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【12】 参議院三重選挙区補欠選挙2000の舞台裏 その1   2008.06.10

 2000年、衆議院選挙に参議院三重県選挙区の現職平田耕一(自民党)が出馬するために議員を辞職…。これを受けて三重県では、衆参同日の参院補欠選挙が実施された。
 この補選に、僕は同級生の橋爪貴子が自民党公認候補として立候補したので、その後援会副会長として応援することとなった。
 開票結果は、
   高橋千秋(民主党) 429240票
   橋爪貴子(自民党) 399800票
   谷中三好(共産党) 112875票  と、我が橋爪陣営は一敗地にまみれた。

 この選挙の反省会を兼ねた慰労会で、僕は岩本自民党三重県連幹事長(当時)に、「この県連は腐っとる。責任者は腹を切れ」と言って、マッチポンブのあだ名のある岩本幹事長を「そりゃぁ、アンタ、言い過ぎやろ」と激怒させ、なおも「こんな自民党では将来は真っ暗や」と追撃して、横に座っていた大山後援会長をあたふたさせた。
 しかし、以後、参議院三重選挙区(定数1)で、自民党は民主党に勝てていない。

 このレポートは、2000年の補欠選挙を内側から見つめた報告である。登場人物は一部仮名、出来事は一部フィクションを交えて、この選挙の顛末を、8年を経た今だから…という意味で振り返ってみようと思う。


同級生、橋爪貴子 出馬


 2000年初夏、選挙が近づいた5月のある日、我が家の電話が鳴った。「三重テレビ番組製作部長の橋爪貴子が、6月の参議院三重選挙区補欠選挙に自民党から出馬することになった。同級生として、応援してやって欲しい」。三重県出納長から創成期の三重テレビの社長へと転じ、その経営を軌道に乗せた、夏秋元社長からの電話であった。
 橋爪貴子と僕は、高校時代の同級生である。同じクラスになったこともないし、クラブが一緒だったわけでもない。ただ1回、3年生の冬、友人宅で開催したクリスマスパーティで同席し、ダンスの相手を務めたことがある。選挙を応援しなければならない義理も縁(ゆかり)もないが、頼まれればいやとは言えないのが、章くんのよいところ…。「微力ながら」と答えた僕は、早速、三重県在住の同級生の住所・氏名をパソコンに入力した。

 10日ほどたった日曜日の午後4時、津市内のあるレストランの2階広間に、同級生35名が集まった。県内に住んでいる同級生は280名余、返信用はがきを入れた封書で「激励会を兼ねて集まりたい。会費1500円、弁当・コーヒー付き」と呼びかけたところ、出席が35名…、出席できないまでもほぼ全員から『激励会は行けないが、応援しています』とのメッセージが添えられていた。
 午後4時20分、「挨拶に回っていまして、少し遅れました」と言いながら、橋爪貴子がやってきた。「このあと、5時30分に伊賀上野に入らなくてはいけないので、ここを4時45分ごろには出なくてはならないから、20分ほどしか居られない」と言う。『国政選挙の候補者らしくなってきたな』と僕は思ったのだが、出席してくれた同級生の多くは「今日はこの会合があることが前から判っとるやないか」「20分しか居れないなんて失礼な」「俺は伊勢から出てきたンやぞ」といった感想を持ったようであった。
 「思いがけず立候補することになりまして…」と挨拶もそこそこに、橋爪貴子は次の会合へ向かって行った。それでも、同級生とは有り難いものである、誰ともなく「資金カンパを…」と言い出してくれた。呼びかけ人の僕としては、引き受けたからには活動費は自分もち、みんなに金銭的な負担を依頼する気は毛頭なかったので、「金は要らん、力だけ貸してくれ」と繰り返したのだが、「応援するにも、先立つものは金や」と心配してくれるみんなから、ひとり1000円ずつの浄財を預かることとなった。
 みんなの思いがこもった資金は、この激励会の封書+はがきを始め、後援会申込書・パンフレット・ポスターの配布、告示前の「お家の皆さんや三重県内の友人・知人の方々へ、よろしくお願いを…」と書いた応援依頼の封書(事前運動の警告があるかとも思ったのだが、僕が個人名で出すので誰に迷惑をかけるわけでもないからいいか…と投函)、そして、選挙終了後に出した礼状はがきの通信費に使わせてもらった。この日以降にも、3千円・5千円…、中には1万円を送ってくれた同級生もいて、資金は合計6万円少々にもなり、通信費の多くはこのカンパでまかなうことができた。


選挙事務所

 6月、森政権下の衆参同時選挙が告示された。橋爪貴子の選挙事務所は、津インターチェンジのすぐ側…。三重県全域を飛び回らなくてはならない全県1区の参議院候補には、交通至便の場所ではなはだありがたい。自民党三重県連から、選挙カー1台と運転手の遠山さんが配属されてきた。
 ところが、事務所の陣容はまことにお寒い限り。衆議院選挙が同時に行われているから、自民党三重県連も手が回らないのか、県連から派遣されてきたのは、選対事務長に洞口庄伍(津選出自民党県議)、事務所責任者に安藤金太郎(自民党津市議)、そして事務を取り仕切る亀田敏男事務員の3人…。そして橋爪サイドが友人知人を集めたのが、広川清美さんをはじめとする4名の秘書・事務員たち。候補者、秘書、運転手は遊説に出ているから、広い事務所に3〜4名がポツンと座っている選挙事務所であった。
 関係者は衆議院選に精力を注いでいたからか、陣中見舞いに訪れる来訪者も少なく、全県1区の参議院選事務所としては、なんとも淋しいかぎりであった。責任者の洞口県議、安藤市議らが、県連では傍流であったことも大いに関係していたのだろう、動員力のない選対であった。


橋爪貴子擁立のいきさつ

 橋爪貴子が、三重県自民党の公認候補として擁立されたのは、告示の2ヶ月前というあわただしさであった。三重テレビ報道制作局長を努めていた橋爪は、報道関係者であることと女性であることもあってか、県内の文化的事業の委員などに名前を連ねていて、その界隈では知られていたことから、当時、参議院議長の要職にあった斉藤十郎参議院議員に口説かれ、出馬に踏み切ったものであった。
 しかし、橋爪貴子の知名度は一般県民には遠い世界での話で、彼女が勤めている三重テレビなんて見ている県民は1%もいない。ましてや、画面にも出ていない制作部長など、知っていろというほうが無理である。NHKの報道制作局長でも、知っている人はまず居まい。
 それでも、それまでの三重県参院選は自民党王国…、「絶対に落選することはない。保証する」と言われて出馬に踏み切ったとは、本人の談である。彼女の決断を、「選挙はミズモノ。絶対当選するなんて甘い」というのは結果でものを言っているのであって、その6年前は平田耕一、3年前は斉藤十郎が10万票の大差をつけて当選しているのだから、橋爪を口説いた斉藤参議院議長も本気で彼女の当選を信じての要請であったと思われる。
 が…、平田参議院議員の衆議院選転出は既定の路線であったのに、2ヶ月前まで、その代りの候補者が決まらなかったというのは、自民党三重県連に大局的な構想が欠如していることの現れであろう。党組織の保持や将来性を考慮するならば、県連執行部はその責任において、平田議員の支援と後任参院選候補者を、選挙準備のできる期間をとって決定すべきであった。のちに詳述するように、これからあと自民党三重県連は参院選で連戦連敗することになるが、橋爪貴子を皮切りに、翌年の藤岡和美、4年後の津田健二と、次々と候補者を使い捨てにして、その都度選挙にかかわった人たちの支持票を失い、ついには斉藤十郎元参院議長までもが出馬辞退へと追い込まれるのである。


立会演説会 代理弁士

 告示日から、橋爪貴子は三重県内を南へ北へと走り回っている。橋爪には、単独で個人演説会を開いて聴衆を集めるだけの力はない。同時選挙を戦っている衆議院の候補者の演説会に、時間をもらって演説させてもらっている。
 ところが、これさえも、必死の選挙戦を戦っている各候補者には、迷惑がられることがしばしばであった。候補者個人にはそんな細かい考えはないのだろうが、その選挙を取り仕切っている連中には、人のふんどしで相撲を取るような厚かましさを感じるのだろうし、自分の陣営の票以外のことは何もしたくないというのが本音のところだったのだろう。熾烈な選挙選を考えれば解らないこともないが、橋爪陣営の僕たちから見れば、相乗効果を図ることのできない彼らは、『セコイ連中だ』というカンジである。
 橋爪貴子が出席できない会場へは、僕がお邪魔して支持を訴えて歩いた。夕方から1〜4箇所ほどの会場が用意されていて、演説を終えた順に次から次へと訪問するのである。
 候補者と応援弁士がひな壇へ並んでいる会場では、用意していった決まり文句を並べて、投票を依頼すればよい。庇(ひさし)を借りている立場なので、長くても15分ほどの持ち時間で、立候補にかける本人の決意と投票のお願いを繰り返すだけだったが、その日の3つ目…4つ目…の会場になると、次の弁士が来るまで話をつながなくてはならない。久居市のある会場では、次の人が道に迷ってしまったとかで現れず、1時間30分ほど、滔々と教育問題を訴えることができた。
 選挙結果が敗北に終わったから、何の慰めにもならないけれど、事務所内では「章さんが応援演説に入った、久居・一志・松阪では全勝でしたね」との評価をもらった。この選挙は、任期を1年残して辞職した平田議員の補欠選挙だから、任期満了による本選挙がまた来年に控えている。僕は『来年の本選には、全県の全地区 応援演説に回るからな』と思っていたのだが、橋爪は不出馬であった。


洞口選対委員長、安藤事務所責任者

 驚いたのは、事務所の責任者の連中が、全く動かないことであった。選対の洞口県議は僕よりも高校の2年後輩なので話しやすく、「後援会の連中に言って、票を集めて来いよ」とハッパをかけたのだが、どうも手応えがない。頼りないので、彼が6年後に津市長選に立候補したときには、全然協力してやらなかった。結果は、4万7千票ほどをとったけれど、相手候補に1万票あまりの差をつけられて落選…。

 
事務所責任者の安藤金太郎津市議は、僕よりも一回りほど年上の65歳を過ぎたベテランの市会議員である。市議選にはいつも3000票ほどを集め、早々に当選を決めるのだから固い支持者も多いはず。その人たちに運動してもらうことと、「自民党県連からも、県議や各市町村の議員にも動いていただくように働きかけてもらえませんか」と、年長に対する丁寧さをもって依頼したところ、「自民党というのは自分党や。自分のことは自分でするんや」という返事。「アンタには、事務所責任者の資格はないな」と、僕は先輩であることも忘れて断罪してしまった。
 この金太郎には、このあとも何度幻滅させられたことか。僕の親しい津市議の連中も、「安藤金太郎がいるから、橋爪の事務所には近づかない」と公言するし、亀山の市議から漏れてきた話では「同時選挙をやってる川崎二郎さんの事務所が、安藤が来ると困るので、橋爪の事務所の責任者にして放り出したンや」とのこと。来客もまばらで閑古鳥の鳴く橋爪事務所を見ていると、それがホントらしく聞こえるから怖い。


後 援 会

 決意から出馬まで2ヶ月という短期間であり、橋爪貴子はその日まで政治活動などとは無縁なサラリーマンだったのだから、後援会などといった組織はあろうはずはない。会長だけは、幼稚園や料理学校を経営する大山学園の大山源一学園長が決まっていたのだが、会員は皆無である。
 洞口選対や安藤責任者らにそんな組織的な動きを期待するほうが無理だし、僕は同級生140名、友人・知人の100名ほどに連絡を入れて、とりあえず250名ほどの後援会らしきものを作り上げた。ビラ貼りや電話かけ、自民党本部から応援が来たときの動員など、会員の皆さんには大変お世話になった。
 選挙戦が始まって数日がたったある日、保利耕輔自治大臣が応援のため来津することになった。津駅前の遊説に、「後援会から、100人ほどを動員してほしい」と金太郎が言う。章くん、早速
友人の河合由紀子さんや勝っちやんに各20人ほど、同級生の5〜6人にそれぞれ10人ほど、津駅前へ動員してくれと依頼して、当日は100人ほどのサクラを集め、何とか格好をつけた。
 金太郎には「電話嬢を集めてくれ」とも頼まれた。「このたび参議院議員に立候補いたしました、橋爪貴子の事務所でございます。…よろしくお願いいたします」と電話をかける女の人を4〜5人集めてほしいというのである。河合由紀子さんに「電話嬢をやってくれませんか」と直接頼んだらしいのだが、「私はね、自分の家にかかってきた電話も、自分じゃ取りませんのよ」とこっぴどく断られ(と、河合さんが笑って話してくれた)、僕に相談してきたものである。金太郎は自分の後援会に声をかけようとはしないのだから、僕も引き受けなくてもよいようなものであるが、何事も橋爪貴子の当選のためだ。近所の奥様お2人と同級生2人に引き受けてもらって、毎日、ダイヤルを回してもらった。


桃 太 郎

 これほど僕に世話になっておきながら、金太郎は一向に反省の様子もない。県連から出ている選挙資金を一手に握っているのだから、「章さん、帰りにどうです? この金で…」ぐらいの配慮があってもいいのではないかと思うのだが、一向にその気配がない( … もちろん冗談である。
無人島で2人きりになっても、この男と一緒に飲み食いすることはない(笑))。その金太郎が、選挙戦のデモンストレーションとして、「桃太郎」をやろうと言い出した。
 桃太郎とは、候補者を先頭にして、支持者やスタッフと一緒に休日の繁華街など人手の多い町を練り歩くのを、イヌ・サル・キジをお供に鬼退治に行く桃太郎行列になぞらえた呼称で、選挙用語のひとつである。
 土曜日の夕方5時から、鈴鹿市の立会演説会を断って、津のダイタテ・アーケード街を練り歩くのだという。僕は気恥ずかしいので、ギャラリーに回ったのだが、やってきた一行の先頭にいるのは、白手袋をはめて手を振る金太郎ではないか。金太郎が桃太郎をやって、どーするンだ…。彼は橋爪貴子のための選挙運動でなく、自分のための運動をしているのである。


自民党津市議団 激怒

 選挙戦も中盤を迎えたある日、自民党の組織が橋爪貴子の選挙に関して一向に機能していないことに危惧を抱いた僕は、洞口や安藤金太郎に票を集めて来いと言ったところで無駄なことはもう解っていたので、親しくさせていただいている小山憲治津市議に「津の市会議員の皆さんを集めていただけませんか。橋爪貴子本人を挨拶に出向かせ、直接、皆さんにお願いをさせます」と相談を持ちかけた。小山市議は自民党津市議団の重鎮、会長を務める清和会は中間派の議員も擁して、津市議会の最大会派である。安藤金太郎らとは同じ自民党の市議だが歩調が合わず、橋爪事務所へ顔を出してもらっていない。
 「解った」と二つ返事で請け負ってくれた小山市議は、安藤金太郎らを除く自民党市議のほか、中間派と公明党市議団にも呼びかけてくれ、32名の津市会議員のうち、15名を召集してくれた。
 会合当日…午後6時、津市内のレストランの一室をオーナーの鮒井さんの好意で無料で貸していただき、橋爪の行動を調整している事務所の亀田君と打ち合わせて、四日市の立会演説会を終えた橋爪貴子は事務所へ寄らずに直接この会場へ入る手筈を整えた。僕はこの夜は、一志町波瀬での立会演説会があり、終わり次第、会合へ合流する予定であった。
 午後7時、立会演説会を終えた僕の携帯が鳴った。「橋爪貴子が来ない」という、鮒井さんからの電話だ。
 何ということだ。議員の皆さんが集まってくれているのに、候補者本人が来ないのでは、話にならない。僕は車を走らせながら、事務所の亀田君に電話を入れた。「橋爪は事故か? 病気か?」と聞く僕に、亀田君の答は、「安藤事務所責任者から、ストップがかかったんです」。
 橋爪当選の暁には、その手柄を独り占めしたい安藤金太郎は、ほかの自民党市議が動くことを嫌がって、今夜の会合への橋爪貴子の出席を阻止したのだ。自分のことしか考えられず、選挙を私物化している金太郎の愚挙としか言いようはないが、この選挙戦を楽勝だとでも思っているのだろうか。協力いただける全ての勢力を動員して総力戦で当たらねば、上昇ムードにある民主党勢力に、昨日までOLだった橋爪貴子が勝てると思っているのか。所詮は市会議員…、三重県全県区の選挙情勢が全く見えていない。
 橋爪貴子はすでに事務所に戻されているというから、今さら彼女に安藤金太郎を振り切って出て来いというのは無理な話だろう。
 僕は急いで津に戻り、レストラン2階の会議室へ駆け上がると、廊下の椅子に大山源一後援会会長、村田義之秘書が座っていて、僕の顔を見ると村田君が腕を胸の前で×に組んだ。2人は、出席の市会議員の面々に、かなり厳しい叱責を頂戴したのだろう。
 部屋へ入ると、議員の皆さんも口数少なく座っていて、重苦しい雰囲気が漂っている。挨拶も省略して僕は、ロの字型に並べられた机の下座の席から、「橋爪貴子の後援会副会長を務めております飯田でございます。一志の立会演説会に出席しておりまして、ただ今、急ぎ戻って参りました。このたびは、大変失礼をいたしまして申し訳ありません」とまず侘びを言うと、みんなの視線が一斉に集中した。
 「実は、今夜の会合は、私が小山さんにお願いいたしまして、みなさんにお集まり願ったものでございます。橋爪貴子のため、自民党の議席のために、良かれと願ったからでございました。
 この不手際はひとえに私の不首尾でございまして、小山さんは心底善意から私の無理をお聞きいただきましたのに、却ってご迷惑をおかけいたしましたことは、お詫びの申し上げようもございません。今夜のことは…」と、事の顛末を説明しようとしたら、正面に座っていた岡林武志市議が、「誰が邪魔しとるかは、わしらはよ〜くわかっとるんや。あんたの立場もわかっとりますわ」と引き取ってくれた。
 小山市議も「あとは私らと安藤金太郎との問題やから、あんたには関係のないことや」と言ってくれ、出席してくれていた公明党の梅崎正昭市議は「飯田さんも苦労しますなぁ。後はこちらで、きっちりとカタ付けますから」と笑ってくれた。


将来構想も日常活動もない 三重県自民党…

 翌日、事務所で安藤金太郎を捕まえた僕が「あんたのやることは百害あって一利なしや。後援会の僕らが走り回ってお膳立てし、市会議員の皆さんが橋爪貴子のために力を貸してやろうといって集まってくれているのに、なぜ出席に待ったをかけるんや」と詰問すると、「自民党やない連中が混じっとる。小倉議員(無所属)なんて、このあいだの県会議員の選挙では民主党の候補を担いで選挙しとったんや」と中間派の議員がいたことを理由にした。
 「小倉くんは、小山さんたちと一緒の会派で議員活動をやっているし、今回の選挙には橋爪貴子のために票を集めると言ってくれてるんやから、何にも問題はない。(少なくとも、お前さんよりは信頼できる…とまでは言わなかったけれど)」と言っているところへ、自民党県連からの電話が入った。『公明党三重から「連携して橋爪さんの選挙にあたるつもりなのに、昨夜はわが党の市会議員が多く参加した会合に橋爪貴子さんの出席がなかったとのことだが、どうなっているのか」という問い合わせがあった』との連絡である。
 『梅崎さん、早速、揺さぶりに出たな』と思ったけれど、僕はそ知らぬ顔で「公明党さんへは、この事務所から説明だけはしとかなあかんわなぁ」と言うと、「わし、行ってくるわ」と金太郎、ここは神妙であった。「僕に逆らうから、こんな目に遭うンさ」と聞こえるように追い討ちをかけたのは、ちょっと意地悪のしすぎだったか。
 横にいた洞口選対が、「まぁ、安藤さんの顔も立ててやって…」と言うのに、章くん、「ただでさえ厳しい選挙なのに、津市議の皆さんが集まってくれている席をすっぽかしたんやぞ。選対責任者のあんたまで、何を呑気なことを言うとるのや。万に一つも落選したら、あんたらの責任やからな」と、この時にはまだ当選するものと思っているので、それ以上厳しいことを言うこともなくやり取りは終わった。

 が…、自民党県連から派遣されてきている、この選挙の責任者たちの志(こころざし)の低さは驚くばかりである。自分の選挙に結びつけることしか頭になかったり、目の前のことを処理するのに精一杯であったり、自分の手に余ることは知らぬ振りをするばかりであった。
 確かに、県連では傍系であり、言動も評価されていない彼らが、何をしようとしても何もできないことは事実であったかもしれない。が、そうであったとしても、橋爪事務所の責任者としての役職を任されて来ているのだし、いちおう現職の市議と県議たちなのだから選挙の何たるかはそれなりに心得ているはずで、橋爪貴子の票を伸ばすために何らかの工夫や努力をするべきであろう。ところが、その意欲も能力も持ち合わせないままに、むしろ足を引っ張る行動ばかりを繰り返すのである。
 彼らの言動や県連とのやりとり、また、たまに事務所を覗く県連役員の立ち居振る舞いを見ていると、自民党の三重県支部として、その権威と政治力・組織力を十分に生かして選挙を戦おうといった構想や行動ができないのは、自民党三重県連そのものの体質なのだということが理解された。いやしくも自民党は政権政党であり、しかも三重県は自民党王国なのである。各郡市町村の自民党議員を機能的に使って、印刷物の配布、演説会・集会の開催、政党活動や勉強会への参加・啓蒙を繰り返していけば、政策の理解を促し、自民党への支持を増大堅固なものにすることができるはずである。ところが、「自民党は自分党や」で片付けて、無策な日常を過ごし、将来へつながる一歩を踏み出そうとしないのだから、三重県自民党の明日はないと言わねばならない。

 この日のあと、自民党津市議団は一切の応援活動をやめてしまった。中間派の人たちも、少なくとも橋爪貴子のための選挙運動はしていない。
 公明党の動きについて、選挙後に新聞は、「
北岡勝征連合三重会長は、公明党の支持母体である創価学会の票の配分を「橋爪貴子の60%、高橋千秋に40%ぐらい」と語っている。公明党は中央の指令を受けて橋爪支持を打ち出しながら、県議会の非自民「新政みえ」との連携から、高橋に票が流れたものとみられる」と書いていた。当時の公明票は12万票…、固いとされている公明票が予想以上に高橋千秋に流れていた裏には、公明党三重県支部にそっぽを向かせた、橋爪事務所の失態が大きく関係していたのである。


歴史にイフはないけれど…

 結果は、冒頭にも書いた通り、高橋千秋429240票、橋爪貴子399800票と、3万票足らずの差で、橋爪自民党は惜敗した。
 津市の開票結果はというと、橋爪は高橋に3万票の差を付けられていて、この劣勢が結果を左右している。このうちの1万5千を取ることができていたら、当選であった。
 歴史にイフ(if)はないけれど、もしあの夜に橋爪貴子があの会場を訪れて、出席していた15人の市会議員の皆さんに協力をお願いしていたら、この選挙は勝てていたと思うのは僕の皮算用にすぎないだろうか。
 


【13】 参議院三重選挙区補欠選挙2000の舞台裏 その2     2008.06.19
      − 自民党三重 再生のために −

                                     その1へ
開 票


 開票速報を見守るために、事務所に支持者が次々と詰め掛けている。洞口選対はソファーで、安藤金太郎は100脚ほど並べた折りたたみ椅子の真ん中あたりに腰掛けて、詰め掛けた顔見知りと談笑しながら開票が始まるのを待っている。数時間後の地獄を知る由もない、平和な顔つきだ。
 午後8時、テレビが開票を伝え始めた。直後の8時1分「安倍普三 当選確実」。自民党のホープは、全国トップをきっての当確だ。
 9時、三重県のトップは、衆議院三重3区「中川正春(民主)当選確実」。しかし、三重全権区の参議院選の得票は、全く出ない。各市町村の選挙管理委員会からの得票数もまだ届かない。
 9時30分、選管発表の第一報が届いた。橋爪貴子3000票、高橋千秋3000票、差はついていない。この頃になると、衆議院は2区の岡田克也(民主)、程なくして4区の田村憲治(自民)、5区の藤波孝生(自民)らの当選が相次いで確定した。
 10時、橋爪貴子30000票、高橋千秋30000票、まだ差がつかない
 10時30分、三重県下で最後の衆議院1区で川崎二郎(自民)の当選が確実となり、三重の衆議院選は自民の3勝2敗。橋爪貴子の当選へ期待が高まった。橋爪貴子50000票、高橋千秋50000票。
 11時、選管発表、橋爪貴子100000票、高橋千秋10万3000票。この時点で初めて差がついた。高橋千秋3000票のリード…、事務所に緊張が走る。
 章くん、最初の差が勝負だと思っていた。早くに開くのは郡部の票で、自民党支持者の多い地区である。これから大票田の四日市・鈴鹿・津・桑名など市部の票が集計されてくる。四日市・桑名は岡田克也(民主)、鈴鹿は中川正春(民主)の地盤だから、橋爪貴子ははじめに大きくリードしていてこそ勝負になるのである。
 11時30分、橋爪貴子20万票、高橋千秋20万5000票。票差は大きくは開かないけれど、じりじりと傷口を広げるかのように拡大していった。事務所に、敗北を覚悟するような悲壮感が漂う。金太郎の甲高い声も聞こえなくなっていた。
 日付が変わろうとする頃、橋爪貴子38万票、高橋千秋40万票の発表と同時に、「高橋千秋 当選確実」のテロップが流れた。


 ほどなく、岩本自民党三重県連幹事長とともに、橋爪貴子が事務所に到着。「私どもの力不足から、候補者と皆様方にはたいへんご迷惑をおかけいたしまして…」という岩本幹事長のお詫びのあと、橋爪貴子が立って、「私はこの結果に納得しておりません。必ずや来年の本選におきまして、必勝を期す覚悟です」とその場にいた支持者に向かって述べ、岩本に対しては冷ややかだった出席者も、橋爪のこの言葉には拍手を以って応えた。橋爪貴子は、この時点では翌年の参議院選に向けて、1年間の活動を続けていくことを決意していたのである。


 敗戦の選挙事務所ほど悲惨なものはない。戦ったものは、みんな虚脱感に襲われ、支持者が帰って身内だけになったあとは、女の子たちは涙ぐんでいる。
 選挙中はみんな、たいへんな激務であった。候補者が午後8時に選挙カーでの呼びかけを終了して現地から帰ってくると、9時半から時には10時を回る。それから1日の整理をし、翌日の準備をして、日付の変わる頃に事務所を出て家路に着き、翌朝は7時前に事務所へ詰める毎日であった。秘書が橋爪貴子を迎えに行くのが、早い日は5時半、遅くても7時だったのだから、事務員さんたちは7時には事務所に詰めていた。しかも、選挙期間中、1日の休みもなく…。
 洞口や金太郎は実務はないから重役出勤で、好きなときに外出して、帰ってしまうのだから、それほど激烈だったという実感はないだろう。もっとも、事務所には居ないほうがみんな有り難がっていたのだから、不満も批判もないのだけれど…。
 しかし、足を引っ張ったことだけは許せない。「安藤さん、あんた 僕に 何か言うことがあるやろ」… 詰問調の僕の問いかけに、金太郎は答えない。「今さらあんたを責めることもしないけれども、来年の選挙のときは僕らの前へ出てくるつもりはないやろな」。彼がどれだけ邪魔な存在かは、この選挙期間中に身に沁みて解った。来年の本選にまたチョロチョロされては、それこそたまったものではない。それだけ釘をさしておいて、僕は事務所を後にした。「慰労会を、大山会長と僕とでやりますから、皆さん参加してくださいね」と、美人揃いの事務員さんたちに声をかけて…。
 帰り道、無数の星が瞬く空を見上げながら車を走らせていると、しみじみと敗戦の無念さが込み上げてきた。『負ける訳のない戦いだったはずだ』『素人候補の橋爪貴子を当選させるために、自民党三重県連は何をしたか』『橋爪貴子に出馬を促した自民党は、約束を果たしたか』『川崎会長は自分の選挙があったから仕方がないか…。岩本幹事長は…、洞口選対、金太郎は…』と考えていたら、また腹が立ってきた。カーブを曲がらずに、直進していきそうであった。


 蛇足ながら、安藤金太郎は次回の市議選には不出馬であった。


自民党県連への不信感


 選挙が終わったあと10日ほどして、橋爪貴子の今後の活動について、橋爪本人と大山後援会会長、広川秘書、それに僕の4人で打ち合わせ会を持った。1年1ヵ月後の参院選に向けて、どのように活動していくかを確認することが必要であった。
 その席で橋爪が、「活動拠点として、自民党県連の部屋を使っていくという了解ができていたはずなのに、建替え替工事をするとかで、事務所を他所へ借りろと言われた」と言う。自民党に対する不信の芽が頭をもたげた、第一の場面であった。これからの1年間、自分の生活ぐらいは何とかする覚悟は決めていた橋爪であったが、先日までサラリーマンであった彼女に、日常経費を捻出して選対事務所を構えろというのは、どこから考えても無理な話であった。
 しかし、後援会を引き受けた僕としては、それぐらいの面倒を見るのは責任のうちなのだろうという考えもあって、経費はこれから協力してくれる企業や個人の協賛を仰ぐという見通しの曖昧さであったが、とにかく事務所を探せということで、国道23号線に面した中辻君のビルの1階が空いていたのを思い出し、早速、交渉を開始した。が、事務所は開いても、備品や設備はどうするのか、月々の経費のどれほどを自民党は負担する用意があるのか、具体的な事柄は何も決まっていない。


自民党県連との話し合い


 そうこうして2週間ほどが経ったある日、県連で昼食会をかねて話し合いを持ちたいという連絡が入った。選挙が終わってから1ヶ月が経とうとしていて、本選までは、残すところ1年しかないという頃であった。
 自民党県連からは、岩本幹事長・中川総務会長・橋村政調会長の三役、橋爪貴子側からは本人と大山会長と僕の3名が出席した。
 冒頭、岩本幹事長から慰労と落選させたことに対する謝罪があろうかと思っていたのだが、自民党県連と議員団が選挙に尽力したことに感謝してほしいといったニュアンスの話であった。僕は、料亭「うち喜」から取り寄せた弁当をつつきながら、『まぁ、自民党もちの弁当を食べさせてもらっとるンやから』と思いながら、黙って聞いていた。
 橋爪貴子が、「来年の選挙に捲土重来を期したい」と決意を述べると、「今度は相手は現職やからね。中途半端な甘い考えでは当選はおぼつかんよ」と、まるで他人事のようなことを言う。「選挙はね…」と話し始めたのを聞いていて、だんだん弁当が不味くなってきた。
 半分ぐらいで蓋をして、僕は「今回の選挙では、橋爪貴子は全て県連の指示のとおりに動いてきた。もとより素人だったんだから、甘いもなにも自分の考えなんて何もなかった。選挙事務所のみんなの動きも、県連から派遣された選対と責任者の言うとおりにしてきた。その結果がこれだ」と話し始めた。「橋爪貴子の出馬には、当選確実と口説いた自民党としては責任があるはず。来年の本選までしっかりとサポートして、その責任を果たしてやってほしいと思います」と訴えたのである。
 ここで「自民党の責任…って、そりゃぁあんた、言い過ぎやろ」と幹事長。「何が言い過ぎや、当選確実と言って勤めまで辞めさせたんやから、自民党は当選させる責任がある。来年の本選で橋爪を当選させることが、当選を果たすことでしょうが」と僕。「選挙はミズモノや。結果は誰にも判らん」という幹事長の言葉を聴いて、僕は前ページ(その1)の冒頭に書いた「この県連は腐っとる。責任者は腹を切れ」と叫ぶことになる。
 この時に僕が言った責任者とは、僕が設営した津市議と橋爪との会合をぶち壊した安藤金太郎のことだったのだが、僕もそこまでの説明はしないので、前に並んでいた三人は自分たち執行部をヤリ玉に挙げていると思ったことだろう。もちろん、この執行部も責任を免れないのは、誰が考えても明らかだが…。
 『これからの1年間、自民党県連はどのように橋爪貴子を支えていってくれるのか』と、その点を確かめたかったのだが、県連には少なくともこの時点ではそんな考えはなかったようで、僕に「あんた、何の仕事しとるんですか」なんてトンチンカンな質問をするのも居て、また僕は「こんな自民党では将来は真っ暗や」と叫ぶことになる。
 「まぁ、飯田さんも若いものですから…」と大山会長が引き取ってくれて、この場はこれ以上の話にはならなかった。だが、この時点の自民党に、橋爪貴子をサポートしていく具体策がないことが解ったことは収穫であった。ならばこれから1年間、どのように活動を進めていくか。自民党の協力を得るためには、どこからどう話を進めればいいのか。まずは、資金集めをどうするか…など、やらなければならない課題がはっきりしたのである。


 帰りの車の中で、橋爪貴子は「小気味よかったわ」と笑い、腹が据わったようであった。大山会長は、「あんた、怖いものなしやなぁ」とあきれている。『こんな奴と一緒に居たら、命がいくつあっても足らん』と思ったのだろうか。まだまだ言い足らないことがいっぱいある僕は、「えっ、何が?」と合点がいかない。 
 後日、新聞が「橋爪貴子氏は投票二ヶ月前という慌しさでの出馬であっただけに、多くは『善戦』との評価であったが、自民党県連総務会での総括で、敗れた橋爪貴子氏への批判が噴出したことに反発して、橋爪氏は袂を別った」と書いていた。
 「自民党県連での総括で噴出した批判」というのは、僕が主張した自民党県連への注文に対する批判も、幾分かあったのだろうか。だとすれば、自民党県連は自らの責任を自覚せず、的外れな批判をしたことになる。自分たちの責任には口をつぐんで、落選を候補者の責任にしているようでは、そんな自民党三重についていく人は減少する一方であろうし、段々と県民の支持を失っていくことだろう。


橋爪の自民党県連アレルギー


 さらに1週間ほどして、橋爪貴子から、「県連に置いてある書類や備品の一式を、早く引き取るようにとの連絡が来た」との電話が入った。書類や備品を引き取るには、新しい事務所を構えなければならない。しかし、県連が橋爪貴子をどう処遇するつもりかを決めない限り、新しい事務所を借りることも、次の一手も打てないのだから、これは本末転倒した話である。
 一事が万事この調子で、こうした自民党県連の対応は、橋爪貴子にとっては納得のいかないものであった。繰り返すが、橋爪がこれまで政治の世界で生きてきたのであれば、『今から1年間、自力で選挙活動を続け、来年の本選に備えろ。覚悟の程を見せてもらおう』というのも解らないでもないが、彼女はつい3ヶ月前まではOLであり、「落選させない、責任は持つ…」という自民党の約束を信じて三重テレビを退職し、選挙戦へ飛び込んだのである。
 落選させないと約束したその彼女に、落選させた自民党が、『覚悟が足らない』とか『甘い』などと言うのは、これまた自分たちの責任を自覚しない話で、僕たちから言えば『橋爪に次の選挙を戦うことを決意させるために、本気で支えるという自民党三重県連の覚悟を見せてみろ』ということなのだ。
 しかし、先の新聞紙面でも紹介したとおり、自民党三重のムードは橋爪貴子批判へと傾き、当時の執行部ではこれを修正する指導力も、さらに言えばその気もなかったのだろう。
 というのは、参院選敗北の責任を誰も取っていなくて、その体制のままで橋爪貴子の選挙の総括を行えば、橋爪自身を批判するしか逃げ道はない。橋爪は悪くない…と言えば、執行部をはじめとする自分たちを悪者にするしかない。もっとも、そうすることだけが、この組織を再生させ、世論の支持をつなぎとめることができる唯一の道であったのだが、最早やそんな自浄作用を期待できるような組織でなかったことも確かであった。
 すっかり嫌気がさしてしまった橋爪貴子は、「次の選挙には出ない」と言い出した。手のひらを返すような仕打ち、誰も責任を取らずに橋爪に責任を押し付けようとする醜態、1年後の選挙に対する明確な青写真すら提示できない県連…、そんな自民党に橋爪は不信感を抱いてしまったのだ。
 しかし、ここで止めてしまったら、今日までの積み重ねは水泡に帰す。支えてくれたみんなにも申し訳のないことだ。「お前さんの体は、もうお前さんだけのものでなく、みんなの思いを背負ってるんだ」と繰り返し言う僕に、「じゃぁ、あんたが出たら」と橋爪はもう駄々っ子だ。「俺や、ほかの人では、この選挙で支持してくれた40万票がつながっていかない。選挙っていうのは人々の思いを積み上げ、つないでいくものなんだ。今回の落選を、可哀想にと思う人も居れば、次回は負けないぞという純粋な自民党支持層も居る。それらを集めて戦うには、来年の候補者はお前さんでなきゃいけないんだ」と説得をしても、「自民党県連の顔を見るのが嫌だ」と言う始末である。


上 京 −斉藤参議院議長、川崎自民党三重県連会長 訪問−


 橋爪貴子の進退を決定するべく、僕と大山後援会長は橋爪と一緒に上京し、彼女に出馬を要請した斉藤十郎参議院議長と、自民党三重県連会長の川崎二郎衆議院議員を訪ねることにした。すっかり自民党三重に不信感を抱いてしまった橋爪を翻意させるには、斉藤・川崎の両氏が「全面支援」を確約してくれるしかないという判断であった。
 予定の日よりも1日早く上京して、何年ぶりかの友人たちとの再会を果たした僕は、約束の日、午後1時に東京駅の丸の内南口で、橋爪貴子、大山会長と落ち合い、まず、参議院議長公邸に斉藤十郎議長を訪ねた。
 東京駅から乗ったタクシーの運転手さんは永田町に差しかかると、「この辺は一方通行が多くて、公邸の位置はわかっているのですが、どこから入っていけばいいのか難しいんです」と言いつつ、クルクルと角を曲がって走る。
 参議院議長公邸は永田町の一角に、衆議院議長公邸と隣り合って建っていて、6000坪の敷地に公務棟と私邸部分とがしつらえられている。公務棟の前の庭には広く芝生が敷かれていて、議長主催のガーデンパーティを催すことができるようになっているのだとか。私邸の前は池が掘られて、和風の造りであった。
 通された公務室には、平山郁夫の「正倉院」が飾られていた。斉藤議長は、「この絵が、この公邸で一番高価な絵ですわ」と笑って話してくれた。
 「橋爪貴子が、このままでは来年は無理だと言っています。支援体制を整えていただくように、お願いいたします」と率直に言うと、橋爪擁立に責任を感じておられたのであろうか、「いろいろと行き違いもあるように聞いています。私からも一度話をしてみます」とのことであった。
 次は、衆議院第二議員会館へ川崎二郎三重県連会長を訪ねることになっている。議長公邸を切り盛りしてみえる吉沢第一秘書に同行していただき、国会議事堂の横をぶらぶら歩きながら、議員会館へ向かった。
 議員会館では1階の受付で、面会議員と用件を書類に記入して提出し、議員本人か秘書に連絡して、OKが取れれば左手の階段を上らせてもらえる。エレベーターは、その階段を登った中2階のフロアにある。受付は5つほど窓口があるのだが、たくさんの面会希望者でごった返していた。吉沢秘書に手際よく手続きを済ませていただき、僕たちは待つこともなく4階の川崎議員の部屋へとたどり着くことができた。
 僕は川崎議員とは初対面…。ここは顔見知りの大山会長が、「橋爪貴子がこのままでは来年は無理だと言っています」と切り出すと、川崎さん、オウム返しに「本人が無理やと言うとるんやったら、仕方がないかなぁ」。僕は、「今回の選挙でいただいた40万票を無駄にしないためにも、来年の本選には橋爪を…」と話したのだが、「県連の意向も聞いてみる」という話を聞いて、川崎さんのもとを辞した。


 このあと、僕自身は自民党関係者と接触していない。三重県連と話することは何もないし、斉藤議長を訪ねることもしていない。斉藤さんの政策秘書である倉本さんとは頻繁に意見交換して、自民党の意向や情勢を教えてもらっていたが…。
 川崎会長の、橋爪擁立に対する情熱のうかがえない言葉に、失望したことも大きかった。橋爪貴子でなくてもいい、候補者はいくらでも居るんだ…とでもいうような、県連会長としての当事者意識のない言葉に『やっぱり、噂どおりか』との感を抱いた。川崎さん、おじいさんは立派だったし、本人も体は大きいンだけれどなぁ。
 この後、自民党は県都である津市の市長選に洞口県議を立てて、民主党候補の松田直之現市長に完敗する。津市は川崎さんの衆議院三重1区の大票田である。その津市に、民主党市長が誕生しても何の問題意識も持たないようであることが、僕には不思議なのだ。死に物狂いで、県都の首長は取りに行かなくてはいけないのではないのか。川崎さん、谷垣派のベテラン議員だから、自分の選挙は大丈夫だと思っているのだろうか。体が、大きすぎるのかなぁ。


2001年の参議院選挙


 かくして、橋爪貴子の再出馬はなくなった。翌2001年、小泉旋風の吹き荒れる中で第19回参議院議員通常選挙が行われた。
 自民党三重は、久居市長を辞していた藤岡和美を候補者に立てたが、全県的な知名度を浸透させるところからまた始めなければならなかった。
 それでも、快進撃を続ける小泉自民党の上昇気流に乗って大善戦…、
当選確実が出たのは全国で一番最後という僅差までもつれ込んだが、高橋千秋(民主)397105、藤岡和美(自民)372065、谷中三好(共産)59586、石谷 徹(諸派)26125、2万5千票の差で敗れた。
 この選挙では、小泉ブームに乗った自民党は65議席を獲得(+3)、特に一人区は25勝2敗と圧倒的な勝利であった。自民党の2敗は、小沢王国の岩手県と、そしてここ三重県だけであった。
 ブームの恩恵も受けることができなかったこの選挙の総括でも、またまた悪いのは藤岡候補であるとし、執行部の責任には口をつぐんで、知らぬ顔のほっかぶりであった。


 ここでも歴史にイフはないけれど、この選挙に橋爪が前年に続いて出馬していれば、必ずや勝利することができたであろう。藤岡候補に比べれば圧倒的に、前年の立候補で橋爪貴子の名前は全県に浸透していたし、わずか1年前の敗戦は、自民党支持層の無念さを掘り起こし、また、橋爪に対する同情票をつなぐことができたであろう。前年の敗戦の反省から、公明党との協力もしっかりと図ったろうし、事務所からの正式な要請をすることによって、自民党津市議団は応援体制を整えてくれたことだろう。
 自民党県連が党勢拡大の計画を明確に描き、候補者を育てて、それを支援する体制を整える度量と能力があれば、1年間を着実な選挙のための準備活動を重ねた橋爪貴子は、この選挙で勝利し、自民党は以後の凋落に歯止めをかけることができたはずである。惜しむらくは、自民党三重に将来を見据え、志を持つ人が居なかったことだ。


その後の三重県の参院選  −候補者を使い捨てにし、支持者を失っていく自民党三重−


 自民党三重は風さえも活かすことができず、このあとも連戦連敗…、斉藤十郎元参議院議長ですら出馬辞退に追い込まれてしまったことは、以前に書いた。
 その斉藤元議長の代わりに、2004年の参院選に立ったのが四日市県議の津田健児で、相手はやはり県議の芝博一(鈴鹿市)との対決であったが、芝 博一 470940、津田健児 370748、 中野武史(共産) 61566と、10万票以上の大差を付けられての大敗を喫する。
 津田と芝との主義主張の差異はほとんど認められず、新聞は「右寄り2代目(津田は親子2代の県議)対 武闘派極右(芝は神職)」と書いたほど…。むしろ芝のほうが右寄り色が強く、三教祖などの連合勢力がよくぞ担いで選挙をしたものだと驚くほどだ。
 そして2007年の参院選のために自民党三重県連が公募した補者選定にも、津田は応募したけれど、定かでない理由で選に漏れた。3年前に10万票もの大差を付けられている候補者では勝てないという判断か…、はっきりとは言えなかったのかもしれない。しかし、津田を落としたことで、またしても自民県連は候補者を使い捨てるのかといった非難が沸き起こり、2004年の選挙を戦った津田の支持者は自民党から離れていくことになる。
 40人の公募の中から、この参院選に立った自民党候補は小野崎耕平、アメリカの大学の大学院を卒業し、外資系企業に勤める新人候補である。もちろん県内有権者の知名度は低く、今の自民党三重では彼を当選させる力などない。誰一人として、当選するために立候補したと思っているものは居なかったろう。
 相手の高橋千秋は選挙が近づいても、国会が紛糾しているからと三重県に帰っても来ない余裕を見せた。自民党三重の迷走に輪をかけて、中央政界でも小泉改革は自民党の支持基盤を破壊し、あとを受けた安倍内閣は地方の再生を図ろうとした政策以前に、松岡農相の自殺・赤城のバンソウコウ事件・偽領収書など、噴出する政治とカネの問題で国民の信頼を失い、参議院で与野党逆転を招くことになる。
 三重県の選挙結果は目を覆うばかりの惨めさで、
  高橋千秋 527,935
(59.4%)、小野崎耕平 293,208 (33.0%) 中野武史 68,058 (7.7%)という
 23万5千票差をつけられる惨敗ぶりであった。
 この選挙で勝った高橋千秋は、10年前の1998年7月 初めて出馬した選挙では、
 斎藤十朗 389400、 高橋千秋 289953、 今井一久 131948、 坂本哲康  39445 と、
当時の議長を相手に10万票の差をつけられて大敗していたのである。(逆に言えば、当時の自民党はそれだけの安定した支持基盤があったということだ。)それでも今日の高橋千秋があるのは、落選してから次の選挙までの2年間、日々の生活から政治活動までのすべてを、組織が支えてくれたからだ。それに対して、大局観も、将来構想も、人を育てる度量もなくし、そして何よりも結果責任を取る潔さが失われている自民党三重…、凋落の原因がどこにあるのかを明確に示す比較事例である。
 僕が県連三役を前にして、「この組織は腐っている」と叫んだ意味が理解していただけるだろう。


同級生への礼状



『 
毎日暑い日が続きますが、同級生各位にはますますご清栄の日々をお過ごしのことと
 お慶び申し上げます。

  過日の橋爪貴子さんの参議院選に際しましては、格別のご支援ご高配を賜りましたこ
 と、厚くお礼申し上げます。
  圧倒的な出遅れの選挙でしたが、お陰をもちまして接戦に漕ぎつけ、あと一歩に迫る
 ことができましたことは、各位のご尽力のおかげと重ねてお礼申し上げます。しかし、
 善戦とは申しますものの、ご期待に応えることができなかったことは、私どもの力の及
 ばぬところであったと、誠に遺憾に存じております。
  橋爪さんの、来年に予定されております次回の参院選への出馬は、本日まで自民党三
 重県連の決定を待っておりましたが、未だ対応が決まらず、具体的な報告を申し上げる
 ことができません.このため、お礼のご挨拶も今になってしまいましたこと、重ねて申
 し訳なく存じておりますが、捲土重来を期すべき日が参りましたならば、改めましてご
 報告とお願いを申し上げたく存じております。
  炎暑のみぎり、ご自愛いただきまして、益々のご健勝ご発展のほど、お祈り申し上げ
 ております。
  まずは略儀ながら、取り急ぎ書面にてお礼まで。


  平成12年7月25日
                                    飯田 章
  同級生各位


   追伸 頂戴しましたカンパは64000円に達しました。同級生各位にお送りした
     計4回の通信費94600円の一部に使わせていただきました。
                                         』


慰 労 会


 その冬、遅ればせながら、事務所で一緒に奮戦していた事務員の皆さんと忘年会を兼ねて慰労会を持った。今はそれぞれに仕事も生活も居住地も異なる4人のお嬢さんたちだが、激烈な選挙戦を潜り抜けてきた連帯感は強く、一声かければ即座に顔がそろう。
「夜、家に帰って布団に入るのが1時過ぎで、朝は7時には事務所に居たものね」
「よく2ヶ月ももったよね」「休日なんて、なかったわねぇ」
「しっかし、議員連中の動きの悪さは、所詮は他人事ってカンジ」
「金太郎には、みんな足を引っ張られて最悪だったわね」
「でも、大変だったけれど楽しかった」
 厳しい毎日であっただけに、思い出話は尽きない。そして、選挙は人を夢中にさせる何かがある…、麻薬のように…。
「章さん、出なよ。私たち、みんなで駆けつけるよ」

でも、自民党以外でね!」。


 腐ったといっても自民党…、まだまだ県内には多くの支持者が居て、保守本流の手によるふるさと日本の建設を望む声も多い。長年の当事者の無為無策が屋台骨を蝕(むしば)んでしまっているけれど、確固たる志を持ち、組織再生への努力を厭(いと)わない人は、まだまだ組織内に健在であろうと思う。
 志士が10人集まれば、この組織の再生は容易だ。人を見出し、人を育て、人に託する道を、自民党三重が選ぶことができるか。組織の再生の鍵はここにある。
                                      



【11】 田中 覚三重県議 暴行容疑で県警に逮捕   2006.07.24

 前三重県会議長、新政みえ代表の田中 覚県会議員が、津市内の飲食店で女子店長に「応対が悪い」と腹を立て、置いてあった椅子を投げつけて怪我をさせたとして、三重県警に逮捕された。本人は容疑を否認しているが、県警では関係者に口裏合わせを強要したり、証拠隠滅の働きかけをする恐れがあるとして、その身柄を拘束した。
 この田中 覚県議は、日頃からその素行が問題視されている県会議員であり、津市の飲食店での悪評は枚挙に遑(いとま)がない。本人は逮捕直前に記者会見を開いて、容疑を強く否定しているが、犯行に及んでいることは間違いなかろう。不法行為が今日まで表沙汰にならなかったことが不思議なぐらいであり、田中容疑者が代表を努めてきた会派「新政みえ」の体質や、選出母体である「連合みえ」のあり方が、厳しく問われるところである。

 私の手元に、田中県議を告発する2つの資料がある。入手先は公開できないが(さまざまなところに出ている文書なので、今さら秘匿にする必要もないのかも知れないけれど)、ひとつは北川県政を揺るがした「伊賀県民局知事印濫用詐欺事件」で、参考人として呼ばれた芝博一現参議院議員が津地方検察庁で述べたという調書である。以下、田中覚容疑者に関連する部分を抜粋する。
 『 …略…。 田中議員は、携帯電話を常に胸ポケットに入れていますが、私と雑談中にその携帯電話に電話がかかりました。対応した田中議員は、「あ、あんたか。なんや、何かあったんか」。 
 中略… それから、田中議員は、「その子は、最初は津の県民局で働いていたのに、今は上野の伊賀県民局にいるらしい。その子が勝手に知事印を押して、架空の契約書を作ったらしい。契約の内容が農林の環境調査に関するもので、契約書をでっちあげて調査会社と契約を結んだらしい。それがばれてきた」と言ったのです。
 中略… 私としても、県の業務補助職員が知事の公印を勝手に使って架空の契約書など作れるはずはないと思いました。それで、冗談で田中議員に、「その職員は、あんたの女か」と言ってやったのです。すると、田中議員は、「そんなことはない。…略… 上野のスナックのかあちゃんから、娘もスナックの手伝いでは結婚するときに可哀想なので県の職員に紹介してほしいと頼まれて、口利きしてやった子や(飯田 注、田中容疑者は旧上野市選出)」
 中略… そこで、私は田中議員に、「県の職員と話をして、ちゃんと処理せなあかんぞ」と言って、アドバイスしてやりました。
 中略… 私は、その後、田中議員は話しをつけたのだと思っていました。ところが、今年1月中ころになって、伊賀県民局の業務補助職員が知事の公印を使って勝手に契約書を作成した内容の新聞報道があり、私はこれを見て、まだ片が付いていないのだということが分かりました。それで、その後に県政会の控え室で田中議員に会ったとき、どうして新聞の記事になったのかと問いただしたところ、田中議員は、「伊賀県民局の農林の職員が新聞社にたれ込みをしたので情報が漏れた」と困った様子で話していました。 以下略… 』
 本人署名押印、…津地方検察庁 検察官事務取扱副検事○○○○、検察事務官○○○○ と記名がある。
 事件は、伊賀市の河川改修工事に絡んで、女子補助職員が知事の公印を盗用して架空の契約書を作成し、数十億の公金を横領したというもの。どこから考えても、25歳の女子補助職員が行ないうる犯行でなく、公金もどこに使われたか判明していない。犯人とされた女子職員は、さまざまな脅迫・強要を受けて裁判の継続を断念し、刑が確定している。こんな事件の決着の仕方があってよいものか。
 関与したとされる政治家やその秘書などが糾弾されなければならないのはもちろんだが、事件を取り扱った三重県警・三重地方検察庁、これを裁いた三重地方裁判所などの機関と官吏の欺瞞も追求されなければならない。
 事件はいまだ、時効を迎えてはいない。今回の田中覚県議の逮捕は、三重県政にくすぶるその闇にメスを入れることをにらんだ動きであろうと思うのだが、ことの行く方をしっかりと見つめていくことが大切である。

 田中覚県議がかかわるとされる三重県政界の暗部は、上に示した伊賀県民局知事印7号印濫用詐欺事件を始めとして、多度RDF貯蔵槽事故問題(大量の肉コップンの償却を裏取引で引き受け、焼却炉の故障から計7名の死傷者を出す事故を招いた)、伊賀の河川改修事件に関与した北川知事元特別秘書の大谷達也氏一家の行方不明事件(生死すら不明である)など、たくさんの問題が究明されていないと指摘されている。
 こんな大スキャンダルがいまだ未解決のまま放置されているのは、三重県民として、たいへん不名誉なことである。事の真相を追究し、真実を白日の下に明らかにするよう、しっかりと見守っていかねばならない。



【10】 三重県知事選 野呂昭彦氏 当選             (4.13)
   − これからの 三重県政を考える −

氏の当選確実を打った。統一地方選前半戦のうちの三重県知事選の結果が決まった瞬間であった。同時に、三重県政の8年前への後退が決定した瞬間であったというのは杞憂だろうか。

 野呂氏は、民主党・連合三重(三教組・自治労…)をはじめとする100余の団体が推薦する候補者である。従来の自民VS革新の図式からいえば、革新勢力に支持基盤を置く候補者と見られそうだが、革新とか改革派というのには疑問が残る。
 野
呂氏は父親の代から自身も自民党の国会議員として長年にわたり国政に参与している。地盤とする松阪市には、衆議院議長も務め自民党に大きな力を持つ田村氏がいて、小選挙区では自民党公認が得られず、新進党→民主党から国政選挙に出馬、自民党田村氏と争ったものの敗れたという経歴を持つ。のちに松阪市長に当選し、現在1期目の任期半ばでの、知事選出馬であった。

 野呂氏は、北川県政の継承・完成を公約のひとつに掲げている。さて、「カラ出張問題」で2億円に上る疑惑金の返還を行うとされている県職員を組織する自治労や、組合専従教職員の「給与返還問題」を抱える三教組などが推薦する野呂氏が、はたしてこれら公務員の襟を正して、生活者主体の県政を進展させることができるのだろうか。
 ここで留意したいことは、北川改革が断行されてきた三重県においては、民主・連合は革新勢力ではなく、いわば抵抗勢力であると認識せねばならないのではないかということである。「カラ出張問題」や「給与返還問題」は、北川改革が目玉として取り上げた、公務員の綱紀粛正を象徴する課題である。これらがウヤムヤになって後退することがあれば、改革は頓挫したと言わねばなるまい。野呂新知事の試金石として注目したい。

 そして、今回の知事選に際しては、同じ松阪市ということから田村氏が支援を打ち出し、強力な選挙活動を展開していたと聞く。地方の選挙であり無所属の立候補だから、自民勢力がバックにあることに問題はないし、本人は無所属であって革新とは言っていないから、これも問題はないのかも知れないが、ここで留意したいことは、従来から田村氏の選挙はファミリー企業が集票マシンとして強力に機能してきたということである。
 すなわち、その支援を受けて当選した野呂氏が、新しい県政に旧来型の談合体質を受け入れたりしたら、改革の継続どころか、県政を北川以前の状態に逆戻りさせることになる。情報公開を推進する近代民主主義の体制に逆行して、地方分権が進む日本の中でも三重県は取り残されることになるし、県民の税金をドブに捨てることにもなる。

 階級闘争を掲げ教条主義的な労働組合や教職員組合、対立を許さない一党独裁の共産党など、革新といわれる勢力が支配層を形成する社会は、健全な民主的社会とはかけ離れた道を歩くことが多いことに、当事者も人々も今一度思いをいたしたい。野呂新知事が、選挙の支持母体となったこれらの勢力に取り込まれて、県政を後退させるのではないかという懸念が、現実のものにならずに懸念で終われば幸いである。


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