← バスの窓からパチリ
上海近郊の道路の左右には、おびただしい数のマンション群が立ち並んでいました。
右を向いても、左を見ても、マンション群なんです。そして、まだまだ至るところで建設しているんです。
上海の流動人口は1800万人だとか。それだけの人々を収容するのですから、住居の数もたくさん必要ですよね。
(このあとしばらく、周荘へ向かうバスの、雨に濡れた窓ガラス越しに撮った写真が続きます。
暗くなってもきますし、見にくくて申し訳ありません。)
4階建てに交差している高速道路 →
ガイドの唐さんが、ここ30年、中国政府は道路の建設に力を傾注してきたといっていました。確かに、上海を中心とする交通網は、素晴らしく発達しています。
でも、それ以上に車の数が増え続けているのでしょうか。章くんたちの旅の途中でも、上海市内の至るところで交通渋滞に巻き込まれました。
来年の万博を控えて、上海周辺では、あそこでもここでも工事が進められています。
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つくりかけの高速道路 | 高速道路の橋梁工事らしい | マンション工事 |
マンションも、日本のように1棟ずつ建てて、売れたら次を建てるなんて、そんなセコイことはしません。10棟ぐらいを、まとめてデ~ンと建てています。
道路沿いには、会社や政府の大看板が立ち並んでいます。
← この看板は軍の宣伝らしい
わが祖国を愛する若者よ、国家と党を守り、夷敵を殲滅する「人民解放軍」に来たれ…とでも書いてあるのかな?
夕刻…、車が多くなってきました。市内から出るとき、やはり渋滞につかまりました。
道路の向こうに並ぶ柱は、
ゴルフの打ちっぱなし練習場です。 →
このあとも、数箇所で練習場を見ましたから、中国でもゴルフをする人は増えているということですね。
上海周辺のゴルフ事情をちょっと調べてきました。上海市内と郊外には20箇所ほどのゴルフ場があります。タクシーで1時間半~2時間足を伸ばすならば、蘇州、杭州などにはやはり20箇所ほどゴルフ場が造られてきています。
プレーフィーはピンキリですが、ビジターの平均で平日8000円、週末は14000円ほどですから、昨今の日本と同じぐらいでしょうか。でも、1バッグにひとりずつのキャディがつきます。
日本人の平均収入31万円に比べて、中国人(北京・上海)の平均収入は4万円ぐらい。ただ、北京や上海では、富裕層(金持ち)は先進国の富裕層と大差ない収入を得ていますが、低賃金で働く労働者の数が極めて多く、一般労働者だけの平均賃金といえば、これよりもかなり低額となります。だから、中国の一般の人たちからみれば、ゴルフはまだまだ高価な遊びということになりますね。
← 上海近郊の有料道路の料金所。レーンの数がすごいです。
上海では、今は自転車(電動自転車も多い)とオートバイがたくさん走っていて、朝夕のラッシュのときなどは、どこからか涌いてきたのかというぐらい道路に溢れます。
でも、中国にも、もうすぐ車社会が到来することでしょうね。そうなれば人口が多い分だけものすごい数の車が、ののしりあいながら(笑)走り回るということですね。
もうひとつ興味深かったのは、有料道路の料金所付近の道端には、どこでも大きな荷物を下げた男女が何人か立っていたこと。
はじめは、何かを売っているのかと思ったのですが、店を広げている様子もないし…と考えていて、ハタと思いついたのがヒッチハイカー! 彼らは、車がスピードを緩める料金所の付近の道端に座り込んで、乗せてくれる車をひたすら待っているのだと思います。
それにしても、有料道路に入り込んで叱られないのでしょうか? そこが大陸的なのでしょうね。
料金徴収係りの女の子 →
当然ですが、男の子もいました。排ガス規制もない中国ですが、マスクもせずに頑張っています。
午後6時57分、周荘の町に着きました。上海空港から、ちょうど2時間30分です。
← 町の入り口には城門があり、ライトアップして旅人を迎えてくれます。
今夜のお宿
「周荘賓館」 →
唐さんの話では、「はっきり言って、あまりいいホテルではないです」とのことですが、激安ツアーだから仕方が無いですね(苦笑)。
←でも、ロビーにあったこの木彫りの龍は、ホント…見事でしたよ!
食事は円卓の中華料理…。安いツアーだから、文句は言えない味でした。
食事のあとは、8時30分から、周荘水郷のライトアップ鑑賞に出かけます。1000年の歴史を持つという、中国江南の水郷古鎮…、楽しみの散策です。
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← 手漕ぎの船で、漁をしていました。
のどかな、水墨画の世界ですね。
太湖周辺は古来「魚米の郷」と呼ばれた、中国有数の豊かさを誇る穀倉地帯・淡水漁業地帯です。
この日の夕食に「上海ガニ」を頼みました。→
格安ツアーですから、もちろんオプションです。時期的にちょっと早いですから、小ぶりのものでした。2杯頼んで、やっと一人前というところです。
← 食事のあとは、蘇州古塘のナイトクルーズです。
「塘」という字は、日本語の「島」という意味だとか。 蘇州市内には無数の水路が走っているので、陸地はあたかも島の如しなのです。だから、蘇州の古い町並みは「古塘」と呼ばれるのですね。
船に乗って、ライトアップされた水路を行きます。→
ただ船に乗っただけだったからでしょうか、ライトアップされた両岸の風景が過ぎて行くだけで、ちょっと単調なクルーズでした。
途中、工場排水が流れ込んでいる一角があって異臭がしたのも、中国らしい杜撰さですね。国を挙げて水郷観光事業を進めようとしている重点地区の川に、工場排水が流れ込んでくるのを放置しているなんて、考えられないではありませんか。
ライトアップはとても美しかったのですが…、両岸の明るさ…華やかさが、何か旅情を削ぐようで、『蘇州詩情』とは少し違うかな…といったカンジでした。
昨夜、周荘の暗くて物悲しい雰囲気を体験したからなのでしょうが…。
ナイトクルーズを終えて、ホテルに戻ったのが9時30分…。
ちょっと小腹が空いたかなと表に出てみたのですが、あたりはマンションばかりが立ち並んでいるだけ…。コンビニを見つけて、ミネラルウオーターとお菓子を少し買ってきました。→
コンビニの隣、写真の「富士山…」と赤いネオンがともっているところは、マッサージ店とのことです。窓にはブラインドが下りていて中をのぞけなかったし、小さなアルミのドアーが不気味だった(笑)ので、入る勇気が出ませんでした。
何事もなく、今夜もおやすみなさい。
■ 楓橋夜泊の寒山寺 中国江南水郷紀行④ 2009.09.21-24 【物見遊山176-1】
第3日目、午前7時起床。朝食を終えて部屋に戻ると7時45分、そろそろ通勤ラッシュが始まる時間です。
窓の外の交差点は、人、自転車、オートバイ、車が、私が信号よ…といったカンジで行き交い、見飽きないバトルです。
この写真、どちら行きが青で、どちらが赤か、
わかりますか? →
この大きな較差点を、悠々と斜めに横断してくる人がいたりして、その達人振りにも感心させられました。
8時に出発。今日の第1番目の訪問先は、「蘇州刺繍のお店」です。
蘇州刺繍の糸は実に髪の毛の十分の一の細さ、その色は100色以上におよび、豊かなグラデーションを表現することができるといいます。
絵画や写真かと見まがうほどの、豊かな色彩と立体感のある生き生きとした蘇州刺繍の仕上がりは「蘇繍」と称され、湖南の湘繍、広州の粤繍、四川の蜀繍とともに中国四大刺繍のひとつとされています。
← 大作、「鶴の群舞」です。
ここ「蘇州刺繍研究所」は、世界遺産に登録されている環秀山荘内にあって、初代所長は刺繍大師の称号を持つ顧文霞さん。研究所の工芸師はアートレベルの刺繍ができ、質の高い蘇州刺繍を制作しているそうです。蘇州刺繍の工芸師は10万人とも言われますが、アートレベルの蘇州刺繍ができる工芸師は多くはいません。
蘇州刺繍研究所にはピンからキリまで各種の作品が揃ってますから、仕上がりと価格の概ねの基準がわかります…と、後日に調べた案内書にありました。
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こちらは茶色の トラ猫です。 |
裏に回ると、灰色のトラ猫に 変わりました。 |
驚きの刺繍を見てください →
1枚の布に描いた刺繍なのですが、表と裏で色が違うのです。
猫好きの章くん、もう少しで買いそうになりました。
「梱包して、お宅まで送ります。中味を確認してからお金を払ってください。」と勧められます。
もうひとつ、この猫よりも一回り大きい梅の花の刺繍がとても美しく、「値段は?」と聞くと、「定価は80
万円のところ、50万…40万…、26万…」まできて、これも買いそうになったけれど、他との比較もしてみなくっちゃ…とすんでのところで思い留まりました。
帰ってから、インターネットの通販サイトを調べたら、金魚…9800円、猫…48000円、少し大きい花が69000円でした。
製作レベルが違うのでしょうが、審美眼の無いものには不可解な世界のようです。
まぁ、気に入ればいいのでしょうけれど…。
展示されていた作品の中で、一番大きなものです。→
値段のことを言って申し訳ないのですが、芸術家レベルの人が2~3年かかる作品で、500万円ほどするそうです。章くん、写真を撮るだけ…というのが悲しいですね。
旅行社の安いツアーはみやげ物店への立ち寄りが行程に入っていて、参加の皆さんには不評でしたが、章くんは、自作の旅行ではこれらのところには寄らないでしょうから、いい機会なのではないかと思いました。
今回のツアーで立ち寄った「シルクの布団」、「黄金の淡水真珠」、「精緻な陶芸作品」、そしてこの「蘇州刺繍」と、それぞれ十分に楽しかったですから…。
次の訪問先は除夜の鐘で有名な「寒山寺」です。
この寺は、南北朝時代、梁(南朝)の、武帝の時代(510年ごろ)に「妙利普院塔院」として創建されたとされています。寒山寺という現在の寺名は、唐代の貞観年間(627年 - 649年)に風狂の人「寒山」がこの地で草庵を結んだという伝承によるとか。
襄陽出身の張継が、有名な「楓橋夜泊」を詠んだのは8世紀中頃のことです。
伽藍の創建は8世紀から9世紀にかけてのことで、全盛期の寒山寺の面積は広大で、巷間で「馬に乗って山門を見る」と言われるほどでした。当時、北方から訪れた旅行者の多くは、まず寒山寺を参詣してから蘇州の市街に入ったといいます。
寒山寺の入り口のすぐ前を流れる大運河 →
北京市通州区から浙江省杭州市までの約1,800キロメートルを流れる大運河…。春秋戦国時代に呉王「夫差」が建設に着手し、隋の「煬帝」(569-618)が本格的な工事を進めて610年に完成しました。
古今を通じて、政治の中心地華北と経済の先進地江南、さらに軍事の拠点涿郡(幽州、いまの北京)とを結ぶ中国物流の大動脈です。蘇州からは、南東へ杭州、西は楊州を経て洛陽へと通じています。
日本では聖徳太子が遣隋使を派遣した頃に、1800キロにも及ぶ大運河を開くとは、中国という国の底力を見る思いがしました。章くん、機会があれば是非この目で見てみたいと思っていたので、感激です。
大運河の岸辺へ駆け寄ったときは、積年の念願がかなう一瞬でしたが、章くんの熱い思いを知ってか知らずにか、運河の水は今日も滔々と流れていました。
山門を入るとすぐに、赤い本堂(大雄宝殿)が
ありました。 →
← 境内の灯篭や水瓶などに、赤い布が付けられていました。
この赤い布は、どんな意味があるのだろうと思って調べてみると、昔、中国では赤は魔よけの色とされていたとありました。
神社の柱や欄干が赤く塗られているのも、病気や地震などの悪いことが起こらないようにといった魔よけの意味が込められているそうです。
昔の赤ちゃんは、男の子でも赤い産着を着ていました。雛人形を飾るときも、魔よけの意味をこめて、赤い毛氈を敷いているというわけですね。
ご本尊の釈迦如来像です。→
寒山寺は、南北朝時代の510年ごろに創建されたとされています。「寒山寺」という現在の寺名は、唐代に風狂の人「寒山」がこの地で草庵を結んだという伝承にちなみます。
詩人「張継」が、有名な「楓橋夜泊」を詠んだのは8世紀中頃のこと、伽藍が整えられたのは8世紀から9世紀にかけてのことです。以後、伽藍の盛況をみた寒山寺でしたが、明から清の時代にかけて、度々戦火や失火によって消失を繰り返しました。
現在の寒山寺は、清末の1906年(光緒32年)に再建されたもので、それぞれの建物はいずれも比較的新しいものです。
← ご本尊の後ろ側に、見事な透かし彫りがありました。
如意輪観音の半跏思惟像でしょうか。
屋根の上にも、いろいろなものが
います。 →
瓦の形が面白いですね。
寒山寺を一躍有名にした、中唐の詩人で政治家でもあった張継の七言絶句「楓橋夜泊」の歌碑がありました。
月落烏啼霜満天、 江楓漁火対愁眠、 姑蘇城外寒山寺、 夜半鐘聲到客船、 |
月落ち烏(からす)啼きて 霜天に満つ 江楓(こうふう)漁火 愁眠に対す 姑蘇(こそ)城外の寒山寺 夜半の鐘声 客船(かくせん)に到る |
【訳】
月は西に落ちて、闇のなかにカラスの鳴く声が聞こえ、霜を降らす厳しい寒気があたりいっぱいに満ちている。
運河沿いに繁る楓の葉が揺れ、その向こうに点々と灯る川漁のいさり火を見ながら、旅の愁いのなかに私は浅い眠りにつく。
折から、姑蘇の町はずれの寒山寺から、
夜半を知らせる鐘の音が、私の乗る船にまで聞こえてきた。
鐘楼。 この2階に、有名な寒山寺の鐘が吊り
下げられていて、有料で誰でも撞くことができます。 →
日本の鐘ほど厚みがないのでしょうか、音は軽めのような気がしました。
一音聞けばひとつの煩悩が消え去るといわれる寒山寺の鐘ですから、大晦日には大変な賑わいで、その一番目を誰が撞くかは大問題なのだそうです。
近年はセリが行われているというのも、中国らしいなぁと思いました。
もともと中国には除夜の鐘を撞くという習慣はなかったそうなのですが、1979年に藤尾 昭さん(大阪池田市の日中友協会副会長)という方が、舘山寺へ除夜の鐘を聞きに行くツアーを企画し、中国側のバックアップもあって、以後、定着したものだそうです。
大晦日、鐘楼下の境内は賽銭でうずまりますが、それを拾う人はひとりもいないと、ガイドの唐さんが言っていました。ン…、今年は、「舘山寺の賽銭を拾うツアー」を企画しようか…(笑)。
← 「普明宝塔」。2階まで登ることができます。
境内東端、最奥に所在…。1995年12月に建てられた高さ52メートルの木造の五重の塔で、唐の楼閣式仏塔を模したものです。
2階の回廊から…。→
イラカの波の向こうに
見えるのは、やっぱり
マンションです。
← 塔内の仏様に参拝する女の子
中国の信者さんは熱心ですね。まさに五体投地です。
塔の基壇の四隅に、4匹の獅
子の像が配されていました。→
それぞれの獅子は鞠(まり)とかいろいろなものを前に置いていますが、章くんはこの小獅子をあやす像が気に入りました。
怖ろしい形相をしていますが、どこかに子どもをいつくしむ慈愛が感じられます。
← お昼を、蘇州市内のホテルに入って取りました。
有料道路の料金所で待機する
パトカーです。 →
車体に「公安」と書いて
あります。
宝石店へ寄りました。
玄関横に、ヒスイ(と説明の人が言っていました)の大船が置いてありました。「幾らぐらいすると思いますか?」と言うので、「2億円」と言ったら、「当り!」。
でも、何もくれませんでした(笑)。
← この龍…、叩くとチーンと高い音で響きます。
説明係のニイちゃんが章くんの袖を引いて、ヒスイの香合を買えとしきりに勧めます。思い切って、特別に1万円にするので、是非どうだと言います。
緑濃い光沢のあるもので、高さは10cmほど。値打ちなものだなとは思ったのですが、旅先の衝動買いでは、これまで何度も痛い目に遭って来ているので、ここもググッと踏ん張りました。…、買ってくれば良かったかなぁ。
■ 世界遺産の豫園 中国江南水郷紀行⑤ 2009.09.21-24 【物見遊山176-2】
蘇州をあとにして、上海市内に入ってきました。
電動式自転車が流行っているようですね。
普通のオートバイと違って、バタバタというエンジン音がしないので、歩行者は近づいてきたのがわからずに事故につながるという指摘を読んだことあります。
でも、電池で動くのですから、脱石油エネルギーということで魅力的ですね。
ガイドの白さんの話では、安い自転車は200元(2800円)ほどで買えると言っていました。
そして、中国でも自転車泥棒は日常茶飯事で、買ってから2日で盗まれたとも言っていました。
← またまた大きな門が見えてきました。
上海市内の世界遺産「豫園」周辺の市場へ到着したのです。
「豫園」周辺の市場のことを、「豫園商城」と呼んで、さまざまなものを売るお店屋さんが密集する、格別の賑わいのある地域として、観光客の人気を集めています。
浅草みたいなものですね。
この人混みはどうですか。上海を訪れる観光客は必ず「豫園」を訪れるといわれるほど人気のある観光スポットなので、世界中から人々が集まります。
ガイドの唐さんも、「スリに気をつけてくださいね」と繰り返して言っていました。
この「豫園商城」と呼ばれる商業エリアは、豫園の門前市が商店街として発展したものです。
豫園の入り口の前には、小龍包で有名な「南翔饅頭店」や、上海で一番古い茶館「湖心亭」などの老舗がたくさんあります。
「豫園」は、明の時代、四川省の役人であった「潘允瑞」によって造られました。故郷を懐かしむ父親を慰めるために建設されたという庭園の造営は、1559年の造園開始から1577年の完成まで、18年間もの歳月を要しました。庭園の完成時には、父親はすでに亡くなっていたそうです。
潘家の没落後、庭園は一時荒廃しましたが、清代には上海の有力者たちが再建に乗り出します。その後1956年に西園の一部が改修・整備され、現在の「豫園」として一般に公開されるようになりました。
それでは、建て物、池、石、庭木、瓦…、何を見てもどこを見ても、汲めども尽きない魅力を秘める古代庭園、中国独特の江南庭園建築芸術の特色を持つ世界遺産の「豫園」をご案内しましょう。
(でも、予備知識も何にもないので、写真の建物や庭園が園内のどこなのか、何と言う名前のものなのかなど、わからないままに歩いてきました。あとから調べて、多分これはここだろうといった程度のご案内です。
また、章くんたちは、通常は出口とされるところから入っていますので、一般ルートとは逆に歩いています。)
法華堂(多分) →
← 中国3大太湖石のひとつ「玉玲瓏(イュリンロン)」
高さ3メートルの太湖石。石には無数の穴が開いていますが、この石はその穴が全てつながっていて、上から水を入れると下に出てくるという仕組みです。
雨の日に観賞するといいかも…。
中国式庭園では、壁の一部をくりぬいて、出入り口を作っていることがよくあります。
これらの出入り口には、庭園の奥行きを深く見せる効果があるそうです。豫園にも、様々な形の出入り口が見られました。
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関羽将軍ですね。 | 鹿さんです。 |
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マジックショーです。 →
鳩を出すのが得意な女の子でした。
ブンブンブン…、球形の金網の中を、1台…2台…3台…と、次々と入っていったオートバイが、爆音をとどろかせて上下左右に疾走します。
← 今、4台のオートバイが走り回っています。
← もう1台、入りました。
5台が狭い球内を走り回るのは、とても迫力がありました。見ているほうも、ヒヤヒヤものでした。
昔、サーカスで見たことがありますが、3台ぐらいだったと思います。5台は、見るほうの理解を超えていました。
上の写真のほかにも、3~4個の帽子をお手玉のように回したり、大小の輪っかをくぐり抜ける組体操、5~6個のボールを操るパフォーマンスなどがあって、合計1時間30分ほどのショーでした。
← フィナーレです。
舞台がハネてから、出演者と一緒に写真に納まることが出来ます。 →
章くんも、舞台に上がっていったのですが、「時間がありませ~ん」というガイドの白さんの声に、やむなくバスへと急ぎました。
ホテルへ戻って食事です。→
3日間、同じものばかり食べていたなぁ。
でも、激安ツァー…、文句は言えません。
午後8時30分、百万ドルの夜景を見るために「黄浦江ナイトクルーズ」に出かけました。
ライトアップされた、歴史のあるヨーロッパ風の建造物が立ち並ぶバンドの風景…、躍進する上海を象徴する浦東近代ビル群…を見る、約50分のクルーズです。
乗り込んだクルーズ船の1階2階を通り抜け、章くん、一目散に上部甲板を目指しました。
出航…! 上海バンドの夜景が目の前に広がります ↓
上海バンド (外灘、英語名:Bund) は、黄浦江と蘇州河の合流点から南の金陵路までの、大通り(中山東一路)沿いの黄浦江西岸を指します。
この地は外国勢力が上海に開いた租界…。もちろん日本人租界もありました。
バンドとは、そもそも人工の土手や堤防を意味しています。植民地であったインドで、港に臨み居留者の建築が建ち並ぶ…、今で言うウォ-タ-・フロントをバンドと呼んでいました。もとは一般的な名称であったものが、今では上海の代名詞のように使われているのです。
← こんなに可愛くオシャレな船も走っています。
上海は長江が運んだ土砂によって出来た、沖積平野の上の町です。歴史的には、むしろ多くの湖沼を擁する蘇州や杭州のほうが、皇帝貴族の遊興の地として有名でした。
その頃の上海は長江河口部のデルタにある荒地…。ひなびた村が点在するに過ぎない土地でした。
1840年のアヘン戦争、1857年のアロー号事件によって、清国は強圧的に開国させられ、ここ上海にも外国人租界ができることとなりました。この外国人租界が、上海バンドの始まりです。
バンドの対岸は上海の中でも最も急速に発展しつつある浦東新区、その中心である陸家嘴金融・貿易開発区の高層ビル群が明るい光を放っています。
ひときわ高い塔は、上海のシンボル的
存在である「東方明珠タワー」 ↓→
← 「東方明珠タワー」は263mと350mのところに展望台があります。料金は50~100元、登る高さによって違います。
267mのところに回転レストランがあり、1時間で1回転、360度の風景が楽しめます。
後方に、日本の森ビルが手がけた『SWFC』が、頭を雲に突っ込んで立っているのが、かすかに見えています。
浦東側にある乗船場に、船が着いたようです→
浦東のビルは、外観の華麗さもそれぞれで競っているのです。船着場のデザインも斬新でしょう。
←「シャングリラホテル」が入っている浦東香格里拉大酒店。
左の帽子のような物がついているのは、「海関大廈」。
アヘン戦争(1840年)にさかのぼるまでもなく、20年前に撮った1990年の上海の写真を見ると、ホントにこの浦東地区は何もない荒地でした。
それが、19年後の今では、東洋一の金融・商業地区として高層ビルが林立して発展しているのですから、そのパワーには圧倒され、驚かされます。
ライトアップされた姿が特に美しい2つの建物 →
右が上海海関(旧・江海北関(税関)、1295年建設)
左は上海浦東開発銀行(旧・香港上海銀行、1923年)
前を、キレイな遊覧船が行きます。
黄浦江はさまざまな船が忙しく行き交い、時折聞こえる汽笛が雰囲気を盛り上げてくれます。
船は、初め南へ下がり、バンドのはずれの十六浦あたりでUターンして北上し、章くんたちが乗船した船着場を通り越して、黄浦江が大きく蛇行しているその先までゆっくりと進みます。
蘇州河との分疑点を過ぎたあたりでストップ…。このあたりでは、バンドの光景ははるか彼方に小さく見えます。そして今度は、後進で、船着場まで引き返します。
20年ほど前の上海では、川(黄浦江)の東に家があるのは貧しいと同義語だったそうです。ところが、わずか20年後の今日では、黄東地区には近代高層ビルや高級マンションが立ち並び、川の東に家があるのは豊かさの現われとなったそうです。躍進する上海…、巨大化する中国…を、肌で感じたナイトクルーズでした。
古い上海と新しい上海が、見事に…、しかもロマンチックに…凝縮された黄浦江ナイトクルーズは、やはり上海観光のハイライトです。
ホテルへ帰るバスが、バンドの大通りを走ってくれました。今、バンドは来年の上海万博に向けて、通りを掘り返しています。この大工事が終わると、バンドの大通りは、地上は歩行者の遊歩道…、車は地下を走りぬけるようになるそうです。
← 帰りのバスから見た、高層ビル群が
立ち並ぶ上海の町…。
章くんたちのホテルは、バンドからバスで25分くらい走ったところ…。繁華街へ遊びにとって返すにも、ちょっと遠いかな。
部屋へ戻ってお風呂に入ったら、すでに11時過ぎでした。下戸の章くんは、隣のコンビニでミネラルウオーターとケーキを少し仕入れてきた…という可愛さで、今夜はおやすみです!
第4日目 帰 国
今日は上海浦東国際空港から、9時30分のフライトで帰国します。だから、5時30分に起床…。6時30分、空港へ出発…。あとはただひたすら帰るだけです。
← 章くんたちのホテル「南部大酒店」
稼働率があまりよくないホテルなのか、お風呂の湯が初め真ッ茶ッ茶…。かなり流したら、色は薄くなりましたが、まぁ激安ツアーですし、中国のホテルですから、これくらいは当然でしょうね。
上海ではマンションが林立していますし、今も建設ラッシュが続いていますが、ホテルの隣にあったマンション群のエリアは塀に囲まれ、出入り口のゲートにはガードマンが警備していました。
20年前にアメリカへ行ったとき、広い住宅地がぐるりと塀で囲んであって、数箇所の出入り口には遮断機があり、外来者は警備員が名前と用件をチェックする物々しさでした。章くんたちは、住宅地の中にあるゴルフ場へ行ったのですが、名前を告げて「ゴルフだ」と言うと、警備員の手元には名簿が来ていて、「OK」と通してくれました。
水と安全はタダだと思っている日本人にはちょっとビックリさせられることですが、中国にもすでに安全をお金で買う日常があるのですね。
この朝、高速道路新空港線は激しい渋滞…。「日本のシルバーウイークが、上海の渋滞を起こしている」とガイドの唐さんは言っていました。
予定よりも1時間近くも遅れて、9時前に空港へ到着…。搭乗手続きもそこそこに、出来たものから国際線入り口に駆け込むあわただしさでした。
でも、でも、でも…、そこは中国の航空会社…。ボーデンタイムを過ぎた頃に、「機材点検のため遅れます」のアナウンスがあり、何分遅れるかの連絡もなし。
しかも、搭乗券には「27番ゲート」と書いてあるのに、この空港のゲートは26番までしかない。ほどなく、「名古屋行きのお客様は、ゲートを27番から26番に変更いたします」とアナウンス…。
だから中国の飛行機には乗らないって言ったんだ!
でも、激安ツアーだから、まぁいいか。
← 空港の売店で、この人形を買いました。中国南方少数民族の
人形でしょうか。今、うちの飾り棚の上で、ほかの国の人形た
ちと一緒に並んでいます。
午前10時50分、1時間20分遅れで上海を飛び立ちました。…、人形が我が家の棚に並んでいるということは、無事、帰り着いたということです。中国の飛行機も、やれば出来るじゃないか! …(苦笑)
これまで、中国にはあまりよい印象がなかったので、行くのをためらっていたのですが、上海は直ぐにいけるお隣だということがわかりました。恐れていた「ニーハオトイレ」も、現実には無かったし…(笑)。
気楽にいける隣国…というのが実感でした。また行きたいと思っています。 完
【172】 2009 洛南の小さい秋 2009.09.13
- 三十三間堂・東福寺・泉涌寺 -
【写真にカーソルを当てたとき、手の形に変わったら、
大きい写真にリンクしています】
12日(土)夜、「サライ」のページをめくっていたら、東福寺塔頭「芬陀院」の丸窓の景色が目に留りました。13日(日)の天気は晴れ、行くっきゃないですね!
午前5時35分に我が家を出発、伊勢道から新名神を走り、6時25分には京都東インターを降りていました。 所要時間50分、新名神の開通で京都は近くなりました。
← 五条バイパス
途中の喫茶店でモーニングを食べたあと、京都市内へ入りました。
東大路を南へ下ります→
日曜日の早朝だからか、道路はガラガラでした。
午前7時45分、「三十三間堂(蓮華王院)」へ到着。
← 新装成って、朱色も鮮やかな「三十三間堂」の東大門
このお寺は、1164(長寛2)年、鳥辺山麓(現在の阿弥陀が峰)に平 清盛が寄進建立しました。約80年後に焼失しましたが、すぐに復興に取り掛かり、1266(文永3)年、再建されました。
章くん、小学校5年生のの修学旅行以来、実にン十年ぶりの三十三間堂です。駐車場の料金は無料なのですが、「40分以内でお願いします」といわれて、駐車券に『8時0分入場』と記入されました。
開門時間の8時になりました。一番に拝観券を買って、お堂へ…。
本堂の表側です →
このお寺の正式名称は「蓮華王院」。正面の柱の間が33あることから(ホントは後述するようにちょっと違う)、三十三間堂と呼ばれています。和様の入母屋、本瓦葺の総ヒノキ造りで、南北に約120mあります。堂内で100m走ができる、日本一長いお堂だとか。
裏(西側)の縁側で、「通し矢」が行われました。
本堂内には、一千一体の千手観音と、観音様をお守りする二十八部衆、そして風神・雷神像が祀られています。
← 堂内は写真撮影禁止のため、パンフレットより
東に向いたお堂の障子を通して照る朝日を受けて、ひな壇に並ぶ一千一体の千手観音様たちは、今にも歌い出すか、踊りだすかのように、華やかで楽しそうでした。
そして、この像は観音様をお守りする
二十八部衆のひとり「金色孔雀王」。パンフレットより →
兜に象を彫し、足にはブーツを履く…と解説にありました。
28部衆の中で、特にこの像を取り上げたのは、先日読み終えた三島由紀夫著「暁の寺」の中に、『ヒンズーの古い神々が、仏教世界へ音を立ててなだれ込んできた』その象徴として、孔雀明王経に詠われている「金色孔雀王」が登場するので、印象が強かったからです。
三島は、もとシヴァ神の妻カーリーの化神だから、金色孔雀王は女神だと書いています。
それにしても、この仏たちの包み込むような暖かさは、何なのでしょう。「サライ」にも、東から日の射す朝のうちに訪れよと書いてありましたが、障子戸から差し込む太陽の光に浮かぶ一千一体の千手観音像は、それぞれに異なるお顔立ちながら、一様にかすかな微笑を湛えて立ち、「これだけの私たちがいれば、恐いものは何もないのよ」と言っているような、慈愛あふれる暖かさに満ち満ちていました。
その前に立つ、二十八部衆と風神・雷神の生き生きと躍動感溢れるいでたちは、見るものの心を浮き立てる活動力がありました。
興味の尽きない仏様たちとの逢瀬だったのですが、駐車場の時間が気になって外へ…。本堂の東正面から南側を通り、裏へと回りました。
本堂の裏手 西縁 →
世に名高い「三十三間堂(蓮華王院)の通し矢」は、この縁側で行われました。
南から北へ射たといいますから、この写真の方向です。手前の南端へ座って、上半身のみで強弓を引き絞り、北端へと放ちました。
← 縁側の北端(的側)に掲げられている掲示板
西縁は、全長(小口から小口まで)121.7m、高さ4.5ー5.3m、幅2.36m。外縁の幅は約4.4mあります。
なお、長さについての通説である、「33ある柱間は長さ2間に相当するから、堂の全長は33×2×1.82で約120m」とする計算は誤りで、柱間は35あり、幅も中央3間を除き3.3mです。
西縁を北端から撮ったところ →
通し矢は、距離(全堂、半堂、五十間など)、時間(一昼夜、日中)、矢数(無制限、千射、百射)を組み合わせて様々な競技が行われました。半堂は堂の中程から射て半分の距離を射通した本数を競うもので、年少者が行いましたが、やはり全堂大矢数が通し矢の花形でした。
明確な記録が残るのは、慶長11年(1606年)の朝岡平兵衛(清洲藩、100本中51本を射通した)が最初です。
寛永年間以降は尾張藩と紀州藩の一騎打ちの様相を呈し、次々に記録が更新されました。寛文9年(1669年)5月2日には尾張藩士の星野茂則(勘左衛門)が総矢数10,542本中8,000本を通しましたが、貞享3年(1686年)4月27日には紀州藩の和佐範遠(大八郎)が総矢数13,053本中8,133本を通して天下一となりました。これが現在までの最高記録です。
← 本堂と前庭です。
9時10分、三十三間堂をあとにしました。圧倒的な数の千手観音様、躍動感あふれる風塵・雷神、さまざまな表情に魅せられる二十八部衆像など、まだまだ尽きない興味があったのですが、駐車場40分がネック…。もうすでに70分…、30分もオーバーしています。
駐車場では時間をチェックされるわけではないのですが、40分…と言われると急いでしまいます。このたくさんの仏様たちとの至福のときにひたるには、もう少し時間が欲しかったですね。
午前9時30分、東海道線を南に渡り、「東福寺」へとやってきました。これまで何度となく京都を訪れているのに、このお寺は今まで訪問したことがなかったのです。
西の「日下門」から境内に入って、東司の南側の駐車場へ車を停めさせてもらいました。
東司とはトイレのこと。でも、あなどってはいけません。ここのトイレは、室町時代から唯一伝わる日本最大最古の禅宗式の東司(トイレ)の遺構で、多くの修行僧が一斉に用を足すことから「百雪隠(ひゃくせっちん)」とも呼ばれる文化財なのです。
「百雪隠」は、写真左の建物です。 →
← 車を降りると、目の前に「三門」がそびえています。
その大きさに、ただただビックリしてしまいました。
東福寺は、元応元年(1319年)の火災をはじめたびたび焼失していますが、この三門は応永32年(1425年)の再建で、現存する禅寺の三門としては日本最古のものだとか。上層には釈迦如来と十六羅漢を安置する、五間三戸二重門です。
本堂(仏殿兼法堂) →
明治14年(1881年)に仏殿と法堂が焼けたあと、大正6年(1917年)から再建工事にかかり、昭和3年(1934年)に完成しました。入母屋造、裳階(もこし)付き。高さ25.5m、間口41.4mの大規模な堂で、昭和期の木造建築としては最大のものと言われています。
天井の竜の絵は堂本印象筆。本尊釈迦三尊像(本尊は立像、脇侍は阿難と迦葉)は、明治14年の火災後に万寿寺から移されたもので、鎌倉時代の作だとか。
今日は、ご本尊は修理のためご出張中でした。
方丈の南庭 →
荒海の砂紋の中に蓬莱、方丈、瀛洲、壺梁の四仙島を表現した配石で、右方には五山が築山として表現されているという。
ただ、僕には枯山水の趣向がいまひとつよく解らない。自然に存在する数多くの山や川、滝などのなかから特徴的な姿の抽象的表現を極限までつきつめると、石ひとつで山ひとつ…あるいは風景全体…ひいては全宇宙を表すとなるのでしょうが、毎日眺めながら、四季の移り変わりを観るところに庭園の美はあるとと思うのです。
砂と石に、何の情緒があろうか…と言っているのは、抽象美を理解しようとしない、僕の修業が足らないところでしょうか。
← 北庭
北庭は、南の恩賜門内にあった敷石を利用し、正方形の石と苔を幾何学的な市松模様に配しています。
西庭は、さつきの刈込みと砂地が大きく市松模様に入り、くず石を方形に組んで井田を意図しています。
東庭は、東司の柱石の余材を利用して北斗七星を構成し、雲文様の地割に配しています。
昭和の名庭園師とうたわれた重森三玲によって昭和13年(1938年)に作庭され、方丈を囲んで四つの庭を合わせて、釈迦成道(八相道)を表現し、「八相の庭」と命名されています。
「偃月橋」を渡ったところ、本坊庫裏の背後に
位置する塔頭「龍吟庵(りょうぎんあん)」→
この庵は、東福寺三世・南禅寺開山である無関普門のご住居・塔所(墓所)として、入寂直前に創建されました。
東福寺塔頭の第一位寺院で、室町期に造営された方丈は、書院造と寝殿造りが融合した、現存する日本最古の方丈建築として、建物全体が国宝とのことです。
毎年11月に一般公開されていて、ちょうど拝観することができました。
← 龍吟庵 西庭 (龍門の庭、清光苑)
龍吟庵の寺号に因んで、龍が海から顔を出して黒雲に乗って昇天する姿を石組みによって表現しています。竹垣には稲妻模様が施されています。
龍吟庵には、南・西・東にそれぞれ枯山水の庭があります。
南庭(無の庭)
… 方丈の前庭で、白砂を敷いただけのシンプルな庭になっています。
東庭(不離の庭) … 大明国師が幼少の頃、熱病にかかって山中に捨てられた時、二頭の犬が国師の身を狼の襲撃から守ったという故事を石組みで表しています。鞍馬の赤石を砕いたものを用いた、カラー版の枯山水です。 いずれも、重森三鈴の作です。
次に、本房の東に架かる、「通天橋」を歩いてみました。
橋の南端に拝観受付があって、通橋料を払います。→
「通天橋」は、仏殿と常楽庵の間を隔てる渓谷「洗玉澗(せんぎょくかん)」に架けられた橋廊で、天授6年(1380年)に春屋妙葩(しゅんおくみょうは)が谷を渡る労苦から僧を救うため架けたと伝えられます。
昭和34年(1959年)台風で崩壊しましたが、2年後に再建、その際に橋脚部分は鉄筋コンクリートとなりました。
← 「通天橋」の左右は、楓の木々がびっしりと…。
境内には宋から伝わった「通天モミジ」と呼ばれる三葉楓(葉先が3つにわかれている)など楓の木が多く植えられていて、紅葉の季節にはたいへんな賑わいをみせます。
もとは桜の木が植わっていたのですが、「後世に遊興の場になる」という理由で伐採され、楓の木が植えられたとか。
「通天橋」の中ほどの物見台から、
「洗玉澗」を見渡したところ →
紅葉のころの素晴らしさはいかばかりかと思われますが、今日も清々しい緑が広がっていました。
かすかに屋根が見えるのは、寺の外の一般道にかかる「臥雲橋」の屋根です。
洗玉澗一帯に繁る楓は俗に「通天紅葉」と呼ばれ、開山聖一国師円爾弁円が宋より持ち帰ったものと伝えられています。葉は三つに分かれ、黄金色に染まるのが特徴で、数は二千本に及んでいるといいます。
← 楓の上に、方丈の屋根が浮かんでいます。
圧倒的な楓ですね。
これが紅葉すると思うと…。→
← 常楽庵
主要伽藍の北側に洗玉澗渓谷を挟んで位置し、開山円爾像を安置する開山堂とその手前の昭堂を中心とした一画です。
「通天橋」は、御堂とこの庵を結んで架けられているということですね。
開山堂・昭堂 →
文政2年(1819年)焼失後、同9年(1826年)までに再建されました。
開山堂の中央部分は2階建の楼閣となっており、伝衣閣(でんねかく)と称します。金閣(鹿苑寺)、銀閣(慈照寺)、飛雲閣(西本願寺)、呑湖閣(大徳寺塔頭芳春院)と並び、「京の五閣」といわれています。
常楽庵から御堂へ戻る道は、通天橋を通らずに、洗玉澗へ降りて渓谷を渡る道を歩いてみました。
← 渓谷から、通天橋を見上げたところです。
あまり、風景の写真ばかりではと思い、及ばずながら(…?)特別出演です(笑)。
洗玉澗の渓谷から御堂へ、楓林の中を戻ります。→
ここで一旦、東福寺から西へ出て、先ほど通天橋から見えていた、一般道に架かる「臥雲橋」を渡ってみました。
← この橋は一般道ですから、
自転車やオートバイも通って
いました。
先ほど通った「通天橋」が
見えています。 →
圧倒的な楓林です。ここから見る紅葉も見事なことでしょう。
その昔は、桜の木も見事だった洗玉澗だったと伝えられますが、今は一本も桜はありません。
室町時代、東福寺の画僧吉山明兆が、時の将軍足利義持からその画の素晴らしさを讃えられ、褒美を何なりとといわれたとき、「桜の木を切ってください」とお願いしたのだそうです。
明兆は、桜に人々が浮かれるのを、仏道修業の妨げになると考えたのでしょうね。
因みに、この写真の真ん中を流れている…東福寺の境内を流れ、御堂と開山堂との間に渓谷を刻む川を、「三ッ橋川」と言います。もちろん、「通天橋」「堰月橋」「臥雲橋」の三つの名橋が架かる川という意味の命名でしょう。
臥雲橋を渡って、そのまま北へ上り、「泉涌寺」へと歩きました。地図で見ると近いのですが、東山の傾斜地にあり、また京都の古い住宅地の中の小道を地図も持たずに歩いていったので、袋小路にぶつかって引き替えしてきたりして、結構、時間がかかりました。
やっとたどり着いた泉涌寺道の入り口(総門)から、まだ延々と塔頭寺院が並ぶ参道が続き、泉涌寺の大門ははるか彼方でした。泉涌寺も、これまた大きなお寺です。
← 途中の「悲田院」に寄りました。
悲田院(ひでんいん)とは、仏教の慈悲の思想に基づき、貧しい人や孤児を救うために作られた施設のことで、聖徳太子が隋にならい、大阪の四天王寺に建てられたのが日本での最初とする伝承があります。
この寺の寺伝にも、聖徳太子が鴨川河畔に身寄りの無い老人や子どもを収容するために建てられたのが、この寺の始まりとありました。
東山連峰の最南端、月輪山の中腹に位置する
この寺の境内からは、京都盆地が一望されます。 →
「大文字の送り火の夜に、またおいでなさい」と住職は言ってくれました。
↓やっと泉涌寺の大門に着きました。↓
泉涌寺は、律を中心として天台、東密(真言)、禅、浄土の四宗兼学(または律を含めて五宗兼学とも)の道場として栄えました。
歴代天皇や皇族が多く山内に葬られているため、皇室の香華院(こうげいん)となり、「御寺(みてら)泉涌寺」と尊称されています。
(「香華院」とは、香をたき、花を供える場所、すなわち、先祖が眠る寺の意です)
仏殿とそのむこうは舎利殿 →
寛文8年(1668年)、徳川家綱の援助で再建。内部は禅寺風の土間とし、柱、窓、組物、天井構架等の建築様式も典型的な禅宗様式です。
ご本尊は、過去・現在・来世を表わす釈迦・阿弥陀・弥勒の3体の如来像を安置していますが、中心仏の釈迦如来像は、修理出張中でした。
← 御座所庭園
仏殿・舎利殿の背後に建つ御座所は、女官の間、門跡の間、皇族の間、侍従の間、勅使の間、玉座の間などがあります。玉座の間は、天皇皇后が来寺した際に休息所として使用される部屋です。
平成期に入ってからは、即位報ご告(1990年)、平安建都1,200年記念(1994年)、在位10年のご報告(1999年)などの際に、今上天皇が泉涌寺を訪問され、この部屋を使用されています。
御座所の屋根の上に、紅葉が色づいていました。→
もう1ヶ月もすれば、京都は燃えるような紅葉の季節を迎えるのでしょう。
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楊貴妃観音、パンフより |
大門のすぐ左手に「楊貴妃観音堂」があり、その御名のとおりの美人観音様がいらっしゃいます。
建長7年(1255年)この寺の実質的な開基(創立者、鎌倉時代)である月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)の弟子湛海が仏舎利とともに中国・南宋から請来したものだとか。
作風、材質など、明らかに日本の仏像とは異質で、寺伝どおり中国・南宋時代の作と考えられます。長らく100年に一度だけ公開する秘仏でしたが、請来から700年目の1955年(昭和30年)から一般公開されています。
「さすがに美人ですね」と観音堂の守人のおじさんに声をかけたら、
「京都一ですわ」と鼻が高そうでした。
東福寺へ戻り、車に乗り込む前に、雪舟ゆかりの寺「芬陀院(ふんだいん)」へ寄りました。
ここは元亨年間(1321-1324)に当時の関白であった一条内経が父の菩提を弔うために創建した塔頭で、水墨画を大成した雪舟の作と伝えられる名庭があることから雪舟寺とも呼ばれています。
← 雪舟作と伝えられる前庭、
石組みで鶴と亀を表していて
「鶴亀の庭」と呼ばれています。
雪舟が少年時代をすごした岡山県の「宝福寺」は東福寺の末寺であり、雪舟が本山へ来たときには、この寺に起居していました。
茶室「図南亭」の丸窓から見る東庭 →
この東庭は、荒廃していた雪舟庭園(南面前庭)を重森三鈴が復元修理したとき、新たに彼が作庭したものです。
昨夜、僕が見ていた「サライ」の表紙に用いられていたのが、この芬陀院の丸窓の写真でした。このスナップに惹かれて、急な京都行を思い立ったという部分もありますね。
時刻はお昼過ぎ…。東福寺に戻って、もう一度、巨大な山門をパチリ…。
「秋、紅葉の盛りに、もう一度呼んでくださいね」と頼んでおきました。
南区の1号線沿い、中華料理「あたか飯店 京都店」で遅いお昼ご飯を食べて、そのまま南へ下がり、京都南インターから名神高速道路に乗って、帰途に就きました。
土山SAあたり、前方に浮かんでいるのは夏の雲…? →
帰りも50分ほど…。夕方には帰り着き、諸見里しのぶの日本女子プロぶっちぎり優勝を見ていました。
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← 閃光がとても明るい![]() 形の美しい花火です↑ |
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