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飯田 章のホームページ 雑記帳








  
-上海・蘇州・無錫・周荘・甪直-
  
2009.09.21-24


    
その1          


 7月末、ネットで「上海4日間 19500円」というツアーを見つけました。しかも、9月21日…5連休シルバーウイークの真っ只中の出発です。日本にいるよりも安いじゃないかと、直ぐに申し込みました。


  【写真にカーソルを当てたとき、手の形に変わったら、
   大きい写真にリンクしています】


 9月21日(月) 出発   


← 午後1時50分発の中部東方航空MU530便に乗って、上海に向かいます。


 搭乗手続きが終わってから、天ぷらうどんを食べました。
 「中国の飛行機には二度と乗らんぞ」と固く誓った章くんでしたが(タイ・ゴルフ紀行2006 その⑤ 参照)、その決意はツアー代金の安さの前に、あえなく吹き飛んしまったようです。
 

 定刻、13時50分に飛び立ちました。水平飛行に入ってまもなく、機内食が出ました。
 

 午後4時15分(上海時間午後3時15分、以後は上海時間で表示します)、予定通り「上海浦東国際空港(しゃんはいぷどんこくさいくうこう)」に着きました。中国の飛行機も、やれば出来るじゃないか!
 とにかく広い…。この空港は全長4,000メートル、幅60メートルのオープンパラレル滑走路3本を有する、24時間全天候型国際空港です。
 空港から上海市内までは、世界初の高速磁気浮上鉄道(モノレール)を利用すると7分20秒で到達します。
 ちなみに、この空港は1997年10月に着工、2年の歳月と建設費は16.7億ドルをかけて、1999年10月1日に開港しましたが、建設費用は全額が日本(アジア開発銀行)からの円借款でした。
 
 
← 珍しい(ン…、中国では珍しくは無いのか?)沖止め到着で、雨模様の中、乗客はシャトルバスでターミナルへ向いました。
 到着後、「検疫官がまだ到着していませんので、しばらく機内でそのままお待ちください」と足留めされたのも、中国らしいかな。


     入国審査 →


 ターミナルも、とにかく広い。今まで、どこの空港でも、これほどたくさんの入国審査の窓口を揃えているところを見たことがない。来年の上海万博を控えているからでしょうか、次々と審査をこなしていき、全く待たなくてよかったです。


荷物を引き取り、待っていてくれた旅行会社の添乗員(唐さん)の案内で、バスに乗り込んだのが3時20分! これから、今夜の宿泊地「周荘」へ向います。
 「どれぐらいかかるの?」と聞くと、「およそ2時間半…以上です」と大陸人らしい答が返ってきました。


← バスの車窓から見た、空港ターミナルビルです。


      この日から4日間、バスを運転してくれた運ちゃん →


 この運ちゃん、小刻みにきつい目のブレーキを踏みます。運転が荒っぽいのかなと思っていたのですが、上海では車間距離を空けていたら次々と割り込まれて、前に進めないのです。
 中国の…かどうかはわからないけれど、少なくとも上海の運転に、『譲り合いの精神』などというものは存在しません。交通ルールもあって無きが如くのようなもので、信号無視、スピードオーバーなどは当たり前で、パトカーも知らん顔…。
 ビックリしたのは対向車線を当然の如く走っていく車です。前から来る車もまた当然の如くそれを避けて路肩を走ってきました。
 ガイドの唐さんが、「上海で運転するには、交通ルールと技術と、そして多少の勇気が必要」と言っていました(笑)。
 蛇足ながら、中国での交通事故は日常茶飯事で、事故を起こした運転手は大声で自分の正当性と相手の落ち度を叫びながら、車を降りていくのだそうです。どんなに自分が悪くても、認めたら負け…。日本人にはそれだけの気力は無い…のかも知れませんが、国際舞台で活躍するためには、必要不可欠な条件なのでしょうね。

← バスの窓からパチリ


 上海近郊の道路の左右には、おびただしい数のマンション群が立ち並んでいました。
 右を向いても、左を見ても、マンション群なんです。そして、まだまだ至るところで建設しているんです。
 上海の流動人口は1800万人だとか。それだけの人々を収容するのですから、住居の数もたくさん必要ですよね。


 (このあとしばらく、周荘へ向かうバスの、雨に濡れた窓ガラス越しに撮った写真が続きます。
  暗くなってもきますし、見にくくて申し訳ありません。) 

 
         
 4階建てに交差している高速道路 →


 ガイドの唐さんが、ここ30年、中国政府は道路の建設に力を傾注してきたといっていました。確かに、上海を中心とする交通網は、素晴らしく発達しています。
 でも、それ以上に車の数が増え続けているのでしょうか。章くんたちの旅の途中でも、上海市内の至るところで交通渋滞に巻き込まれました。


 来年の万博を控えて、上海周辺では、あそこでもここでも工事が進められています。

つくりかけの高速道路 高速道路の橋梁工事らしい マンション工事
















 

 マンションも、日本のように1棟ずつ建てて、売れたら次を建てるなんて、そんなセコイことはしません。10棟ぐらいを、まとめてデ~ンと建てています。


 道路沿いには、会社や政府の大看板が立ち並んでいます。


← この看板は軍の宣伝らしい


 わが祖国を愛する若者よ、国家と党を守り、夷敵を殲滅する「人民解放軍」に来たれ…とでも書いてあるのかな?
 
 


 夕刻…、車が多くなってきました。市内から出るとき、やはり渋滞につかまりました。


       道路の向こうに並ぶ柱は、
         ゴルフの打ちっぱなし練習場です。 →



 このあとも、数箇所で練習場を見ましたから、中国でもゴルフをする人は増えているということですね。
 上海周辺のゴルフ事情をちょっと調べてきました。上海市内と郊外には20箇所ほどのゴルフ場があります。タクシーで1時間半~2時間足を伸ばすならば、蘇州、杭州などにはやはり20箇所ほどゴルフ場が造られてきています。
 プレーフィーはピンキリですが、ビジターの平均で平日8000円、週末は14000円ほどですから、昨今の日本と同じぐらいでしょうか。でも、1バッグにひとりずつのキャディがつきます。
 日本人の平均収入31万円に比べて、中国人(北京・上海)の平均収入は4万円ぐらい。ただ、北京や上海では、富裕層(金持ち)は先進国の富裕層と大差ない収入を得ていますが、低賃金で働く労働者の数が極めて多く、一般労働者だけの平均賃金といえば、これよりもかなり低額となります。だから、中国の一般の人たちからみれば、ゴルフはまだまだ高価な遊びということになりますね。


← 上海近郊の有料道路の料金所。レーンの数がすごいです。


 上海では、今は自転車(電動自転車も多い)とオートバイがたくさん走っていて、朝夕のラッシュのときなどは、どこからか涌いてきたのかというぐらい道路に溢れます。
 でも、中国にも、もうすぐ車社会が到来することでしょうね。そうなれば人口が多い分だけものすごい数の車が、ののしりあいながら(笑)走り回るということですね。


 もうひとつ興味深かったのは、有料道路の料金所付近の道端には、どこでも大きな荷物を下げた男女が何人か立っていたこと。
 はじめは、何かを売っているのかと思ったのですが、店を広げている様子もないし…と考えていて、ハタと思いついたのがヒッチハイカー! 彼らは、車がスピードを緩める料金所の付近の道端に座り込んで、乗せてくれる車をひたすら待っているのだと思います。
 それにしても、有料道路に入り込んで叱られないのでしょうか? そこが大陸的なのでしょうね。


                 料金徴収係りの女の子 →


 当然ですが、男の子もいました。排ガス規制もない中国ですが、マスクもせずに頑張っています。


 午後6時57分、周荘の町に着きました。上海空港から、ちょうど2時間30分です。


← 町の入り口には城門があり、ライトアップして旅人を迎えてくれます。


   
今夜のお宿
   「周荘賓館」 →



 唐さんの話では、「はっきり言って、あまりいいホテルではないです」とのことですが、激安ツアーだから仕方が無いですね(苦笑)。


←でも、ロビーにあったこの木彫りの龍は、ホント…見事でしたよ!


 食事は円卓の中華料理…。安いツアーだから、文句は言えない味でした。
 食事のあとは、8時30分から、周荘水郷のライトアップ鑑賞に出かけます。1000年の歴史を持つという、中国江南の水郷古鎮…、楽しみの散策です。




【174】 水郷古鎮「周荘」   中国江南水郷紀行②        2009.09.21-24


 ホテルでの食事の後、「周荘ライトアップ」の鑑賞に出かけました。


 周荘は、元の時代の大富豪「潘万山」が村の北にある白蜆江から水を引いたのが始まりだとか。かつては、周辺地域の水運や商業の要所として繁栄しました。今でも明清時代の建物や水路の風景が残っていて、訪れる人々を魅了してやまない古鎮です。


   午後8時30分を過ぎた周荘の町は、人通りも少なく、
  とても静かで落ち着いた雰囲気でした。       →



 細かい雨が降っていて、それがかえって人出を少なくさせたのかもしれません。


← 周荘水郷村の北の入り口「古牌楼」


 ここで入場料を払います。いくらだったのか、ガイドさん任せなので分りません。








    民家の角を曲がったら、きれいにライトアップ
   された一角に出ました。          →



 でも、そちらへは行かずに、ガイドの唐さんは反対の方角へ…。


← 狭い路地を通っていきます。


 昼間ならば、道の両側はお店屋さんが商品を並べているのでしょう。


 2010年の上海万博をPRするマスコットが展示されていました→


← まだ、営業しているお店もありました。


 ガイド付きのツアーに参加したので、事前に全く調べることもなく、周荘を訪れました。水郷古鎮だということぐらいは知っていましたが、この地区の地図も何もなく、どの程度の広さを持つところなのか…、その中のどこを歩いているのか…など、何も分らずにただ歩いていました。


  だから、向こうに見える橋が何という名前の
 橋なのかなど、全く分りません。     →




















 それでも、川べりの細道を歩き、さまざまな形の石橋を渡って行くのは、とても風情のある散策でした。
 







↑ アーチ型の橋の下から、向こうの
 風景がのぞけます。【昼間見ると



 このあたりは、周荘を開いたと言われる「瀋万山」の子孫である豪商が、清の乾隆7年(1742年)に建てた「張庁」と呼ばれる屋敷のあたりです。→
 敷地内に川が流れていて、部屋数は70という大邸宅です。
 
 
← 対岸にお茶屋さんが並んでいて、この一角は、9時30分になろうとしているこの時間でもにぎわっていました。  →


 店の前の縁台に腰掛けて、一献傾けあっているお客もいましたよ。




 散策を終えたのが9時35分…。ホテルへ戻ってお風呂に入ったあとは、毎日移動するツアーですから、荷物を整理しなくてはなりません。
 一息ついたら、もう11時…。明日は早朝から、周荘水郷をもう一度歩いてみるつもりです。


 おやすみなさい。
 
 
第2日目  早朝の水郷


 午前5時30分に起床。 昨夜、ライトアップに浮かぶ中を歩いた周荘古鎮を、朝食の7時までに、早朝、ツアーを離れて歩いてみようと思ったからです。


    午前5時50分。早朝でもあり、ほとんど観光客の
   姿は見かけませんでした。            →



昨夜来の霧雨が降り続いていましたが、水郷は「雨ならば、また格別の風情が楽しめたものを…」というほど雨の風景が似合うところです。


  昨夜、ライトアップされていた「古牌楼」【昨夜は】


 入場料を払おうと思ったのですが、早朝なので窓口に人がいませんでした。 残念…!
 この門の内側に掲げられている横額は、有名な書道家「費新我」がその晩年に書いたもので、『唐風孑遺』という四文字は、古代の素晴らしい民族の文化や生活が今でもこの地に根付いているという意味であるとか。
 村内の6割が明清時代の建物を残しているという周荘…。昔を守り伝える人々の誇りを象徴する言葉ですね。


← 村内に入って、最初の橋です。


 午前8時~午後9時まで、ここ周荘では船に乗って水郷を巡ることができるそうです(80元)。






   
昨夜歩いた道ですね。→


 この早朝から営業している食堂があって、出勤前の人たちでしょうか、朝食を食べていました。


 小龍包12元(約160円)、肉うどん10元(140円)、お粥5元(70円)とか、とても安いのですが、ガイドの唐さんに「町のお店で買い食いしたら、90%下痢します」と脅されて射ましたので、臭いだけかいで素通りしました。


← ある橋の上から撮った、朝もやの中の
 周荘のたたずまいです。



 周荘は、紀元前5世紀の頃、「呉越同舟」の四字熟語で有名な『呉』の国に属していました。 
 呉王「夫差」は、越王「勾践」によって討たれた父「闔閭」の仇を討つため、「伍子胥」の補佐を受けて国力を充実させ、勾践を破って一時は天下の覇者となります。
 しかし、「臥薪嘗胆」して武力を培った勾践の反撃により敗北して自決し、呉の国はここで滅亡します。

 勾践は夫差の油断を誘うために、伝説の美女「西施」を贈り、彼女に夢中になった夫差はついに国を滅ぼすという話も有名ですが、ここ江南は、やはり美女を輩出する土地なのですね。



← 「富安橋」



 1355年に造られていますから、周荘では最も古い橋ということになりますね。
 この橋が、「北市街」と「南市街」の分岐点になるのだそうです。


← この村の家々は、表通りに面してはお店になっていますが、裏側は庭があって、プライベート空間になっています。




            
早朝、川で洗濯をする人がいました。→


 水郷の川は、観光客を呼ぶだけでなく、村の人々の暮らしに深く結びついているのですね。


 絶えることなく流れる水、緑したたるヤナギの木々、悠然と行き来する小船、純朴な習俗をとどめながらゆったりと暮らす住民たち…、まさに「鎮(町)は沢を国とし、四面に水がめぐり、咫尺(しせき・短距離)の往来、皆舟楫(船)を要す」と詠われたとおりの情景が、目の前に広がっています。




     お母さんに送ってもらって、学校へ行く男の子と
    女の子を見かけました。            →



     この橋…、昨夜、下をのぞいた橋です【昨夜は】


← 橋のたもとで、傘でポーズを
 取って写真に納まる女の子がい
 ました。



 写真を撮るときは、あんなふうにポーズを作るのか…としばし見とれていました。
  
          
前方に「双橋」が見えてきました。→


 1964年、周荘で、ある青年が水路にかかる「双橋」と呼ばれる二つの橋を描きました。
 「故郷の思い出」という題をつけたその絵を、米ウエスタン石油会社のハモ社長が買い取り、中国と米国の両国民の友情、協力、平和のシンボルとして、当時の中国の最高権力者であった鄧小平に贈りました。


 しかし、鄧小平は周荘が中国のどこにあるか知らなかったそうです。すぐに調べて地図に載せて紹介し、一帯の整備を進めたのが、今日の周荘を形づくる元になりました。
 …と、ガイドの唐さんが教えてくれました。


← 双橋




 橋の上で中国人の学生らしい女の子に、「*&$”#%」とデジカメを渡されました。「シャッターを押して欲しい」と言っているのは解りましたから、「オーケー」と受け取り、2枚の写真を撮りました。
 「シェイシェイ」と受け取ったあと、「Are you Chineese?」と聞きます。「No,I'm Japanese.」と答えた僕の顔を見て、「Oh…」とちょっと複雑そうな顔をしたのは、僕の思い過ごしだったのでしょうか。

中国画の大家「呉冠中」は、「黄山は中国の山河の美を集め、周荘は中国の水郷の美を集めている」と、水郷周荘の美しさを讃えているとか。

 
 








    橋をくぐって、
      一層の船がやってきました。→



    早朝…、荷物を運ぶ船のようです。





← 橋の上から振り返って


 網の目のように張りめぐらされたクリークのおかげで、水郷の町は明・清時代に起きた兵火と戦乱をまぬがれ、完全な形を保つてきました。
 周荘鎮のクリークは「井」の形をして流れています。水際に建てられた古色蒼然とした民居、寄り添うように交差し蛇行する水路…。その上に元・明・清各時代に築造された14基の石づくりの太鼓橋が架かる水郷古鎮は、自然と歴史が一体となって、訪れる人の旅情を誘います。


    7時10分…、水郷に別れを告げて、
      ようやく目覚めた町をホテルへ戻ります。 →

 
← …と、自転車の後ろにつけたリヤカーに乗せて、子どもを学校へ送っていくところです。


 傘がくくりつけてあるのは、雨ですからさもありなんというところですが、この子ども、リヤカーの中でパンをかじり、牛乳(?)を飲んで、食事しています。


← 向こうのほうに、たくさんの子どもたちがかたまっています。 学校でしょうか? 
 お父さんお母さんたちも、そこまで子どもを送っていっています。


 中国の子どもたちは、一人っ子政策で、まさに一家にひとりの一粒種ですから、とても大切に育てられ、「小皇帝」と呼ばれるわがまま者が多いと聞きました。
 人ごとながら、中国の将来は大丈夫なのでしょうか?


← 「学校」と書いたバスがやってきました。スクールバスの集合所だったのですね。


 さて、僕もこれから朝食…、今日は8時30分の出発です。




【175】 水郷古鎮「甪直」、太湖遊覧   中国江南水郷紀行③    2009.09.21-24


← 章くんたちがツアーの第一日目の夜を過ごした「周荘賓館」、中国版(?)3ツ星ホテルです。


 水郷まで歩いて行けたことが何よりで、ホテルのグレードも貧乏旅行に慣れている章くんには、上等の部類に入るホテルでした。


 
午前7時20分、朝食です→


 パン、おかゆ、3種類ほどのおかず、コーヒー、紅茶、緑茶!! パンとコーヒーだけのアメリカンスタイル・モーニングに慣れている章くんには、結構なご馳走でした。


 8時30分、バスに乗り込んで出発…。まずは、2000年の歴史を秘めるという水郷古鎮「用直」へ向かいます。


← 出発から30分少々…、大きな門の前に着きました。


 門をくぐり、大きな橋を渡ると、広場に出ます。


 右手に並ぶ5軒ほどの店のうちの3軒が、床屋さんでした。ここは、オシャレな人が多いのでしょうか?






    
広場の中央に「一角獣」が座っていて、
      魔物がこの町に入っているのを見張っています。 →



 この町の名前は「甪直(甪の字は、右の写真にもあるように、カタカナのノの下に用)」と書いて、日本読みでは(りくちょく)…、この字が日本の漢字にはないので「用」の字を用いて「用直」と書き、そのまま(ようちょく)と呼び習わしたりしています。
 中国語の読み方は、(ルースィー)です。


 以前に、「中国の人名や地名に日本語の読み方を仮名振りしたりして当てはめるのは、やめたほうがいい。「用直…ようちょく」はもちろん、「甪直…りくちょく」という地名も、世界のどこにもない。読み方を日本語で表示するならば、(ルースィー)と書き添えるべきである」と書いた記事を読んで、『そうだなぁ』と思った覚えがあります。
 確かに、現地でタクシーに乗っても、「ようちょく」も「りくちょく」も通じないでしょうね。


← 張り巡らされた水路の両岸に、お土産などを売る店が並んでいます。

 
 1平方kmの小さな街の中に、宋・元・明・清時代の大小さまざまな石橋が、かつては70余りあったといいます。
 現在でも40余りが残っていて、「古橋の郷」と呼ばれています。


       
狭い通りに古めかしい店が軒を並べています →





← 途中で見かけた喫茶店…。


 コーヒーのスペルがかなり少ないように思われるけれど、ここでは、昔の日本のように「カフェ」と呼び習わしていて、「これで合ってるんだ。放っといてんか」と言われるかもしれませんね。
 
 
                    豪商「沈さん」の館 →
 
 
 館の造作や置かれている家具から、昔のお金持ちは桁違いだったことがうかがえるというもの…。この沈さんは、現在の甪直小学校の基礎を整えた教育家でもあったそうです。


←邸宅には中庭が造られていました。
 四方の建物が中庭を囲む建築を「四合院」と
 呼ぶのだそうです。


         ここが甪直の有名な写真撮影場所です。→


 町中にはたくさんの貸衣装店があって、きれいなドレスやコスプレ衣装を貸してくれます。
 中国人の写真好きも定評のあるところらしくて、時代物の貸衣装を着て、昔の雰囲気を残す橋のたもとで、カメラに収まるのでしょうね。

← 古い石畳の道を、リヤカーを後ろにつけた自転車や、客を乗せる三輪車、3人乗りのオートバイなどが行き交います。


 甪直には鉄道の駅がありません。上海からバスで2時間…、蘇州から1時間…、観光開発からはちょっと取り残されているようなところがあって、それが昔ながらの風情をとどめているといわれるゆえんなのかもしれません。
 そのたたずまいの美しさから、甪直は江南水郷三明珠(3つの真珠…周荘、甪直、同里)のひとつに数えられています。
 
 
 9時50分、章くんたちはバスに乗りこんで、次の目的地「蘇州」へと向います。


        途中、休憩のために立ち寄ったドライブイン →


 閉鎖されていて、前の小さな売店でトイレだけを使いました。中国にも、倒産閉鎖ってあるんですね。当然…か!


← 蘇州市内に入ってきました。高架道路の下から見えた、市内の人出はたいへんな賑わいで、蘇州が大きな町だということがわかります。


 蘇州市は長江の南側にあり、長江デルタの中心部である太湖の東岸に位置しています。
 市区人口は235万人、総人口は624万人とありますから(2007年)、名古屋市とほぼ同じぐらいですね。


    はるか彼方の丘の上に、お寺の塔がかすんでいます。→


  呉王「夫差」が埋葬された、八角七層の虎丘塔(雲岩寺塔)
 でしょうか。


← 町中では、旧市街地区の古い家並みが取り壊され、区画整理が進んでいます。


 市街地の取り壊しは、蘇州市内のほか、無錫や上海でも見ました。上海万博に向かって、新しい顔を造っているというところでしょうか。


 次に章くんたちは、蘇州の名産である、泥人形工場へ寄りました。茶碗や茶器、壷なども作っていますから、陶磁器工場ですね。


          泥で作ったネズミの楽隊 →


 一つ一つが手作りでとても精巧…、同じものはないということです。





← 中国版、五人囃子(官女?)ですかね。


 見学する章くんたちの前で、職人さんたちが、泥をこね、造っていくところを見せてくれます。


← 色付けして焼き上げると、こんな美女が現れます。




店の玄関にいたご老人。このふくよかな笑い顔はどうでしょう。   →


 道教の神「福禄寿(ふくろくじゅ、七福神の一人)」ですね。

 道教で強く希求される3種の願い…、幸福(現代日本語でいう漠然とした幸福全般のことではなく血のつながった実の子に恵まれること)、封禄(財産のこと)、長寿(単なる長生きではなく健康を伴う長寿)の三徳を具現化した神様です。


 またバスに乗り込んで、昼食のホテルへと向いました。


← 近代的なビルの横の川では、船がゆったりと荷物を運んでいます。
 
 



昼食会場のホテルです。→
 


←なかなかにゴージャスなたたずまいでしょう。
 格安ツアーだとは思えない雰囲気です。




 ではまたバスに乗って、次へ…。
  
 

      バスの窓から見かけた、モダンな建物…。
                体育館らしいです。→





← 無錫の太湖遊覧乗船場に着きました。


 無錫(むしゃく)市は、江蘇省の南部にあり、改革開放以来、急激に工業が発展して、とりわけ日本企業の進出が多いところです。
 20年前には、この地を訪れる日本人はほとんどいなかったけれど、尾形大作の「無錫旅情」が大ヒットして以来、飛躍的に観光客が増えたと、ガイドの白さんが言っていました。


 無錫は、南部に太湖が広がり、市内には小さな河川が無数に流れる、典型的な江南の水郷です。江南デルタで産する米と、太湖で捕れる魚などの水産物が豊富で、古来「魚米の郷」と呼ばれていました。
 また無錫は、中国古代文明を支えたスズ(錫)を多く産出し、「有錫」という言われるほどの地でした。余りにも多く掘り過ぎて前漢までに掘り尽くしてしまい、以来「無錫」になったという俗説があります。


          たくさんの遊覧船が停泊しています。→


 隋時代に建設された大運河(現在は「京抗大運河」とよばれ、市内を迂回する新運河も掘られています)が無錫を通り、以来1000年の時を越えて、江南の農産物や織物を集散し華北や中国各地へ送る重要な経済都市・商業都市であり続けました。
 大戦や人民公社化、文化大革命などによって無錫は荒廃しましたが、改革開放のあと大躍進を遂げ、現在は常住人口610万人といわれるほどの大都市です。
 特に無錫と日本との関係は密接で、1000社を超える企業がすでに進出し(2003年段階)、投資総額でも30億ドルに迫る勢いです。これは江蘇省に対する日本からの投資の半分を占め、省都南京をはるかに越え、蘇州を上回り上海に迫る勢いです。湖などに接する恵まれた自然環境、比較的よい治安、上海の港湾や空港からの近さ、『無錫旅情』などで日本でも名が知られ、対日感情もさほど悪くないことが要因として挙げられます。


← 龍の形をした豪華遊覧船


 ガイドの唐さんに、「あれに乗るの?」と言ったら、「200人乗りだから、この少人数ではダメね」と言われました


 龍船の隣につないであった船に乗って、太湖へ出航しました。


   雨模様で、島々の影もはるかにかすんでいます。→


 太湖の面積は2,250平方km(琵琶湖の3倍)、平均水深は2m、最大水深は48mです。中国五大湖の一つで、鄱陽湖、洞庭湖に次ぎ中国で三番目に大きな淡水湖です。
 湖には大小約48の島が浮かび、多くの半島が連なり、湖を囲む峰の数は72を数えるとか。洞庭東山、西山、馬跡山、三山などが著名な山々で、これらの山や湖が入り組む景観は天然の絵画ともいえる美しさです。


      船舶の往来用に、ブイや灯台もあります。→


 太湖周辺は、石灰岩でできた丘陵が取り囲んでいます。これらの丘陵から切り出される「太湖石」とよばれる穴の多い複雑な形の奇石は有名で、蘇州はじめ中国各地の庭園で、このあとお目にかかりました。

← 手漕ぎの船で、漁をしていました。
  のどかな、水墨画の世界ですね。



 太湖周辺は古来「魚米の郷」と呼ばれた、中国有数の豊かさを誇る穀倉地帯・淡水漁業地帯です。


 約30分ほどの遊覧を終えました。船の中で、ガイドさんが「無錫旅情」を歌ってくれましたが、あまり上手ではなかった…なんて言ったら、また日中紛争の元になりますかね。


 太湖の汚染について補足…。周辺の地域の都市化・工業化が激しい勢いで進んでいることから、太湖に出入りする川は汚染が深刻です。
 2007年5月には藻類の大発生により、湖水が青く変わって悪臭が激しくなる公害事件が起こり、無錫市内では水道水が使えなくなる事態になりました。人々がミネラルウォーターを買い求めたため通常の六倍以上の値になり、市当局が水の値上げを禁止する騒ぎが起こっています。
 中国の近代化への苦しみが、ここにもあるようですね。


     蘇州へ引き返す途中に見たビル…。超近代的です。→


 蘇州市内に戻って、今度は北京の「頤和園」、承徳の「避暑山荘」、(以上2つは中国皇帝所有の庭園) 蘇州の「拙政園」とあわせて、中国四大名園と称される、蘇州「留園」(世界遺産)の見物です。
 清代庭園の代表とされていますが、もとは今から約500年前、明代の万歴年間に、政府の役人(太僕寺少卿)であった「徐泰時(シュー・タイシー)」の個人庭園「東園」がその始まりです。
 庭園の中部にある池やその西手にある築山などは、当時からほとんど改修されずに受継がれているそうです。


 大きな池の周りに、清朝式の建物(「明瑟楼」かな…)、築山、回廊、植え込みが配され、見事な庭となっています。


← 天井から下がるシャンデリア…?


 豪華なものですが、光量はいまいちかな…。机上や床に置いた明かりも、併用していたのでしょうね。


                  奇岩・名石の庭 →


 これが、太湖周辺から採れる「太湖石」です。たくさんの穴が空いていて、雨が降った後などは、いろいろなところから水が流れ出して、趣きがあるのだそうです。



← そしてこの庭園のメインは、この石…。


 このニョキッと立つ石が、「冠雲峰」と名づけられている、高さ6.5mの園内で最も有名な太湖石です。
 池の北側に、“冠雲”“瑞雲”“岫雲” と3つの太湖石が並んで立ち、留園内でも有名な姉妹三峰とされています。もっとも、他の2石は、この冠雲を引き立たせるため以外の何者でもないようですが…。


     この日の夕食に「上海ガニ」を頼みました。→


 格安ツアーですから、もちろんオプションです。時期的にちょっと早いですから、小ぶりのものでした。2杯頼んで、やっと一人前というところです。


← 食事のあとは、蘇州古塘のナイトクルーズです。


 「塘」という字は、日本語の「島」という意味だとか。 蘇州市内には無数の水路が走っているので、陸地はあたかも島の如しなのです。だから、蘇州の古い町並みは「古塘」と呼ばれるのですね。



  船に乗って、ライトアップされた水路を行きます。→


 ただ船に乗っただけだったからでしょうか、ライトアップされた両岸の風景が過ぎて行くだけで、ちょっと単調なクルーズでした。
 途中、工場排水が流れ込んでいる一角があって異臭がしたのも、中国らしい杜撰さですね。国を挙げて水郷観光事業を進めようとしている重点地区の川に、工場排水が流れ込んでくるのを放置しているなんて、考えられないではありませんか。


 ライトアップはとても美しかったのですが…、両岸の明るさ…華やかさが、何か旅情を削ぐようで、『蘇州詩情』とは少し違うかな…といったカンジでした。
 昨夜、周荘の暗くて物悲しい雰囲気を体験したからなのでしょうが…。


 ナイトクルーズを終えて、ホテルに戻ったのが9時30分…。
  
 ちょっと小腹が空いたかなと表に出てみたのですが、あたりはマンションばかりが立ち並んでいるだけ…。コンビニを見つけて、ミネラルウオーターとお菓子を少し買ってきました。→


 コンビニの隣、写真の「富士山…」と赤いネオンがともっているところは、マッサージ店とのことです。窓にはブラインドが下りていて中をのぞけなかったし、小さなアルミのドアーが不気味だった(笑)ので、入る勇気が出ませんでした。


 何事もなく、今夜もおやすみなさい。



■ 楓橋夜泊の寒山寺   中国江南水郷紀行  2009.09.21-24 【物見遊山176-1】


 第3日目、午前7時起床。朝食を終えて部屋に戻ると7時45分、そろそろ通勤ラッシュが始まる時間です。
 窓の外の交差点は、人、自転車、オートバイ、車が、私が信号よ…といったカンジで行き交い、見飽きないバトルです。


  
この写真、どちら行きが青で、どちらが赤か、
                 わかりますか? →



 この大きな較差点を、悠々と斜めに横断してくる人がいたりして、その達人振りにも感心させられました。


8時に出発。今日の第1番目の訪問先は、「蘇州刺繍のお店」です。


 蘇州刺繍の糸は実に髪の毛の十分の一の細さ、その色は100色以上におよび、豊かなグラデーションを表現することができるといいます。
 絵画や写真かと見まがうほどの、豊かな色彩と立体感のある生き生きとした蘇州刺繍の仕上がりは「蘇繍」と称され、湖南の湘繍、広州の粤繍、四川の蜀繍とともに中国四大刺繍のひとつとされています。


← 大作、「鶴の群舞」です。


 ここ「蘇州刺繍研究所」は、世界遺産に登録されている環秀山荘内にあって、初代所長は刺繍大師の称号を持つ顧文霞さん。研究所の工芸師はアートレベルの刺繍ができ、質の高い蘇州刺繍を制作しているそうです。蘇州刺繍の工芸師は10万人とも言われますが、アートレベルの蘇州刺繍ができる工芸師は多くはいません。
 蘇州刺繍研究所にはピンからキリまで各種の作品が揃ってますから、仕上がりと価格の概ねの基準がわかります…と、後日に調べた案内書にありました。

こちらは茶色の
トラ猫です。
裏に回ると、灰色のトラ猫に
変わりました。


 
驚きの刺繍を見てください →


 1枚の布に描いた刺繍なのですが、表と裏で色が違うのです。
 猫好きの章くん、もう少しで買いそうになりました。


 「梱包して、お宅まで送ります。中味を確認してからお金を払ってください。」と勧められます。
 もうひとつ、この猫よりも一回り大きい梅の花の刺繍がとても美しく、「値段は?」と聞くと、「定価は80
万円のところ、50万…40万…、26万…」まできて、これも買いそうになったけれど、他との比較もしてみなくっちゃ…とすんでのところで思い留まりました。

 帰ってから、インターネットの通販サイトを調べたら、金魚…9800円、猫…48000円、少し大きい花が69000円でした。
 製作レベルが違うのでしょうが、審美眼の無いものには不可解な世界のようです。
 まぁ、気に入ればいいのでしょうけれど…。


  
展示されていた作品の中で、一番大きなものです。→


 値段のことを言って申し訳ないのですが、芸術家レベルの人が2~3年かかる作品で、500万円ほどするそうです。章くん、写真を撮るだけ…というのが悲しいですね。


 旅行社の安いツアーはみやげ物店への立ち寄りが行程に入っていて、参加の皆さんには不評でしたが、章くんは、自作の旅行ではこれらのところには寄らないでしょうから、いい機会なのではないかと思いました。
 今回のツアーで立ち寄った「シルクの布団」、「黄金の淡水真珠」、「精緻な陶芸作品」、そしてこの「蘇州刺繍」と、それぞれ十分に楽しかったですから…。


 次の訪問先は除夜の鐘で有名な「寒山寺」です。


 この寺は、南北朝時代、梁(南朝)の、武帝の時代(510年ごろ)に「妙利普院塔院」として創建されたとされています。寒山寺という現在の寺名は、唐代の貞観年間(627年 - 649年)に風狂の人「寒山」がこの地で草庵を結んだという伝承によるとか。
 襄陽出身の張継が、有名な「楓橋夜泊」を詠んだのは8世紀中頃のことです。

 伽藍の創建は8世紀から9世紀にかけてのことで、全盛期の寒山寺の面積は広大で、巷間で「馬に乗って山門を見る」と言われるほどでした。当時、北方から訪れた旅行者の多くは、まず寒山寺を参詣してから蘇州の市街に入ったといいます。


     
寒山寺の入り口のすぐ前を流れる大運河 →


 北京市通州区から浙江省杭州市までの約1,800キロメートルを流れる大運河…。春秋戦国時代に呉王「夫差」が建設に着手し、隋の「煬帝」(569-618)が本格的な工事を進めて610年に完成しました。
 古今を通じて、政治の中心地華北と経済の先進地江南、さらに軍事の拠点涿郡(幽州、いまの北京)とを結ぶ中国物流の大動脈です。蘇州からは、南東へ杭州、西は楊州を経て洛陽へと通じています。
 日本では聖徳太子が遣隋使を派遣した頃に、1800キロにも及ぶ大運河を開くとは、中国という国の底力を見る思いがしました。章くん、機会があれば是非この目で見てみたいと思っていたので、感激です。
 大運河の岸辺へ駆け寄ったときは、積年の念願がかなう一瞬でしたが、章くんの熱い思いを知ってか知らずにか、運河の水は今日も滔々と流れていました。
 

    山門を入るとすぐに、赤い本堂(大雄宝殿)が
    ありました。               →



← 境内の灯篭や水瓶などに、赤い布が付けられていました。


 この赤い布は、どんな意味があるのだろうと思って調べてみると、昔、中国では赤は魔よけの色とされていたとありました。
 神社の柱や欄干が赤く塗られているのも、病気や地震などの悪いことが起こらないようにといった魔よけの意味が込められているそうです。
 昔の赤ちゃんは、男の子でも赤い産着を着ていました。雛人形を飾るときも、魔よけの意味をこめて、赤い毛氈を敷いているというわけですね。


                ご本尊の釈迦如来像です。→


 寒山寺は、南北朝時代の510年ごろに創建されたとされています。「寒山寺」という現在の寺名は、唐代に風狂の人「寒山」がこの地で草庵を結んだという伝承にちなみます。
 詩人「張継」が、有名な「楓橋夜泊」を詠んだのは8世紀中頃のこと、伽藍が整えられたのは8世紀から9世紀にかけてのことです。以後、伽藍の盛況をみた寒山寺でしたが、明から清の時代にかけて、度々戦火や失火によって消失を繰り返しました。
 現在の寒山寺は、清末の1906年(光緒32年)に再建されたもので、それぞれの建物はいずれも比較的新しいものです。


← ご本尊の後ろ側に、見事な透かし彫りがありました。
 如意輪観音の半跏思惟像でしょうか。


    屋根の上にも、いろいろなものが
   います。            →



    瓦の形が面白いですね。
 



 寒山寺を一躍有名にした、中唐の詩人で政治家でもあった張継の七言絶句「楓橋夜泊」の歌碑がありました。


 月落烏啼霜満天、
 江楓漁火対愁眠、
 姑蘇城外寒山寺、
 夜半鐘聲到客船、
 月落ち烏(からす)啼きて 霜天に満つ
 江楓(こうふう)漁火 愁眠に対す
 姑蘇(こそ)城外の寒山寺
 夜半の鐘声 客船(かくせん)に到る



【訳】
 月は西に落ちて、闇のなかにカラスの鳴く声が聞こえ、霜を降らす厳しい寒気があたりいっぱいに満ちている。
 運河沿いに繁る楓の葉が揺れ、その向こうに点々と灯る川漁のいさり火を見ながら、旅の愁いのなかに私は浅い眠りにつく。
 折から、姑蘇の町はずれの寒山寺から、
 夜半を知らせる鐘の音が、私の乗る船にまで聞こえてきた。


  鐘楼。 この2階に、有名な寒山寺の鐘が吊り
   下げられていて、有料で誰でも撞くことができます。 →


 日本の鐘ほど厚みがないのでしょうか、音は軽めのような気がしました。
 一音聞けばひとつの煩悩が消え去るといわれる寒山寺の鐘ですから、大晦日には大変な賑わいで、その一番目を誰が撞くかは大問題なのだそうです。
 近年はセリが行われているというのも、中国らしいなぁと思いました。


 もともと中国には除夜の鐘を撞くという習慣はなかったそうなのですが、1979年に藤尾 昭さん(大阪池田市の日中友協会副会長)という方が、舘山寺へ除夜の鐘を聞きに行くツアーを企画し、中国側のバックアップもあって、以後、定着したものだそうです。
 大晦日、鐘楼下の境内は賽銭でうずまりますが、それを拾う人はひとりもいないと、ガイドの唐さんが言っていました。ン…、今年は、「舘山寺の賽銭を拾うツアー」を企画しようか…(笑)。


← 「普明宝塔」。2階まで登ることができます。


 境内東端、最奥に所在…。1995年12月に建てられた高さ52メートルの木造の五重の塔で、唐の楼閣式仏塔を模したものです。




  
2階の回廊から…。→


  イラカの波の向こうに
 見えるのは、やっぱり
 マンションです。 
  


← 塔内の仏様に参拝する女の子


中国の信者さんは熱心ですね。まさに五体投地です。


  塔の基壇の四隅に、4匹の獅
 子の像が配されていました。→



 それぞれの獅子は鞠(まり)とかいろいろなものを前に置いていますが、章くんはこの小獅子をあやす像が気に入りました。
 怖ろしい形相をしていますが、どこかに子どもをいつくしむ慈愛が感じられます。


← お昼を、蘇州市内のホテルに入って取りました。


  有料道路の料金所で待機する
  パトカーです。     →
   車体に「公安」と書いて
  あります。


 宝石店へ寄りました。

 玄関横に、ヒスイ(と説明の人が言っていました)の大船が置いてありました。「幾らぐらいすると思いますか?」と言うので、「2億円」と言ったら、「当り!」。
 でも、何もくれませんでした(笑)。


← この龍…、叩くとチーンと高い音で響きます。


 説明係のニイちゃんが章くんの袖を引いて、ヒスイの香合を買えとしきりに勧めます。思い切って、特別に1万円にするので、是非どうだと言います。
 緑濃い光沢のあるもので、高さは10cmほど。値打ちなものだなとは思ったのですが、旅先の衝動買いでは、これまで何度も痛い目に遭って来ているので、ここもググッと踏ん張りました。…、買ってくれば良かったかなぁ。
 


 世界遺産の豫園  中国江南水郷紀行  2009.09.21-24 【物見遊山176-2】
  
 
 蘇州をあとにして、上海市内に入ってきました。


 電動式自転車が流行っているようですね。
 普通のオートバイと違って、バタバタというエンジン音がしないので、歩行者は近づいてきたのがわからずに事故につながるという指摘を読んだことあります。
 でも、電池で動くのですから、脱石油エネルギーということで魅力的ですね。


 ガイドの白さんの話では、安い自転車は200元(2800円)ほどで買えると言っていました。
 そして、中国でも自転車泥棒は日常茶飯事で、買ってから2日で盗まれたとも言っていました。


← またまた大きな門が見えてきました。
 上海市内の世界遺産「豫園」周辺の市場へ到着したのです。



 「豫園」周辺の市場のことを、「豫園商城」と呼んで、さまざまなものを売るお店屋さんが密集する、格別の賑わいのある地域として、観光客の人気を集めています。
 浅草みたいなものですね。
 
 
 この人混みはどうですか。上海を訪れる観光客は必ず「豫園」を訪れるといわれるほど人気のある観光スポットなので、世界中から人々が集まります。
 ガイドの唐さんも、「スリに気をつけてくださいね」と繰り返して言っていました。


この「豫園商城」と呼ばれる商業エリアは、豫園の門前市が商店街として発展したものです。
 豫園の入り口の前には、小龍包で有名な「南翔饅頭店」や、上海で一番古い茶館「湖心亭」などの老舗がたくさんあります。
  
 
 「豫園」は、明の時代、四川省の役人であった「潘允瑞」によって造られました。故郷を懐かしむ父親を慰めるために建設されたという庭園の造営は、1559年の造園開始から1577年の完成まで、18年間もの歳月を要しました。庭園の完成時には、父親はすでに亡くなっていたそうです。
 潘家の没落後、庭園は一時荒廃しましたが、清代には上海の有力者たちが再建に乗り出します。その後1956年に西園の一部が改修・整備され、現在の「豫園」として一般に公開されるようになりました。


 それでは、建て物、池、石、庭木、瓦…、何を見てもどこを見ても、汲めども尽きない魅力を秘める古代庭園、中国独特の江南庭園建築芸術の特色を持つ世界遺産の「豫園」をご案内しましょう。


でも、予備知識も何にもないので、写真の建物や庭園が園内のどこなのか、何と言う名前のものなのかなど、わからないままに歩いてきました。あとから調べて、多分これはここだろうといった程度のご案内です。
 また、章くんたちは、通常は出口とされるところから入っていますので、一般ルートとは逆に歩いています。)



                法華堂(多分) →





← 中国3大太湖石のひとつ「玉玲瓏(イュリンロン)」


 高さ3メートルの太湖石。石には無数の穴が開いていますが、この石はその穴が全てつながっていて、上から水を入れると下に出てくるという仕組みです。
 雨の日に観賞するといいかも…。




 中国式庭園では、壁の一部をくりぬいて、出入り口を作っていることがよくあります。

 これらの出入り口には、庭園の奥行きを深く見せる効果があるそうです。豫園にも、様々な形の出入り口が見られました。


← 庭の造作も贅を尽くしたつくりです。


 豫園を造ったのは、明朝の役人だった「潘允瑞」でした。しかし、役人とは、それほどお金を貯めることができるものなのでしょうか。


 清の時代の話なのですが、康熙・雍正・乾隆と賢帝が続いてきた清朝も、後期になると官僚の腐敗は目に余るものがありました。
 乾隆帝の側近であった和伸(わしん、ホチエン)が汚職で捕らえられたとき、没収された私財は8億両に達したといわれます。当時の清朝の歳入は約7千万両でしたから、これは国家の歳入の11年分以上という、信じられないような巨額です。
 フランスの太陽王ルイ14世の全盛期の財産が2千万両と換算されていますから、これはその40倍に当たります。【山川出版社 世界史研究より】
 役人の汚職…恐るべしですね。支那人の汚職癖は、歴史的なものと言うべきなのでしょうか。日本の政治家は、支那を手本としていますから、これも同根なのですね。


← 飾り窓。精巧と
 いうか、オシャレ
 というか…。



 この庭に一日中座って、ボーッとしていたいですね。


 豫園の「豫」は愉を示し、すなわち「楽しい園」という意。ホントに見飽きない、見事な庭園です。
 もとは、現在の2倍の広さがあったのですって。



 次々と名園が現れます。


 地図も持たず、案内書もないままに、ガイドさんのあとを付いて、せかされながら園内を行くだけですから、自分がどこに居るのか、この建物がどういう由緒の、何という名前の建物なのか、全くわからないままに歩いてきました。


 それでも、この庭園の素晴らしさは記憶に残っています。


← 龍を配した壁、その名も「龍壁」です。


 龍は皇帝の象徴とされ、家臣がみだりに用いることは許されませんでした。
 この屋敷には5頭の龍がいるそうですが、潘允瑞はその点を咎められると、「龍は5本指…、これは6本指なので龍ではありません」と答えたという話があります。

関羽将軍ですね。 鹿さんです。
 
   屋根の上にも注目して  ください。     →


 こちらには、関羽将軍の姿がありました。屋根の上で、三国志の世界が展開されているのです。
 


← 太湖石の築山ですね。


 撮影スポットということで、欧米人のご婦人方が、入れ替わり立ち替わり石に腰をかけてポーズをとっていました。
 欧米には無い建築ですから、物珍しいことだったでしょう。
 
 
 
 
 この庭にも、
 ふんだんに太湖
 石が積み上げら
 れています。→


 
 
 





← この築山は、上海から200Kmーほど離れた浙江省の武康県から運ばれてきた武康石2000トンが積み重ねられています。


 園内の建物は再建されたものも多いのですが、ここは西北部の一部が削られただけで、創建当時の姿をほぼ完全に今に留めているとのこと…。

 築山の上に「望江亭」という東屋があります。現在は上海森ビルのような地上101階、高さ492mというような建物がありますが、400年前には、長江の河口デルタにある上海では、高さ12mのこの築山が一番高い場所であり、黄浦江が望めたので、この名前をつけたと言われています。



 次々と目の前に現れる庭園が、より素晴らしく素晴らしく見えてくるのですから、どうしようもありません。


 ゆっくりと一日とって、立ち止まり、座り込み、何度も行きつ戻りつして、心ゆくまで見て回りたいものです。
 いつか、もう一度来なくては…。





 と…、出口に来ました。園内の案内板があります。通常はこちらが入り口なのですね。                   →
 

















← 豫園の出口(…入口?)にある
 湖心亭と九曲橋。
 「湖心亭」は、上海で一番古い飲茶館。
 
 「九曲橋」はその名の通り、9回曲がっている橋なのですが、これは古来中国では魔物は真っ直ぐにしか走れないと信じられていたので、魔よけに曲がりくねった橋を作ったものです。
 9という数は、数字の中で最高の大きさですから、縁起のよい数とされていました。


 今度は、「湖心亭」でお茶を飲み、おもむろに「豫園」見物に出かけることにします。


← レストランです。



 同じ飲茶を頼んでも、1階と、2階と、3階で、値段が違うのですって…。
 上へ行くほど、ボックスも高級になり、高いのだとか。







        帰りのバスへ急ぐ途中で見かけた獅子 →


 買って行こうと思って、このあと気をつけて見ていたのですが、空港の売店でも、見つけることができませんでした。




← バスの車窓から…。曇り空の低い雲の中へ、
 ビルの先端が消えています。



 お茶屋さんによりました。



 鉄観音茶、一葉茶、茉莉花(ジャスミン)茶、杜仲茶などを淹れて、飲ませてくれました。
 
 淹れ方が上手なのか、それぞれのお茶はそれぞれに味が違って、美味しくいただきました。


 でも、100グラム200元(2800円)って高すぎるんじゃないかぃ…と思ったのですが、純銅缶入(中蒸し)静岡茶200グラム9000円ですから、それに比べりゃ良心的ですね。


 お茶は買わなかったですが、蓋つきの茶漉し内臓長湯呑みを買ってきました。

 茶葉を入れて湯を注ぎ、しばらく置いて、上向きにした蓋の上に茶漉しをとるのです。
 なかなかに美味しくお茶がいただける優れものです。

 そこそこの値段でしたが、日本に帰ってから蓋つき有田焼湯呑み92000円なんてのを見ると、なんだかんだはあっても中国は良心的だなぁと、またしても思いました。


← ホテルに帰る途中のバスの窓から見た風景です


 高層ビルの足元では、まだまだ地上の庶民の生活があるのです。
 






 次の角を曲がると、目の前に広がるのは高層ビル群と、工事用クレーンが首を振る光景…。   →


 これだけの工事をやり遂げるだけの資本力と工事会社の数と労働力が、中国にはあるのですね。
 上海は元気…。不況から脱却しきれない日本には、このパワーはないなぁ…と、ちょっと淋しくなりました。


 ホテルに戻って、今夜も回転盤式の夕食をとりました。



上海雑技団黄浦江ナイトクルーズ   中国江南水郷紀行⑥  2009.09.21-24
  


 工事と交通ラッシュの町を掻き分けて、さぁ今から上海雑技団の公演を見に行きます。

 が…、渋滞に巻き込まれて、午後5時15分の開演に間に合わず、30分ぐらいに走り込んで行きました。




  
 第一幕は見られず、
  第2幕目のショー、女
  の子たちの組体操が始
                    まっていました。 →





鍛え上げた練達の技は見事です。


 次は皿回し。それぞれが左右両手に各4枚ずつの皿を回しながら、逆立ちしたり、上に乗っかったりしていきます。






 
 


← 高校生ぐらいの男の子の演技です


 雑技団の団員は、
10歳前後から入団
して鍛錬に入るのだ
そうです。











← 仰向けになった人の上に片手で逆立ちし、上下の人が、空いているそれぞれ3本の手足で座布団を回します。
 
 

             マジックショーです。  →


         鳩を出すのが得意な女の子でした。


 ブンブンブン…、球形の金網の中を、1台…2台…3台…と、次々と入っていったオートバイが、爆音をとどろかせて上下左右に疾走します。


← 今、4台のオートバイが走り回っています。


← もう1台、入りました。


 5台が狭い球内を走り回るのは、とても迫力がありました。見ているほうも、ヒヤヒヤものでした。

 昔、サーカスで見たことがありますが、3台ぐらいだったと思います。5台は、見るほうの理解を超えていました。


 上の写真のほかにも、3~4個の帽子をお手玉のように回したり、大小の輪っかをくぐり抜ける組体操、5~6個のボールを操るパフォーマンスなどがあって、合計1時間30分ほどのショーでした。


← フィナーレです。

 
 









 
  
  舞台がハネてから、出演者と一緒に写真に納まることが出来ます。                 →

 章くんも、舞台に上がっていったのですが、「時間がありませ~ん」というガイドの白さんの声に、やむなくバスへと急ぎました。


            
ホテルへ戻って食事です。→


   3日間、同じものばかり食べていたなぁ。
   でも、激安ツァー…、文句は言えません。

 
 
 午後8時30分、百万ドルの夜景を見るために「黄浦江ナイトクルーズ」に出かけました。


 ライトアップされた、歴史のあるヨーロッパ風の建造物が立ち並ぶバンドの風景…、躍進する上海を象徴する浦東近代ビル群…を見る、約50分のクルーズです。


 乗り込んだクルーズ船の1階2階を通り抜け、章くん、一目散に上部甲板を目指しました。

 
出航…! 上海バンドの夜景が目の前に広がります ↓


 上海バンド (外灘、英語名:Bund) は、黄浦江と蘇州河の合流点から南の金陵路までの、大通り(中山東一路)沿いの黄浦江西岸を指します。

 この地は外国勢力が上海に開いた租界…。もちろん日本人租界もありました。
 バンドとは、そもそも人工の土手や堤防を意味しています。植民地であったインドで、港に臨み居留者の建築が建ち並ぶ…、今で言うウォ-タ-・フロントをバンドと呼んでいました。もとは一般的な名称であったものが、今では上海の代名詞のように使われているのです。


← こんなに可愛くオシャレな船も走っています。


 上海は長江が運んだ土砂によって出来た、沖積平野の上の町です。歴史的には、むしろ多くの湖沼を擁する蘇州や杭州のほうが、皇帝貴族の遊興の地として有名でした。
 その頃の上海は長江河口部のデルタにある荒地…。ひなびた村が点在するに過ぎない土地でした。
 1840年のアヘン戦争、1857年のアロー号事件によって、清国は強圧的に開国させられ、ここ上海にも外国人租界ができることとなりました。この外国人租界が、上海バンドの始まりです。


 バンドの対岸は上海の中でも最も急速に発展しつつある浦東新区、その中心である陸家嘴金融・貿易開発区の高層ビル群が明るい光を放っています。


 ひときわ高い塔は、上海のシンボル的
 存在である「東方明珠タワー」 ↓→










← 「東方明珠タワー」は263mと350mのところに展望台があります。料金は50~100元、登る高さによって違います。


 267mのところに回転レストランがあり、1時間で1回転、360度の風景が楽しめます。


 後方に、日本の森ビルが手がけた『SWFC』が、頭を雲に突っ込んで立っているのが、かすかに見えています。










 浦東側にある乗船場に、船が着いたようです→


 浦東のビルは、外観の華麗さもそれぞれで競っているのです。船着場のデザインも斬新でしょう。
 



←「シャングリラホテル」が入っている浦東香格里拉大酒店。
 左の帽子のような物がついているのは、「海関大廈」。



 アヘン戦争(1840年)にさかのぼるまでもなく、20年前に撮った1990年の上海の写真を見ると、ホントにこの浦東地区は何もない荒地でした。
 それが、19年後の今では、東洋一の金融・商業地区として高層ビルが林立して発展しているのですから、そのパワーには圧倒され、驚かされます。







 ライトアップされた姿が特に美しい2つの建物 →


 右が上海海関(旧・江海北関(税関)、1295年建設)
 左は上海浦東開発銀行(旧・香港上海銀行、1923年)
 前を、キレイな遊覧船が行きます。


 
 
 黄浦江はさまざまな船が忙しく行き交い、時折聞こえる汽笛が雰囲気を盛り上げてくれます。












 船は、初め南へ下がり、バンドのはずれの十六浦あたりでUターンして北上し、章くんたちが乗船した船着場を通り越して、黄浦江が大きく蛇行しているその先までゆっくりと進みます。

 蘇州河との分疑点を過ぎたあたりでストップ…。このあたりでは、バンドの光景ははるか彼方に小さく見えます。そして今度は、後進で、船着場まで引き返します。


























 
 
 20年ほど前の上海では、川(黄浦江)の東に家があるのは貧しいと同義語だったそうです。ところが、わずか20年後の今日では、黄東地区には近代高層ビルや高級マンションが立ち並び、川の東に家があるのは豊かさの現われとなったそうです。躍進する上海…、巨大化する中国…を、肌で感じたナイトクルーズでした。


 古い上海と新しい上海が、見事に…、しかもロマンチックに…凝縮された黄浦江ナイトクルーズは、やはり上海観光のハイライトです。


 ホテルへ帰るバスが、バンドの大通りを走ってくれました。今、バンドは来年の上海万博に向けて、通りを掘り返しています。この大工事が終わると、バンドの大通りは、地上は歩行者の遊歩道…、車は地下を走りぬけるようになるそうです。


← 帰りのバスから見た、高層ビル群が
 立ち並ぶ上海の町…。




 章くんたちのホテルは、バンドからバスで25分くらい走ったところ…。繁華街へ遊びにとって返すにも、ちょっと遠いかな。
 部屋へ戻ってお風呂に入ったら、すでに11時過ぎでした。下戸の章くんは、隣のコンビニでミネラルウオーターとケーキを少し仕入れてきた…という可愛さで、今夜はおやすみです!


第4日目 帰 国

 今日は上海浦東国際空港から、9時30分のフライトで帰国します。だから、5時30分に起床…。6時30分、空港へ出発…。あとはただひたすら帰るだけです。 


← 章くんたちのホテル「南部大酒店」


 稼働率があまりよくないホテルなのか、お風呂の湯が初め真ッ茶ッ茶…。かなり流したら、色は薄くなりましたが、まぁ激安ツアーですし、中国のホテルですから、これくらいは当然でしょうね。


 上海ではマンションが林立していますし、今も建設ラッシュが続いていますが、ホテルの隣にあったマンション群のエリアは塀に囲まれ、出入り口のゲートにはガードマンが警備していました。
 20年前にアメリカへ行ったとき、広い住宅地がぐるりと塀で囲んであって、数箇所の出入り口には遮断機があり、外来者は警備員が名前と用件をチェックする物々しさでした。章くんたちは、住宅地の中にあるゴルフ場へ行ったのですが、名前を告げて「ゴルフだ」と言うと、警備員の手元には名簿が来ていて、「OK」と通してくれました。
 水と安全はタダだと思っている日本人にはちょっとビックリさせられることですが、中国にもすでに安全をお金で買う日常があるのですね。


 この朝、高速道路新空港線は激しい渋滞…。「日本のシルバーウイークが、上海の渋滞を起こしている」とガイドの唐さんは言っていました。
 予定よりも1時間近くも遅れて、9時前に空港へ到着…。搭乗手続きもそこそこに、出来たものから国際線入り口に駆け込むあわただしさでした。

 でも、でも、でも…、そこは中国の航空会社…。ボーデンタイムを過ぎた頃に、「機材点検のため遅れます」のアナウンスがあり、何分遅れるかの連絡もなし。
 しかも、搭乗券には「27番ゲート」と書いてあるのに、この空港のゲートは26番までしかない。ほどなく、「名古屋行きのお客様は、ゲートを27番から26番に変更いたします」とアナウンス…。
 だから中国の飛行機には乗らないって言ったんだ!
 でも、激安ツアーだから、まぁいいか。


← 空港の売店で、この人形を買いました。中国南方少数民族の
 人形でしょうか。今、うちの飾り棚の上で、ほかの国の人形た
 ちと一緒に並んでいます。


 午前10時50分、1時間20分遅れで上海を飛び立ちました。…、人形が我が家の棚に並んでいるということは、無事、帰り着いたということです。中国の飛行機も、やれば出来るじゃないか! …(苦笑)


 これまで、中国にはあまりよい印象がなかったので、行くのをためらっていたのですが、上海は直ぐにいけるお隣だということがわかりました。恐れていた「ニーハオトイレ」も、現実には無かったし…(笑)。
 気楽にいける隣国…というのが実感でした。また行きたいと思っています。       




【172】
2009 
洛南の小さい秋     2009.09.13
     - 三十三間堂・東福寺・泉涌寺 -
 

   【写真にカーソルを当てたとき、手の形に変わったら、
    大きい写真にリンクしています】



 12日(土)夜、「サライ」のページをめくっていたら、
東福寺塔頭「芬陀院」の丸窓の景色が目に留りました。13日(日)の天気は晴れ、行くっきゃないですね!


 午前5時35分に我が家を出発、伊勢道から新名神を走り、6時25分には京都東インターを降りていました。 所要時間50分、新名神の開通で京都は近くなりました。



← 五条バイパス


 途中の喫茶店でモーニングを食べたあと、京都市内へ入りました。


 東大路を南へ下ります→


   日曜日の早朝だからか、道路はガラガラでした。


 午前7時45分、「三十三間堂(蓮華王院)」へ到着。


← 新装成って、朱色も鮮やかな「三十三間堂」の東大門


 このお寺は、1164(長寛2)年、鳥辺山麓(現在の阿弥陀が峰)に平 清盛が寄進建立しました。約80年後に焼失しましたが、すぐに復興に取り掛かり、1266(文永3)年、再建されました。


 章くん、小学校5年生のの修学旅行以来、実にン十年ぶりの三十三間堂です。駐車場の料金は無料なのですが、「40分以内でお願いします」といわれて、駐車券に『8時0分入場』と記入されました。
 開門時間の8時になりました。一番に拝観券を買って、お堂へ…。

                 
 本堂の表側です →


 このお寺の正式名称は「蓮華王院」。正面の柱の間が33あることから(ホントは後述するようにちょっと違う)、三十三間堂と呼ばれています。和様の入母屋、本瓦葺の総ヒノキ造りで、南北に約120mあります。堂内で100m走ができる、日本一長いお堂だとか。
 裏(西側)の縁側で、「通し矢」が行われました。


 本堂内には、一千一体の千手観音と、観音様をお守りする二十八部衆、そして風神・雷神像が祀られています。


← 堂内は写真撮影禁止のため、パンフレットより


 東に向いたお堂の障子を通して照る朝日を受けて、ひな壇に並ぶ一千一体の千手観音様たちは、今にも歌い出すか、踊りだすかのように、華やかで楽しそうでした。


  そして、この像は観音様をお守りする
   二十八部衆のひとり「金色孔雀王」。パンフレットより →



   兜に象を彫し、足にはブーツを履く…と解説にありました。


 28部衆の中で、特にこの像を取り上げたのは、先日読み終えた三島由紀夫著「暁の寺」の中に、『ヒンズーの古い神々が、仏教世界へ音を立ててなだれ込んできた』その象徴として、孔雀明王経に詠われている「金色孔雀王」が登場するので、印象が強かったからです。
 三島は、もとシヴァ神の妻カーリーの化神だから、金色孔雀王は女神だと書いています。


 それにしても、この仏たちの包み込むような暖かさは、何なのでしょう。「サライ」にも、東から日の射す朝のうちに訪れよと書いてありましたが、障子戸から差し込む太陽の光に浮かぶ一千一体の千手観音像は、それぞれに異なるお顔立ちながら、一様にかすかな微笑を湛えて立ち、「これだけの私たちがいれば、恐いものは何もないのよ」と言っているような、慈愛あふれる暖かさに満ち満ちていました。
 その前に立つ、二十八部衆と風神・雷神の生き生きと躍動感溢れるいでたちは、見るものの心を浮き立てる活動力がありました。
 興味の尽きない仏様たちとの逢瀬だったのですが、駐車場の時間が気になって外へ…。本堂の東正面から南側を通り、裏へと回りました。
 

                  本堂の裏手 西縁 →


 世に名高い「三十三間堂(蓮華王院)の通し矢」は、この縁側で行われました。
 南から北へ射たといいますから、この写真の方向です。手前の南端へ座って、上半身のみで強弓を引き絞り、北端へと放ちました
 
← 縁側の北端(的側)に掲げられている掲示板


 西縁は、全長(小口から小口まで)121.7m、高さ4.5ー5.3m、幅2.36m。外縁の幅は約4.4mあります。
 なお、長さについての通説である、「33ある柱間は長さ2間に相当するから、堂の全長は33×2×1.82で約120m」とする計算は誤りで、柱間は35あり、幅も中央3間を除き3.3mです。


             
西縁を北端から撮ったところ →


 通し矢は、距離(全堂、半堂、五十間など)、時間(一昼夜、日中)、矢数(無制限、千射、百射)を組み合わせて様々な競技が行われました。半堂は堂の中程から射て半分の距離を射通した本数を競うもので、年少者が行いましたが、やはり全堂大矢数が通し矢の花形でした。


 明確な記録が残るのは、慶長11年(1606年)の朝岡平兵衛(清洲藩、100本中51本を射通した)が最初です。
 寛永年間以降は尾張藩と紀州藩の一騎打ちの様相を呈し、次々に記録が更新されました。寛文9年(1669年)5月2日には尾張藩士の星野茂則(勘左衛門)が総矢数10,542本中8,000本を通しましたが、貞享3年(1686年)4月27日には紀州藩の和佐範遠(大八郎)が総矢数13,053本中8,133本を通して天下一となりました。これが現在までの最高記録です。


← 本堂と前庭です。


 9時10分、三十三間堂をあとにしました。圧倒的な数の千手観音様、躍動感あふれる風塵・雷神、さまざまな表情に魅せられる二十八部衆像など、まだまだ尽きない興味があったのですが、駐車場40分がネック…。もうすでに70分…、30分もオーバーしています。
 駐車場では時間をチェックされるわけではないのですが、40分…と言われると急いでしまいます。このたくさんの仏様たちとの至福のときにひたるには、もう少し時間が欲しかったですね。


 午前9時30分、東海道線を南に渡り、「東福寺」へとやってきました。これまで何度となく京都を訪れているのに、このお寺は今まで訪問したことがなかったのです。
 
 西の「日下門」から境内に入って、東司の南側の駐車場へ車を停めさせてもらいました。
 東司とはトイレのこと。でも、あなどってはいけません。ここのトイレは、室町時代から唯一伝わる日本最大最古の禅宗式の東司(トイレ)の遺構で、多くの修行僧が一斉に用を足すことから「百雪隠(ひゃくせっちん)」とも呼ばれる文化財なのです。


           
「百雪隠」は、写真左の建物です。 →


← 車を降りると、目の前に「三門」がそびえています。
 その大きさに、ただただビックリしてしまいました。



 東福寺は、元応元年(1319年)の火災をはじめたびたび焼失していますが、この三門は応永32年(1425年)の再建で、現存する禅寺の三門としては日本最古のものだとか。上層には釈迦如来と十六羅漢を安置する、五間三戸二重門です。


               本堂(仏殿兼法堂) →


 明治14年(1881年)に仏殿と法堂が焼けたあと、大正6年(1917年)から再建工事にかかり、昭和3年(1934年)に完成しました。入母屋造、裳階(もこし)付き。高さ25.5m、間口41.4mの大規模な堂で、昭和期の木造建築としては最大のものと言われています。
 天井の竜の絵は堂本印象筆。本尊釈迦三尊像(本尊は立像、脇侍は阿難と迦葉)は、明治14年の火災後に万寿寺から移されたもので、鎌倉時代の作だとか。
 今日は、ご本尊は修理のためご出張中でした。


                  方丈の南庭 →


 荒海の砂紋の中に蓬莱、方丈、瀛洲、壺梁の四仙島を表現した配石で、右方には五山が築山として表現されているという。


 ただ、僕には枯山水の趣向がいまひとつよく解らない。自然に存在する数多くの山や川、滝などのなかから特徴的な姿の抽象的表現を極限までつきつめると、石ひとつで山ひとつ…あるいは風景全体…ひいては全宇宙を表すとなるのでしょうが、毎日眺めながら、四季の移り変わりを観るところに庭園の美はあるとと思うのです。
 砂と石に、何の情緒があろうか…と言っているのは、抽象美を理解しようとしない、僕の修業が足らないところでしょうか。

← 北庭


 北庭は、南の恩賜門内にあった敷石を利用し、正方形の石と苔を幾何学的な市松模様に配しています。
 西庭は、さつきの刈込みと砂地が大きく市松模様に入り、くず石を方形に組んで井田を意図しています。
 東庭は、東司の柱石の余材を利用して北斗七星を構成し、雲文様の地割に配しています。

 昭和の名庭園師とうたわれた重森三玲によって昭和13年(1938年)に作庭され、方丈を囲んで四つの庭を合わせて、釈迦成道(八相道)を表現し、「八相の庭」と命名されています。


    「偃月橋」を渡ったところ、本坊庫裏の背後に
      位置する塔頭「龍吟庵(りょうぎんあん)」→



 この庵は、東福寺三世・南禅寺開山である無関普門のご住居・塔所(墓所)として、入寂直前に創建されました。
 東福寺塔頭の第一位寺院で、室町期に造営された方丈は、書院造と寝殿造りが融合した、現存する日本最古の方丈建築として、建物全体が国宝とのことです。
 毎年11月に一般公開されていて、ちょうど拝観することができました。


← 龍吟庵 西庭 (龍門の庭、清光苑)


 龍吟庵の寺号に因んで、龍が海から顔を出して黒雲に乗って昇天する姿を石組みによって表現しています。竹垣には稲妻模様が施されています。


 龍吟庵には、南・西・東にそれぞれ枯山水の庭があります。
 南庭(無の庭) … 方丈の前庭で、白砂を敷いただけのシンプルな庭になっています。
 東庭(不離の庭) … 大明国師が幼少の頃、熱病にかかって山中に捨てられた時、二頭の犬が国師の身を狼の襲撃から守ったという故事を石組みで表しています。鞍馬の赤石を砕いたものを用いた、カラー版の枯山水です。 いずれも、重森三鈴の作です。


      
次に、本房の東に架かる、「通天橋」を歩いてみました。
        橋の南端に拝観受付があって、通橋料を払います。→


 「通天橋」は、仏殿と常楽庵の間を隔てる渓谷「洗玉澗(せんぎょくかん)」に架けられた橋廊で、天授6年(1380年)に春屋妙葩(しゅんおくみょうは)が谷を渡る労苦から僧を救うため架けたと伝えられます。
 昭和34年(1959年)台風で崩壊しましたが、2年後に再建、その際に橋脚部分は鉄筋コンクリートとなりました。


← 「通天橋」の左右は、楓の木々がびっしりと…。


 境内には宋から伝わった「通天モミジ」と呼ばれる三葉楓(葉先が3つにわかれている)など楓の木が多く植えられていて、紅葉の季節にはたいへんな賑わいをみせます。
 もとは桜の木が植わっていたのですが、「後世に遊興の場になる」という理由で伐採され、楓の木が植えられたとか。


          「通天橋」の中ほどの物見台から、
             「洗玉澗」を見渡したところ →



 紅葉のころの素晴らしさはいかばかりかと思われますが、今日も清々しい緑が広がっていました。
 かすかに屋根が見えるのは、寺の外の一般道にかかる「臥雲橋」の屋根です。


 洗玉澗一帯に繁る楓は俗に「通天紅葉」と呼ばれ、開山聖一国師円爾弁円が宋より持ち帰ったものと伝えられています。葉は三つに分かれ、黄金色に染まるのが特徴で、数は二千本に及んでいるといいます。


← 楓の上に、方丈の屋根が浮かんでいます。


  圧倒的な楓ですね。
                  これが紅葉すると思うと…。→



← 常楽庵


 主要伽藍の北側に洗玉澗渓谷を挟んで位置し、開山円爾像を安置する開山堂とその手前の昭堂を中心とした一画です。

「通天橋」は、御堂とこの庵を結んで架けられているということですね。


                    開山堂・昭堂 →


 文政2年(1819年)焼失後、同9年(1826年)までに再建されました。
 開山堂の中央部分は2階建の楼閣となっており、伝衣閣(でんねかく)と称します。金閣(鹿苑寺)、銀閣(慈照寺)、飛雲閣(西本願寺)、呑湖閣(大徳寺塔頭芳春院)と並び、「京の五閣」といわれています。

 常楽庵から御堂へ戻る道は、通天橋を通らずに、洗玉澗へ降りて渓谷を渡る道を歩いてみました。


← 渓谷から、通天橋を見上げたところです。


 あまり、風景の写真ばかりではと思い、及ばずながら(…?)特別出演です(笑)。


      
洗玉澗の渓谷から御堂へ、楓林の中を戻ります。→


 ここで一旦、東福寺から西へ出て、先ほど通天橋から見えていた、一般道に架かる「臥雲橋」を渡ってみました。


← この橋は一般道ですから、
 自転車やオートバイも通って
 いました。



   
先ほど通った「通天橋」が
     見えています。 →



 圧倒的な楓林です。ここから見る紅葉も見事なことでしょう。
 その昔は、桜の木も見事だった洗玉澗だったと伝えられますが、今は一本も桜はありません。
 室町時代、東福寺の画僧吉山明兆が、時の将軍足利義持からその画の素晴らしさを讃えられ、褒美を何なりとといわれたとき、「桜の木を切ってください」とお願いしたのだそうです。
 明兆は、桜に人々が浮かれるのを、仏道修業の妨げになると考えたのでしょうね。


 因みに、この写真の真ん中を流れている…東福寺の境内を流れ、御堂と開山堂との間に渓谷を刻む川を、「三ッ橋川」と言います。もちろん、「通天橋」「堰月橋」「臥雲橋」の三つの名橋が架かる川という意味の命名でしょう。


 臥雲橋を渡って、そのまま北へ上り、「泉涌寺」へと歩きました。地図で見ると近いのですが、東山の傾斜地にあり、また京都の古い住宅地の中の小道を地図も持たずに歩いていったので、袋小路にぶつかって引き替えしてきたりして、結構、時間がかかりました。
 やっとたどり着いた泉涌寺道の入り口(総門)から、まだ延々と塔頭寺院が並ぶ参道が続き、泉涌寺の大門ははるか彼方でした。泉涌寺も、これまた大きなお寺です。
 

← 途中の「悲田院」に寄りました。


悲田院(ひでんいん)とは、仏教の慈悲の思想に基づき、貧しい人や孤児を救うために作られた施設のことで、聖徳太子が隋にならい、大阪の四天王寺に建てられたのが日本での最初とする伝承があります。
 この寺の寺伝にも、聖徳太子が鴨川河畔に身寄りの無い老人や子どもを収容するために建てられたのが、この寺の始まりとありました。


   東山連峰の最南端、月輪山の中腹に位置する
     この寺の境内からは、京都盆地が一望されます。 →



 「大文字の送り火の夜に、またおいでなさい」と住職は言ってくれました。


 ↓やっと泉涌寺の大門に着きました。

 泉涌寺は、律を中心として天台、東密(真言)、禅、浄土の四宗兼学(または律を含めて五宗兼学とも)の道場として栄えました。
 歴代天皇や皇族が多く山内に葬られているため、皇室の香華院(こうげいん)となり、「御寺(みてら)泉涌寺」と尊称されています。
(「香華院」とは、香をたき、花を供える場所、すなわち、先祖が眠る寺の意です)
  


       仏殿とそのむこうは舎利殿 →


 寛文8年(1668年)、徳川家綱の援助で再建。内部は禅寺風の土間とし、柱、窓、組物、天井構架等の建築様式も典型的な禅宗様式です。
 ご本尊は、過去・現在・来世を表わす釈迦・阿弥陀・弥勒の3体の如来像を安置していますが、中心仏の釈迦如来像は、修理出張中でした。


← 御座所庭園


 仏殿・舎利殿の背後に建つ御座所は、女官の間、門跡の間、皇族の間、侍従の間、勅使の間、玉座の間などがあります。玉座の間は、天皇皇后が来寺した際に休息所として使用される部屋です。


 平成期に入ってからは、即位報ご告(1990年)、平安建都1,200年記念(1994年)、在位10年のご報告(1999年)などの際に、今上天皇が泉涌寺を訪問され、この部屋を使用されています。


      御座所の屋根の上に、紅葉が色づいていました。→


 もう1ヶ月もすれば、京都は燃えるような紅葉の季節を迎えるのでしょう。

楊貴妃観音パンフより

 大門のすぐ左手に「楊貴妃観音堂」があり、その御名のとおりの美人観音様がいらっしゃいます。
 建長7年(1255年)この寺の実質的な開基(創立者、鎌倉時代)である月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)の弟子湛海が仏舎利とともに中国・南宋から請来したものだとか。
 作風、材質など、明らかに日本の仏像とは異質で、寺伝どおり中国・南宋時代の作と考えられます。長らく100年に一度だけ公開する秘仏でしたが、請来から700年目の1955年(昭和30年)から一般公開されています。


 「さすがに美人ですね」と観音堂の守人のおじさんに声をかけたら、
「京都一ですわ」と鼻が高そうでした。


 東福寺へ戻り、車に乗り込む前に、雪舟ゆかりの寺「芬陀院(ふんだいん)」へ寄りました。


 ここは元亨年間(1321-1324)に当時の関白であった一条内経が父の菩提を弔うために創建した塔頭で、水墨画を大成した雪舟の作と伝えられる名庭があることから雪舟寺とも呼ばれています。


← 雪舟作と伝えられる前庭、
 石組みで鶴と亀を表していて
 「鶴亀の庭」と呼ばれています。


 雪舟が少年時代をすごした岡山県の「宝福寺」は東福寺の末寺であり、雪舟が本山へ来たときには、この寺に起居していました。




           茶室「図南亭」の丸窓から見る東庭 →


 この東庭は、荒廃していた雪舟庭園(南面前庭)を重森三鈴が復元修理したとき、新たに彼が作庭したものです。
 昨夜、僕が見ていた「サライ」の表紙に用いられていたのが、この芬陀院の丸窓の写真でした。このスナップに惹かれて、急な京都行を思い立ったという部分もありますね。


 時刻はお昼過ぎ…。東福寺に戻って、もう一度、巨大な山門をパチリ…。


 「秋、紅葉の盛りに、もう一度呼んでくださいね」と頼んでおきました。
 
 
 

 南区の1号線沿い、中華料理「あたか飯店 京都店」で遅いお昼ご飯を食べて、そのまま南へ下がり、京都南インターから名神高速道路に乗って、帰途に就きました。


 土山SAあたり、前方に浮かんでいるのは夏の雲…? →


 帰りも50分ほど…。夕方には帰り着き、諸見里しのぶの日本女子プロぶっちぎり優勝を見ていました。





【171】 花 火 2009 久居     2009.08.08


 久居の花火大会に行ってきました。

  今夜は、津港でも花火大会が催されるのですが、電車に乗って
 久居へと出かけました。
  津の花火会場までは徒歩20分、駅まで5分の電車に乗ると
 久居駅から花火会場までは5分ですから、久居のほうが近い
 かなと考えたわけです。
  それに、ネットの情報では、「津、 3000発、30万人」
 「久居、4000発、 3万人」と書かれていました。ひとり
 あたり、津…0.01発、久居…0.13発となって、久居の
 ほうが13倍ほど楽しめる計算です。


  【写真にカーソルを当てたとき、手の形に変わったら、大きい写真にリンクしています】


       ◇     ◇     ◇     ◇     ◇


  立秋も過ぎて、今日は昼間から、爽やかな夏空が広がっていました。
 久居の花火は、当初、先週の1日(土)の予定だったのですが、まだ梅雨の最中で雨に降られ、延期されていたのです。


      午後6時、雲は高く、爽やかな青空です。 →






← 午後7時、西の空が茜色に染まっています。
  
 では、出発…。駅へ向かう途中、浴衣がけの人たちにたくさんすれ違いました。この人たちは、津港の花火に行くのですね。




 久居駅へ降り立ったのが7時40分。花火会場は自衛隊久居練兵場、近鉄久居駅から歩いて5分です。


 会場へ着いたのは、7時50分。たくさんの屋台が並んでいましたが、8時の打ち上げですから、もう買い物をしている時間はありません。
 メイン会場はすでに超満員…。ビニルシートを敷いて座っている人たちの間に一畳ほどの隙間を見つけ、座らせてもらいました。「起きて半畳、寝て一畳」ですから、十分です


 8時10分。バンバンバーン…とスターマインが打ち上げられて、花火の競演の始まりです。


 目の前に、ドーンと打ち上げられるのにはちょっとびっくり…。炸裂音が腹に響くのは、近場で見る花火の醍醐味です。


 赤い火花が大きく開く下で、緑や青の小さな火花がパチッパチッと弾けます。
 年々、進化しているのですね。        →


 
← 閃光がとても明るい











 
   
形の美しい花火です↑





 
 
    新作ですね ↓
 
 

 


  バババーン…と連射が終わると、会場内からは拍手が起こります。
 眩いばかりの光、大きな炸裂音…。夜空を彩る花火は、見物人の気持ちを高揚させるのでしょうね。
 近くに居た子どもたちが、花火の爆発と一緒に、「ドーン!」とか「赤!」とか、大きな声で合唱していました。










  
  
     仕掛け花火に
      火が点けられました →



   フィナーレも近いようです。
 









← 下で煙を上げるのは、ナイアガラ…。


 最後のスターマインが連射され、フィナーレです。

 
 
 
 

 会場から後ろを
 振り返ると、久
 居駅前ビル(久
 居ポルタ)が聳
 えています →





 出口では、久居にこれほど人がいたのかというぐらいの混雑ぶりでしたが、そこは久居…、立ち止まることなく会場を出て、久居駅へ…。
 電車も、やってきた名古屋行き急行にすんなり乗って、30分後には家に着いていました。


 でも、「津の花火に30万人」というのは眉唾もの…。だって、津市の人口は28万ナニガシですから、津市民が赤ちゃんからおじいちゃんまで全員、家を空にしてやって来ても、まだ少し足らない。花火の日は、津の家々はもぬけの殻なんてことはないし、津市外から観光バスがやって来たという話も聞いたことがない。だから、津市の花火も、よく詰め掛けていても5万人ぐらいのものでしょう。


 帰り、駅から家まで歩いていたら、やっぱり浴衣がけの人が向こうからやってきました。津花火の帰りですね。お疲れさまでした。


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