【83】 黒部・立山アルペンルート  その1           2005.07.16〜18


  黒部16℃  立山(室堂)11.5℃  −雲上の別天地−   その1  


 16〜18日の3連休、黒部〜立山を歩いてきました。東海・関東地方の梅雨明けが告げられたこの日、名古屋の気温は34度。万博に21万人の人々が繰り出したとか。
 黒部ダム(1470m)の気温は16℃、立山室堂(2450m)は11.5℃。雲上の涼気をお伝えできれば幸いです。 


7月16日(土) くもり一時雨   松本城 〜 安曇野


 津IC〜(伊勢自動車道)〜(東名阪)〜楠IC − 国道19号 − 春日井IC〜
 (東名)〜(中央道)〜(長野道)〜 松本IC … 松本城 …
 「リゾートイン グリーンベル」長野県南安曇郡穂高町大字有明3613-14

中央自動車道 瑞浪IC付近にて
 実はこのところ多忙を極めている。社業の出版物の原稿に追われていて、印刷会社さんから1週間に80ページのノルマを課せられている。「このペースを守っていただかないと、弊社内の担当部署の仕事が空いてしまいますし、納期が難しくなります」と厳しく申し渡されているのだ。ところがこの週、20ページの原稿を渡しただけで、章くんは行く先も告げずにトンズラを決め込んだのである。
 7月16日(土)、朝9時、津ICから伊勢自動車道を北上。計画では長野まで高速道路を走るはずだったのだが、3連休の初日だからか、「名古屋高速小牧線13Km渋滞」の表示を見て、楠ICで19号線へ降り、春日井ICから東名へ昇った。小牧JCから中央道へ乗り、一路、長野を目指す。
 伊那IC付近で、前も見えない驟雨に遇った昼食をごった返す恵那峡SAで取り、伊那IC付近で木曽駒ケ岳から降りてきた雨雲に覆われて前が見えないほどの驟雨に遇いつつ、さらに北へ走って、長野道へ入ったのが午後2時30分頃であった。
 今夜の宿は、常念岳・大天井岳などの山すそに広がる安曇野の一角、穂高町有明「リゾートイン グリーンベル」。先日、インターネットで空室を見つけた宿だ。唐松林の中にひっそりとたたずむ風情と、シングル朝食付き9500円の値段が気に入ったのだ。午後9時ごろ到着…と申し込んであるので、これから向かったのではちょっと早すぎる。松本市内で時間をつぶすことにして、松本ICで降りた。松本城
 一昨年に松本を訪れたときには、開智学校、松本第一高等学校や山葵農場などを訪ねたのだが、一緒に行ったみんなは松本城に入ったと言い、行ったことがなかったのは僕ひとりだったので、登城させてもらえなかった。だから、とりあえずは松本城を訪ねねばならない。 

 市営駐車場へ車を入れて、徒歩3分。「国宝 松本城」と彫られた大きな石碑の脇を抜けて、大手門をくぐり城内へ…。
 松本は、平安時代信濃国府の置かれていたところ。中世には信濃国守護小笠原氏の本拠地。天正18(1598)年、石川数正が入って8万国を領した。現在の松本城は、この数正親子が築城し、現存する天守閣のうち、大天守(6階),渡櫓(わたりやぐら)(2階)、乾の小天守(3階)は文中庭より禄3(1594)年に築かれた。

 ゆるい勾配の石垣の上に建ち,外壁は黒漆塗の下見板と白漆喰壁で,窓はなく,連子(れんじ)格子に突上げの板戸という造りも古風である。漆(うるし)塗りの壁と黒い瓦を乗せた姿から「烏城」とも呼ばれているが、築城当時の姿を今に留めていて、国宝に指定されている。
 城主は、数正以後、小笠原氏・戸田氏・松平氏・堀田氏・水野氏と変わり,寛永期に戸田氏が志摩国鳥羽から6万石で在封、9代続いて明治維新を迎えた。
 明治になって城は売却され解体の危機に瀕したが、幸い天守は街の識者の尽力により破壊をまぬがれた。その後、荒廃の時期を乗り越えて、明治の大修理・昭和の解体修理(昭和30年完了)を経て、現在の姿があるという。


 大手口から城内へ入る。おびただしい柱の数…、天守1階は柱だらけだ。2階は武者窓が3方にあって、光が採り入れられて明るい。逆に3階は小さな窓が1箇所…。この天主閣は外から見ると5重なのだが内部は6重になっていて、この3階が外から見えない隠し部屋。戦さの時には、武士たちが潜むところだったのだろう。階段
 4階は「御座所」と書かれた札が置いてあったから、戦時にお殿様がおわす所だったのだろう。心なしか、丁寧な造りである。5階は天井が高い。戦さのときに重臣たちが作戦会議を開いたところ。そして6階は望楼。周りを一望できる階であるということと、この城を守護する「二十六夜神」という神様が祭られている。
 この城見学のポイントは、急な階段の昇降である。5階から6階に至る階段だけは途中に踊り場もある造りだが、そのほか階段2は全て急な勾配の人ひとりがやっと通れる狭い階段だ。戦時に敵を防ぐ工夫であることは言うまでもない。
 日ごろ鍛えていない章くんは、喘ぎながら手すりを掴んでよじ登った。最上階へ着いたときには、膝が震え、高股(たかもも)が張っている。このあとの2〜3日、筋肉痛が残った。
 女の人は、スカートではまずい。あきらめて、下で待っていたという人がいた。登らなかった理由が、スカートだからだったのか、体力的なものだったのか、微妙なご年齢ではあった。


 帰路は2階から辰巳櫓を経て、月見櫓()へ渡る。文字通り月見をするための櫓で、太平の世となった寛永年間に建てられた。三方の戸を外すと吹き辰巳附櫓と月見櫓(赤い回廊が付いている)抜けとなる、解放的な造りである。
 天守閣前の平地は、今は芝生が張られて公園になっている。かつては本丸、二の丸御殿が並び、政庁と藩主の居所となっていたが、1727(享保12)年、本丸御殿が炎上。以後再建されず、政務は二の丸御殿を使用して行われた。明治に入って松本城が民間に売却されたとき、老朽化した建物は取り壊され、現在、本丸御殿跡は芝生が張られ立ち入り禁止、二の丸御殿跡は史跡公園として復元され解放されている。
西側壁面と石垣 江戸時代が中期に入ろうという貞亨年間(1684〜)から、昭和25年の昭和の修理まで、およそ260年にわたってこの天守は大きく傾いたままであったという。貞亨騒動(嘉助一揆)の首謀者である多田嘉助が磔刑に処せられたいまわのきわに、天守を睨んで絶叫した怨念によって傾いたという伝説があるが、修理時の調査で傾斜の原因は心柱の腐朽によるものと判明したとか。
 

 松本城の界隈を歩いてみた。大手門から南へ真っ直ぐ伸びる大名通りを行くと、女鳥羽川にかかる千歳橋に出る。左へ折れて、川沿いに開けた商店街を歩く。歩行者専用に造られた新しい町並みなのだろう、ハイカラな歩道の両側に店々が並ぶ。その中の一軒、ベーカリーハウスに入って、ケーキとアイスティで疲れを癒す。前を流れる女鳥羽川でイベントが行われているのか、テントが張られ、何人かの家族連れが訪れていて、子どもたちは川幅5mほどの流れを浮き袋に乗って歓声を上げながら下っていく。


 夕刻5時30分、松本城に別れを告げて、今夜の宿泊先「リゾートイン グリーンベル」へ向かった。
 国道19号線を西へ越えて、147号線を北北安曇野アート・ロード西へ…。この道は松本から新潟県糸魚川市を結ぶJR大糸線と交互に渡り合い、その一帯は北アルプスのふもとの田園地帯である。左手には西日から伸びた陰が色濃い大森林が広がり、右手にはアルプスの水の恵みを受けた水田が、大きく伸びた稲葉を風に揺らしている。
 穂高駅の傍らを西へ曲がりアルプスの裾野へ入ると、ブナの林の中にホテルやペンションが点在し、林の間を縫って走る道路の名まえは安曇野アート・ロード。宿の数よりも多いのではないかというほどの美術館が並んでいる。穂高町内を走るわずか5Kmほどの道沿いに、ジャンセン美術館・安曇野絵本館・ちひろ美術館(http://www.chihiro.jp/top.html)・有明美術館・碌山美術館・橋節郎記念美術館・山岳美術館・大熊美術館・ホソノ色彩美術館・田淵行男記念館・豊科近代美術館…などなど、見応えのある展示品を並べている美術館がこれほどある。

 アート・ロードからさらに一筋左へ折れた、安曇野山岳美術館の手前、林の奥にひっそりと、今夜のお宿「リゾートイン・グリーンベル」はたたずんでいた。生垣のバラの花が出迎えてくリゾートイン グリーンベルれる。
 実は、予約の段階では「午後9時の到着」と申し込んでおいた。夕食を頼むと時間に縛られてしまう。どうせ予定の立たない旅なのだから、食事はどこででも取って、宿は寝るだけといった調子である。だから6時過ぎに着いてしまったのは、早すぎる到着なのだ。
 部屋は2階の角部屋、ツインルームのシングルユース…。部屋に荷物を置き、「食事に出るから」と断って、また穂高町の市街に引き返した。一刻一刻と暮色に染まっていく安曇野の風景は、詩情たっぷり…。月の光がこぼれる夜には、妖精たちが道を横切るとか。
 夕食は「ふくらい家 笑福」、宿へ向かう道筋で見つけておいた和食どころである。店のお勧めはまず「岩魚のお刺身」。店のパンフレットには『安曇野の清流で育った岩魚は、とても歯ざわりが良くておいしく、活き造りなのでお皿の上で跳ねております』とある。骨は「骨せんべい」にして出してくれる。もうひとつの名物は、信州といえば「馬刺し」、馬肉にはコルニチンが含まれており、体内からコレステロールを排出する効果があるとか。そのほかに、煮いかのわさび添え、山菜のてんぶら、信州そば小鉢と食べて満腹…。
 道端で手を振る妖精たちに挨拶して宿へ戻り、地下1階の温泉に浸る。男湯には人の気配もなく、誰かが先に入った形跡もない。隣の女湯は、何人かのグループが来ているのか、結構にぎやかだ。
 その人たちとも顔を合わすこともなく部屋に戻り、ベッドに横たわった。もう、人声が聞こえることもなく、静かな山里の夜である。旅の疲れもあってか、いつの間か深い眠りへ…。誰だ、窓を叩くのは〜?



【84】黒部・立山アルペンルート  その2             2005.07.17


 黒部16℃  立山(室堂)11.5℃  −雲上の別天地−   その1  


7月17日(日)    黒部 〜 立山(室堂)〜 松本市内


 ホテル … 扇沢駐車場 … (トロリーバス) … 黒部ダム … (ケーブルカー)
 … 黒部平 … (ロープウェイ) … 大観峰 … (トロリーバス) … 室堂平

大町アルペンルート。黒部の山々が見えてきました。
 いつもは朝まるで弱い章くんだけれど、旅先ではなぜか早起きだ。この日も、7時起床(別に早くないって…?)。
 朝から、異郷の地で納得のいくモーニングサービスの店を探すのは至難の業であろうという配慮のもと、ホテルに朝食だけは頼んでおいた。素泊まり8500円、朝食付き9600円だから、1100円が朝食代だ。創作料理と銘打った朝食は、地場産物や新鮮な魚介類など素材にまでこだわった自信の逸品というだけあって、美味しくいただけたが、パン党の章くんには、和食であったことだけが残念…。
 宿をあとにしたのが、午前8時。アートロードを北にとり、大町温泉郷を横手に見て大町アルペンラインに入る。眼前に頭を雲に隠した、黒部の山々が迫る。
大混雑の扇沢駐車場 約45分ほど走って、扇沢駐車場に着いた。長野県側から黒部へ入るものは皆、ここへ車を置いてトロリーバスに乗りかえるのだ。まだ朝の9時前だから第3駐車場が空いていて、章くんは階段を1つ上がっただけでトロリーバスの駅に出たが、車をロックして歩き出したときにはこの駐車場は満車になり、あとの車は100mほど下の駐車場へ回されていた。


 ここ扇沢駅の出札窓口で、立山室堂までの往復乗車券を買う。窓口の女の子に、「今日はたいへん混み合っていますので、下りの乗り物がたいへん込み合います。待ち時間がかなり生じると思いますので、まず室堂平まで登ってしまって、あと下りながら乗り物の時間を見て各ポイントを見物してください」とご注意をいただいた。その章くんの関電トンネル内を走るトロリーバスルート(および発着時刻)と運賃は、「扇沢駅(9:30)…(トンネル内トロリーバス、16分)…(9:46)黒部ダム駅(10:10)…(ケーブルカー、5分)…(10:15)黒部平駅(10:30)…(ロープウェイ、7分)…(10:37)大観峰駅(10:45)…(トンネル内トロリーバス、10分)…(10:55)立山室堂駅」の往復で、8500円である。
 午前9時30分発のトロリーバスに乗って出発、全長5.4Kmの地下トンネルを15分で抜けて黒部ダム駅に着く。この全線地下トンネル方式のバス道は、黒四ダム建設の際の工事用資材搬送のため、関西電力が社運を賭けてと形容される決意を持って掘削した隧道である。トンネル工事は困難を極め、のちに製作された「黒部の太陽」にもあったように、黒部大破砕帯といわれる難所に遭遇したときには、80mを掘り進むのに7ヶ月の歳月を要する難工事であったという。到着した駅も、もちろん地中駅…。太陽にさらされることのない黒部の地下の空気は、ひんやりと肌に冷たい。
黒部ダム駅。地下駅である トンネル内で右へ進むと、約100段の階段を上り下りして、ダムの壁面を目の前にする展望台に出るとか。しかし、先を急ぐようにと言われて冷気に満ちたトンネルを抜けるとダムの上。眼前にダム湖が広がる。いる章くんは左へ折れて、平坦なトンネル内の道を進むと、やがて前が開けて、アーチ型ダムの上面に出た.

 目の前に後立山連峰の雄姿が広がっている。頂は、雲の中に隠れているが、今日の黒部の天気予報は「曇りのち晴れ」。到着する頃には、お山も晴れるさ…と、章くんは相変わらず楽観的である。山肌に深く刻まれた幾筋もの山襞には、溶けきらない雪が白く光る。ダムの堤を対岸へ渡れば、黒部平へ登るケーブルカーの乗り場だ。
 湖黒部湖。正面にケーブルの駅が見える。面を黒部湖の遊覧船「ガルベ」が行く。『目の前に迫る北アルプスを見あげながら、雄大に広がる黒部の大自然を気軽に満喫…。平均標高1448mの黒部湖を30分かけ一周するガルベは、日本で最も高所を航行する遊覧船。黒部湖を奥へ進むにつれ、右舷には屏風のように連なる立山連峰が、左舷には天を衝くスバリ岳や針ノ木岳の雄姿が、また正面から赤牛岳が迫り寄り、深く大きい黒部峡谷のまん中にいる自分が実感できる。美しく移ろう四季の湖畔の原生林を眺めながらの遊覧船体験は、まさに心地よいアルペンクルーズです』と、パンフレットにある。
 今日も満々とコバルトブルーの水を湛えている黒部湖は、先日来の大雨のせいか、たくさん観光放水をするダムの流木を浮かべている。たくさんの見物客を迎えて、大壁面からは盛んに観光放水が行われていた。轟音を立てて流れ落ちる水流の先端は砕け、飛沫が陽光を受けて虹色に輝いている。
 遊覧船上で結婚式を挙げるカップルがいた。純白のタキシードとウエディングドレスに身を包んだ新郎新結婚式を挙げるカップル婦は、まさに黒部の夏に涼やかさをもたらす雪か…咲き匂う白百合か…といった装いである。山で知り合ったカップルなのだろうか…と、二人に馳せる思いもどこかロマンティックである。永久(とわ)の幸せを願いつつ、章くんはケーブルカーの駅へ急いだ。


 ここ黒部湖駅(1450m…多分)からは、ケーブルカーで黒部平(1850m…多分)まで400mを5分で登る。
黒部湖〜黒部平のトロッコ
 たいへんな人出で、ケーブルカーに乗るのにも2回待ちである。プァ〜ンと警笛を鳴らして、可愛い電車が人々が待ち構えるホームへ入ってきた。最大斜度45度(多分)もある急傾斜を、こんなにたくさんの人を乗せてはたして登るのだろうか。
 それが登った。20分間隔運行を正しく守って、きっちり5分で400mの高低差を往復している。可愛くても偉い!
黒部平から立山を見上げる

 黒部平から見上げる、後立山連峰は雄大だ。深く刻み込まれた山ひだの間に、今なお大きな雪渓が残り、眼前に迫ってくる。
 黒部湖からここまでのケーブルカーは、可愛いけれど合計130人ほどの人々を一度に運ぶ。ここから立山のほぼ8合目にあたる大観峰(2350m…多分)までへと登るロープウェイの定員は70人。
 当然、ここで待ち時間が生じる。黒部湖駅でケーブルに乗るときに番号券を渡されていて、ロープウェイの順番が来るとその番号を呼んでくれるのだ。
黒部平のニッコウキスゲ 待ち時間の間に、展望台から周囲のパノラマを眺め、茶店で山菜おこわの小むすびをバクついたあと、あたりを歩いてみた。ニッコウキスゲの淡い黄色の花が満開で、足元に揺れていた。
 やがてテレビモニターに章くんたちの整理券番号が映し出され、係りのおじさんがマイクで呼んでいる。待つことしばし…、まだ10時過ぎのこの時間は、下って来る客はほと黒部平〜大観峰のゴンドラんどいない。乗務員だけを乗せた箱が、ホームに近づくと急にスピードを落とし、慎重すぎるほどのゆっくりしたスピードでホームに着いた。
 このゴンドラは、立山の東壁を背に大観峰と黒部平を7分で結ぶ、延長1700m、標高差 500mのロープウェイ。途中に1本の支柱もない、日本最長のワンスパーン・ロープウェイで、箱の中から眺める眺望は素晴らしく、まさに「動く展望台」だ。 




  ↑ 大観峰ロープウェイの駅から 黒部平・黒部ダム・ダム湖方面を望む。
    左の高峰は鹿島槍岳2670m、正面は赤沢岳2675m、右の高峰は鉢の木岳2821m


 
 大観峰駅は立山の東側斜面に穿(うが)たれた、立山登山のための一穴である。切り立った斜面に立つ駅の展望台からの眺望は雄大だ。眼下にコバルト色の黒部湖が輝き、その彼方には今なお厳冬期には人が踏み入れることを許さない、鉢の木・赤沢・鹿島槍などの高峰が聳立している。立山トロリーバス
 ここからは、立山主峰の雄山の真下を通って室堂平へ抜けるトンネルが掘られていて、地中を無公害トロリーバスが走る。日本最高箇所を走るこのバスは、立山の表と裏を10分で結ぶ。
 その日の人出を計算して台数を用意するのだろうか、バスは一度に7〜8台が連なってくる。ロープウェイから降りた客は、このバスに乗れないということはない。座れるか、立ったままの地下行となるかどうかは、そのときの運次第ということになるが、運が悪くても10分である。
 トンネルの半ばで道が広がっている箇所があり、上り下りのバスはここで対向する。窓の外に黄色の行燈灯があって、「立山直下」と書いてある。立山の主峰雄山(3003m)の真下ということなのだろう。とすると、ここは地下500mということになる。
 黒部立山アルペンルートと呼ばれるこのルートは、その全線が中部山岳国立公園内にあるため、環境保全に万全の(?)配慮がなされているという。だから、このトンネルも山肌を削る工事は避けて、地中を貫徹する形になった。このトンネル工事も、いわゆる立山破水帯といわれる難所に遭遇し、溢れる出水との戦いであったとか。



【85】 黒部立山アルペンルート  その3             2005.07.17


  黒部16℃  立山(室堂)11.5℃   −雲上の別天地−  その1  


  室堂平 … … … 「松本ツーリストホテル」(松本市深志)

トロリーバス 室堂駅前
室堂駅前の人の波 
正面は雷鳥沢の大雪渓

 ターミナルを出ると、目の前には立山連峰の大パノラマが広がっている。今日の人出は大変なものだというが、その人並みもこの大自然の景色の中に分散して溶け込んでいて、気にならないほどの雄大さである。
 標高2450m、気温11.5℃。章くん、長袖シャツを着てきたのだが、下界から来ているので両袖を捲り上げている。むき出しの腕に当たる風は涼しく、歩いているうちに肌がひんやりとしてきたが、日差しがあるので寒いということはない。ほとんどの人が、半袖やノースリーブで歩いている。
 雲は峰々を覆っているがところどころ切れていて、そこから太陽が顔をのぞかせる。天気予報は、曇りのち晴れ…。期待していいのだろうか。
 ここ室堂平は、立山信仰登山の基地となった古い宿泊の施設「室堂」(重要文化財)の名前に由来する地名で、信者たちはこの室堂で休憩宿泊して、雄山の山頂に祀られている雄山神社に詣でた。室堂は日本最古の山小屋ともいわれ、最初の建物ができたのは、少なくとも14世紀末より以前と伝えられているから、鎌倉時代のことであって、その歴史は古い。
 立山の昔話には、「室堂小屋はものすごく強い作りで、1本の柱を見ても大人一人でかかえきれない太さ。中はムシロが敷かれていて、いくつかの囲炉裏(いろり)があり、間仕切りはなくて、泊まる人は雑魚寝(ざこね)する。客の多いときは横にもなれず、足をのばすこともできない。食事などは、宿から鍋釜を借りてみんなで作るが、高山のためメッコご飯でまずい」とある。気圧が薄いので圧力がたらずに、芯のあるご飯になってしまったということだろう。
 また別のガイドブックには、建物は2棟に分かれ、北室は1726(享保11)年、南室は1771(明和8)年に再建されたものを、1992〜94年の解体調査後に復元した。屋根は切妻造で、柱はタテヤマスギの太い角材を等間隔に並べた堅牢な構造。内部には解体調査で出土した陶器などの貴重な遺物を展示している…とある。江戸時代に、修復されているのである。


 一帯は国立公園内だから、どこを歩いてもよいという訳にはいかない。遊歩道(登山道というべきか)が設けられていて、出発点には案内板があり、ミクリガ池一周は45分、室堂周辺の周遊は1時間30分、雄山神社往復は3時間、剣御前小屋までは5時間30分…とか書いてある。
立山 室堂平から見た立山三山
(左から、富士ノ折立・大汝山・雄山)
 去年、南アルプスへ行ったときには、片道1時間30分と書いてあったコースを3時間で踏破した章くんだから、雄山神社往復コース以遠へ行ったりしたら、今日中には帰れない。今夜は、松本にホテルが予約してある。
 章くんは、大きなリュックを担いだ屈強な連中がとる右側の道は避け、家族連れのうしろを付いて真ん中の道をたどった。5分も歩けば、ミクリガ池のほとりへ出る。



雪の残る ミクリガ池
残雪のミクリガ池
 ミクリガ池は、立山の火山活動で生まれた爆裂火口にできた池で、水深は15mと日本アルプスでもっとも深い。その名称は、元和3年(1617年)、越前法師の某が掟を破ってこの池で遊泳中、三回り目に湖底へと姿を消してしまったことに由来しているとか。
 室堂から立山を眺めるなら、ミクリガ池湖畔がナンバーワンのビューポイント。「立山神の祭壇」といわれるだけに、立山連峰の眺望はもちろん、高山植物も乱れ咲く別天地で、近在には日本最高所の温泉「みくりが池温泉」がある。
 室堂一帯の雪解け水はこの池にいったん蓄えたられたあと、伏流水となって北西200mの地獄谷に面した斜面から湧水となって流れ出していく。眼下にあるこの残雪もやがて溶け出し、数十年後には称名川の流れを作って、落差350m、日本一の高さを誇る巨瀑「称名滝(しょうみょうのたき)」として下り落ち、成願寺川へ合流して、日本海へと注ぐ。

立山室堂平 ぐるっと360度。 左端が右端の風景と重なります。
丸山・鍬崎山(アルペンルート)奥大日岳(雷鳥沢)別山・富士折立・大汝山・雄山(ザラ峠)鷲岳

 ミクリガ池のほとりのベンチに腰掛けて、360度の周囲を見渡す。上の写真は、そのときにパチパチと撮った写真をつなぎ合わせてみたものだが、右手の高い山が鷲岳、その左手が立山雄山である。この2つの山の間、右側の遊歩道の先の峠が「ザラ峠」と呼ばれて、日本史好きの章くんのような輩には、大いなるロマンを馳せる峠なのだ。


 今、ケーブルカーとロープウェイを乗り継いで、ハイヒールで3000mへと登れるこの道を、1584(天正12)年12月、吹き荒れる吹雪をついて、北国の戦国武将が数人の家来とともに越えていった。武将の名前は、越中富山の城主「佐々成政(さっさなりまさ)」。三河浜松の徳川家康に会うために、極寒の立山を越えていったのである。
 佐々成政は織田信長麾下の勇将であり、信長より、北国の雄上杉勢に対する備えとして、越中富山城主に任じられた。本能寺の変のあと、柴田勝家を破って勢力を得た豊臣(羽柴)秀吉は、忠勇一筋の彼からしてみれば、天下を簒奪した横着者と見えたのであろう。織田家に天下を返すことこそ筋であると、信長の次男信雄を擁して徳川家康とともに秀吉に対峙して小牧長久手の戦いを行うのだが、秀吉と信雄・家康の和睦が成って、成政は苦境に立つことになる。
 なおも織田家再興を願う成政は、家康に会って直談判しようと、その居城の三河浜松城へ赴くことを考えるのだが、当時、越中富山から東海へ出る道は、西の加賀藩前田利家、東の越後藩上杉景勝たち秀吉方の大名の領地を通らなければならなかったし、南の飛騨の姉小路頼綱は家康方であったけれども、その先の美濃は秀吉の領地であった。それぞれの国を通過する旅人は厳しく詮議されるこの時代、武士であり、しかも富山城主であった成政が、敵方の領地を秘密裡に通過して遠路を旅するなど、戦国の常識としては考えられなかったのである。
この遊歩道の真っ直ぐ先がザラ峠
 成政は諦めなかった。春になったら、秀吉の大軍は富山城を攻めるであろう。時は今しかない。厳冬の雪深い立山連峰を越えて、家康の支配地であった信州に降り、伊那路から浜松を目指すことを決意したのである。富山から常願寺川沿いに立山へ入り、連峰をザラ峠で越えて黒部の谷に下り、針ノ木峠から信州に至る大走破をなし遂げて、浜松までを往復したという壮大な物語だ。
 「室堂」の紹介のところで、この立山へは鎌倉時代の頃から立山信仰の人々が入山していたことはすでに述べた。その他にも、キコリとかマタギ(猟師)といった人たちも、常時、山に踏み入っていたと思われるが、いずれも春から秋の入山であって、厳冬期の立山を越えたものはいない。今日でも、黒部立山アルペンルートの春季ツアーの目玉には「雪の大谷」といわれる箇所の見物があり、両側20mの雪の壁の間を登山バスが走っている。冬は、20mを越える雪が吹き積もる山なのだ。
 成政は、歴代の越中藩主と同じように、立山信仰連を手厚く保護したようである。立山に住む人々にも、施しは及んでいたことであろう。1584(天正12)年旧暦12月半ば、十数人の家来とともに立山に入った成政たちを、立山の富山側ふもとの村落「芦峅(あしくら)」の山男たちが案内した。ただ、彼らの先導を受けたとしても、この時期の成政たちの立山往復は奇跡と言うしかない。
 「12月25日、越中の佐々蔵助(内蔵助成政)殿、浜松へお越し候」と家康の家臣松平家忠の「家忠日記」は記す。「武功夜話」(前野家文書)にも同様の記述があるから、成政の浜松入りは紛れもない事実なのだが、登山の装備も技術も未発達の当時に、ホントに厳冬の道を成政たちは往復したのか。時期は…、道…も、本当は違うのではないかと、山岳の専門家たちの間からも疑問の声が上がっている。
 旧暦12月25日は新暦の1月下旬、立山の雪がもっとも深い時期である。吹き荒れるブリザードは休む間もなく、その中で人間は息つくことも出来ない。また、信州へ降りるには黒部川を越えねばならないわけで、黒部ダムで堰き止められていなかった当時の流れは、跨いで渡ることなどはできない奔流であった。厳冬期の渡河である、濡れたら死ぬ…、流れに足を入れることなどは考えられない。
 実は、近年になって、この時期のこのルートを踏破した何人かの人がいる。東京大学スキー山岳部OBの故海野英明氏は単独で正月に、後年には同山岳部の現役生数人が後立山連峰から針ノ木近くの赤沢岳を抜けて黒四に下っている。さらに『岳人』編集長の永田秀樹氏もそのルートを踏破したとある。ただ、近代装備を施し、水流を絶たれたダムサイトの直下で黒部川を渡って、はじめて厳冬期の立山越えは可能なのだ
雷鳥沢に残る雪渓

 では、成政たちは、どのようにして富山から浜松に至ったのか。現代の諸説を読むと、まず時期については、11月に小牧長久手の戦いの和議がなされたことから、翌年の春には秀吉の攻撃を受けると危機感を持った成政だから、「家忠日記」などの資料をもとに、この年の冬に出発したことはゆるがせないとする説が有力である。ただ、そのルートについては、@あげろ路(越後親不知のルート)、A針ノ木路(ザラ峠より南の峠を越えていくルート)、B安房峠越え(飛騨路、現在の国道158号線のルート)などが挙げられている。
 成政はいずれのルートを辿ったのか…、今としては歴史という時の彼方のロマンである。四百数十年前に成政たちは、現代の登山家たちが考えつかない方法で吹雪と厳寒の立山と黒部川を越えたのか…。いつかまた、動かせない証拠資料が発見されて真実が明かされるのかもしれないが、章くんにとってはホントのことはどうでもよい。今、成政たちが踏みしめて行ったであろう室堂平に立ってみて、自らの命と家の興亡を賭けて雪嵐の中を行った成政の決意が、この道に記されているようであわれであった。


 成政のその後についても、少し触れておかねばなるまい。決死の決意で訪れた浜松での家康の態度は冷たく、失意のうちに富山に戻った成政は、翌年、秀吉の軍に降伏して領地は越中国新川郡のみとされた。翌々(天正15)年、秀吉の九州征伐に出兵して、肥後一国(今の熊本県)を与えられるも、その翌年の肥後国一揆の責任を問われて切腹、その生涯を閉じた。
 佐々成政の生涯は、秀吉との相克の歴史であった。現在の成政像は、成政のあとに越中を治めた前田氏が、成政を慕う領民に対して悪材料を流したことや、その伝記は「太閤記」などの豊臣サイドから書かれたものが多いため、陰湿な暴虐残忍の暗主というイメージが多い。
 しかし、冬の立山越えに象徴されるように、彼は勇敢で強固な意志を持つ武将であった。それだからこそ、織田家の中で、要領や才覚で後からのし上がってきた秀吉とはソリが合わなかったのであろう。それこそが、彼の不幸であった。雪渓の上で遊ぶ人たち


 章くんの目の前では、遊歩道にまでせり出して来ている大きな雪渓の上で、家族連れの数人が歓声を上げて雪を投げ合っている。この雪の上を、もしかしたら成政たち一行は、決意を秘めて往き、失意を抱いて戻ったのかもしれない。


 ミクリガ池を一周してターミナルへ戻り、章くんは立山を後にした。まだ3時30分、少し早い下山であったが、帰途の混雑を考えると早い目に降りるのが得策であろう。

 大観峰でロープウェイに乗るのに約1時間待ち。下へ降りてきてから、駐車場のおじさんに、あと30分下山が遅れれば2時間待ちであったろうという、ゾッとするような話を聞いた。
 扇沢から大町までの大町アルペンラインは、くねくねと下る片側1斜線の山岳道路。前を何台かの観光バスが連なっているから、大名行列のように連なってゆっくりと下っていく。
 大町市内を過ぎたところで、ガソリンを入れることにした。昨日、津を出る前に満タンにしてきてから495Kmを走ってきている。そろそろ補充をと思ってガソリンスタンドを探したところ、まず見つけたスタンドの料金表示を見て仰天した。1リットル当たりレギュラー133円、ハイオクに至っては144円なのである。
 初め、133円はハイオクの価格かと思った。それでも、長野は高いなぁ…と思ったのだが、よく見てレギュラーガソリンの価格だと知り仰天。ハイオク144円に気づいて、そのスタンドを素通りしてしまった。
 もちろん、付近は統一価格のようだから、みんなその値段である。そうとは解っていても、なお数店を行き過ぎなければ覚悟が決まらなかったのだが、いずれにせよ入れなきゃならないガソリンなのだと覚悟を決めた。57リットル入って、8208円! 帰ってきてからガソリンの価格が値上がりしたが、それでも津市ではハイオク129円。値上がり、平気である。


 「松本ツーリストホテル」は、シングル1泊7300円。松本駅至近の気楽なホテルだ。ホテル横の駐車場が小さくて、徒歩5分ほどの市営立体駐車場を案内された。一泊駐車代850円が別料金というのは、ホテル代が安いから仕方がないか。
 夕食は松本駅前に繰り出して、「だんまや水産」という居酒屋に上がりこんだ。マグロ、カツオの刺身、くらげのポン酢、カレイの一夜干し、水菜と鳥のサラダ、マグロの漬け丼、そして寿司と飲み物で、3000円少々…。ガソリンは高いけれど、食い物は安い!

ホテルのテレビで、全英オープンをやっていました。
 ホテルのテレビをつけたら、「全英オープン」をやっていて、ついつい最後まで見てしまった。セントアンドリューズ(オールド)を舞台に、タイガー・ウッズの優勝。熟睡体制に入れる結果であった。







7月18日(月・海の日)



  松本 … (国道158号) … 高山グリーンホテル(昼食) … 高山西IC〜
  (東海北陸)〜(東名)〜 一ノ宮JC 〜(名古屋高速)〜(東名阪)〜 津IC


 目覚めたのが8時30分。ずいぶんゆっくりの、旅の朝である。今日はもう帰るだけ、朝食は頼んでなかったのだけれど、「いい?」と聞いたら「どうぞ」という返事で、ホテルのモーニングで済ませた。
 松本市外を抜けて、158号線を西へたどる。何度も走り抜けた、上高地→安房峠→乗鞍→平湯峠→高山のルートである。
 松本を市外へ出たところに、国土交通省の職員がヘルメットをかぶって立っていて、「158号線、上高地方面通行止め」と書いたパンフレットを配っている。沢渡の手前が土砂崩れで、車が通れないらしい。「高山へ抜けられないの?」と聞くと、「上高地・乗鞍スーパー林道へ迂回してもらってOKです」という返事上高地・乗鞍スカイラインから望む乗鞍岳
 以前は、乗鞍は乗鞍スカイラインをマイカーで上って2600m地点の畳平駐車場まで行き、あとは連峰中最高峰の剣ヶ峰頂上(3026m)へも約1時間で登ることができた。3年ほど前からマイカー乗り入れが禁止されて、ふもとの駐車場へ車を置いて専用バスに乗り換えなければならなくなった。
 迂回路は乗鞍スカイライン(?)と聞いて、章くん、『乗鞍へ登れるのか、ラッキー』と喜んだのだが、実は上高地・乗鞍スーパー林道への迂回…。途中で白骨温泉へ回る、車対向不可能のくねくね道を走り、沢渡で158号線へ戻る。
 上高地も乗鞍も、今日はパスして、安房トンネルを抜けた。そのまま西へ走って、12時過ぎに高山へ入る。ここの市内もたいへんな人出だ。車で走りながらチラッと見た上三之町は、観光客でごった返している。
 お昼ご飯を食べねばならない。市内はどこも混雑していそう…。しばし考えて、「高山グリーンホテル」へ向かう。駐車場整理の女の子に、「お勧めは?」とたずねると、「…と…と、ランチバイキングがご好評です」と言う。
 品数も品質も、申し分のないバイキングであった。「愛・地球博開催記念 世界の料理ランチバイキング」と謳ったこのランチ、料金は1575円。
 食後にのぞいてみた本館横の物産館は、飛騨の特産物を展示即売するコーナーで、館内の造りは古い飛騨の民家を再現したレトロな雰囲気である。2階の匠の名品を並べたコーナーが興味深かった。


 高山西ICから東海北陸自動車道に乗った。東名合流。本線は渋滞している。車は多いけれど、流れは順調だ。1時間少々で東名に合流。ここで大渋滞にぶつかるのだが、章くんは一宮ICから名古屋高速〜東名阪へと走るので、東海北陸自動車道が東名と合流する一宮JCTから一宮ICまでは数百m、しかもここだけ左に1車線増幅されていて、本選は動かないけれど、左斜線はスイスイと走れたのである。
 津ICを降りたのが、午後5時30分。ちょっと早すぎる到着なのだが、実は今夜7時から打ち合わせがある。


        完



【86】 津 祭 り   −沢口靖子さんを迎えて−         2005.10.09


 10月の8(土)・9(日)日は「津祭り」である。8日はあいにくの雨であったが、9日は朝からよく晴れ渡ったお祭り日和で、メイン会場のフェニックス通りから市役所裏の西公園のあたりは、午前中からたくさんの人出でごった返していた。
安濃津丸 登場

 章くん、人混みと、祭り独特の高揚した気分が気恥ずかしくて、例年の津祭りにはゴルフか他所へ出かけるのだが、今年は「沢口靖子」がゲストとして参加するという話を聞き、ご尊顔を拝するために出かけたのである。「澪つくし」(1985年)以来だから、もう20年越しの片思いなのである。
 市政だよりを引っ張り出して調べてみると、『裁判所前を午前11時に出航』とある。「出航」とは、津祭りにいつも曳き出される「安濃津丸」という道路を曳いていく船があって、芸能人のゲストとか津市の綺麗どころとかが、船上から沿道の市民に愛想を振りまく趣向が組まれ、今年は沢口さんが一日船長として乗船するわけだ。
近藤市長もにっこりと

 いつもは昼前まで寝ている章くんだが、この日は9時過ぎにはパッチリと起き出し、10時過ぎ、ブラブラと歩いて出かけた。家から安濃津丸乗船セレモニーが行われる裁判所前までは、徒歩で約20分ほどの道のりである。
 午前中だというのに、沿道にはたくさんの屋台店が出ていて、あたりには食べものの良いにおいが漂っている。ピカピカ光るおもちゃを持って、子どもたちもご満悦だ。
 章くんは「ベビーカステラ」が大好物。デフレの時代だからか、地方都市の津だからか、今までは1000円と500円の袋しか見たことがないのに、300円の袋も用意されていた。

ミス津たちと一緒に手を振る沢口さん
 「500円のをひとつ」と言いかけて、グッと踏みとどまった。ここは地元の津市…、他所へ出かけて、ほおばりながら歩いていても差し支えないのとは、訳が違う。
 案の定、「章さん、お早いお出かけですね」と声を掛けられて振り返ると、料亭「はな房」の孝之くん。豆絞りに紺色の半被を羽織って、何かの役目を負っての参加なのだろう。
 市議の村田くん、会計士の安井くんたちと行き交い、裁判所前に到着したのが10時45分。道路上には、すでに安濃津丸が引き出されていた。
 沿道にはたくさんの人出…。人混みの後ろでは憧れのお顔を拝見できないし、船はかなりの高さがあるので、はるかに見上げる形になって姿が遠い。
 歩道に「特別観覧席」という一角があるのを見つけた。席料1000円…、その席に陣取って、前で繰り広げられる踊りやパフォーマンスを観覧するわけであるが、章くんは、沢口さんをひと目見たらそれで満足、そのあとは近江八幡へ出かけるつもりである。沢口靖子が前を通る何秒間かに1000円は高いか安いか…、いや今は考えているときではない。即座に観覧席に入って、最後部の席に陣取る。後ろへいくほど高いし、立っていてもいいから、船に乗っている人たちと目線の位置が同じになる。

 11時、沢口さんが乗船して出航!。安濃津丸はゴロゴロとやってきて、歩くほどの速さで章くんの前を通過していった。
 沢口さんに同乗している近藤津市長が、カメラを構えている章くんを見つけて、「章さんもファンですか」と言って笑う。「ええ、念願が叶いましたよ」と答えたとき、沢口さんと目が合った。その距離、約10メートル!
 章くん、用意してきた一言をかけなければならない一瞬であった、「沢口さん、もう26歳になったの?」と。「誰が26やねん」と答えてくれるかなあ、…と章くんは思い描いていたのである。
 ところが、沢口靖子に見つめられて(ほんの一瞬、視線が行き会った程度のものだったが、章くんにしてみれば「見つめられた」ということになる)、章くんは硬直…! 
 とても声をかけられるような状態ではなく、茫然自失…。その間に、安濃津丸はゴロゴロと前を行き過ぎていって、章くんの20年来の憧憬は、祭り囃子の彼方へ溶け込んでいったのである。



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