第9日 9月21日(土) ベネツィア 〜 ベルガモ
北イタリア、アルプスの裾野を東西に走る国道A4を、ミラノに向かう。
イタリアの交通事情について書いたものに、「イタリア人は格別スピード狂が多いので驚くが、スピード感覚に優れている彼らは、彼らなりに運転に慎重である。 … ナポリやパレルモなどでは無謀運転が多いので注意が肝心である」とあった。北部イタリアの運転手はおとなしいということか。
それでも、140Km/hほどで走っている章くんたちを、左の車線を走る車は一瞬にして抜き去っていく。
この日、途中で事故を2件見た。2つとも消防車が出動していた。ラテンの事故は、起きたら黒こげ…。半端な走りはしない!
ハイウエイでの事故。車は黒こげ、
消防車も来ている →
途中、どこからが有料道路だったのかよく解らないのだが、とにかく出口の料金所で、カード決済専用のゲートに入ってしまい、立ち往生…。
イヤホーンで、「I have no card.」と言ったら、ゲートを開けてくれた。
『このまま逃げるか』とも考えたけれど、ゲートを開けてくれた恩義を仇で返すことになるので、横の管理事務所へ行って支払いしてきた。
午後6時過ぎ、ベルガモに入った。ここからミラノ「マルペンサ空港」はもう目と鼻の先…。今夜はこの町で、宿をとることにした。
飛び込んだのは、3つ星「ホテル・アリ(ARLI)」。→
シングル3部屋が空いていました。
部屋へ荷物を置いて、早速に町へ出た。ベルガモはイタリア共和国ロンバルディア州ベルガモ県の県都。6世紀頃より城壁が築かれ、北イタリアの需要拠点として栄え、12世紀にはロンバルディア同盟に加わって、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世を撃退するなど、歴史の舞台に登場している古都である。
古い城壁に囲まれた旧市街のチッタ・アルタと呼ばれるベルガモ・アルタと、道路・鉄道が通る新市街のチッタ・バッサと呼ばれるベルガモ・バッサとに分けることができる。
今夜は、イタリア最後の夜である。イタリアンの名品を何か買って帰ろうかと思って(章くん、ホントは土産を買う気など、サラサラ無いんだけれど)商店街を見て歩いたのだが、午後6時を過ぎていると、ほとんどの店が扉に「CLOSED」の看板をぶら下げて閉店している。中に女の子が居るのが見えたので、ウインドウの洋服を見せてくれと言ったのだが、「明日、また来てください」と素っ気無かった。
それでも、イタリアの服飾品や陶磁器などを並べている店をのぞいて歩くのは、結構楽しかった。
町中に洒落たレストランを見つけて入ってみた。→
章くんたちが訪れたころは、店内は5割の入り…。それが8時を過ぎた頃になると、満席になった。やっぱり夕食タイムは午後10時ごろがピークなのだ。
← 橋っさん、メニューにあった「薄肉の塩コショウ
焼」というのを頼んだら、長い木の棒に巻きつけて
焼き上げた一品が出てきた。
「何として食べるンや」て言いながらかじりつい
ているのを見て、周りの客もゲラゲラ笑っている。
地元の人も、あまり頼んだことの無いメニューなの
だろうか。
でも、章くん、ひとかじりさせてもらったけれど、塩コショウの味付けと焼き上げた肉の香ばしさがマッチし、加えて木の香りがどこかに漂っていて、結構美味しい出来栄えだと思った。
第9日 9月22日(日) ベルガモ 〜 ミラノ 〜 モスクワ 〜 関空
ヨーロッパ最後の朝を、古都
ベルガモで迎えた。
章くんたちが泊まったホテルのある新市街地は、交通の要所として近代的な町が発展しているのに対して、高台に見える山の手一帯は城壁が周りを取り囲む中世そのままの町…、古い教会、歴史ある建物、石畳の
道がそのまま残っているという。
歴史好きの章くん、こりゃぁ見てみないわけには行くまい…と、6時前にみんなを起こして、ベルガモ歴史地区散策に出発した。
車で10分ほど、坂道を登っていく。ケーブルカーもあるそうだから、車でない人はそちらで優雅に登るとよい。
旧市街地は城壁で囲まれている(今は崩れ落ちているところも多いけれど)。入り口の門は、車でくぐることができる。
城門をくぐると、ベルガモの旧市街は中世そのもの。
古い石造りの館、石畳が続く →
← ベルガモ・アルタの中心
ヴェッキア広場
サンタ・マリア・マッジョーレ教会や、
コッレオーニ礼拝堂がある。
車を停めて、車窓から眺めていたら、すぐに警備員(?)が飛んできて、「No.parking」と追い払われてしまった。
城内で道に迷ってしまい、朝の散歩をしている人に尋ねたら、とんでもない細い道を教えてもらった。ダートロード・ラリー選手の隊長、2cmほどの間隔で石の建物の間をすり抜け、やっと下町へと出てきた。
ここからミラノ・マルペンサ空港までは、30分ほどである。
道に迷うこともなく空港へ到着。エイビスの営業所へ車を返した。
ボローニャのホテルの駐車場で、右前を擦って傷がついている。「何か言われるかなぁ」、「もし免責とか、負担があれば、みんなで出し合えばいいんだから…」などと言いながら、係のお兄ちゃんに言うと、「Non,ploblem(問題ない)」という返事だ。
「当たり前や、何のための保険じゃい」と隊長、急に元気になった。
空港のAVIS営業所へ車を返した →
12時15分、章くんたちを乗せたアエロフロート・イリューシン機は、ミラノ「マルペンサ国際空港」を飛び立った。
← マルペンサ空港では、飛行機まで
歩いていく。
後ろはアリタリア航空機だが、章くんたちが乗ったのは、もちろんアエロフロートだ。
モスクワ行きの飛行機には、黒いコートに満面の髭を蓄えたロシア正教会の牧師さんの一団や、イタリアファッションをたくさん仕入れたのだろうか、大きな布袋を抱えた人たちが乗り込んでいた。
モスクワ空港での降り際に、イリューシン機の
コックピットに座らせてもらった。
ペレストロイカ以後、ロシアも変わったな…
と思ったのだけれど →
モスクワ空港で5時間待機…、パリから来る人たちと合流して、アエロフロート関西空港行きに乗る予定である。
モスクワ空港での5時間待ちは長いけれど、帰りはファーストクラスだったので、専用待合室で飲み放題食べ放題で5時間を過ごした。
それでも、ソ連の空港職員の態度はカンジが悪い。まず、ファースト専用待合室へ行くと、欧米人はノーチェックだが、アジアや黒人には明らかに態度が悪い。章くんたちにも、搭乗券を見せると、係のおばさん、ファーストクラスを表す『F』を見て、「ホントに『F』なの…。『P』じゃないの」と一言…。
「『P』だって…。アエロフロートには等級で『P』なんて記号があるのか。どんなクラスを表しているのか言ってみろ」…と言いたいところだったけれど、ここはソ連、国家公務員である空港職員に暴言を吐いたとあらば国家反逆罪で捕まるかもしれない。第一、まくし立てるほどの英語力も、ロシア語力もない。
「Wat's mean 「P」?」(Pって、何のことだ)と言うのがやっと…。悪態をついたおばさん、搭乗券をポンと投げ返してきた。
モスクワ空港 ファーストクラス待合室 →
ゆったりしたソファ…、フカフカの絨毯…。
「ベッドはないのか?」と言ったのだが、
そこまでは、用意してないらしい。
やがて、パリからの便も到着して、空港内は人の波で
混雑…。
ファーストの待合室は飲み放題、食べ放題…。
あまりに飲み食いするからか、ウエイターが姿を
くらましたので、自分たちで勝手に冷蔵庫を空けて、
好きなものを食べていた。 →
と、ここで事件発生! 「日本で死者6人を出す台風が本土を縦断…、特に関東の被害は甚大で成田空港は封鎖、成田へ帰る人たちはいつになるか見通しが立たない」という。
ほどなく、関空便も2時間遅れとのアナウンスが流れ、待ち時間はさらに延長である。
日本へ向かう便は関空行きも成田行きも、いつ飛ぶのか解らない。待機のみんなに食券が配られ、パンとライスに、鶏のもも肉とサラダが添えられた食事が出された。
モスクワ空港の炊き出しは大忙しである。長蛇の人の列の中ほどで、パンもライスも、もも肉もサラダも、残り少なになってしまった。すると、配膳係りのおばさんたちは、いとも簡単に、「ここからあとは、パンかライスのどちらか。おかずも、もも肉かサラダのどちらか」とやおら宣言。ソ連時代の公務員の感覚そのままで、食事を配給してやっているというカン
ジだ。
しかし、文句を言うほどのロシア語は知らず、平均90キロはあろうかというスラブの年増たちに抗議のまなざしをぶつけるだけ…。それも、目が会うと伏し目がちになってしまうところが、島国育ちの情けなさである。
モスクワ空港で出された食事 →
トリのもも、パン1片、紅茶一杯
やっと、関空行きの搭乗が始まった。まだ、見通しの立たない成田行きの皆さんごめんなさい。
アエロフロートのファーストクラスの座席は12席。広くて、もちろん180度身体を伸ばして寝られる。
食事は熱いスープから始まるディナーで、肉や魚の料理は何種類か用意されているものをワゴンで運んできてくれて、「どれとどれがよろしいですか」と聞いてくれる。これで、「チキン、オア、ミート?」のエコノミー席よりも14000円増し…、いいのか、そんなに安くて? 廃線になるのじゃな
いか…(もうなってる)。
← 座席は広い。当たり前か。
ジェシカというスチュアーデス嬢が、付きっきりで世話をしてくれた。降りるときに、「ありがとう」と握手をしたけれど、その手の意外に冷たかったのが印象的であった。
眼下に和歌山市が見えてきた。関西空港は、もう間もなくである。
マロニエの落ち葉鳴る
花の都パリ、
山あいの花園スイス「ローザンヌ・ゴルフクラブ」、そして、
中世ロマネスク文化の華ミラノ、
水上のまぼろしベネッイア … まさに絢爛にして華麗、豪壮にして幻想的な、ヨーロッパの旅であった。
「イタリヤで幸福を知った人は、生き方のコツを学んだようなものだ」と書かれた書物も読んだ。
接するもの全てが、民族の興亡と歴史の奔流に耐えて、今、私たちに語りかけるものたち…、シーザーのガリア戦記の1ページであり、メディチ家の栄華であり、ナポレオンの軍靴の響きであり、マリーアントワネットの涙であった。
それではまた、来年、お目にかかりましょう。
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