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     1996年(平成8年)9月14日(土)〜23日(月) 改訂版  


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ヨーロッパ・ゴルフ紀行
 【この旅行記の写真は1眼レフで撮ったものを焼き付け、それをスキャナーで取り込みました。
  写真にカーソルを当てたとき、手の形に変わったら、大きい写真にリンクしています。】

第1日 1996年9月14日(土)
 
出発  アエロフロート ビジネスクラス


ヨーロッパ地図    この地図は隊長のページから拝借! 

 今年はヨーロッパ行きである。フランス・スイス・イタリアの数都市を巡り、4ラウンドのゴルフをする予定。参加メンバーは、村上隊長・橋っさんと章くんの3人だ。

 関西空港を午後11時10分のフライト予定。9時過ぎに空港に着いて搭乗手続きを済ませ待合室に行くと、窓ガラス越しに機体が見えた。「あれかなぁ」と橋っさんに言うと、「こんな小さいのでは、遠いとこまでは飛べやんぞ」。
 エアロフロート
 でも、飛んだ。離陸後1時間、「機内サービスを予定していますが、機体が揺れてできませんのでしばらくお待ちください」と、片言の日本語でのアナウンスがあった。

← アエロフロート(ロシア)SU548便 
   
往路はビジネス、帰路はファースト
   クラスで、パリ往復158000円だった。
   今はもうこの航路はない


 12時30分、機内食が配られる。隣は理子(りこ)ちゃんという石川県の銀行員。1週間の休みを取って、大好きなパリへひとり旅するのだと言う。「フランスへ行ったら、『シルブ・プレ、ボンジュール、メルシー、コンビァン』は必須です」とフランス語会話の要点をレクチュアーしてもらった。

 モスクワ時間午前4時00分(日本時間午前9時30分)、日本を出てから10時間、モスクワ空港に着いた。雨…、窓からのぞく滑走路は濡れて、寒そうであった。
 ここでトランジット(乗り換え)、成田からの便などを待って、パリ、ロンドン、ローマなどに振り分けるのだ。

            モスクワ空港で乗り換え →

 パリ行きの飛行機の出発は6時30分。2時間30分の待機である。

 モスクワ空港の構内では、2日に1便、3日に1便の飛行機を待つのだろうか、床に座り込んで食事する家族連れ、毛布を敷いて寝込んでいる4・5人ほどの若者たちなど、小奇麗な日本の空港とは異なる、ソ連の現実があった。

 モスクワ空港内の喫茶コーナーでコーヒーを飲もうということになったのだが、ルーブルの持ち合わせがない。隣にいたどこかの旅行社の添乗員くんに、「ルーブル持ってる?」と聞くと、「米ドルでも通用しますよ」と言う。「米ドル…、君、持ってる?」とまた聞くと、「持ってます」と言う。「じゃあ、払っといてくれる?」とさらに聞くと、「エェッ!モスクワ空港の喫茶コーナー」とヒビッた。
 ケチッ! 遠いモスクワでめぐり合った日本人同士、コーヒーぐらいおごってくれてもいいんじゃないか。「じゃぁ、替えてくれる?」と両替してもらって、コーヒーを飲んだ。苦い、マルクスの味がした。

← モスクワ空港のカフェ 午前4時

 やがて、パリ行き便の搭乗案内が始まった。ここに至って初めて章くん、トランジットは飛行機が替わることに気づいた。
 1枚のチケットで座席も同じだから、いったん降りてまた同じ飛行機に乗るのだと思っていたのだ。だから座席へ、ペットボトル、スリッパ、貰い物の旅行セット、それに雑誌「月刊現代8月号」も置いてきた。締めて、1750円ぐらいの損害である。

                  
第2日 9月15日(日)  
ヨーロッパは、街が美術館


 モスクワから3時間、日本を発ってから16時間。パリ時間の午前8時40分(日本時間午後3時40分)に、シャルル・ドゴール空港に着いた。
 入国審査はいつも緊張する。でも、ここではいたって簡単…、「メルシー」とすぐに通してくれた。
 出てきた空港ロビーは人種の坩堝(るつぼ)だ。ターバンを巻いた白服の髭男たち、素敵なスタイルのニガーの女性、大きなトランクを引きずるビジネスマン、犬を連れたフランス人女性、その間をローラースケートの男の子たちが駆け抜けていく。
 向こうからやってくるのは、カーキ色の制服に身を固めた、白人男性と黒人女性の警備員…。その手には自動小銃が握られ、鋭い眼光を周囲に配っている。今も派兵している1994年のルワンダ虐殺など、1970年以後30以上もの国際紛争に介在してきたフランスの宿命が、そこにあった。

    AVISの空港営業所でレンタカーを借りた。→
 


 

 

← シャルル・ドゥ・ゴール空港の駐車場から
 出発。
      

 
 パリは快晴…。いよいよヨーロッパ第一歩で
ある。


    シャルル・ドゥ・ゴール空港から
     パリ中心街へ向かう高速道路A1 →


 フランスのフリーウエイも原則はタダ…(一部に有料道路があった)。ここA1は片側3車線、路側にはガソリンスタンドなどもあって、この道路から直接入れる。


 しかし、この旅のドライブも、レンタカー屋で貰った地図一枚…。しかも慣れていないフランス語の標識は読みづらく、走り出してすぐに迷った。
 20分も走ればパリの市街地のはずが、2時間ほどあちらこちらと走り回った。
 



 迷走したおかげで、パリ近郊のいろいろな風景を見ることが出来たというべきか…。

 街角の植え込みが、ペンギンになっているよ →
 


 迷走2時間ののち、パリ北東部の住宅地にある原田画伯のお宅に到着。画伯は、隊長の美大での同級生、芸術への志(こころざし)高く、パリ在住25年である。町を案内してもらったり、ゴルフ場の手配をお願いしたりと、この旅でたいへんお世話になった。
 まずは、お昼をご馳走になってしまった。
 
 
 午後は、原田画伯の案内で、パリ見物へと出かけた。

   見えてきたのは、バスティーユ広場の記念塔 →

 フランス革命の発端となったバスティーユ監獄襲撃を記念する塔であり、監獄はこの塔が立っているバスティーユ広場にあった。

← 正面にサンジャック塔(1797年に取り壊されてしまったサン・ジャック・ド・ラ・ブーシュリ教会 の鐘楼部分が生き残ったもの。かつてスペインの聖地サン・ティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう巡礼路の出発点だった)が見えている。
パリの街並み
 
 

  街角にはモニュメント。建物の一つ一つに彫刻が
   施されていて、ヨーロッバの町は全体が美術館だ →


 「アッ、あれは何…?」と章くんがはしゃぐものだから、車は右へ左へとハンドルを切っていて、あとで振り返ってみても、どこをどう走ったのか、たどることができない。


← パリ市庁舎。屋根に三色旗が翻っている。

 ということは、「リボリ通り」を西に向かっているということか。やがて、「ルーブル美術館」があり、「凱旋門」見えてくるはずだ。
 


 この日、パリを案内していただいた原田画伯は、パリ在住25年になるそうだが、長いパリ生活の間に、一度もルーブル美術館へ足を運んだことはないと言われる。芸術家とは、そんなものなのだろう。
 隊長も、芸術家の端くれ…。したがって章くんたちのこの旅では、ルーブル訪問は毛ほどの可能性もなかった。                    
凱旋門
 コンコルド広場を抜けて、シャンゼリゼ通りを更に西へ…。行く手に「凱旋門」が見えてきた。

← 凱旋門 上へ登れるんだって


 「凱旋門」を過ぎたところで鋭角ターン…。パリ発祥の地である、セーヌ川の中洲「シテ島」へ渡って、ノートルダム大聖堂を拝観するためである。



            ノートルダム大聖堂 

 大聖堂の前の駐車場に車を停めた。1163年に着工し、1345年に完成、建築に約200年を費やしたこの大聖堂は、中世のゴシック建築を代表する存在で、仰ぎ見ると歴史の重みが迫ってくる。
 フランス革命中は彫像が破壊されるなど大きな被害を受けたけれど、ナポレオンの戴冠式が行われたり、ヴィクトル・ユーゴーが「ノートルダムのせむし男」の舞台に描いたりして、その知名度は高まるばかり。今でも、カトリックのパリ司教座聖堂(パリ教区の統括)であり、周辺の文化遺産とともに1991年にユネスコの世界遺産に登録された。
 パリから各地への距離は、ノートルダム大聖堂の前が起点となっている。
 
 
← ノートルダム大聖堂の内部
 
 ノートルダムは一冊の歴史書であるといわれるように、絶対王政・大革命・恐怖政治・ナポレオン帝政を経てきた大聖堂はさすがに厳かである。

 でも、トイレは有料。入り口におばちゃんがいて2フラン取られた。

 日が西に傾き、パリの町並みが少し赤みを帯びてきたころ、第6区カルティエラタンにある「リュクサンブール公園」へと向かった。
 ここはパリで一番大きな公園でパリ市民の憩いの場…。1617年、マリーメディチによって造られたフローレンス風のゆったりとした庭園である。木々の間を散歩道が延び、広い芝生広場、色とりどりの花たちが、パリ市民を待っている。四季を通じて花が咲きこぼれ、水鳥たちが羽を休める池には子供用のボートが浮かべられていて、家族連れの笑い声が聞かれる。木の下のベンチでは老夫婦が腰を下ろし、学生たちは芝生広場や園内のテーブルでノートを開いていリュクサンプール公園た。


   ユーゴーの『レ・ミゼラブル(ああ無情)』で、
  コゼットとジャ ン・バルジャンに マリユスが
  出会うのは、この公園だ。    





← リュクサンブ
 ール宮殿は、現
 在、フランス元
 老院として使わ
 れている。
 


   庭内でくつろぐ女子学生…。
    何でおじさん、近くで写真撮ってンの…? →


 庭園のあちこちに、合計100以上の彫像、記念碑、噴水がある。アメリカに贈られた『自由の女神像』の、最初のモデル、フレデリク・バルトルディ作(1870年)もここにあるというから、探してみるのも一興かもしれない。

 午後5時過ぎ、ホテルへ入った。章くんたちが、パリでの2夜を過ごす「ホテル・ラティテュード」はサンジェルマンデブレ地区の一角…、リュクサンブール公園からは車で数分の下町にある。
 

 荷物を下ろし、車を置いて、早速、夕食に出かけた。

 ヨーロッパは初めての章くん、柱も外壁も一つ一つが彫刻されたつくりのビルや家々が続く町並みに、改めて感動している。
 西欧の家は、石造りのゆえか、100年200年をかけて作るとは聞いている。おじいさんの代で基礎を敷き、お父さんが骨組みを、息子が装飾を整えて完成…といった調子である。柱の1本ずつにも、思いと歴史が篭っているのだ。
  
 街角のテラスでカフェ飯をバクついたあと、セーヌ川の遊覧船に乗ってみようかということになり、ボンヌフ新橋のたもとにある乗船場へ行った。

    乗船券を買った。後ろは今から出る
   クルーズ船。右後方に、ボンヌフ新橋
   が見える。            →


 乗船まで50分ほどの待ち時間。シテ島の先端に腰掛けて、暮れていくパリの町を眺めながら、時間を過ごした。



← 対岸には、ルーブル美術館のシルエット


 と、章くん、半袖シャツにセーターを羽織ったいでたちで、日が落ちると猛烈に寒くなってきた。ここで風邪をひいては、明日からの旅が台無しだ。

 初めてのパリで地理はわからないが、先ほど歩いてきたところを振り返ってみると、20分ほどでホテルへ着くはずだ。コートを取りに戻ることにした。
 「じゃあ、ホテルへ行ってくるから、遊覧船の出発時間までに戻らなかったら、待たずに出航してね」と言い残して、ホテルへ取って返した。もと来た道を、記憶を頼りに戻ると、20分少々かかっている。クルーズの時間まで、あと20分を切っている。
 乗船場への帰り道、章くん、エィッと知らない角を左に曲がった。とにかく、左に曲がればセーヌ川にぶつかる。川沿いに下れば乗船場に着くはずだ。もと来た道を戻っても、もう間に合わないのだから、とにかく近道して時間を稼ぐしかない。途中で道を聞くにも、言葉が分らない。自分の勘を信じて行くしかない。
 章くん、世界のどこへ行っても地理には自信があるのだけれど、なにぶんにも初めてのパリである。小さい露地を、右、左と曲がって、小走りに急ぐ。程なく、セーヌの河岸へ出た。ドンピシャの乗船場の前だった。
       

← 遊覧船は吹きさらしの甲板のベンチだ。
 章くん、コートを取りにいって正解…。
 ほらね、着てるでしょう。


 女性のガイドさんが説明してくれるのだけれど、
フランス語である。「右に見えますのが、オルセー美術館。もと、鉄道駅舎であった建物を…」と言っているのだろうけれど、さっぱり分らない。それでも、乗客のおばちゃんの質問に答えて笑い合っている光景は、見ているこちらも何となく可笑しい。
 
 明かりに浮かぶパリの町は幻想的だ。次々とその下を通過する橋のそれぞれにも、第二次世界大戦でロンメル将軍のドイツ北アフリカ軍団と戦ったビル・アケムの戦い(エジプト)を記念するために改名した「ビル・アケム橋」、ナポレオン時代の1806年イエナ・アウエルシュタットの戦いの勝利から取られた「イエナ橋」(エッフェル塔のすぐ前)など、歴史が刻まれている。

 そして、やってきたエッフェル塔は、組み上げられた鉄骨の一本一本がキラキラ輝いて、文字通りの光の塔…。すごくロマンチック…。

        ↓光り輝くエッフェル塔 見えますか? →


 男同士でこの遊覧船に乗ったものは、誰でも
 「なんで俺は、こんなおっさんと
  来ているんだッ!
と、叫ぶことだろう。

夜のエッフェル塔
  
陸に上がってから
  撮ったのを、
  どうぞ   →

  帰り道、「ラーメン」と書いた赤いちょうちんを見つけて、入ってみた。味は…、う〜ん、フランスまで来てラーメンを食べることが間違っているのだ。
 『まぁ、こんなもんやろ』と言いながら、ホテルへ戻った。


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