手紙がとどいたり、またこの土・日曜日には生徒2名と校長1名がいじめが原因で自らの命を絶った。
 

 いじめをなくするにはどうすればよいのだろう。… 人間が社会的な生き物である限り、いじめはなくならない。人間は、人間同士で殺しあうことが出来る動物である。他の動物たちは、同じ種属同士で殺し合うなどといったことは、まずあるまい。強い子孫を残すためのオス同士の争いで、ときに命を落とすようなことはあるけれども、徒党を組んで同種の他を陥れて殺戮するといったようなことはしない。
 ところが人間の業は深くて、恨み、嫉妬、利益、誇示…、さらには、楽しみのためにすら、人間は人間を殺す。その前段階が「いじめ」である。だから、人間社会からいじめはなくならない


 ただ、子どもたちの世界における、陰湿で鬼畜的ないじめから、被害にあっている子どもを守ることはできる。それこそが、子どもの社会にかかわる大人たち…、教育関係者、児童福祉や未成年の保護監督にかかわる者、保護者、そして行政担当者がなさねばならない責務である。
 いじめの定義はあいまいである。しかし、ある子どもが「いじめられた」と感じれば、そこにいじめは存在する。そのいじめを察知するには、あらゆる方向にアンテナを張り巡らすことが必要だ。
 現在も幾つかの学校で行なわれているが、いじめの相談担当者を置いて、子どもたちの駆け込み窓口とするのも良い。ただ、いじめを受けている子どもは、そのことをあからさまに出来ない場合が多いことを思えば、「目安箱」のようなものを置いたり、手紙でも電話でもいいから何かあったらいつでも言って来いと門戸を広げておくことが大切だ。問題を抱えるものが、いつでも、匿名でも相談できるような方策を講じておくことが必要だろう。
 大人たちは、必ず子どもを守り、不正を許さないということを貫くことだ。そこに、いじめを受けているものだけでなく、いじめをしているものたちの信頼も得られる。揺るがぬ姿勢を貫いてこそ、正義を説き、不正を糺す言葉にも、説得力があるというものだ。
 いじめを受けているほうの被害は事実であるのか、感じやすい年頃の過度の被害者意識ではないのか…などを、慎重に調べることが必要だが、もし被害妄想的傾向があったとしても、それを納得させる言葉が必要である。「思い過ごしだ。ガマンしろ」では、思い切って相談した子どもは救われない。
 暴力的被害があれば、断固たる処断をしなければならない。そうすることが、加害者の子どものためなのである。いじめをしている子どもは、それは悪いことだということを知っている。こうした行為が明るみに出たときに叱られないのでは、世の中の正と不正は何であるのかの判断が身につかないし、叱れない大人を信用も尊敬もできない。叱られ、罰を受けてこそ、彼らは過ちを償うことが出来るのである。
 問題があることを知りながら何の対応もしない教師や児童相談所などは論外で、厳しくその責任を問われるべきだろうが、子ども間のいじめは当事者を正対させても解決にはならない。いじめの事実を把握すれば、個別に指導し、加害者が悪かったと反省し、被害者がそれを許すという心を持ってから、双方を引き合わせ和解させることだ。納得しないままに和解させれば、いじめはさらにひどくなる。


 いじめられたからといって、自らの命を絶つという選択は、あまりに繊細で短絡的過ぎる。テレビのコメンテーターは、「死ぬほど苦しい被害」といじめを受けている子どもの心を表現していたが、生きていれば、もっと苦しいことがたくさん有ることを知らないままに死を選ぶ子どもの幼さに思い至らない発言であろう。「生きるということは苦しくたいへんなことなのだ。だからこそ、生きるということに価値がある」ということを、子どもたちに知らしめなければならない。苦しみに耐え、それを切り開いてこそ、人生の醍醐味ではないか。
 校長や担当する教師が自殺の道を選んではならない。命の尊さを生徒たちに説くものが、自らの命を絶ったのでは、その人の口から語られた命の尊さとは何であったのか、生徒たちは何を信じれば良いのか戸惑ってしまう。
 死者に鞭打つつもりはないが、教師は自らの生きる姿を以って、生徒を導く存在であることを忘れてはなるまい。苦しくても、いかに困難でも、目の前にある問題に立ち向かい、自らの努力によってこれを解決し、将来を切り開いていくのが人としての姿であることを、自らの生き方で示していく責任があろう。死んでしまっては、過ちを改めることも、そこにある問題を解決することも出来ず、放り出してしまうことになる。
 人は自らの命を縮めてはならないのである。幾多の人生の先達に邂逅して道を知り、数多(あまた)の書物にめぐり合って真実を知り、自ら生きてみて将来を開いていくのが人生なのだ。早い話が、死んで花実が咲くものか…、命あっての物種…、去るものは日々に疎し…である。


 人間の業として、人間社会からいじめはなくならない。ならば、そのいじめから子どもを守ることは、大人の責務である。
 社会が悪い…、親が無責任…、戦後教育の過ち…など、今日の状況を招いた要因は種々の議論がなされるところであるが、喫緊の課題は子どもをいじめから守り、いじめは人間失格の卑劣な行為であることを子どもたちに知らしめることである。そのためには、教師の断固たる姿勢こそ望まれる。そして、学校や教委は、奮闘する教師を守らなければならない。
 それには、上に述べてきたように、@いじめの事実を明らかにし(匿名の相談窓口、電話、目安箱)、A必ずいじめから被害者を守り、B加害者を許さない、C暴力的な行為には断固とした処置をし、Dいじめを行なうのは恥ずべき行為であることを知らしめる…ことである。
 研究体制という教師の基本的な部分すら組織化できない現状(三重県の場合)では、スクラムを組んで問題に当たれといっても難しいことなのかも知れないが、学級崩壊を起こす子どもたちにも、身勝手で無理難題を言う親たちに対しても、マスコミや社会を相手にしても、教育界は確固たる姿勢をもって事に当たることだ。そのためには、組織として揺るがない理論と実績を示していかねばならない。学校現場から、「こういういじめの事実があったが、このように解決した」という報告を発信して、社会の信頼に応えていってほしい。
 不正を許さず、正義を貫く教師に育てられた生徒は、逞しい生き方を身につけていく。「勇将の下に弱卒なし」(蘇軾)である。



【教育17】 なぜ人を殺してはいけないのか             2005.08.15


   NHK教育 宇宙船ソフィア号の冒険


 8月13日、NHK教育テレビで「なぜ人を殺してはいけないのか」をテーマにした、子供向けの45分番組が放映された。

 宇宙船ソフィア号の乗組員は7人の少年少女。この船に迷い込んできた意地悪な異星人カオスが、「なぜ人を殺してはいけないのか」と彼らに問う。「そんなことはとにかくいけない」と口々に応える彼らを子供たちを、カオスはさまざまな星に連れて行く。ある星では普段は温厚な住民が、隣村とのこととなると『殺せ』と叫んで武器を取る。また、ある星では2人の子ども隊員のうち、ひとりの隊員を助けた住民は、もうひとりの隊員を保護した住民の食料だった。… 果たして彼らは"答え"にたどり着くことができるのか。


 知人の女婿がプロデュースした番組で、番組内での子どもたちの発言は、いっさい教えたものでなく、全て子どもたち自身の言葉です…とのことであった。
 子どもたちはみんな、「人を殺してはいけない…」ということを知っていて、「なぜだか解らないけれど、人は殺しちゃいけない」と異口同音に言っていた。ただ、動物たちを殺すのはいいんだ(仕方ないんだ)…と言ってたようで、その辺はちょっと気になった。
 番組は最後に、「今まで、人を殺しちゃいけないと思ってきたけれど、何で殺しちゃいけないかと考えたことはなかった。答は今はわからない、だけど、これからも考えていきたい」というこどものつぶやきで終わっている。答のない問いをテーマにした番組だから、製作側も苦労したことだろう。


 さて、大人の私たちは、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対して、何と答えるだろう。3〜4年ほど前に、やはりNHK教育テレビで、このテーマで討論会を行ったことがある。番組の中では、やはり結論は出なかったようなのだが、その後、世の諸子百家からさまざまな見解が示され、その中でビート武の「殺したら殺されるよ」という答が、最も脚光を浴びていたという記憶がある。
 私は、「人は人を殺すから」だと思う。人間は、地球上の生き物の中で、唯一、同じ科属(ヒト科ヒト属)にあるもの同士で殺し合うから、「人を殺してはいけない」と決めておかないと、どこまでも殺し合って、それほど長い時間を要せずに人類は絶滅してしまう。他の動物たちも、例えば肉食の大型獣は小形動物たちを狩って食用にする。しかし、彼らは同属同士で殺しあうことはないし、ほかの動物を襲うのも食べるために…である。
 ところが人間は、怒りや憎しみをもって人を殺し、正義や宗教のために人を殺し、さらには楽しみのためにすら人を殺す。だから、「人を殺してはいけない」と厳しく戒めておかないと、何かのタガが外れれば人は容易に人を殺す。国や民族の争いとしての戦争はいうまでもなく、コソボやボスニア・ヘルツェゴビナの内乱を見ると、昨日まで親しく付き合ってきた隣のオヤジが、今日になったらいきなり銃を持って殺しに来たのである。肉屋がパン屋が殺す争いである。
 

 「人を殺してはいけない」という理由がここにあると思う。機を見て、折に触れて、「人を殺してはいけない」という刷り込みを繰り返し、殺したものは罰を受けるというルールを決めてもなお、人は人を殺すのが、人間社会の避けては通れない宿命だからである。だから、「人を殺してはいけない」という約束を、繰り返さなければならないのである。


 では、「人を殺してはいけない」…は、天地創造とともにあった公理か。単なる、人間社会の約束事である。人の命は尊厳か…、国家や政治に翻弄されるはかないものであり、犬や猫の命と何らの変わりはない軽薄なものである。人間は万物の霊長か…、人間が勝手な思い込みをもとに自らを祭り上げているだけで、そう言ってライオンの前に立つがいい、「あっそう」とも言わずにガブリとやってくれることだろう。
 人は誰でも、生きる権利を持っているし、愛する人や家族や郷土、国を守ろうとする意識を持っている。それを侵そうとするものを、断固として排除しようとするのも当然の行為である。今、凶器を持って我が家へ新入しようとしている暴漢に対して、人は「それでも人を殺してはいけない」と言うのだろうか。タンスの中に隠していた拳銃を握り締めて、殺られる前に撃ってやると構えるのが、正しい人間の姿である。


 躊躇せずに引き金を引くのが、人間が生存を貫くということなのである。人間の業の深さゆえに、「人を殺してはいけない」と言わねばならないのである。
 宇宙船ソフィア号の子どもたちは、口々に、「なぜかは解らないけれども、人を殺してはいけない」と言っていた。その無垢なこころの中に、「人を殺してはいけない」という意識が理屈抜きに厳然とあることは、彼らは幸せだということであり、日本は平和だということなのだろう。
 かつて日本は国の将来を見据えて、人の命を顧みることのない戦争へと突入した。
終戦から60年…。愛する人や家族、郷土、国のために散った幾多の命は、今、何を語りかけているのだろうか。





● 小学校 中高学年に 教科担任制を                 (9.4)
(前項からのつづきです。はじめての方は、その3からお読みください。)

 現在、小学校は原則として学級担任が全教科を教えている。全教科にわたる小学校の教師の研修は、時間的・物理的に難しいという指摘もあるが、やはり「小学校1年 国語 その1」とか「小学校2年 算数 その2」といったように、段階的な研修を行うような制度を確立するべきであるし、また同時に、小学校でも教科担任制をより進めることが必要だ。中高学年の理科・社会科、高学年になれば全教科とも、より専門的な教科の知識や指導力を持つ教科担当に任せるべきだと思う。
 理科の専門家たちは「理科ほど面白い教科はない」と言うが、一般の教師の中には理科の指導を苦手としているものは多く、授業において、教科書に載っている実験すら生徒にさせることなく、その多くを省略しているのが現実である。子どもたちの興味を喚起する理科の実験は、高度な技量を必要とするものも多い。
 また、生徒を学習の現場へ連れ出して見聞調査させ、その結果を分析してまとめさせる学習は、社会科にとって基本的に大切なことであるが、今、生徒を社会見学の場に連れ出す教師は極めて少ない。不慮の事故に対する心配と、そうして収集する学習資料を効果的に取り扱ったりまとめたりするのは、卓越した授業技術を要することであり、こうした社会科の学習には、熟練した指導の観点や技量が求められる。
 全教科に対して、熱意と興味を持ち、高い指導技術を持つことには確かに無理がある。とすれば、教科担当制を進めて、指導実績を挙げることだろう。また、中高学年の子ども達には、できるだけたくさんの担当教師に授業を受け持ってもらい、多くの人格に触れさせることは大切なことである。

 小規模の学校には、配当教師の人数が少なく、全教科の担当を揃えるのは難しいという問題もある。できるだけ小規模校をなくする努力をすることは必要で、子どもの発育を考えても、適正な集団での活動をさせることが必要であり、逼迫する自治体の費用も節減することができる。スクールバスの運行やタクシー通学を実施しても、合併するほうが、学校をひとつ運営する費用に比べればずいぶん安くつく。

 現在の小学校の教師の教員免許は、専門の教科が指定されているわけでなく、小学校教諭として採用されている。だから、将来、小学校の教師も専攻教科別に採用がなされるようになれば別だが、現在の学校内で担当教科を指定する場合には、それぞれの希望を聞けば、「私は国語が好き」「僕も国語がいい」といったように、偏った状態になることだろう。
 現在でも、ほとんどの学校には国語主任・算数主任…といった公務分掌上の「教科主任制」が敷かれているが、それぞれが実際にどの程度の教科研究活動を行っているかといえば、ほとんどは結果を問わない制度である。この場合、もちろん小学校には専攻教科はないのだから、校内で順番に教科の主任を決めていくと、例えば社会科主任は社会科が得意な教諭というわけではない場合がある。音楽とか家庭科などの技能を要する教科は、本人の希望と技能が優先されるようだが。
 かつて、「県レベルで教科の研究体制を整備して、各小学校からも教科主任を参加させ、各校の教科指導の水準を上げていく取り組みを」という提案をしたときに、ある学校の校長が、「自分が好きではない教科を担当させることになる場合がありますので…」という心配を聞いたことがある。現場の人間関係に配慮する管理職としての立場がにじんでいる発言だと拝聴したが、「先生、これは趣味や遊びの話ではありません。仕事として、国語の研究を担当するとすれば、好きとか気が進まないというのは理由になりません。学校内で、できるだけ本人の希望を聞くということはされるでしょうが、ここは○○氏しか国語の担当はいないということになれば、業務として最善を尽くしていただくしかありません」と申し上げたことがある。往時の教育界には、「業務命令」などという言葉はなじまない、和気藹々としたというか…仕事としての厳しさが欠けた空気があったので、私自身もかなり違和感のある発言のような気がしたのを覚えている。


 が、仕事としての体制作りを推進することは、教育界にとっては基本的に大切なことではないか。職員会議の席上、一般教諭が校長に対して、「あんたは…」とタメ口(対等な口調)を叩いているような職場が、規律が守られ効率的なわけがない。


(今夜は、ここまで…。 つづきは、また来週に)



◆2004年 年頭「地方自治体は、独自の教育路線を」        2004.01.01
 − 文部行政が信頼できない今、それぞれの手で教育を確立せよ −


 年頭に際して、今年は教育についての提案をしたいと思う。 このサイトの「教育」の項にも掲げているように、現在のわが国が抱える諸問題は、その原因の全てが教育に内在し、全ての問題の答は教育にあると、改めて思うからである。
 昨年12月に出された中教審の答申を見ると、昨年度から「ゆとり教育」の中核としてスタートした学習指導要領は「学力低下を招く」と明確に批判し、文部科学省が鳴り物入りでスタートさせた「生きる力を育てる教育」は、わずか2年足らずで見直しを余儀なくされた格好である。
 最終答申では、学習指導要領を全国の教育水準を確保する「最低基準」と鮮明に打ち出すとともに、発展的学習内容に上限を定めた「歯止め規定」の撤廃を明記している。 児童生徒の学力低下への不安、規制緩和を求める機運の高まりを踏まえた格好で、各学校が「指導要領に示されていない内容を加えて指導することで、知識を深め、学習意欲を高めたりすることも期待できる」などと、弾力的な運用や意欲的な取り組みを求めている。指導方法や教材を用意せずに、現場に丸投げするいつものやりかたで、またまた学校現場の悲鳴が聞こえてきそうである。
 あわせて、昨年度から正式に導入された、教科の枠にとらわれない授業「総合学習」の時間にも改善を求めた。総合学習は『体験活動や教員の意欲的な取り組みで児童生徒の問題意識を高めたり、児童生徒の学習意欲が向上した』とする実績の半面で、教育内容に乏しい授業が意味もなく行われていたり、教師の政治信条や独善的な思い込みに基づく偏向教育が見られたりもするなどと指摘し、答申は市町村教委や学校で全体計画を作成、授業後の自己評価の必要性を指摘し、改善を求めている。


 新指導要領が学力の低下を招くことは明確に見通されたことであり、私は以前疲れ果てる教師、崩壊する授業の項で、「これで、日本の子ども達の学力低下を招いたら、遠山文相や文科省局長・課長のクビで償える問題ではない」と書いて、文科省や担当者の責任を問うた。
 振り返って、教育の現場から、新指導要領や総合学習などに対する批判と改善策が提示されなかったことも、極めて残念なことであるといわねばならない。
 私は、さまざまな取り組みを実現させている愛知県犬山市の例を挙げて(地方自治体は、独自の教育プログラムを)、「今、文部科学省を初めとする国の教育政策がそうであるとするのならば、愛知県犬山市などですでにその取り組みが始まっているように、地方自治体は学習事項を整理して独自の教育プログラムを組み上げ、学力低下必至の現状に対して郷土の教育を守って、敢然と立つ姿勢を示さなければならない。「全国学力テストで、平均に対してこれだけのプラスをしました。学校崩壊・学級崩壊は、我が県や市町村ではでは無縁です」と胸を張れる成果を挙げ、結果を満天下に堂々と誇るべきプログラムをスタートさせるべきだと思う」と、途方自治体と学校現場の取り組みを促してきた。
 現在、私の近い周りで、新指導要領によって懸念される学力低下を防ぐために、新しい教育プログラムがスタートしたという話は聞かない。
 だとすれば、教育委員会などの行政当局も各種の教育機関も、さらには学校現場も、文部科学省と同等の責任を問われても仕方がない。実例として蔭山メソッドで知られる蔭山英男先生や犬山市の取り組みなどがあるのに、なぜ全国の教育担当者は動かなかったのだろうか。問題が存在することを知りながら、自ら行動しようとしないところに、教育改革への最大の問題点があるのではないだろうか。
 

 学力低下への歯止めに対して、行動しようとしない教育現場の姿勢は、自らの教育権を手放そうとしているかにも見える。
 顕著な一例が、「学習は塾で」と学校や教師までもが口にしてはばからないことである。かつての学校には、全体にも個々の教師の間にも学習塾に対抗する意地のようなかたくなさがあって、教師の子弟が塾に通うことは珍しくはなかったけれども、建前では学校や教師は塾を認めてはいなくて、例えば生徒が部活を「塾の時間なので」と切り上げることが言い出しにくい雰囲気があった。今は、『勉強は塾で』を教師自身もどこかで認めていて、「部活と塾の、どちらが大事ナンや」と一喝できない。
 私自身も20年間ほど学習塾を開いてきたが、先年、変わってきた子どもと…何よりも親たちに付き合うのに限界を感じてやめてしまった。
 学習塾を開いていたときは、「学校にはできない教育をやるんだ」と張り切って、子どもたちとともに、やれキャンプだ、社会見学だ、百人一首大会だ、星空観察会だ…などと遊び歩いていた。宿題を忘れた子どもを夜中の2時ごろまで残して、「もう、私どもは寝ますのでよろしく」とお母さんから電話を受け、「送り届けて、布団の中へ入れますから」と答えたりしたのを思い出す。子どもとも、その家族とも人間関係が密であり、それだからこそ私の言葉は子どもたちの理解に繋がったのだと思うし、家族の皆さんの信頼も得られたのだと思う。
 最大時の生徒数は900名に迫って、公立中学の規模を超え、生徒たちの成績も市内の各中学校の1番の生徒を並べていたし、全国学習塾協会主催の模擬テストにおいても、中3の部で全国順位50位までの中に14名が入るというレベルの高さであった。しかし、「学校にはできない教育をやるんだ」という当初の目標を、成績でも…生徒の掌握でも達成できたと実感したそのときも、『学習塾は、社会のアダ花。学校がしっかりしていれば、必要のない存在』であるということを、明確に認識していた。
 現在、学習塾や予備校は社会権を得て、世の中に必要な存在と認められるようになり、長年にわたって学習塾の内容を充実させて、社会的な認知を得ようと努力してきた私たちにとっては喜ぶべき状況なのであろうが、しかし、私はやはり「ちょっと待った」と言わなければならない。
 もし、学習塾や予備校を認めてしまったならば、教育は「金」ということになる。世界最高水準の所得を誇る日本にあっては、金をかけてハイレベルの教育が受けられるのならば、それでよしとする議論が成り立つというのならば、ことの本質をわきまえない、荒唐無稽な論議である。
 学校教育が学習塾や予備校のレベルで行えていれば、学習塾も予備校も存在しない。生まれることもないのである。膨大な人的資産と潤沢な資金を注いで、国家プロジェクトとして行われる文部行政が、学習塾や予備校程度のことを行えないわけがない。行えない…行ってこなかったとすれば、ここでも文部科学省を初めとする教育にかかわる人々に、その最大の阻害要因がある。
 体制が悪いという指摘もあろう。確かに、競争原理の働かないお役所仕事、結果責任のない甘えた体質、非効率・採算性度外視の体制…など、学校教育をめぐる社会的状況は悲惨である。しかし、日本のあちらこちらでさまざまな実践や改革への動きがあるように、有為な「人」が居れば社会は動く。
 是非とも教育に人材を発掘投入し、実効的な体制を確立して、「学問することは楽しいことだということを知って、主体的に学習に取り組む子ども」「自然を愛し、人を愛して、自らの人生を切り開いていく子ども」を育てる教育を実現していきたい。
 教育現場や研究会・機関・団体、教育行政担当は、それぞれの場で教育の方法を研究・整備し、教材を作成し環境を整備して、子どもたちの学ぶ心に灯をともすとともに、その学問する権利を保障するべきだろう。教育を確立することは、社会を正すことである。


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