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【207】 復興に向けて      2011.05.21
  
- 民主党内閣には、政権担当能力がない -


 「菅さん、あなたの存在こそが、日本の不安材料だ」という声が、あちらこちらから聞こえてくる。政権交代以来、民主党政権は、最大の政治課題であった景気回復や雇用問題に好転材料を見出すことができないばかりか、高らかに掲げた公約も何一つ実現できず、外交は日米間の信頼関係を大きく揺るがせたと思いきや、中国には小沢大訪問団やごり押しの近習平副主席の天皇陛下会談、そして尖閣土下座外交を繰り返す始末であった。自民党政権時代に根ざす問題も多いのだろうが、しかし、かけた国民の期待は大きかっただけに、鳩山・菅内閣の目も当てられない迷走振りには、失望を通り越してあきれ果てている。
 加えて3月11日の東北関東東岸大震災は、日本の存亡を問うような激震であった。震災の発生から2ヶ月を経た今、その復興に対する政治の努力はあまりにも稚拙であり、いまだに被災者のほとんどが、近隣の指定避難所やまた他府県の避難先に仮居住していて、先行きの見えない日々を送っている。
 さらに、初動態勢の失敗から、人災だとまで言われている「福島第一原発」の対応のまずさは、日本の原子力政策を根底から覆してしまったばかりでなく、東北地方の広い範囲を無人の荒野と化そうとしている。


 関東大震災の直後には「腐敗堕落した人間社会に対する天の戒め」という意味で用いられた「天譴論(てんけんろん)」が広く唱えられた。災害とは天が人に下した譴責であり、人々の贅沢や自由放縦な生き方に反省を促すのだと解釈されて、石原慎太郎は日本国民は反省しろと言ったと槍玉に挙げられ謝罪することになった。
 しかし、中国古典におけるもともとは儒教主義に基づく思想で、災害は「王道に背いた為政者に対する天の警告」というのが原義である。阪神大震災が村山政権のときであり、今回の東北関東大震災が菅政権のときであるというのが、何やら象徴的だが、この「天譴論」の説く意味はさらに、「天子の不徳によって人民が苦しむのだから、天子は以後、善政を敷くことによって天の意思に応えなければならない。それがその後の災害を予防できる唯一の道である」という人民救済の論理に繋がっていく。天の戒めを畏れて受け止め、為政者は徳を以って政治に当たり、人民はこころをひとつに合わせて復興に励まなければならないというのである。


 大震災以後の対応をみても、菅内閣の施策はお粗末に過ぎる。激震・津波に見舞われた東北東岸地域では、1ヶ月を過ぎてもまだ避難所生活者は万余を超え、その復興にはほとんど手がつけられていなかった。
 福島原発事故への取り組みは、4月10日、避難対象地区に入った日本文化チャンネルの調査隊の報告によると、「家族や家を失った人が、同じ被害を受けたほかの人のために黙々と片づけを手伝い、遺体捜索に手を貸している。ここに政府がかかわった気配は毛ほどもなく、言い知れぬ怒りと喪失感を覚えた。」「福島第一原発正門前では警備員が近づいてきて「引き返してください」と声をかけてきた。この警備の甘さ…、武装したテロ集団に占拠され、『要求を呑まなければ原発を爆破し汚染を日本全国に広げるぞ』と脅迫されたらどうするのか」と書いている。これが、復興を指揮しなければならない政府の、あるべき姿か!
 福島原発事故への対応は、遺憾ながら「菅政権を信用するな!」に尽きる。東電は3月13日には、福島第一原発の炉心の損傷度合いが1号炉70%、2号炉30%、3号炉25%であることを発表した。このことは炉内の放射性物質が、圧力容器→格納容器からは損口を通じて環境中に放出された可能性を示唆している。ところが、政府・原子力安全保安院は、なぜか『損傷は3%程度』と発表し続けていた。
 原発の安全は、経産省の外局に位置する「保安院」の管轄である。もともと原発の安全管理については、これをチェックする独立機関として「原子力委員会」と「原子力安全委員会」があるが、経産省はこれら2つの委員会から提言・管理の実権を奪い保安院の管轄としたが、当事者としての責任感の無さは目を覆うばかりである。
 例えば、昨年10月「原子力安全基盤機構」が、福島原発の2・3号機について、電源が全て失われる状態が3時間半続くと圧力容器が破損し、炉心の燃料棒も解ける。更に6時間50分後には、格納容器も高圧に耐え切れずに破損し、溶け出した放射能物質が外部へ漏れ出すという研究報告を出しているけれども、保安院は電源確保のための指導も対策も行ってはいない。責任は寺坂信昭保安院長、海江田万里経産大臣にあるのだが、対応振りを見ているとその自覚があるのかどうかはなはだ疑問だ。
 また、1979年のスマイリー島原発事故以来、多額の予算を投入して開発してきた、原発事故が起きたときに環境に放出される放射性物質の移動・分布の状況をリアルタイムに予測する「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)」は、事故発生後20分程度で結果を処理する能力を持っている。政府(気象庁)は、IAEAに対してはその予測結果を逐次報告し、それを受けて外国人の多くは80Km以上の遠隔地や国外へ避難したのだが、枝野官房長官が「20~30キロ圏内の地元市町村に住民の自主避難の促進をお願い」を出したのは、実に原発事故から10日以上が過ぎた、3月23日になってからである。
 そして、原発事故が起こった直後にはアメリカ・フランスからの支援の申し出を断り、事故後2ヶ月近くもたってから、「実は炉心融溶(メルトダウン)していました」などと発表する愚かさである。今、やっと立ち上げた復興会議の五百旗頭真(いおきべまこと)議長は、「具体的な議論はこれからやります。諸賢の英知をまとめていくのが私の役割」と、まるで臨場感のない他人事のような所見を述べている始末だ。(五百旗頭は元防衛大学学長で、田母神論文問題では田母神空爆長の引責辞任を主張した人物である)。
 菅首相は、復興策を検討・諮問するために、20余の復興関係会議を作っている。それでいて救援物資も義捐金も医療も行政サービスも被災地には届いていないし、ガレキの後片付けすらもできていない的外れな対応を見ても、また、震災後の統一地方選で突きつけられた厳しい評価から判断しても、民主党と菅政権は国民に信頼されていないし、当事者能力を保持してはいなくて、このままこの政権を抱えていくことは、日本の将来に対して大きな不幸であると断じざるを得ない。


 菅首相は突然に浜岡原発の停止を要請するとの談話を発表したが、果たして日本がこの先、原発なくしてやっていけるだろうか。
 原発の恐怖体験のあとだから人々の感情論は理解するとしても、使い放題に使ってきた電力の上に築かれた社会を大きく後退させることは現実問題として不可能であろうし、選択肢としても適当とは思えない。大震災後の産業の復興にも、都市機能の再生にも、そのための人々の活動にも、基本的に電力は重要である。
 市民活動家菅直人の、代替の電力供給の提示も、日本の将来像に言及することもない、唐突な浜岡原発停止要請によって、この夏、全国的に電力供給量が不足する心配が大である。わが国ほどの工業生産量を持ち、(改善の余地はあるというものの)消費生活が膨れ上がっている国で、北欧や後進国のような自然発電体制をとることは難しい。太陽光や風力による発電は、将来においても10%が限度であろう。
 また、火力発電に大きくシフトするのならば、石油・石炭を燃料とするのだから、輸入依存体質はますます加速するし、地球温暖化に対するCO2の削減など夢のまた夢である。原発なくして、国際公約が実現すると思っているのだろうか。
 安定的に原料が確保でき、安価に生産できる原発は、日本の将来にとって避けて通ることのできないエネルギーである。これからの原発は、立地を無人島に移すとか、建設・運営を全面的な国の責任の下で行うこと、安全管理体制を千年に一度の大災害のときも千に一つの事故を起こさないように百万分の一の確率を考えての安全策を示すことが必要であろう。
 さらに、東日本と西日本とでHZ(ヘルツ)が異なるという不具合も修正して、日本全国に電力が自由に供給できる体制を整えなくてはならない。そのうえで、電力会社のあり方も、地域独占形態をなくして自由に競争させ、好きなところから電気を買える形にするべきだ。地域独占が、驕りや動脈硬化的な甘えた体質を生むことに留意するべきだろう。


 日本は、この大災害を契機として、新しい国家の建設を図っていくことを考えなければならないと思う。
 贅沢に慣れた消費者である国民の意識の低さと無責任さも、大いに反省しなければならないところである。その生き方を問い直すところから国民意識を変革していくことを、教育や文化を見つめなおすことから始めていかなくてはならない。
 そして、国家観や歴史観のない…、責任感も先見性もない…、この菅政権に、日本の明日を委ねることを一日も早く辞めさせねばならない。この大惨事のときに首相を代えろという議論は控えよう…という主張もあり、ローマのことわざに「川を渡る最中に馬を代えるな」とも言うが、川を渡れない駄馬だということが解ったら、代えずにいたら駄馬もろともに流されて溺死する。
 阪神大震災のとき、村山内閣は危機管理が出来なかった。今回の大震災に、菅内閣は当事者能力の欠如を露呈している。事業仕分け大臣の蓮舫は自衛官の増員要求を切り捨て、自衛隊を「暴力装置」と呼んだ仙石由人元官房長官が官邸に戻り、自衛隊を憲法違反として救援活動を妨害した辻本清美が首相補佐官である。この政府の誤りは、結局のところ、理論ばかりを振り回して現実の世の中を見ようとしなかった旧社会党に、その要因があるといえるのだろう。


 今こそ、新たな国づくりのために、明確な将来像を示しえる新しい指導者のもとで、人々がしっかりと心を合わせて復興への槌音を響かせねばならない。そのための政治の責任は重い。



【206】 国難を言い訳にする民主党      2011.03.12


 民主党が、東北関東大震災の復興費用を捻出するためにとの理由で、「高速道路の無料化、子ども手当て、農家の個別所得保障」…などの廃止を打ち出した。所詮、国難を言い訳にする政治しかできない輩たちだったのだ。
 高速道路の無料化は、流通や交通の円滑化を図り、日本経済の活性化を達成するための政策ではなかったのか。子ども手当ては、子育て世代を援助し、少子化をくい止めて、日本の将来の安定を実現する重要な施策ではなかったのか。農家の個別所得保障は、農業構造を変革し、日本の農業の体質を強化して食料自給率の確保につながるものではなかったのか。
 すべて、お金がないからやめます…というのだから、容易に方向転換の出来る、バラマキの人気取り政策にすぎなかったということを証明したわけだ。
 国家の根幹を成す政策であれば、大震災の復興に取り組みながらも、政権与党としてやらなければならない責任のあることたちであるはずだ。東北関東の沿岸部の打撃が壊滅的ではあっても、岩手・宮城・福島・茨城などの県全体がつぶれてしまったわけでもない。日本全体の将来に関する必要な政策は粛々と進めながら、みんなの協力のもと、被災地の復興に取り組むという姿勢こそが正しいのではないか。
 お金がないからやめます…、語るに落ちるとはこのことである! 未曾有の国難を、これ幸いと自らの失政を隠す手段にしようとは、民主党とは政治家としての品格に欠ける輩どもの集まりだと評されても仕方がないのではないか。


【205】 東日本東岸大地震              2011.03.12


 11日午後2時46分、三陸沖を震源とする巨大地震があった。震度は、国内観測史上最大のM8.8とされ、東北地方の太平洋沿岸を巨大な津波が襲った。陸前高田市や大船渡市、新湊市などでは、町が消え去るほどの壊滅的な打撃を受けている。
 (13日に、震度はマグニチュード9.0に訂正された。この震度は、M9.5 チリ大地震(1980.05.22)、M9.3 スマトラ・アンダマン地震(2004.12.26)、M9.2 アラスカ地震(聖金曜日地震、1964.03.28)、M9.1 アリューシャン地震(1957.03.09)、M9.0 カムチャツカ地震(1952.11.04)と続く大地震ランキングで、20世紀以降の歴代5位に並ぶすざまじさである。)
 想定範囲内の堤防では、100年に一度の災害は防げないということか。自然の猛威の前には、人間の力はあまりに小さい…と言ってしまえばそれまでであって、それをも含めて最小限の被害に食い止める手立てを施しておくことが、想定の範囲というのではないのか。
 震度7という激震を受けて「福島第一原子力発電所」が爆発した。今のところ、何による爆発なのか判明していないが、この事故をみても、日本の国力・民力が低下していることを実感させられている。(13日、水素爆発と発表された。)
 日本は事故があっても、放射能漏れを起こすような事態は絶対に招かないという信頼があったのではなかったか。原発を管理しているものは、「大地震だ。原発を守れ。」と、必要不可欠な措置を遺漏なく講じ、原発に対する信頼を根本的に覆す放射能漏れという事態には絶対に至らせないという、関係者の意識と尽力があった。
 原発事故は食い止めねばならないという意思も、食い止めるためには何をしなければならないかという技術力も、大きく低下しているといわねばならないのではないか。
 戦後教育を受けてきたものたちの哀れさが垣間見られる。意思も、判断力も、実行力も低下した日本がここにある。国力も民力も退化した日本を、ここに見たような気がする。
 原子力発電所の建設を輸出しようという官民一体の取り組みがなされているが、この現状を見ては、世界の国々も信頼を寄せることはできまい。


 総額何10円もの大被害であろう。被災された人々の今後に対しても再生への配慮・援助が必要だろうし、日本経済の生産力・製造力は低下し、株価の低迷など、日本の今後に与える影響は大きい。
 これを、新しい国づくりへの礎と位置づけて、日本の構造や人々の意識、教育の体制などを変えていくスタートにしていかねばならないのだろうと思う。


 (まぁ、民主党政権・菅内閣では望むべくもないか。)



【204】 大相撲の八百長           2011.02.18


 八百長問題を明らかにすると相撲協会は究明委員会までつくって取り組んでいるが、はたしてマナジリを決して糾弾すべき問題たろうか。
 野見宿禰以来1300年の歴史を持つ相撲は、紆余曲折を繰り返しながらも、相撲ファンに愛されながら歴史を重ねてきている。目の肥えた相撲愛好者たちは、八百長なんて見破ることはたやすいだろうけれど、その人たちに支えられた相撲の人気はいっこうに衰えを見せない。すなわち、相撲を見ている人は、負け越して陥落する大関よりも、角番をしのぐ力士の姿に安堵しているのである。
 江戸時代には諸藩諸侯のお抱えとして生き、明治期には元勲・国士を、昭和のはじめには政商や軍部将官を桟敷きに並べて、その存続を図ってきたのが相撲である。現在、国技館のいい桝席は、ほとんど大企業によって年間買われている。そこにも相撲界の知恵がある。時の権力を見極めてその懐に入り、文部省やマスコミなどとも折り合いをつけて、時代を潜り抜けてきたのだ。相撲協会という組織も、個々の力士たちも…。
 地方巡業などでは、取り組みしているときにはもう次の巡業先への汽車のキップが買ってあって、下手にケガでもしようものならば汽車に乗れないじゃないかと叱られてしまう。だから、決まり手は押し出しや寄り切りが圧倒的で、転んだり土俵下へ転落するような決まり手は見られないという。見るほうも、納得のことである。
 現在、十両以上の力士は62人(うち幕内36人)、幕下634人。力士のほか、日本相撲協会に属する人たちは、年寄、行司、床山、呼出、世話人、若者頭などがいて、合わせると約1000名になるという。これらの人々が、相撲社会という特殊な世帯で、肩を寄せ合って生きてきたのだ。
 千秋楽で7勝7敗の十両力士に敗けてやるというのはごく当たり前の発想で、十両力士は給料100万円、幕下は無給なのだから、相手の力士がもしその一番で負け越して幕下へ落ちれば、家族が困窮するほど境遇がちがってくる。それが、明日はわが身かもしれない。
 見るほうも、7勝7敗が勝つのを見て一安心…。魁皇や千代大海が、コロコロと大関陥落では、見ているほうもつらい(苦笑)。


 相撲は、「和をもって尊しと為す」日本に生まれたものである。言わぬが花よ人生は…という浪花節日本が育ててきた興行である。談合社会の日本に咲いた仇だ花なのだ。
 八百長撲滅なんて言ってないで、八百長を楽しめばいいんじゃないか。騙されるのを喜んでいるのが、正しい相撲の見方だ。「さっきの相撲は、見事な八百長だったねぇ」「相撲史に残る、手に汗握る名(八百長)勝負だった」といった具合に…。





【203】 日本経済の復活のために


日本経済、中国に抜かれて世界第3位に転落
   2011.01.24
     - 日本経済のお勉強 その① -
  


 かつて世界第2位を誇った日本経済は、中国に抜かれて、第3位に転落しました。日本経済の何が中国にしてやられたのか…。GDP(国内総生産)の数字においてです。


 そこで、GDPって何だ…というのが今日のテーマです。GDPとは、国の経済規模を測る数字です。かつて世界の18%を誇った日本のGDPは、今やや8%に落ち込み、この数字を見ただけでも、日本経済に昔日の元気はないですね。
 この問題では、では日本経済を再生するためにはどうすればよいのかというところまで論じてこそ目的を達成するというものでしょう。追々、その点を考えていくつもりですが、まず今日は、GDPって何だ…という基礎の基礎を定義しておきたいと思います。
 GDPとは、「Gross Domestic Product」の略で、直訳すれば「全・国内・生産」となり、通常「国内総生産」という言葉で流通している。各国の国内で1年間に新しく生産された物品やサービスの合計金額です。
 例えば。ある会社が1本100円で売る予定の鉛筆を、40円で原材料を買ってきて製品に仕上げ、100円で売ると、この会社が計上した国内総生産に対する金額(これを経済用語で「付加価値」と言いますが、早い話が稼いだお金=荒利益です)は60円です。原材料を全て日本国内で生産されたものを使えば、原材料会社が40円、鉛筆会社が60円の粗利益を稼ぎ出したことになり、日本国内での付加価値は100円を計上することができます。日本中で生産された付加価値を合計すると、それが日本のGDPになり、2010年は539兆円でした。
 農林水産業、建設・不動産、電気・ガス・水道、金融、卸・小売業、公務員を含むサービス業など、あらゆる産業が含まれますが、資源に乏しく、加工型産業が圧倒的に多いわが国では、GDPの大部分は企業の生産活動が生み出しています。ですから、元気で豊かな日本にするためには、産業・企業の生産高(付加価値)を大きく向上させていくしか方法はないということが、当たり前の話ですがまず言えるると思います。


 以前は、国の経済規模を表すには、GNPという言葉がよく使われていました。GDPとどう違うのか、なぜ使われなくなったのでしょうか。



ユニクロは、日本の経済にどんな役割を果たしているか    2011.01.30
  - 日本経済のお勉強 その② -


 GNPは、Gross NNational Productの略で、「国民総生産」と訳します。その国の国民が、国内国外を問わず、世界のどこかで生産した付加価値を合計したものです。それに対して、GDPは、その国の中で、生産者がどこの国の人であっても、とにかく生産した付加価値を合計したものです。
 先にあげた鉛筆会社の例で見てみましょう。100円で鉛筆を売る会社が、日本国内で原材料を調達して40円で仕入れ、60円の粗利益を上乗せして100円で売ったとすれば、GDPもGNPも100円です。
 しかし、外国にある外国の会社から原材料を40円で仕入れたとしたら、日本のGDPもGNPも60円です。さらに、原材料も加工も外国企業が行った製品を80円で仕入れれば、日本のGDPもGNPも20円にしかなりません。
 ここで考えたいことは、日本の会社が外国に工場を建て、現地で原材料を生産し、現地の人を雇って加工した製品を、日本に80円で仕入れ100円で売ったとしたら、日本のGDPは20円で、GNPは100円となります。
 GNPが増えた場合、その会社の利益は増大しますが、日本国内の雇用や景気にはつながらず、日本の付加価値は上がりません。すなわち、日本が元気になり、国民が豊かになるには、日本国内での生産高…GDPを増やすことが大切なのです。
 お金やモノが、たいして海を越えて移動しなかった時代には、GDPとGNPはそれほど変わりませんでした。でも、世界はグローバル化の時代を迎えて、各国の企業が海外に工場や営業所を多数構えるようになると、GDPとGNPは大きく異なるようになります。その国の経済力を測るには、その国の国内で生産した価値を測るのが適切だろう(実際に景気の良し悪しも国内生産額のほうが実感に一致します)ということで、先進国の多くがGDPを採用するようになり、日本も1981年から両方を、83年からはGDPだけを発表しています。
 昨今は、人件費の安い中国や東南アジアに工場をつくり、そこで作ったものを日本に持ち込んで大量に売りさばくという企業が増えました。それが悪いことだとは言いませんが、やはり日本経済の底上げを図り、景気を扶養させるためには、むしろ外国企業の日本進出を積極的に進め、日本国内でモノやサービスを生み出すことが大切なのです。世界基準として、国の経済規模を表す数字がGNPからGDPに切り替えられたということからも、経済・生産の体制はどうあるべきかが見えてくるのではないでしょうか。
 GNPでなく、GDPを増やさなくてはなりません。例えば、ユニクロを展開するファーストリテイリングは、2010年8月に発表した第1四半期業績によると、売上高2634億6400万円(前年同期比39.8%増)、営業利益610億6000万円(49.1%増)、経常利益586億4900万円(58.2%増)、当期利益348億5300万円(57.2%増)【流通ニュース】とありますが、生産のほとんどを中国で行っているユニクロの売上高がいかに向上しようと、どうでもいいことなのです。ユニクロが儲けるのは結構なことだと思いますが、それはユニクロの経営者と社員にとっての喜びであって、GDPの増大にはさほどかかわりのない…、すなわち日本経済の浮揚にはたいした役割を果たさない大増益だからです。
 

 それでは、GDPを増大させる…、 国内での生産を増やすためにはどうすればよいのでしょうか。


日本経済再生のために  
2011.02.02(水)
 - 日本経済のお勉強③ - 


 日本経済再生のためには、GDPを増やす…、すなわち日本国内でモノやサービスを増やすことが不可欠であることはご理解いただけたと思いますが、では、そのために何をするべきでしょうか。
 経済のあり方は大きく分けて、金融・資源・製造の3種があります。「金融」は世界に伍するノウハウや体制が、日本にはありません。近代資本主義が成長してきた激烈な競争体験が日本にはありませんし、金融には避けて通れない…よく時代劇に登場する、寝ている病人の布団を剥ぎ取っていくような過酷な非情さも必要ですが、日本人の国民性には合致しないところがあります。だから、日本の経済にはやたら規制が多いし、自由に競争させればすぐに敗れてきて、負けたものは不平不満すら社会の性にする。自由競争は、日本人には向かないのです。だからといって、自由競争をするなと言っているわけではありません。むしろ、弱点を認めた上で、国際競争に打って出ることを考えるべきです。しかし、国際金融情勢に慣れていない、かつ、規制の多い日本軽罪の現時点では、金融立国は無理と言うものです。
 「資源」は、言うまでもなく日本はほとんどなく、20数兆円の原油・原料・食糧などを、外国からの輸入に頼っている現状です。むしろ、この分の外資を稼がなければ、日本は立ち行かなくなります。だから「製造」に国を託すしかない。環境型ビジネス・鉄道や原子力発電などのインフラ輸出・マンガやアニメなどのコンテンツビジネス・蓄電池や宇宙産業などの新技術など、新たな成長材料はあり、それらは体制に育てていかなくてはなりませんが、今の日本が勅命している経済的課題は、「日本のものづくり」をいかにして守り、大きくしていくかでしょう。
 

 菅内閣は「法人税の5%軽減」を打ち出しました。日本の現在の法人税は約40%(国税27.99、地方税11.55、合計39.54%)で、世界で一番高い税率です。。第2位はアメリカで39.21%、3位はフランスで34.43%です。
 日本の法人税が5%引き下げられるとして35%となりますが、フランスよりもまだ高くて、世界第2位…。これでは、法人税を下げた意味がありません。高い税率の日本の法人税ですが、利益を生み出せない企業が多い現状では、税収は見込めないわけですから、高い税率の意味もありません。ここは、思い切って25~20%ぐらいにしてはどうでしょうか。それで景気が回復すれば、税金は入ってくるのですから現状のゼロよりもいいでしょうし、企業の足国が確かなものになればその時点で税率を30%に上げることも可能でしょう。
 25~20%ぐらいにしてはどうかという提案は、今のままでは外国企業に来てもらうどころか、日本を逃げ出す企業が続出する恐れがあるからです。現に、即年の日本企業の海外投資額は一昨年比44%と急増しています。企業の生産の中心が感慨へと流出していく「日本国内の空洞化」は、現実のものとなっていることが、この数字を見ただけでも理解されると思います。
 さらに、家電、自動車など、日本のものづくりの中核をなす産業は、昨今、韓国などの新興国に激しく追い上げられています。いえ、すでに逆転しているというべきでしょうか、韓国のサムスン電子の純利益は日本の大手電機メーカーのそれをはるかに上回っていますし、世界市場で売り場の中央に並んでいるのは勧告製品だというのが現実です。韓国は、人口は日本の半分、GDPは5分の1程度、人件費もそれほど安いわけではありません。なのに、なぜここまで躍進したのか。最大の要因のひとつが、24%という法人税の安さです。
 そしてもうひとつ、韓国では国家破綻かと言われた1997年のIMF危機のときに、企業の統廃合が進み、市場占有率の高い、高利益を追求できる会社が誕生しています。日本では、独占禁止法の縛りがあって、実現できない大統合です。
 ここで言えることは、世界の現実を見据えて、時代が要求する形に、日本は法律の改定を含めた構造変化を遂げなくてはならないということです。


 TPPは、避けて通れない課題です。 【今日はここまで。続きは また近日…】




【202】 糖衣をまとった毒薬 - 第二次 菅内閣 スタート -   2011.01.16


 第二次菅内閣がスタートした。国家観もない内閣に何の期待をすることもないが、スタート直後のしばらくは静観するのがエチケットというものだろうから、その出航を見つめていることにしよう。
 それにしても、ここまでの民主党政権の歩みはボロボロであった。「生活が第一」と掲げた政策の、子ども手当て・農家の個別保障…などバラマキは全て財源不足で実現できず、安全保障では自由主義諸国の信頼を揺るがせ、尖閣問題では国辱的責任逃れの外交に終始してしまった。
 政権交代とはこういうことだったかと、今更ながら歴史の教訓を思い起こしている。権力を簒奪するものは、いつも耳に快い大衆迎合の言葉をささやきながら政権をわが手に収め、権力の座に据わると私利私欲を貪(むさぼ)るのが常であったが、まさにこの民主党による政権交代もその感が強いからだ。
 今、読んでいる本の一節に、ロシア革命で成立したソビエト共産党政権の政策は『糖衣をまとった毒薬』だったと書いている。
 マルクス主義では、「資本主義の発展により矛盾が増大すると、社会革命(社会主義革命、共産主義革命)が発生し、プロレタリア独裁の段階を経由して、市場・貨幣・賃金労働などが廃絶された新しい無階級社会である共産主義社会が生まれ、階級抑圧の機構としての国家・軍隊・戦争なども消滅する」としているが、その理念はそれとして、その政権は外交・謀略・暴力などあらゆる手段を講じ、また手段を選ばず、他国政府を覆滅させることによって共産主義を拡大させることを第一義の使命としている点において、当時の日本をはじめ諸国が危険視したのである。
 1919年3月にモスクワにおいて開催された共産党大会において、レーニンとポルシェビキは共産主義インターナショナル(通称コミンテルン)という世界革命組織をつくりあげた。各国共産党は、第1条に暴力革命とプロレタリアート独裁を掲げる、21か条の綱領を受け入れることが第一義の絶対条件だと規定されたのである。
 こののち、コミンテルンは世界各地で活動を活発化していくが、ヨーロッパや日本では活動を抑えられた彼らは、その矛先を列強に分割統治され、混乱を極めていた清朝末期の支那に定め、いわゆる「カラハン宣言」という甘言を提示したのである。その内容は、「ソビエト政府は中国政府が諸外国と結んだ一切の条約を破棄する目的をもって、中国と協議に入る。…略…、中国の領土にして簒奪したものおよび居留地の全てを中国に返還し、…略…、中ソ両国は満州や東支鉄道の運営に際して特別条約を結ぶ」と謳っている。アヘン戦争以来80年の外国支配を受けてきた支那の政府や民衆にとっては、この宣言は甘美な福音のごとく聞こえたことだろう。
 けれども、アイグン条約、北京条約で帝政ロシアが奪った広大な中国領土を、ソ連(ロシア)は今日に至るまで1平方センチメートルも返してはいない。満州にいたってはこれを実質的に占領して支配し、東支鉄道の権益を奪い、さらに旅順の租借も要求している。まさに、カラハン宣言は、『糖衣をまとった毒薬』だったのである。
 そして、ソビエト共産党政権は、当時の中国を代表する孫文の国民党政府の政治顧問にボロヂンを送り込み、葉剣英・周恩来ら共産党分子を軍の要職に就けることに成功した。やがて孫文の死去により、国民党の北京政府は共産等の支配に委ねられることになり、コミンテルンの指示のもと、ほどなく支那には武漢共産党政権が誕生して、蒋介石政府と対立抗争を繰り返しつつ、日本との泥沼の戦争へと突入していくことになる。
 現今の中国共産党による、一党独裁・国民の搾取・少数民族への弾圧・周辺諸国への横暴は、見ての通りである。


 つい、話が長くなってしまったが、民主党のマニフェストも『糖衣をまとった毒薬』だったということか。いや、民主党には共産党政権ほどの残虐さはないだろうから、毒薬といった世の中を変えてるほどの効き目はない。
 むしろ、嘘も吐(つ)き通せば真実になるというのに、そこまで貫く覚悟もなく、思いつきの域を出ない幼稚さで米軍基地の国外移転と言ってみたり、政権をとれば金権問題はどうにでもなるとかつての闇将軍にわが身を重ねた豪腕の幻想もあわれで、この政権交代は日本に混乱をもたらした効果以外の何ものも生まなかった。
 いや、歴史に学ぶことの大切さを再確認させてくれたことが成果であったか。では、今の日本の
次なる展開は…、世界に認められる一人前の国家となることが、先ず第一だろう。





【201】 新成人の『国家観』 -誇るべき祖国を持たない不幸-  2011.01.10 成人の日
 

 今日、新成人を迎えたのは124万人で、戦後最低の人数だという。失われた20年といわれる日本の日々の中で育ってきた新成人たちは、就職氷河期、借金大国日本…といった現実を突きつけられながら大人になったわけである。
 彼らの目標とする大人は、母親37%、父親35%、教師、祖父母…と続くという。堅実と評価するべきなのか。そうとしか言えないのが淋しい。日本の若者には、先達に誇るべき日本人を持たないのだろうか。いや、日本人にも、世界に誇るべき偉人は数多くいる。しかし、それらの先人を誇るという教育を受けてこなかったのが不幸なのだ。
 加えて、日本の国を誇るという国家観もない。東京裁判史観を基盤とする、大東亜戦争において日本は近隣諸国に迷惑をかけた犯罪国家であると教えられて育った、可哀想な世代である。


 新成人よ、君たちのお父さんおじいさんたちは、欧米列強に侵略されたアジアの国々に民族自決の活力を与え、独立を実現させる道を開いた戦いをしてきたのだ。
 例えば、大東亜戦争前の中国は英仏露独などの国々の侵略を受け、分割統治されていた。日本がそれら欧米の勢力を追い払って中国に侵攻したから、加えて、日本は大東亜戦争に負けて一方的な断罪を受け入れねばならなかったから、日本のみが中国を侵略したとされたけれど、歴史にイフがないことを認めつつ、もし日本の侵攻がなければ、中国は列強による分割支配が進み、植民地化されていったことは、歴史の必然として結論づけることができよう。
 右は、山川出版の高校用世界史参考書「詳説世界史研究」の418ページに掲載されている、日清戦争後の「西欧列強による中国分割」地図である。                     →
 これを見れば、当時の中国が、いかに列強によって侵食されていたかを理解することができるだろう。高校の世界史ではみんな、このことは学習している。なのに、日本のみが中国を侵略したとされるのはなぜだろう。それは、先述したように、日本が大東亜戦争に敗れ、東京裁判史観を受け入れざるを得なかったからである。
 日本人の中にも、東京裁判を金科玉条として受け入れてきた人は大勢いる。その判決を基盤として戦後体制を築いてきた人々は、自らのその過ちを認めようとしないだろうけれど、正しく歴史を検証すれば、日本が悪逆非道を働いた国でないことは、容易に理解できることである。


 ユダヤ人はノーベル賞受賞者が多いことで知られている。(アメリカやヨーロッパ各国の受賞者でも、多くがユダヤ系の人たちである。)ユダヤ人の国イスラエルでは子どもたちに、「自分たちは、神に選ばれた民族である」と教えているという。「選ばれた民族であるがゆえに、神は我々に試練をお与えになった。その試練のおかげで、我々の先人はアインシュタインなど偉大な人が多く出ていて、我々もその血を受け継いでいる」と教えているそうである。


 国や民族に誇りをもてないものが、生きるための支柱を確立することは難しい。愛する国を持たないものは、自分以外の公(おおやけ)を愛することもできない。日本の若者たちは、実に不幸であった。自虐史観に覆われた、こんな戦後社会を築いてきた大人たちの責任は大きいといわねばならない。
 日本は、大東亜戦争の敗戦までは、誇り高い国であり、自分たちは優秀な民族であることを信じてきた。帝国主義の欧米列国に対して、アジア・アフリカの国々の中では数少ない独立を保ってきた国である(アジアでは日本・タイの2国、アフリカではエチオピア・リベリアの2国だけ)。
 それが、1945年8月の敗戦のあと、勝者が敗者を裁いた極東軍事裁判(東京裁判)とその後の7年間続いた占領政策によって、大東亜戦争は日本の犯罪的侵略戦争であり、日本は犯罪国家であるとされ、ゆえに戦前の日本を形づくってきたものは全て否定されたのであった。
 今こそ、大東亜戦争と東京裁判を再検証し、日本的価値観を見直して、日本人の誇りを取り返さなければならない。それらを喪失したままでいることは、今を生きる日本人にとっての不幸であることはもちろんだが、これからの日本を背負う人々に対しての罪悪でもある。
 

 新成人の皆さん、日本人は有史以来、人々は力を合わせて国を守り、文化を育み、歴史を積み重ねてきた。アジア・アフリカを自分たちの植民地とし、被征服者を奴隷とする列強の帝国主義に抗して立ち、利害の対立の中で大東亜戦争に至り、不幸にして敗れ去った。しかし、焼け野原と化した国土から再び立ち上がって、『ジャパン アズ ア ナンバーワン』と、世界が驚く復興を果たし、民族の力を示したのである。
 日本の底力を信じるべきである。信じて、戦うべきである。もちろん戦争を城ということではない。国家と社会と自らの課題に対して、敢然たる戦いを挑むことだ。この世は、自らの力で明日を切り開いていくしかない。他国を、他人を、信頼するのは良い。しかし、頼ってはいけない。自らの努力こそが、この国の、そして自分たちの未来・希望・幸せを実現する、唯一の道なのである。




【200】 新春提言  2011 日本は…    2011.01.01


 明けましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願いいたします。



 新しい年が明けました。現今の日本については多くの問題点が指摘されていますが、新しい年を迎えて、今年1年間の日々をどう歩んでいくべきかを考えてみたいと思います。
 2010年には、小惑星探査機「はやぶさ」の帰還や鈴木・根岸両博士のノーベル賞受賞など明るいニュースもありましたが、総体的には「沈没する日本」という言葉に象徴されるように、揺れ動く政権、進まない政治改革、低迷する経済、地に堕ちた検察、消えた高齢者、いじめ・児童虐待…など、暗い事件が続きました。いずれも、日本にとって病根とも言うべき深刻な問題ですが、それらの『根本はひとつ』と言うことができるのではないでしょうか。


尖閣事件は、中国の東シナ海侵攻の第一歩
 中でも最大の事件は「尖閣問題」だと思いますので、この話題を皮切りに話を進めることにしましょう。
 躍進する経済を背景に、中華覇権主義を明確にして、近隣諸国への進出を明確にした中国は、南シナ海を制圧したのに続いて、いよいよ東シナ海にその矛先を向け始めました。今回の尖閣事件のように、漁船が他国の領海内でその国の取締り船に体当たりするなどといったことは、普通は考えられないことで、発砲を受け撃沈されても仕方のないところです。日本漁船が中国の領海内で同様のことをすれば、間違いなく銃撃・拿捕されるでしょう。
 中国漁船は、日本の監視船は撃たない(国際法に基づいた行動をすることはない)ことを知っていますし、さらにこの中国漁船は、多くの方も指摘されていることですが、日本の
対応を見透かしたうえで東シナ海を実効支配しようとする、中国政府の戦略のもとで出漁してきているのであろと考えられます。
 中国は、基本的に国際秩序に基づく国家間の関係を保持しようとする概念はなく、軍事的有利を確立すれば、力を以って相手を制圧しようと考えている国なのです。チベットや新疆ウイグルへの侵攻は言うに及ばず、最近では南シナ海のベトナムやフィリピンの領海で、不法操業する中国漁船を取り締まろうとするその国の巡視艇を、軍艦を改造した漁業監視船を派遣して威嚇し、追い払う始末です。
 2010年6月、インドネシアは自国の排他的経済水域で無断操業していた中国漁船1隻を拿捕しました。中国は直ちに2隻の漁業監視船を現場に派遣し、「返さなければ撃つぞ」とインドネシア警備艇に機銃を向けたのです。中国の監視船は4500トン近くある軍艦のペンキを塗り替えたものですから、通常400~500トンぐらいの警備艇では歯が立ちません。インドネシア側は、中国漁船を解放せざるを得なかったのです。
 ここ20年以上、日本から莫大なODAを受け取りながら、毎年2桁の伸びを見せる軍事予算を計上してきた中国の軍事力は、15年前に比べるとまさに20倍以上となっていて、もはや東南アジアの国々では太刀打ちできない強大なものです。15年前の中国軍は200機の戦闘機を保有していたといっても飛べるのはせいぜい5機程度のもので、自衛隊関係者も「5分もあれば片がつきます」と言っていました。それが現在では「3時間ほどの戦闘になります。勝てるとは断言できません」と言い、「あと5年もすれば、戦力は向こうのほうが上になります」と言っています。
 相手を圧倒するとなれば、国際法も慣習も更には倫理も無視して、力で無理を押し通そうとするのが中国の政策です。国内の鎮圧や南シナ海の事例に、中国共産党独裁国家の恐ろしさを思い知るべきです。今でも、中国こそがこの世の中心で、周囲はすべて蛮族だという中華的帝国秩序の論理でもって、中国の政策は進んできています。1979年、ベトナムへ軍事侵攻したとき、鄧小平はこれを『懲罰のため』と称しました。
 今回の尖閣事件でも、中国は「尖閣は中国の領土だから、事件の全ての責任は日本にあり、謝罪と賠償を要求する」と、温家宝首相が国連の場で公言しています。国際法も秩序も慣行も尊重しない中国の論理…、まさに行動こそが事実をつくるという、無法の積み重ねによる既成事実化…、それを東シナ海で日本を相手に実行したのが、この尖閣事件だったのです。


アメリカは日本を守ってくれるか
 中国が、今回ここまで踏み込んできたのは、民主党政権のもたつきで日米関係がギグシャクしたことに対する、試し打ちの意味もあるでしょう。アメリカはそれでも、クリントン長官が「尖閣は日米安保の範囲内」と談話を発しましたが、さて、尖閣列島に中国人民解放軍が上陸して、さぁこれを排除しなければならないとなったとき、アメリカは本当に軍隊を派遣してくれるでしょうか。
 さらに、尖閣を占拠され沖縄にもその手が及ぼうかとなったとき、在日米軍をはじめとするアメリカ太平洋艦隊が出動の構えを見せたのに対して、中国が「派遣部隊には核攻撃も辞さない。同時に中国が保有しているアメリカ国債を全て売却する」とブラフをかけたら、アメリカは自国民の血を流し、国の経済や国民生活を低下させてまで、日本を守ろうとする決断をするでしょうか。
 今、アメリカの国家財政は、イラク・アフガン戦争での支出やリーマンショックの後遺症、アメリカ企業の競争力の低下などで、膨れ上がる借金にあえいでいます。しかも2011年からはベビーブーム世代が引退し始め、2016年以降の財政赤字と経常赤字はどんどん膨らむと予測されています。これからアメリカの国防予算は大幅に削減されていくでしょう。米軍の東アジアからの撤退は、在韓・在フィリピン米軍などですでに始まっています。
 パクス・アメリカーナと謳われた、世界の秩序を保持するアメリカの威信は、今後、確実に低下するでしょう。そのアメリカが、日本の有事に、将来にわたって日米安保を発動させるでしょうか。極めて難しいことは、誰が考えても明白です。本気で武力衝突も辞さない覚悟で中国が侵攻してきたら、日米安保は機能しないと思います。
 

自分の国は、自分で守れ
 では、日本はどうあるべきか。自分の国は、自分で守る力をつけることです。現代では、先進国同士の全面的な対決戦争は起こらないでしょう。しかし、相手を見透かして、局地的な侵攻を行うことは十分に考えられます。特にこの尖閣列島は危ない地域で、台湾侵攻と同じように、中国人民解放軍の出動は必ずあると考えられます。
 台湾や尖閣を今のままにしておいては、中国は対アメリカ戦略が描けないからです。中国の国防ラインは、沖縄列島から台湾・フィリピン・インドネシアに連なるラインが第一列島線として、国防上の最重要ラインです。すなわち、東シナ海・南シナ海を領海にしてしまわないことには、中国の安全保障は成立しないのです。そこにアメリカの空母が自由に出入りしていたり、台湾からミサイルを撃たれたら、北京・上海など沿海部の重要大都市は極めて危険です。また、7年後には空母を保有すると発表している中国海軍が、太平洋に出るためにも、台湾・尖閣・沖縄は極めて重要な位置にあるのです。
 中国からすれば、日本は太平洋への出口にある岩礁みたいなもので、邪魔なことこの上ない存在です。反対に日本から言えば、近隣に中国・ロシア・北朝鮮という、国民や国際社会のチェックが働かない、何でもありの全体主義国家が存在していることを忘れてはなりません。
 その日本が、今やらなくてはならないことは、自国を自分の力で守ることができる軍事力を保持することです。先述しましたが、現代では、先進国同士が戦争することは決してありません。そんなことをしたら、、自国も痛烈な損害を覚悟しなければならないからです。だから、日本が軍事力を持てば侵略戦争を始めるのではないかと国際社会が心配するなどという議論はナンセンスです。むしろ、「やってみろ。やり返すぞ」という構えをつくっておくことが抑止力なのであって、今のように「日本は決して反撃しない」と公表していることこそ危険なのです。
 まずは、自衛隊を増強すること。そして、中国が7年後に空母を3隻保有すると言っていますから、日本は4隻持つということでいいでしょう。空母を持つからには、当然、積載する航空機やミサイル、護衛の艦艇も必要です。
 そして、かねてから提言しているように、原子力潜水艦を10隻建造して、世界の海に潜らせることです。核弾頭を装備したミサイルを積んで遊弋させます。これで、日本に手を出せる国はなくなります。核開発は国際的な圧力が免れませんが、当面はNATOが行っている「アメリカの核を借りる」という形でまかなえばいいのではないでしょうか。もちろん借りていては、将来的にもアメリカのご意向に逆らえませんから、独自開発の努力を怠ってはなりません。


自主憲法の制定を
 もうひとつ大切なことは、戦力を整備しても、「日本は撃ちません」と言っていては何の意味もない…、抑止力にはならない…ということです。すなわち、憲法の改正を急がねばなりません。もはや、
 『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』という前文のまやかしも、第9条の

 『 1。日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と
    武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄
    する。
   2。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は    これを認めない。 』 …という絵空事も、本気で信じている人はほとんどいないでしょう。
 それでも、憲法改正は大事(おおごと)です。次の総選挙には、「憲法改正」を掲げる政党が現れても良いと思うのですがいかがでしょうか。


日本の諸問題の根本はひとつ
 憲法の改正は、日本の諸問題の根本をなす問題です。この項の冒頭に「日本にとって病根とも言うべき、政治の迷走・経済の低迷・消えた高齢者・いじめ・児童虐待などの深刻な問題において、『根本はひとつ』と言うことができるのではないでしょうか。」と書きました。
 「消えた高齢者」や「いじめ・児童虐待」などは、人間の絆(きずな)が
ほころびてしまった出来事です。人間としての尊厳も誇りも捨て去り、他に対する思いやりを喪失し、地域や仲間といての連帯もなく、ただ金銭的価値観のみに生きる浅ましさは、戦後日本が歩んできた日々を振り返ってみれば納得できなくもない現象です。
 日本は第二次世界大戦に敗れたのち、戦勝国の論理で裁かれ、近隣諸国を侵略して暴虐を働き、世界の自由と平和を破壊した、犯罪国家とされました。その後に続いた占領政策下においては、日本人の意識改革が進められ、「武士道・忠孝・矜持・恥の文化」などといった日本人的美徳は、全て否定されてきました。
 
昭和21・22年に勅令形式で公布・施行された「公職追放令」は、日本の各界から有力者・指導層20万人を追放しました。その結果、教育機関やマスコミ、言論など、特に啓蒙を担う業界で、いわゆる「左派」勢力や共産主義のシンパが大幅に伸長する遠因となり、公職追放を推進したアメリカにとっても、大きな誤算が生じることになりました。(この項、ウィキペディア百科より抜粋)。
 京都大学名誉教授で数々の名エッセーを著している田中美知太郎も「当時は半左翼的な言動をすれば学会での地位もさることながら、身の危険さえ感じた」と書いていますが、戦後日本の悲劇は、こうしてもたらされた教育・マスコミ・言論・思想界のの偏向に因を発するところが大なのです。
 戦前の日本の伝統的なもの全てを否定する教育は、日本人の心から「誇り」を奪い取り、「自虐史観」を植えつける結果となりました。戦後の日本人には拠るべき祖国はなく、戦後の焼け野原から奇跡の経済的復興を成し遂げた人々の心には、国家を誇り、この国を守るという「愛国心」がよみがえることはなかったのです。
 ここにこそ、今日の日本が抱える問題の根源があります。考えてみてください、国を愛することができない人が、地域を…、隣人を…愛するでしょうか。人間社会の素晴らしさを知らず、拠るべきところを持たないものが、家を…家族を…ホントに愛することができるでしょうか。
 国を愛せないものは、詰まるところ自分しか愛せないのです。国という公(おおやけ)を忘れた教育は、自分しか愛せない利己主義しか育てない。国を守ることを語らずに、同胞・友人を守ろうとする意識は育たない。戦後繰り返されてきた優しいだけの人権教育は、自分の権利しか考えない恐るべき個人を育ててしまいました。
 まだ戦前の日本の姿を見てきた人たちがいた時代は、日本国民は戦災の焦土から立ち上り、世界が驚く復興を遂げることができました。ところが、戦後に生まれ、戦後教育の中で育ってきた、いわゆる団塊の世代以降が担う日本は、物質的にも精神的にも、先人たちが築いた遺産を食い潰し、その後は坂道を転がるごとく堕落の一途をたどっています。
 かつてフランスのドゴール大統領が、アメリカを当てにせずに自国で核を持ち、自主防衛を決意したとき、フランス国内からも「アメリカが守ってくれるというのに、なぜ任せないのか。コストも安く済むのに」という批判がありました。それに対してドゴールは、『自主防衛しない国、自国の運命を他国の政治屋さんに任せてしまう国に対して、国民は忠誠心を失う。また、もうひとつ、自国の安全保障を他国任せにすると国民が責任感を失い、刹那的な大衆になってしまう』と反論しました。ドゴールの指摘は、今の日本の状況を正しく予言していたと思いませんか。


2011年、日本は…
 今、日本は第一に、国家と国民の誇りを取り戻し、自主憲法を制定して、自力で国を守ることができる国にならなくてはなりません。そのためにも、第二次世界大戦と東京裁判を再検証し、自虐史観の誤謬性を明らかにすることが必要でしょう。
 第二には、政治改革・公務員改革を進め、国民の納得と賛同を得る努力をしたうえで、消費税増税を行うことです。国の予算が、税収よりも借金の比率のほうが多いなんて、誰もこの国に安心して住もうとは思いませんし、そんな政治を信用しろといっても無理な話です。増収分は社会保障制度に使用する目的税であることを明示して。国民の安心を磐石のものとし、次に大胆に経済基盤の整備・復興に取り組むべきです。財界も、奥田前経団連会長のように、首相の靖国参拝に反対して中国のご機嫌を取るような性根の座らないことではいけません。中国が日本の行動に異議を唱えて取引きしないのなら、他に商売相手を見つける努力をすることこそ、日本の国に拠っている企業の取るべき道です。中国は、ここまで見てきたように、付き合う相手として信頼が置けません。
 第三に、政治家の覚悟を問うことです。政治は、国家と国民のために命を懸けて行うものです。昨今の政権ように、党利党略とわが身の保身ばかりを考えて、不見識と迷走を繰り返していては、国民や国際社会の信用も得ることはできません。全身全霊を以って、日本を背負う政治家としての覚悟を示してほしいと思います。
 現在の内閣に、それを期待するという意味ではありません。国民が、そんな政治家の姿を厳しく求めていくことによって、近い将来の日本に意思と覚悟を持った政治家が誕生してくるのだと思います。そう考えてみれば国民の意思と覚悟こそ、何よりも求められる要諦なのでしょう。


 尖閣問題で明らかになった、日本の脆弱さ…。それは、日本人の意思と覚悟を問う、歴史の節目であったのです。
 2011年を日本人再生の年とするように、この1年の日々を積み重ねて生きたいと思います。
 


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