【174】 水郷古鎮「周荘」   中国江南水郷紀行②        2009.09.21-24


 ホテルでの食事の後、「周荘ライトアップ」の鑑賞に出かけました。


 周荘は、元の時代の大富豪「潘万山」が村の北にある白蜆江から水を引いたのが始まりだとか。かつては、周辺地域の水運や商業の要所として繁栄しました。今でも明清時代の建物や水路の風景が残っていて、訪れる人々を魅了してやまない古鎮です。


   午後8時30分を過ぎた周荘の町は、人通りも少なく、
  とても静かで落ち着いた雰囲気でした。       →



 細かい雨が降っていて、それがかえって人出を少なくさせたのかもしれません。


← 周荘水郷村の北の入り口「古牌楼」


 ここで入場料を払います。いくらだったのか、ガイドさん任せなので分りません。








    民家の角を曲がったら、きれいにライトアップ
   された一角に出ました。          →



 でも、そちらへは行かずに、ガイドの唐さんは反対の方角へ…。


← 狭い路地を通っていきます。


 昼間ならば、道の両側はお店屋さんが商品を並べているのでしょう。


 2010年の上海万博をPRするマスコットが展示されていました→


← まだ、営業しているお店もありました。


 ガイド付きのツアーに参加したので、事前に全く調べることもなく、周荘を訪れました。水郷古鎮だということぐらいは知っていましたが、この地区の地図も何もなく、どの程度の広さを持つところなのか…、その中のどこを歩いているのか…など、何も分らずにただ歩いていました。


  だから、向こうに見える橋が何という名前の
 橋なのかなど、全く分りません。     →




















 それでも、川べりの細道を歩き、さまざまな形の石橋を渡って行くのは、とても風情のある散策でした。
 







↑ アーチ型の橋の下から、向こうの
 風景がのぞけます。【昼間見ると



 このあたりは、周荘を開いたと言われる「瀋万山」の子孫である豪商が、清の乾隆7年(1742年)に建てた「張庁」と呼ばれる屋敷のあたりです。→
 敷地内に川が流れていて、部屋数は70という大邸宅です。
 
 
← 対岸にお茶屋さんが並んでいて、この一角は、9時30分になろうとしているこの時間でもにぎわっていました。  →


 店の前の縁台に腰掛けて、一献傾けあっているお客もいましたよ。




 散策を終えたのが9時35分…。ホテルへ戻ってお風呂に入ったあとは、毎日移動するツアーですから、荷物を整理しなくてはなりません。
 一息ついたら、もう11時…。明日は早朝から、周荘水郷をもう一度歩いてみるつもりです。


 おやすみなさい。
 
 
第2日目  早朝の水郷


 午前5時30分に起床。 昨夜、ライトアップに浮かぶ中を歩いた周荘古鎮を、朝食の7時までに、早朝、ツアーを離れて歩いてみようと思ったからです。


    午前5時50分。早朝でもあり、ほとんど観光客の
   姿は見かけませんでした。            →



昨夜来の霧雨が降り続いていましたが、水郷は「雨ならば、また格別の風情が楽しめたものを…」というほど雨の風景が似合うところです。


  昨夜、ライトアップされていた「古牌楼」【昨夜は】


 入場料を払おうと思ったのですが、早朝なので窓口に人がいませんでした。 残念…!
 この門の内側に掲げられている横額は、有名な書道家「費新我」がその晩年に書いたもので、『唐風孑遺』という四文字は、古代の素晴らしい民族の文化や生活が今でもこの地に根付いているという意味であるとか。
 村内の6割が明清時代の建物を残しているという周荘…。昔を守り伝える人々の誇りを象徴する言葉ですね。


← 村内に入って、最初の橋です。


 午前8時~午後9時まで、ここ周荘では船に乗って水郷を巡ることができるそうです(80元)。






   
昨夜歩いた道ですね。→


 この早朝から営業している食堂があって、出勤前の人たちでしょうか、朝食を食べていました。


 小龍包12元(約160円)、肉うどん10元(140円)、お粥5元(70円)とか、とても安いのですが、ガイドの唐さんに「町のお店で買い食いしたら、90%下痢します」と脅されて射ましたので、臭いだけかいで素通りしました。


← ある橋の上から撮った、朝もやの中の
 周荘のたたずまいです。



 周荘は、紀元前5世紀の頃、「呉越同舟」の四字熟語で有名な『呉』の国に属していました。 
 呉王「夫差」は、越王「勾践」によって討たれた父「闔閭」の仇を討つため、「伍子胥」の補佐を受けて国力を充実させ、勾践を破って一時は天下の覇者となります。
 しかし、「臥薪嘗胆」して武力を培った勾践の反撃により敗北して自決し、呉の国はここで滅亡します。

 勾践は夫差の油断を誘うために、伝説の美女「西施」を贈り、彼女に夢中になった夫差はついに国を滅ぼすという話も有名ですが、ここ江南は、やはり美女を輩出する土地なのですね。



← 「富安橋」



 1355年に造られていますから、周荘では最も古い橋ということになりますね。
 この橋が、「北市街」と「南市街」の分岐点になるのだそうです。


← この村の家々は、表通りに面してはお店になっていますが、裏側は庭があって、プライベート空間になっています。




            
早朝、川で洗濯をする人がいました。→


 水郷の川は、観光客を呼ぶだけでなく、村の人々の暮らしに深く結びついているのですね。


 絶えることなく流れる水、緑したたるヤナギの木々、悠然と行き来する小船、純朴な習俗をとどめながらゆったりと暮らす住民たち…、まさに「鎮(町)は沢を国とし、四面に水がめぐり、咫尺(しせき・短距離)の往来、皆舟楫(船)を要す」と詠われたとおりの情景が、目の前に広がっています。




     お母さんに送ってもらって、学校へ行く男の子と
    女の子を見かけました。            →



     この橋…、昨夜、下をのぞいた橋です【昨夜は】


← 橋のたもとで、傘でポーズを
 取って写真に納まる女の子がい
 ました。



 写真を撮るときは、あんなふうにポーズを作るのか…としばし見とれていました。
  
          
前方に「双橋」が見えてきました。→


 1964年、周荘で、ある青年が水路にかかる「双橋」と呼ばれる二つの橋を描きました。
 「故郷の思い出」という題をつけたその絵を、米ウエスタン石油会社のハモ社長が買い取り、中国と米国の両国民の友情、協力、平和のシンボルとして、当時の中国の最高権力者であった鄧小平に贈りました。


 しかし、鄧小平は周荘が中国のどこにあるか知らなかったそうです。すぐに調べて地図に載せて紹介し、一帯の整備を進めたのが、今日の周荘を形づくる元になりました。
 …と、ガイドの唐さんが教えてくれました。


← 双橋




 橋の上で中国人の学生らしい女の子に、「*&$”#%」とデジカメを渡されました。「シャッターを押して欲しい」と言っているのは解りましたから、「オーケー」と受け取り、2枚の写真を撮りました。
 「シェイシェイ」と受け取ったあと、「Are you Chineese?」と聞きます。「No,I'm Japanese.」と答えた僕の顔を見て、「Oh…」とちょっと複雑そうな顔をしたのは、僕の思い過ごしだったのでしょうか。

中国画の大家「呉冠中」は、「黄山は中国の山河の美を集め、周荘は中国の水郷の美を集めている」と、水郷周荘の美しさを讃えているとか。

 
 








    橋をくぐって、
      一層の船がやってきました。→



    早朝…、荷物を運ぶ船のようです。





← 橋の上から振り返って


 網の目のように張りめぐらされたクリークのおかげで、水郷の町は明・清時代に起きた兵火と戦乱をまぬがれ、完全な形を保つてきました。
 周荘鎮のクリークは「井」の形をして流れています。水際に建てられた古色蒼然とした民居、寄り添うように交差し蛇行する水路…。その上に元・明・清各時代に築造された14基の石づくりの太鼓橋が架かる水郷古鎮は、自然と歴史が一体となって、訪れる人の旅情を誘います。


    7時10分…、水郷に別れを告げて、
      ようやく目覚めた町をホテルへ戻ります。 →

 
← …と、自転車の後ろにつけたリヤカーに乗せて、子どもを学校へ送っていくところです。


 傘がくくりつけてあるのは、雨ですからさもありなんというところですが、この子ども、リヤカーの中でパンをかじり、牛乳(?)を飲んで、食事しています。


← 向こうのほうに、たくさんの子どもたちがかたまっています。 学校でしょうか? 
 お父さんお母さんたちも、そこまで子どもを送っていっています。


 中国の子どもたちは、一人っ子政策で、まさに一家にひとりの一粒種ですから、とても大切に育てられ、「小皇帝」と呼ばれるわがまま者が多いと聞きました。
 人ごとながら、中国の将来は大丈夫なのでしょうか?


← 「学校」と書いたバスがやってきました。スクールバスの集合所だったのですね。


 さて、僕もこれから朝食…、今日は8時30分の出発です。




  
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