日本は、今
その1         10 11 12 13 14 15 16 17 18
  
19 20 21 22 23 24 25 26 27 官庁WevServer
日本は、今
飯田 章のホームページへ
「日本は、今」 トップへ


【日本は今、214】 大東亜戦争に至った、西洋諸国の国家エゴ 2011.08.15


 終戦記念日を迎えて、日本が大東亜戦争を戦った意味を考えてみたいと思い、いくつかの資料を紐解いてみた。そのうちから、今日は、日本と西洋との心理的なかかわりをもとに、開戦に至る道程をたどってみる。


 日本が西洋と出会ったのは、1534年、ポルトガル人を乗せた中国船が種子島に漂着したのがその始まりである。キリスト教の布教と貿易を目的として東洋にやってきたという宣教師集団は、当時の西欧列強が当然としていた奴隷を売買する商人でもあった。日本人が奴隷として売買されていることを知った豊臣秀吉は激怒し、イエズス会の神父コェリョに対して詰問上を送り、日本人奴隷の売買禁止を申し渡している。さらに、1596年、サン・フェリーペ号事件により、宣教師は侵略の尖兵であるとの情報を得た秀吉は、キリスト教禁教令を出す。
 徳川幕府は、当初、家康のころは貿易の回復を目指したが、島原の乱などを経て、1639年、貿易はオランダと中国の二国に限って長崎の出島でのみ行うとし、鎖国の時代へと入っていった。
 なぜキリスト教は禁止されたのかについて、日本の封建体制にとってキリスト教が危険視されたとする説は散見するが、奴隷問題にふれたものは西洋の文献にも、日本の解説書にもほとんど見当たらない。


 そして300年後…。1853年7月8日、アメリカの第13代大統領フェルモアから天皇に宛てた親書を携えた、ペリーの率いる4隻の艦隊が江戸湾の浦賀沖に現れ、日本の泰平の眠りは破られた。
 ペリーの日記を見ると、「日本人は優柔不断。だから、常に力を誇示し、日本人の言うことはいっさい無視する」という対日交渉の基本戦略が書かれている。ペリーは国力・軍事力・組織力・技術力など、あらゆる面で圧倒する力を見せつけ、日本人に直面しているときは、本音、疑問視、弱音などは一切見せず、顔色ひとつにしても終始強硬姿勢を貫き、アメリカは必ずその意思を通すのだという姿勢を崩さなかった。
 アメリカは、1776年に独立宣言を発して以来、外国の支配や影響力を排除し、西へ南へと領土を拡大して行ったが、その過程で大陸の先住民インデアンたちは騙され、虐殺され、追われ、隔離された。物々交換で渡す毛布に天然痘菌を付着させ、免疫のなかったインデアンたちを大量死させたりもしたという。
 このアメリカの国家形成と拡大の政治哲学は、他民族や異文化に対する尊重や配慮などはなく、全て物事は自分たちの有利になるように力で解決しようというもので、実はこれとほとんど全く同じ考え方が、20世紀、21世紀になってもアメリカの存在と生存の哲学であり、外交方針なのである。ペリーが浦賀に来て開国を迫ったときの交渉姿勢もそうであり、大東亜戦争開戦当時に示したハルノートの提示などに見られる強硬な姿勢もそうであった。


 ペリーの黒船艦隊が示した圧倒的な武力の誇示は、幕府の上層部を混乱させ、老中首座の阿部正弘は「全く不快でいまいましい。血の涙が出るほどだ」と書き記しつつ、「日米和親条約」を結ばざるを得なかった。
 初代日本総領事に就いたハリスは、幕府の優柔不断・先送りに対しては、「日本にアメリカ艦隊を派遣することが検討されている」などと脅し、1758年、「日米修好通商条約」を締結させた。この後、日本は列強各国とこの不平等条約を結ぶこととなる。
 西洋列強の専横の振る舞いに、日本国内の意見は開国反対が大勢を占め、攘夷の嵐が吹き荒れた。1762年の生麦事件では、7隻のイギリス艦隊が鹿児島湾に現れ、砲台は破壊されて鹿児島の町は焼き払われた。1763年の下関事件では、英米仏蘭4カ国の軍艦17隻の砲撃に、長州藩は3日間で降伏した。結果として、日本は圧倒的な武力、技術力の差を思い知らされ、外国軍を追い払うことは不可能であり、彼らの要求を希釈しつつ受け入れるしかないことを思い知らされたのである。


 明治になって、西洋との実力差を思い知らされ、西洋からの圧迫・軽蔑を受け、そして、東南アジア諸国や阿片戦争後の清国などに対する帝国主義・殖民主義を目の当たりにして、日本は富国強兵を国是とし、西欧列強と肩を並べる国にならねばならないというのが、国家を挙げての目標となった。
 反西洋・嫌西洋の意識は、いじめられっ子日本の深層心理に根強く潜むものとなったが、一方ではその西洋のようになることをも望んだのである。福沢諭吉も「(香港で見たイギリス人の中国人に対する傲慢さを見て)日本も貿易に励み、強力な海軍力を持てば、イギリス人のみならず、世界の国々を支配できる」と書いている。「西欧が東洋の国々に威嚇脅迫をもって不平等条約を調印させ、アフリカやアジアの国々を植民地とし、人々を奴隷としているのだから、日本もその道を目指そう」としたことは、日本の憧れの道であった。


 第一次世界大戦のあと、日清・日露の戦争に勝利し、「日英同盟」の締結などにより、ようやく西洋の国々の一員として認められたという自信と自覚が芽生えた日本にとって、遼東半島返還を迫る「三国干渉」は、西洋社会に対する失望と反発を覚える出来事であった。
 それぞれの国益を第一とし、国家エゴのもとに動いている国際社会では、それほど珍しいことではなかったが、西洋社会の仲間として迎えられたという盲信を芽生えさせていた日本の指導的立場にある人たちにとっては、幻滅と怒りを覚える出来事であった。この喪失感が、その後の軍国主義と日本的人種主義にもとづいた、殖民主義・侵略主義へと展開していくことになる。


 1900年代に入ると、ヨーロッパでは「黄禍論」が起こり、アメリカでは、低賃金で働き、生活水準が低く、出生率が高く、他と同化せず、忠君愛国主義の日本人を排斥し差別する動きが高まり、いわゆる排日移民法が成立する。
 第一次世界大戦では、日本は日英同盟をもって連合国側で参戦し、戦勝国のひとつとなったが、ヨーロッパにとっては全く異質の、地図ではほとんど確認できないアジアの小さな島国が、ヨーロッパ戦線にでしゃばってくること自体が不愉快なことであった。
 第一次世界大戦の事後処理をするパリ会議に 日本は人種差別に反対する人種平等案を提案するが、中国移民問題を国内に抱えていたオーストラリアは強硬に反対し、植民地を持つ西欧諸国も反対に回ったため、法案は否決されてしまった。
 中国・朝鮮やその他のアジア諸国とは違って、西欧諸国の一員として認められたと信じていた日本人が、自分たちは中国人や朝鮮人と何ら変わらない目で見られていたことを思い知らされたのである。しかも、日本人であるがゆえに、アメリカでは排斥され、暴行・襲撃を受け、財産を脅かされる現実に直面していたのだ。(ただ、アメリカでは新しく移民してきた人たちに対しては、イタリアや東ヨーロッパ出身者、ユダヤ系メキシコ系の移民などにも同様の攻撃がなされていたのだが、日本はそれを人種的なものと受け止めてしまった傾向はある。)


 しかしそれでも、日本は欧化政策を基本とし、欧米に対してはいじらしいほど対立を避けて、柔軟な外交に終始している。朝鮮・満州・台湾に対しては、世界の大勢に習って西洋式の殖民主義を推し進めているのに、西欧諸国に対しては、1916年には日露協定、1917年には石井・ランシング協定を締結し、ソ蓮の極東の権益やアメリカの中国における門戸開放を認めている。1921年にはワシントン会議で日米英仏の4カ国条約、1922年には中国・ベルギー・オランダ・ポルトガルを加えた9カ国条約を結び、太平洋での現状維持を確認し、中国山東省の権益返還に応じている。
 また、1930年にはロンドン軍縮会議で米英日の海軍補助艦比率を10:10:7とすることにも合意し、海軍の反対を押し切ってこれを批准した浜口雄幸首相は、軍や右翼の反発を買い、狙撃され死亡した。


 1931年、満州事変、32年、満州国建国。これに異議を唱えた中国の訴えにより、国際連盟は「リットン調査団」を派遣。その報告を受けて国連総会は、日本を除く42カ国が満州の承認を取り消し、日本の撤退を決議した。
 日本の全権大使松岡洋右は議場を退場し、翌月、国連を脱退。この時点から、「日本は欧米の言うことは受け入れない」とする思想と勢力が日本を支配していく。
 西洋諸国は軍事力を用いて世界に植民地を作り、日本が同じことをしようとすると阻止する。日本人が移住しようとすると、人種の違いを言って阻止する。日本が西洋並みの軍事力を持とうとするとこれにも反対するなど、身勝手が過ぎるというわけである。
 国連脱退後の日本は、欧米に対する長年の憤懣が爆発したかのように、嫌西洋の国論が沸き起こり、反西洋の行動を起こす。軍部と右翼による数々の政治テロ事件が続発して、社会主義運動や組合活動にも、右翼勢力と合体しようとする動きが生じ、北 一輝「国家改造案原理大綱」や大川周明「復興アジアの諸問題」に見られる、日本式の人種主義・軍国主義・全体主義が形成されて、大東亜共栄圏形成への流れとなってく。1941年 文部省教学局は教科書に「臣民の道」を載せ、八紘一宇のスローガンを掲げて、国民主義教育を行う。


 日中戦争は満州から中国本土へと広がっていたが、蒋介石の軍隊はアメリカとイギリスからイギリス領ビルマ、フランス領インドシナを経由して軍事物資の補給を受けていたため、このルートを遮断するため、日本軍はインドシナに進駐した。これを見たアメリカ・イギリス・中国・オランダは在外日本資産を凍結、さらに対日石油輸出を禁止したため、日本は物資を手に入れることが困難になった。
 近衛内閣は、対米戦争は極力避けたいと和平への道を模索し、野村吉三郎駐米大使とハル米国務長官の会談を持たせたが、ここにアメリカ側の戦争回避条件として、いわゆるハル・ノートが提示される。
 1.日本は、満州・中国・仏印から撤退すること。
 2.日本は、重慶の蒋介石政府のみを、中国の正当な政権と認めること。
 3.日独伊三国協定を破棄すること。
 すでに、膨大な国費と18万余の将兵の血を流して、満州に新しい国家の建設を成し遂げていた日本にとって、その放棄は到底飲める条件ではなかった。
 それから2週間…。日本の回答は、海軍の真珠湾攻撃と、陸軍のイギリス領マレー半島上陸であった。
 林 房雄は『大東亜戦争肯定論』のなかで、「この戦争は、東南アジアの植民地化や阿片戦争などといった西洋の侵略に対する、東洋の反撃である。…、大東亜戦争は侵略戦争ではなく、西洋の殖民主義を東洋から撃退しようとした戦争であり、その意味で日本の行動は正当なものであった」と記している。


 1534年、ポルトガル人を乗せた中国船が種子島に漂着して以来、日本はさまざまな形で西洋のエゴとつき合って来た。大東亜戦争が終わって67年、世界の大国は以前と全く同じように、いやそれ以上に、国家のエゴイズムを押し通し、世界を動かそうとしている。
 日本に戦争責任を問い続ける中国は、チベットを制圧し、新疆ウイグルのイスラム教徒を虐殺し、内モンゴル自治区のモンゴル民族を同化して消滅させようとしている。クゥエートに侵攻したイラクに爆撃を加えたアメリカやイギリスは、チベットや新疆ウイグルを制圧している中国には直接行動をとらない。国際社会の国家とはそういうものである。
 大東亜戦争とは、西洋の国家エゴを、時には手本とし、時にはあこがれ、時には目標としてきた日本が、ついに越えられない人種主義の壁にさえぎられ、玉砕していった戦争であった。



【日本は今、213】 外国と歴史認識についての議論は無駄  2011.08.09
        
- 世界に、共通な歴史認識を持つなんて国はない -


 7日の日曜日、タカジンの「そこまで言って委員会」で、アメリカ人のケビン・メア(アメリカ国務省元日本部長・アメリカ元沖縄総領事)・ジェームス・スキナー(戦略家・経営コンサルタント)・セイン・カミュ(タレント)を招き、三宅久之・宮崎哲弥・勝谷誠彦らいつもの出演者に、武田邦彦・朴 一・眞鍋かをりらを加えて、彼我の歴史についての討議をしていた。
 テーマは、『アメリカは、原爆を落としたことに謝罪するか』、『戦後の日本が、アメリカ依存の体質に陥ったことに、アメリカは責任を感じるか』、…など。
 もちろん、アメリカ側の主張は「謝罪しない」「責任は無い」というものであった。『アメリカが広島と長崎に原爆を落としたこと』については、日本本土への無差別空襲と同じように、無辜の非戦闘員(一般市民)を殺戮する戦闘行為を禁じたハーグ陸戦条約・戦時国際法違反である。また、すでに日本は本土爆撃を受け、戦闘を継続する能力を失っていたことも事実である。原爆の使用は、正当な理由がない。
 『戦後の日本が、アメリカ依存の体質に陥ったこと』について、だから日本はダメになった…というのは、日本人としては言うべき言葉ではないと思う。日本はサンフランシスコ講和条約締結のあと、速やかに憲法を覚醒し、自主独立の道を求めることもできたはずで、その後もアメリカ依存の体制を維持したのは、日本人自身が選択した道でもあるからだ。ただ、戦争放棄を謳う憲法を押し付け、アメリカの傘の中に日本を囲う体制を構築してきたことは、周知の通りであるから、その事実を以ってアメリカ自身が判断すべき事柄だろう。
 アメリカ人ですら、自国の歴史の中の出来事については、「謝罪しない」「責任は無い」と言下に断言する。理由はさまざまだ。泥棒にも3分の理というぐらいだから、原爆投下や占領政策について、それを正当化する言葉ぐらい、どのようにでも展開できる。(論理的に正当かどうかは別問題だが…。)戦闘の渦中にある当事者が下した判断を、後世のものが評論することは適当でない…と言ってしまえば、それ以上の議論にはならない。
 アメリカですら、対日戦と占領政策における過ちは、一切無かったというのである。ましてや、他の国々…ロシアや支那など連合国が、今更「東京裁判は誤りだった」、(マッカーサーのように)「日本の開戦には必然的な理由がある」と言うことは期待できない。国際社会の主張とは、そういうものなのだ。
 国際社会の付き合いとは、謝罪から始まるものではない。自らの主張から始まるものである。それを相手の主張と擦り合わせ、どれだけの譲歩を勝ち取るかが国際社会の外交なのだ。
 だから、他国との歴史の共通認識など、初めからありえない。日本には日本の歴史があり、アメリカにはアメリカの…中国には中国の…歴史があるのだ。それら二つの歴史のどちらが正当なのかは、世界に絶対的な審判者が存在しない限り決まらない。彼我の歴史を並べて、共通の(正しい)歴史観を見出そうなど、歴史というものの成り立ちを考えてみれば、不可能なことは容易に理解されよう。だから、複数の国の人が寄り集まって、相手の国の歴史について喧々諤々の議論をし合っても無駄なことなのだ。
 歴史とは、民族の履歴書である。100の民族がいれば、100通りの歴史が書かれる。日本も他国からの干渉によって書き変えられるようなあやふやなものでなく、日本民族の正しい歴史を確立することが肝要である。確固たる歴史を持たない民族は、国際社会を漂流し、評価されず、
国民は拠るべきところを見出せずに彷徨(さまよ)う。日本人が、今後の国際社会を生き抜くためにも、正統な日本の歴史を編纂せねばならない。




【日本は今、212】 厚顔無恥な民主党の主張     2011.07.26


 NHKの日曜討論で民主党の五十嵐文彦(財務副大臣)は、『「赤字国債発行法案」が成立しなければ日本経済・復興支援…、さらには国民生活に重大な影響が出る』と主張し、不成立の場合には野党は責任を問われるといった論調であった。
 これに対して、自由民主党の鴨下一郎(政務調査会長代理)、公明党の石井啓一(政務調査会長)は、「更なる無駄の削減が必要」と条件を述べている。
 この議論は野党側に理がある。赤字国債を発行するには、政治・行政の無駄を徹底的に省く努力を見せることが先決であり、自民党時代よりもむしろ改革を後退させている民主党が、復興のため・国民生活のため…といくら声高に叫んでも、新たな赤字国債(借金)の何割かはまた無駄に消えていくことになるのだから。
 2006年、安倍晋三内閣は「戦後レジゥム」からの脱却という大改革を実行しようとすると、官僚システムの組み替え=公務員改革を断行しなくては、何も進まないとして、渡辺喜美行政改革担当大臣を任命して天下り禁止を打ち出した国家公務員法の改正を皮切りに、官僚と真っ向から対峙する姿勢を鮮明にした。これに対する官僚側の反発は尋常でなく、消えた年金のリークやサボタージュなどの抵抗を受け、安倍総理の体調不良も相俟って、政権は崩壊する。
 後を受けた福田康夫総理は改革に消極的で、纏め上げられた「国家公務員制度改革基本法」の案を渡辺嘉美大臣から渡されたとき、その受け取りを一旦は拒否したというほどだ。それでも、渡辺大臣の情熱と周囲の悲壮感の漂う努力はマスコミと国民に支持され、与党(自民党)の守旧派の反対を受けながらも、野党(民主党)の賛成を受けて、2008年6月6日、衆議院内閣委員会で成立した。そのとき渡辺大臣が流したが、成立への道がいかに難しかったかを物語っている。
 が、その直後の8月1日の内閣改造で、渡辺喜美は行革大臣を退任させられる。後任の茂木俊充大臣は、官僚の意向を受けて改革反対を唱える自民党の大勢を背景に、積極的な姿勢は示さない。当時は改革を叫んでいた民主党も、支持母体である労働組合が真っ向から改革反対を唱え始めると、とたんにトーンダウンしていった。
 続く麻生太郎総理は、思考停止かと思うほど全く関心がない。行革の必要性すらわかっていないようであった。このときの行革担当大臣は甘利 明。基本法に定められた人事に関する機能をすべて内閣に集める「内閣人事局」の制定をめぐって、官僚に洗脳された鳩山邦夫総務大臣と戦わねばならなかったし、推進本部の会議に呼ばれた谷公士(まさひと)人事院総裁が会議をボイコットするという事件を起こしたのもこのときである。


 総理が本部長、各省大臣が出席して公務員改革について議論し、
 政策を決定する「国家公務員制度改革本部」の会議をボイコットした
                 谷公士(まさひと)人事院総裁 →

 人事院の査定権限を内閣人事局に移管しようとした甘利大臣に対して、
 内閣の会議をボイコットして官僚の権益を守ろうとした谷公士という
 この名前と顔を、日本の民主化を志すものは、決して忘れてはなるまい。



 このとき麻生内閣は末期的症状を呈していて、国民の支持率が下がったら致命的だという判断から、官僚寄りの守旧派議員の抵抗もそこまでとなり、人事権は人事院から内閣人事局へと移管されることとなった。
 2009年9月16日、民主党政権が誕生した。鳩山新政権は日本の改造を行う勢いで公務員改革にも取り組むものと期待されていて、行政刷新大臣に仙石由人が就任する。当初、改革を積極的に口にしていた仙石だったが、自民党政権下で決定していた予算案を白紙に戻し、民主党政権下で12月までに組みなおすこととしたために、財務省の協力が不可欠で、官僚と対決する姿勢は腰砕けとなった。
 鳩山政権が国会に提出した案には、人事院や総務省から組織や定員についての権限を内閣官房に移そうという、甘利大臣が谷人事院総裁と大バトルを繰り広げた案件がすっぽりと抜け落ちていたのである。もと大蔵次官の斉藤次郎が日本郵政の社長に、元財務官僚の坂篤郎が副社長に就任したのも、この時期である。
 2010年6月、国家公務員の「退職管理基本方針」が発表され、鳩山の後を受けた菅内閣が、この基本方針を閣議決定した。
 この基本方針は、安倍政権下で成立した、天下りを全面的に禁じる「改正国家公務員法」に対して、そこで禁じられているのは定年前の勧奨退職による天下りであって、中高年の現職公務員が、公務員の身分のままで出向したり派遣されるのは、これに当たらないとしたのである。しかし、天下りはOBだろうが現職だろうが、天下り先との不透明な癒着を生むから禁止されたのであり、むしろ現職のままであれば、より便宜を図りやすいということになる。現職であれば、給与も官庁にいたときの額を保障しなければならない。高齢のキャリア官僚ならば、受け入れる側としては千数百万円の年収を用意することになる。よほどおいしい仕事を持ってきてもらわないと、採算が合わないということになろう。
 日本の国の根幹を正す「公務員改革」は、民主党によって骨抜きにされたのである。
 

 冒頭に書いたように、民主党は、赤字公債特例法案を成立させないと、国政に重大な影響が出ると言っている。しかし、日本の改革を阻害し後退させて、無駄金を流出させ続けているのは、民主党自身なのだ。
 天下り、渡り、無駄な独立法人…などなど、政府の無駄は今まで再三に渡り指摘されてきた。政権を取る前の民主党は、その無駄をなくせば16兆円の資金が浮いて、子ども手当を初めとする民主党マニフェストの実現の資金にすると意気込んでいたはずだ。
 その民主党の最大の矛盾がマニフェストにあるというのも、自家撞着である。民主党のマニフェストでは、公務員の天下りを全面的に禁止し、定年まで働けるようにするといっている。当然、職員数は増え、人件費も増大する。ところがマニフェストは一方で、総人権費の2割削減も謳っている。この両方を実現するためには、公務員給与の大幅カットしかない。民主党の有力支持母体が官公庁の労働組合であることを考えれば、これも実現不可能な詐欺公約である。
 むしろ自民党時代よりも後退した公務員改革…、行政の無駄を省けと口では言いながら何一つとして実現できず、天下りを復活させている民主党が、復興費用を人質にとって、「成立させないと国民生活に重大な影響が出る」なんて言う資格があるのか。
 厚顔無恥という言葉は、自分たちの既得権益は後生大事に守りながら、いずれ近々、増税を口にするであろう民主党の面々のためにあるのだろう。


 日本経済・震災復興…さらには国民生活に重大な影響が出るのは、菅政権・民主党政権が続くことが一番の原因であることを、理解していないなぁ!


【211】 菅降ろし   もはや、みんな、積極的に動くべきだ     2011.07.26
  

 菅民主党政権が人事不省に陥っている。定見なく、思いつき発言を繰り返し、政治の現場を混乱させる役割しか果たせない菅首相に、閣内からも、民主党内部からも、ホトホト愛想を尽かしたとして、辞任を促す声が湧き上っている。もはや菅首相を支えている周囲は、辞任の道筋を付けることへの職務だけであって、日本の将来や、国民の明日を拓く政治は何もない。
 岡田幹事長も、枝野官房長官も、とんだ泥舟に乗ってしまったものだ。彼らは、次世代の民主党を支える人材であったが、ここ数ヶ月で政界における存在感はすっかり薄らいでしまった。支離滅裂の菅首相の尻拭いに奔走している姿をさらして、国民の顰蹙を買っている。海江田・野田大臣など閣僚の面々も然りであって、死に体内閣のなかで、今や自分の職務に意欲を持って取り組んでいる大臣なんて、ひとりもいない。鹿野農水相や細川厚労相など、「TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)問題」や依然として迷走している年金問題や食の安全問題などで、もっと活躍する姿が見られてもいいはずなのに、どこで何をしているのかわからない。外務大臣って誰だぁといった調子だし、抜擢の感があった細野原発相も今は後悔していることだろう。


 菅内閣の仕事が遅々としてはかどらないことはおびただしい。ご本人は、復興会議の席上で「仕事が進んでいないとの批判があるようだが、わが内閣なりに着実に仕事をしている」と話しているけれども、復興の槌音を響かせるべき被災地には、震災から4ヶ月を経た今もまだ瓦礫の山の75%がそのまま放置されている。阪神大震災のときには、瓦礫は2ヶ月で片付けられ、3ヶ月目には復興に向けた建設作業が始められていたのである。
 被災した方々は今日の暮らしに困っているというのに、まだ避難所暮らしの方が多数いるし、全国から寄せられた義捐金も多くが配られていないという。難しい問題は多々あるのだろうが、それを乗り越えて行われるのが復興事業というものであろう。できない理由を並べているものを『能無し』と言う。
 

 菅首相は、自らの進退に関して、2011年度第2次補正予算案の成立、公債発行特例法案の成立、再生エネルギー特別措置法案の成立の「3条件」を実現させることが「1つのめどになる」と表明している。
 総額1兆9987億7671万8000円
の第2次補正予算は、復興を人質にとって、今日、参議院本会議で成立したが、もはや残る2つの法案成立を待つ必要はない。心ある国会議員ならば、与野党を問わず一刻も早い菅首相の辞任を実現させるべく努力すべきである。
 公債発行特例法案の成立は復興財源の確保に急がねばならないけれども、再生エネルギー特別措置法案なんて菅内閣で成立させなければならない理由は何もない。延命を図るために、2009年の民主党マニフェストに書かれていたこの法案を持ち出してきたに過ぎないというのがホントのところなのだ。
 菅首相は、消費税でも環太平洋連携協定(TPP)でも原子力政策でも、世間受けすることを言ってきたが、結果は全て混乱を招くだけのものであった。脱原発についても、その行程や日本経済の将来像はどうするのかといった実像は示せず、全てに確たる定見がない。吟味し考え抜いた政策ではないということだ。
 鳩山前首相が見事に騙されピエロを演じた、あの民主党両院議員総会の絵面は、微笑ましくも馬鹿馬鹿しいが、最早やこの邪悪な詐欺的手法を駆使する首相を擁くことは、日本にとって甚大なる損害であると言わねばならない。
 国民の支持率は10%そこそこと危機的状況を下回り、野党のみならず多くの与党議員からも辞任要求が出ている現状は、もはや政権の体をなしていない。幣原内閣に入閣しながら、総選挙後の“居座り”に対して、単独閣僚を辞任して内閣総辞職に至らしめた芦田 均の先例に倣って、閣内からも倒閣を図るべきだろう。
 そもそも、こうした政治状況を招いた場合は、自らを恥じて辞任するというのが、「恥を知る」「名を惜しむ」ものの身の処し方だが、菅 直人には誇りも教養もないようだ。ならば、倒閣運動を進めるしかない。


 さらに菅首相は、東日本大震災の復興について何の指針も具体的な目標も示すことが出来ず、また、福島原発事故についても右往左往するばかりで、発表する報告はウソばっかり、汚染地域も福島全域を…、いやもっと広範囲を指定しなきゃいけないんじゃないかと疑ってしまう。汚染野菜や汚染牛についても、市場へ流通してからあわてふためいている迷走ぶりだ。
 しかも、ここにきて、北朝鮮の拉致容疑者親族の周辺団体に6250万円もの献金を行っていた事実が判明した(21日、参院予算委で山谷えり子氏(自民)の指摘)。日本の国是に反する行為であるばかりでなく、人間としての見識を疑う問題はないか。また、3月11日には前原前外相の辞任の理由となった在日韓国人からの違法献金を国会で追及されてこれを認め、また、過年には日本人拉致実行犯の辛光洙(シンガンス)の釈放署名嘆願にサインをしていたことも発覚している。
 首相とは、国民の生命財産を守る政治の要であり、拉致被害者救出の最高責任者である。これを見ても、いかに菅 直人に
その資格がないかが判るであろう。


 菅 直人が首相の座に居坐れば、復興は一日ずつ遅れ、日本は沈没していく。退陣が決まっている人間が将来に向かって積極的な役割を果たせるわけがない。外国首脳も、辞めようとしている首相を相手にするまい。菅 直人の役割は終わったのである。民主党は、政権政党の責任において、菅 直人を首相の座から降ろさねばならない。
 「菅、辞任」を果たしたのち、ルーピー鳩山、史上最低の総理菅直人と二代の首相を擁いて、もはや国民から見放された民主党は、未来永劫政権に返り咲くことはないのだから、解党して政界再編を実行することだ。岡田・前原など、有能な民主党の若手を再生させる道は、他にない。




【210】 信頼崩壊の社会  責任体制を整えよ          2011.06.13
  - 日本では、政府も、一流企業も、学会・学者も信用できなくなってしまった -


 斑目原子力安全委員長が、テレビで「福島原発事故は防ぐことができた。そういう意味では人災だ」と自らや原子力安全委員会の責任を認める発言をしていた。「情報が原子力安全委員会には、ほとんど入ってこなかった」との苦言も呈している。東電や原子力安全保安院の手元で止まっていたと言いたいのだろう。
 この事態を招いたことに原子力安全委員会の責任は免れないが、たしかに原子力行政の一番の責任者は経産省と保安院だ。原子力推進の経産省の中に安全管理を司る「保安院」があるのも、馴れ合いであることを満天下に公表しているようなものだが、彼らは責任の全てを東電に押し付けて、自らの責任については一言も触れていない。勉強不足の(あるいは政府とつるんでいる?)マスコミもその追求を怠っている。
 また、この原発事故を見てみると、学界・学者という人たちの欺瞞に満ちた発言はどうだ。
事故に際していち早くアメリカやフランスが自国民を避難させたのに対して、日本では「直ちに健康に影響がない」という政府発表をメディアも繰り返し、専門家も「100ミリシーベルトまでは大丈夫」と発言している。
 テレビに出演して原発事故の解説をする東大教授に、東電から5億円の研究費が渡されていたことも報道されている。その結果が歯切れの悪い迎合発言ならば、学者はその良心を金で売っていると言われても仕方なかろう。事故後、放射能被爆の年間の許容量は従来の1ミリシーベルトから20ミリシーベルトに引き上げられ、更に100ミリシーベルトまで容認した政府発表にも、(涙の抗議で政務官を辞任した東大教授もいたけれど)、学会のお墨付きは与えられているはずである。食料の許容汚染値も随時引き上げられているが、国民の命を担保にして学問的地位の保全を図っているのならば、魂を悪魔に売ったとしか言いようがない。
 原発関係者は、一種の「ムラ社会」を形成している。政治には原子力利権があり、関連企業は「原発はダメ」と言ったらメシの食い上げだ。メディアの多くもこれに組み込まれていて、大本営発表ばかりを伝えて、ホントのことを取材して書こうとはしない。
 「想定外」と言われたら、「そうですか」と引っ込む国民も悪い。現象や事故をきちんと検証して、責任の所在をはっきりさせることが大切だろう。刑事罰をも含めた、責任の取り方を定める必要もある。そうでなくては、対策はいい加減でおろそかなものになり、また同じ大災害が繰り返されることになる。



【209】 東北関東東岸大震災 復興計画        2011.06.06

  
 大震災の復興が、遅々として進まない。被災地では、今日の食べるものや明日の生活費に困っている状況だというのに、無能な首相・政府・与党のもと、復興にかかわる1本の法律も成立していないていたらくだ。
 1923年(大正12年)9月1日、首都東京に壊滅的な被害をもたらした関東大地震の復興計画は政府主導で行われた。第2次山本内閣の内務大臣に就任した後藤新平は、震災の2日後には「帝都復興院」設立計画を立て、自ら総裁を兼務して人材を集めている。


 後藤は一人で東京復興の基本方針


  1. 遷都すべからず
  2. 復興費は30億円を(現在の金額で175兆円)要すべし
  3. 欧米最新の都市計画を採用して、我国に相応しい新都を造営せざるべからず
  4. 新都市計画実施の為めには、地主に対し断固たる態度を取らざるべからず

を練り上げる。そして、ただちに内務官僚に復興計画の細目について策定を指示、あわせて復興組織づくりを進めた。


 復興費30億円とは、現在の貨幣に換算して約175兆円に上る。財源の裏づけがあっての話ではないが、どうせ削られるのだからと打ち出した、大風呂敷とあだ名された後藤の真骨頂といったところだ。
 「地主に対し断固たる態度を取らざるべからず」というのだから、復興特例法といった立法処置をして、私有地としての権利を認めないとしたわけである。私有財産権の侵害としてのちに糾弾されたが、復興以上の再建をするためには、断固たる都市再生計画が必要であった。もちろん道路や災害防止のための公園煮する土地などを収用し、整備を行った後は土地代を支払ったり代替地を用意したりしたのだが、都内に大きな土地を保有していた伊東巳代治(枢密院顧問)などの頑強な抵抗にあい、予算は6億円足らずに縮小されてしまった。
 それでも、現在の東京の幹線道路は、この時に整備されたものがほぼそのまま使用されているし、東京市中の川に架かっていた橋も大部分が甚大な壊れていたので、大地震にも耐える恒久的な橋が計画され、隅田川に今なお震災復興橋梁として架かる橋は下流から順に、相生、永代、清洲、両国、蔵前、厩、駒形、吾妻、言問の9つあって、震災で壊れなかった新大橋を加え、隅田川十橋と称されている。9つの橋のうち、両国、厩、吾妻の3橋は東京市が担当、残りの6つの橋は復興院(のち内務省復興局)が担当した。
 その橋の建設にも、帝都の門たる第一橋梁の永代橋はアーチ橋とし、第二橋梁の清洲橋はライン川にかかるケルンの吊橋をモデルとするやわらかさを感じさせる案を採用するなど、都市景観に配慮した計画を立てている。
 学校を耐震性に優れた鉄筋コンクリート造りにし、大正期に水洗トイレの設備までもつけている。公立小学校と公園を併設する手法により、戦前・戦後を通じて、首都圏内や各地方都市で災害に対応した町づくりの一環としての防災用の緑地・公園が設けられていった。
 1923年(大正12年)12月27日に発生した虎ノ門事件の影響で、第2時山本内閣は総辞職したため、後藤の復興計画は道半ばで他者に引き継がれることになったが、大東亜戦争の終戦後、昭和天皇が「後藤の都市づくりが完成していれば、戦災被害はもう少し和らげられたことだろう」と述べられたことは特筆に価する。


 この例から見ても、復興計画は敏速でなくてはならないし、ひとつの組織全権限と全責任を持ってことにあたらなくてはならないものである。
 しかるに、現政権(菅内閣)は、震災後3ヶ月になろうとしている今も、ナントカ対策会議などという組織ばかりを20個ほども乱立させるばかりで、復興の青写真を示そうとしない。復興計画は、東北地方だけの復興を図るものでなく、併せて日本全体の将来像を示すものでなくてはならないのに…。
 電力供給はどうするのか、今のままならば電力の無い状況下で東北・関東の工業生産はどうするのか、企業の生産拠点を西日本に移すべく国家としての計画はあるのか。
 東北の農業を大規模化するため、農地法や農協法を改正して、利益が上がる産業に育てていくことを実行しなければならない。東北は日本の漁業基地だが、小型船で生産性が低かった漁業を大型化への援助をし、漁港の整備を急ぐべきだろう。
 津波の被災地の復興は、津波が届かない場所に新しい町を創ることを図ることだ。何千億円もの費用をかけた大防波堤も、必ず再来する想定外の自然の猛威の前には無力であることを思い知らされた。今度はその費用を使って、再び同じ被害をこうむらない高台に新しい街づくりを図ることだ。


 復興は、どのように進めるのか。どれぐらいの時間がかかり、人々の将来の暮らしはどうなるのか。首相は、国政を預かるものとして、自らの言葉で語らなければならない。人々に安心を与え、一致団結して国難に当たることを促さなければならない。
 しかし、菅首相の曖昧さは救いがたい。場当たり的なことを言っては、思いつきの対処をしている。しかも、多くの国民は、菅首相が出てくるとテレビのチャンネルを変えてしまうというのだから、もはや国民の信頼を繋ぎとめることができない状況で、どうしようもない。
 現政権に、復興の舵取りをする能力は無い。国民が信用しようとせず、その言葉を聞こうとしないのだから、資格も無いということだ。
 大連立よりも、政界再編成だろうと思う。大連立では、今の既成の政治家が舵取りすることになって、今まで通りの手かせ足かせの中で斬新な復興案は期待できない。
 ここは、枠組みを変えて、新しいリーダーのもと、新しい考え方で思い切った日本復興計画を示すことが肝要であろう。




【208】 菅内閣 不信任案 否決        2011.06.02
  

 衆院本会議は、自民、公明、たちあがれ日本の3党が提出した菅内閣の不信任決議案を、賛成152票、反対293票で否決した。
 鳩山・小沢が不信任案賛成を表明して、前夜までは不信任案可決必至とみられていたが、今日午前中に行われた菅・鳩山会談で、『大震災と原発事故の解決に一定の目処がついた段階で、菅直人は首相を辞任する』ということで合意が成立し、これを前提に鳩山は今回の不信任案に反対するとして、確認文書を作成した。
 午後に行われた民主党の両院議員総会で、「しかるべき時期に私は辞任する」と菅首相が述べ、続いて立った鳩山が「お辞めいただくということで、党の分裂につながるような事態は避けさせていただきたい」と、気味の悪い敬語だらけの話をすると、集団でならば辞任は当然と大騒ぎしていたのに、ひとりひとりは腹の据わっていない民主党議員たちは前夜の勢いはどこへやら、ほとんどが不信任反対へと転じてしまった。前総務相の原口一博など、前日までは「私たちが野党の不信任案に1票投じるというのは断腸の思いです。しかし、100年の悔いを残さないためには、これが今の取りうる最善の手だ」と不信任案賛成の思いを熱く述べていたのに、反対票を投じた後は「もともと、野党の不信任案に乗るなんていうのは、邪道なんですね。もうその手はなくなりました」とイケシャァシャァと語っている。


 国民は、いったい何を見せられたのか?


 あきれ果てた平成田舎芝居の見どころの第一は、鳩山由紀夫という思いつき政治家の場当たり的な言動と、それに付け込んだ菅・岡田執行部の戦略である。「鳩山の不信任案賛成は、政治的信条からの判断でなく、いつもの上滑りだ。首を振れる条件を示せば、自分が作った党を割りたくないというのが本当のところだ」と、読まれてしまっていた。ホントに、日本の現状打開のためには菅直人ではダメだと考えていたのであるのなら、採決当日の朝にのこのこと首相官邸に出かけていくわけがない。
 鳩山のこの行動を見せられては、さすが豪腕の小沢一郎もなす術がなく、「辞めるという言葉を引き出したのだから、あとは自主投票でいいんじゃないか」と言わざるを得なかった。
 第二は、民主党議員たちの信念の無さだ。昨夜まで、みんなで「菅首相は辞任するべき」とこぶしを振り上げていた連中は約70人…。それが、自主投票と聞くと一斉に反対に転向してしまった。彼らは、『菅直人には日本の舵取りは任せておけない』という判断から、不信任案賛成に一票を投じようとしていたのではないのか。
 民主党を追い出されてはこれからの政治人生の展望が描けないからと思っているのなら、こんな民主党にしがみついていても先は無い。また、ここで解散したら未来永劫民主党政権はないから、今の菅に解散ができるわけがない。さらに、このまま次の選挙を迎えたら、民主党公認候補はみんな討ち死にだろう。
 第三は、谷垣自民党の詰めの甘さだ。菅政権から人心は離れていることをしっかりと認識させ、民主党に明日は無い、菅政権には今日も無い…と、民主党議員の切り崩しをなぜ図らなかったのか。一昔前の自民党ならば、他政党の懐にも手を突っ込んでかき回すぐらいのことを平気でやる連中がいたのに、今の政治家は口先ばかりでスマートすぎる。
 戦後、内閣不信任案は4回可決されている。昭和23年の内閣不信任案の可決はやらせである。これは衆議院の解散ができるのは憲法69条の場合に限られるという解釈を前提に、事前に与野党が協議して不信任案を可決させ、吉田内閣が衆議院解散を行った(馴れ合い解散)のである。
 昭和28年は、与党である自由党鳩山派が分党して内閣不信任案に賛成したために可決され、吉田首相は衆議院を解散した(バカヤロー解散)。
 昭和55年の大平内閣の際は、自民党反主流派の福田派(現・町村派)・三木派(現・高村派)らの議員が本会議を「欠席」して内閣不信任案が可決…。大平首相は衆議院を解散し、衆参同日選挙となったが、首相は選挙期間中に死亡…、選挙は自民党が大勝した。不信任案を提出した社会党はまさか可決されるとも思っておらず、与野党ともに「ハプニング」による選挙だったので、「ハプニング解散」と呼ばれている。
 平成5年の宮沢内閣の場合は、当時自民党最大派閥の竹下派の分裂が主たる原因であった。羽田派の議員らが内閣不信任案に賛成し、13年ぶりに内閣不信任案が可決。その後の選挙で自民党は過半数割れ、非自民非共産8党派連立の細川内閣が成立し、1955年以来続いた自民党政権が終焉を告げたのである。
 そして今日の不信任案であるが、今回は成立の可能性が高かった。民主党の小沢系議員への働きかけと、鳩山の軽挙妄動さえ封じておけば、可決したのである。それだけに、152票VS293票という大敗振りとともに、谷垣自民党の無策振りも糾弾されるところであり、今後の谷垣執行部に対する批判も避けられないところだろう。


 いつとは明示していない(岡田幹事長談)とのたまう菅首相の辞任の日まで、日本の危機がさらに続くことになった。能天気な鳩山は「東日本大震災復興基本法案を成立させ、平成23年度第2次補正予算案編成にめどをつける6月末」なんていっているが、言下に「そんなことは合意文書には書いてない。来年までかかる」と岡田に否定され、「ウソはいけません」と駄々をこねている(苦笑)。
 今年末までを視野に今国会を大幅に会期延長する考えを示している菅首相が、2次補正成立までその座にとどまるならばまだ半年以上ある。大震災の復興や原発事故解決の目処など、向こう5年10年のスパンで考えなければならない問題である。
 大震災に限らず、菅政権の無策無能ぶりは目を覆うばかりである。中国・韓国・アメリカなどの他国がリーマンショックからの立ち直りを示しているというのに一向に上を向かない日本の経済、一に雇用・二に雇用と叫んだ菅首相なのに依然として失業率は高く新卒者の就職内定率も厳しい数字を示してる。子ども手当て・農家の所得保障など、目玉の公約は何一つ実現しない政治不信を招き、今日発表された「社会保障改革に関する集中検討会議」(議長・菅首相)の報告書には、2015年度までに消費税率の10%への段階的な引き上げが必要だと明記している。今月20日には高速道路の上限や無料化が撤廃されるなど、確実な高負担社会への移行が始まっている。
 国際社会には評価されず、政治不信を増幅するばかりで、経済の浮揚や公務員改革などの国内問題には何らの手も打てず、国民に負担ばかりを押し付けて、震災後3ヶ月が過ぎようというのに復興も原発事故も遅々として対応が進まない。
 こんな政権を、まだ担いでいこうというのか。不信任決議案は慣例上、一国会に一回しか採決できない。首相が「自発的に辞任」するまで、あと半年、あと1年、…、もしかすると任期いっぱいまで、国政を担当する能力の無い首相を戴いて、死に体内閣が率いる日本は迷走を続けなければならない。


7月21日(木) 米スペースシャトル 最終便


 米スペースシャトルの最終便となる「アトランティス」が、13日間の任務を終え帰還した。飛行機のように滑空して着陸する独特の風景もこれが見納めだ。


    月明かりの中、ケネディ宇宙センターに
    着陸する「アトランティス」      →



 1981年の「コロンビア」初打ち上げ以来、宇宙への人類の夢を乗せた135回の飛行には、日本人宇宙飛行士7人を含め16か国355人が搭乗した。
 宇宙を身近な存在にしたシャトルの30年間の功績は大きい。86年の「チャレンジャー」、2003年の「コロンビア」など、痛ましい事故で計14人の命が奪われたが、宇宙を目指す取り組みはくじけることはなかった。
 あれもこれもと欲張って、費用の高騰を招いたことは反省材料だ。今後は、宇宙への足がロシアのロケット頼りになる。米国は民間会社が新たな宇宙船を開発中であり、中国も宇宙戦略を推進している。技術の共有などは、望めない環境になるのかもしれない。



← 日本時間9日午前0時29分、(米東部時間8日午前11時29分)、ケネディ宇宙センターから打ち上げられたときの写真も撮ってあります。


 日本は、シャトル計画の当初から有人宇宙技術を学ぶ足場にしようと、積極的に参加してきた。若田光一さんが、2年後の宇宙ステーション船長に指名されるなど、日本人飛行士の成長は著しいが、これからの宇宙への足はどうするのか。
 08年の宇宙基本法成立に伴い、内閣に宇宙開発戦略本部を設け、政策を立案する体制は築いた日本だが、その翌年発足した民主党政権は、宇宙まで手が回っていない。昨年の事業仕分けでは予算に厳しい枠をはめた。シャトル後の宇宙で、日本は何に取り組むのか。
 小惑星探査機「はやぶさ」の宇宙技術は、世界を驚愕させた。太陽電池だけで数十億Kmを飛行して帰還する技術など、アメリカにも中国にも無い。
 宇宙開発は、国を挙げて取り組むべき国家プロジェクトである。「2番じゃダメなんですか」なんて発想では、参加も出来ない世界だ。「はやぶさ」の実績をもとに、さらに上回る研究を官民を挙げて支援し、この分野の日本の存在を確かなものにしたいものである。



 「日本は、今」トップページへ