ハワイ・ゴルフ紀行
その6
ハワイ         10


第5日


キンカメ見物
 今日の予定は12時15分フライトのヘリコプター・ツアー。午前中の予定はない。8時過ぎから、ゆっくり目の朝食を済ませたのち、キンカメの館内を見て歩いた。
 キンカメは、正式な名前を「キング・カメハメハ・コナ・ビーチ・ホテル」という。カイルア桟橋のすぐ隣に建っているから、海から船で来ても至便。また、コナの繁華街のど真ん中にあるから、ショッピングや食事などにも歩いて行けて、とても便利だ。キンカメの壁麺に飾られている歴代大王の肖像画館内にも10数件の専門店が並ぶショッピングモールがあり、ファッション・工芸品・装飾品・みやげ物などを売っている。
 ロビーでは朝市が開かれ、おじいさんやおばあさんが、民芸品や手作りのウクレレ、それに、ちょっと得体の知れないグッズ(何に使うのか解らなかった)などを並べている。朝食を終えた宿泊客が群がり、結構繁盛していた。
 キンカメのロピーや廊下の壁面には、カメハメハ王朝の歴代大王や王女の肖像画が飾られている。このホテルがキング・カメハメハゆかりの地に建設されていることは前にも述べたが、それだけにホテルとしては王朝の意志や伝統を大切にして伝えていこうとしているのだろう。館内の随所に、王族が正装するときの衣装である鳥の羽根のヘルメットやマント、また武器や船、楽器、古代のキルト作品などが展示されていて、カメハメハ・アミューズメントの感を呈している。


ハワイの歴史
 カメハメハ大王は、ハワイ島の王からハワイの全島を征服した1世を初めとして、その孫の5世まで、実は5人いる。簡単に、ハワイの歴史を振り返ってみよう。
 約70万年前、激しい火山活動によって海面の上に姿を現したハワイ諸島に、最初に移り住んだのは、南太平洋の非常に優れた航海術を持つポリネシア人だといわれている。星をナビゲーションにして航海をする知識を持ち、新天地を探すために食料や植物、家畜などを船に積んで航海に出た彼等は、大海のなかに点在するハワイ諸島を発見し、定住した後も故郷とハワイの間を幾度となく往復していたらしい。
 1777年、英国人キャプテン・ジェームス・クックが北西航路を探索する航海中に偶然ハワイ諸島を発見し、ハワイは世界地図に登場することになるが、当初、友好的であったハワイの人たちとクックたちとの間には次第に争いが起こり、ついに1779年クックは住民によって殺害されてしまう。また、この西洋との出会いによって、西洋人が持ち込んだ天然痘、はしか、百日咳などの新しい伝染病のため、免疫のなかったハワイでは人々が次々と倒れ、人口が激減した。ハワイと西洋との出会いは、ちょっと悲劇的だ。
カメハメハ1世 ハワイ島の王だったカメハメハ(1世)は1736年(または1758年という説も)にハワイ島のコハラ地区で生まれた。西欧の文明と武器・戦術を取り入れてマウイ島、ラナイ島、モロカイ島を次々と平定、そして権力のもう一つの中心地であったオアフ島をヌアヌ・パリの戦いで支配下に置き、全島を統一した。オアフ島に居を構えてハワイに君臨したカメハメハ1世が、晩年の余生を過ごしたのが、今、キンカメが建っている故郷のハワイ島カイルア・コナである。
 ハワイのアレキサンダーと言われたカメハメハ1世のあとを継いだのは、英国を訪問した際にカママル妃と共に麻疹にかかり、異国の地で逝去したカメハメハ2世(リホリホ)、 憲法の発布、立憲君主制を敷いて、ハワイの社会規律を伝統的なものから近代的なものへと変えたカメハメハ3世(カウイケアオウリ)、病気による急激なハワイの人口減少を食い止めるため、1859年にクイーンズ・メディカル・センターをホノルルに設立したカメハメハ4世(アレクサンダー・リホリホ)、そして、カメハメハ大王直系の最後のハワイ統治者カメハメハ五世(ロット・カプアイワ)たちであったが、このあとハワイの王は議会によって選任されることになる。1868年、日本から最初の移民が太平洋を渡ったのは、ハワイ朝最後の王カメハメハ5世が統治する常夏の楽園ハワイであった
 1873年に議会によって王位継承者に選ばれたルナリロ、オアフ島のイオラニ宮殿を建てたカラカウア、そしてハワイ人勢力の拡大を目指す王政復興派と砂糖業に従事する親米の白人勢力とが対立、白人達のクーデターの勃発により自ら王位を放棄した女王リリウオカラニ(「アロハ・オエ」は彼女の作詞作曲)と続くが、リリウオカラニ退位のあと、1893年、臨時政府が設立され、憲法が制定される。1世紀近く続いたハワイ王朝も遂に崩壊、ここにその歴史の幕を閉じたのであった。
 翌1894年、ハワイ政府は共和国を宣言。1898年米国議会でハワイ併合案が通過、国家基本条例が布告されると、ハワイは正式にアメリカの領土となりイオラニ宮殿に星条旗が掲げられた。ハワイの人たちが望んだ併合ではなく、欧米帝国主義が小さな…しかし漁業資源や何よりも軍事的に重要な島々を飲み込んだ併合であった。日清戦争勃発の前年のことだ。1959年3月米国議会はハワイを州として認証、同年8月21日、時の大統領アイゼンハワーの布告署名により、アメリカ合衆国の第50番目の州となった…というのが、駆け足のハワイ史である。
 お勉強をしている間に、10時30分になった。11時45分までに、ワイコロアヘリポートに行かねばならない。ある種の案内には「このツアーは送迎あり」と書いてあったが、近鉄観光は「自分でヘリポートまで行って下さい」と言うし、レンタカーの走りも順調だから、章くんはもとより自分で行くつもりであった。ワイコロアヘリポート
 

ヘリコプター搭乗 http://www.bluehawaiian.com/
 11時30分を少し回ったころ、ワイコロア・ヘリポートに到着。2〜3機のプルー・ハワイアン・ヘリコプターズが待機していた。
 と、そこへ1機また1機とフライトに出ていたヘリが帰ってきた。各機は所定の位置にピタリと停まる。笑顔の乗客が声高に話しながら降りて来て、身につけていた救命具を外し、事務室の箱の中へ放りブルーハワイアンのヘリ込んでいく。
 章くんたちと一緒の時間に飛ぶ予定の客が次々と到着して、フリーのコーヒーを飲んだりしながらベランダ席でたむろしている。車椅子のおばあさんを、家族のみんなが吊り上げて階段を上ってきた。10歳ぐらいの女の子も懸命に手伝っている。
 やがて章くんたちのフライト時刻がきた。係の女の子に教えられて、先ほどの客が入れていった救命具を箱から拾い出してしっかりと身につけ、名前を呼ばれるのを待つ。ヘリは6人乗り、6人ずつが1チームになって、1つのヘリに乗り込むわけだ乗客 その1
 中にひときわ大きな体の男性がいて、救命具のペルトが短かすぎる。胴回りなんか、見た目2m以上はあるから、ベルトの長さが全然足らない。。女の子が特製の救命具を出してきて、巻き付けていた。近鉄で申し込むとき章くんたちも体重を聞かれたから、ヘリに乗り込むチームは6人の体重の合計を計算しながら決めるのじゃないかと、章くんは思う。とすると、章くんたち3人の合計体重は、全員の中ではとび抜けて軽い。多分、この大きなおじさん1人分よりも軽いだろう。じゃぁ、章くんたちとこのおじさんとが同じヘリに乗ることになる確率は極めて高い。隣り合わせになったら、こちら側へ椅子からはみ出して来るのじゃないかマウナケァ山腹の大草原地帯と心配だ。
 でも、章くんたちのチームはあと3人のご婦人たちだった。おばあさんとお母さんと娘さん。それぞれ60Kg・90Kg・75Kgぐらい。機内前列2席へ左からおばあさんと滋子さん、右は操縦席。後列左からヤスヱ(左窓際)・章くん・お母さん・娘(右窓際)と座り、安全ベルトをガチャリとかける。
 ブルンブルンとプロペラが回り、パイロットのおじさんが操縦桿をグィッと引くと、ふわりと浮き上がった。やにわに機種を東へ向けてマウナケァ山の山腹を横切り、一路キラウエア火山を目指す。ヘリは機体を揺らすこともなく、抜群の安定性だ。左にマウナケァ山(4205m)、右にマウナロア山(4169m)、足の下には大草原地帯を望みながら、時速200Kmでヘリは行く。


キラウエア火山噴煙を上げるキラウエア火山
 やがて前方に幾筋かの噴煙が見えてきた。70万年前にハワイ諸島を誕生させた地球の息吹が、今なお地表へと噴出するキラウエアの噴火口、ハレマウマウ火口だ。
 ヘリは火口の上を、角度を変えて2〜3度旋回する。ハレマウマウ火口は、ハワイの人々に恐れられる火の女神ペレの棲み家。彼女は非常に美しいけれど身勝手で、気に入った男性が思い通りにならないと噴火を繰り返すという。章くんたちが訪れる1週間ほど前にも、小規模な噴火を起こした。ワガママでは引けをとらないヤスヱが来るというので、怒ったのだろうか
マグマを噴出する火口
海に流れ落ちるマグマの先端

 巨大なクレーターの真ん中から、赤いマグマが噴出している。このクレーターは車で周遊ができるようになっているが、火口をのぞくにはヘリで行くしかない。
 火口から海に向かって溶岩が流れ出て、山肌に黒い波紋を描いている。表面はすぐに冷えて黒く固まるけれど、底の部分では今も高熱の溶岩が流れているとか。溶岩の上を歩いて、先端が海へ流れ落ちる現場を見に行くツアーがあるが、靴の底が熱いという話を聞いた。
 ヘリは火口を見物したあと、溶岩の流れに沿って海岸へと向かう。溶岩は、約10kmほどを流れ下って太平洋に到達。高温の溶岩が海水に落ち込み、水蒸気をあげている。風下側のところ、水蒸気が風に飛ばされたところでは、真っ赤な溶岩が流れ落ちるのが見られた。面積1万5000平方qのハワイ島は、今なおキラウエアから流れ出る溶岩によって成長し続けている。その最先端の現場が、この海岸線なのだ。
 先日走った11号線を北上してヒロに向かうこの崖からデルタへ降りる人がいるとは思いも寄らなかった。いやはや、この先端を降りて、マグマが海へと流れ落ちる光景を見ようという人がいるというのだ。さすがは自己責任の国アメリカ、観光も半端じゃない。

 キラウエア火山を後にしたヘリは、東海岸を北上してヒロの町を目指す。ヒロ空港で一度降りて休憩を取るのだ。足元に、一昨日章くんたちがハワイ島一周のドライブをした、11号線が続いているヒロの町 手前に見えるのがヒロ空港
 やがてヒロの町が見えてきた。島の東側は雨が多く緑の樹木に覆われているが、ヒロ周辺では「○○ファーム」などと名前がつけられた植林事業が行われていて、整然と立ち並ぶ木々の様子を望むことができる。
 ヒロ空港で15分ほどの休憩。自動販売機でコーラとピーナツを買ってヒロ北部には大森林地帯が広がり、無数の滝が見られた。お腹を補い、出発だ。




ワイピオ渓谷
 ヒロ北部の一帯は、鬱蒼とした密林が続く。原野を縫って幾筋もの川が流れていて、ところどころにたくさんの滝が見られた。地上ではレインボー滝見学ツアーとかいって、その中の1つの滝を見に行くツアーがあるようだが、これだけたくさんの滝を見せられると、その中のひとつを見に行こうかという気にはならない。
 ほどなくヘリは、島の北東端…道路のない…原始世界が展開するワイピオ渓谷へ差し掛かる。この一帯、海岸線は高さ300mの断崖絶壁が続き、その台地が数十万年の浸食を受けて、ワイピオ渓谷深い谷が刻まれている。ここは特別の大地の力がみなぎる聖なる土地であると考えられていて、古代には王族の別荘地があった。ハワイ島の王であったカメハメハはハワイ全島制圧への戦いを、この地から興したのである。今なお、急峻な自然が道路建設を拒み、周回道路ができないこのワイピオは、原始の面影を色濃く残していて、映画「ジュラシックパーク」の撮影現場であることでも知られている。気の遠くなるような年月が刻まれた渓谷


 海岸の断崖沿いに台地へ回りこんだヘリは、深く掘り刻まれた渓谷のひとつに分け入り、その奥深くを落ちる巨大な滝を見に行く。左右から迫る絶壁…、やがて行く手も断崖にさえぎられた最奥部に至ると、右手の崖からも、左手と前の崖からも巨大な水の柱が流れ落ちていて、はるか下の密林へ吸い込まれていく。
 危ない、ぶつかる! 何百mを流れ落ちる滝に見とれていた顔を上げると、断崖がすぐ目の前に迫っている。ベテ断崖を流れ落ちる滝
ランパイロットは、垂直の崖に沿ってヘリの高度を上げ、
台地の上に出た。急に視界が広がり、前の支えがなくなって、つんのめるような不安を感じたのは、章くんが高所恐怖症だったからだろうか。
 機首を左に転じたヘリは、ハワイ北端の高峰カレイホオヒエ(1670m)の南腹を横断して、ヘリポートを目指す。眼下は一面の大草原、放牧されている牛や羊たちが豆粒のような大きさで草を食んでいる。
 2時30分、無事、ワイコロア・ヘリポートに帰着。ヤスヱが、機内にコートを忘れた。取りにいくと、コートは芝生の上に投げ捨てられてあった。日本ならば、お客様のお忘れ物として、事務所まで運んでくれるのだろうが、さすがはアメリカ…、放っぽり出されている。それとも、ヤスヱのだと知っていたのだろうか。

マウナケァ山へ登るサドル・ロード
200号 サドル・ロード
 ヘリに備え付けられている自動カメラで撮っていたビデオ(お土産として売っている)を見たりしていて、ヘリポートを出たのが3時前。まだ日は高い、章くんたちはマウナケァ山への登山道サドルロードを登ってみることにした。
 サドルロードは、ハワイ島西海岸の北部コハラ・コーストから東海岸のヒロまで、ハワイ島の中央部を横断する全長55マイル(約88Km)の舗装道路である。しかし、激しいアップダウンや舗装のはがれているところがあったり、夜は照明がなくて野生の動物が横切るなど事故の多い道路なので、レンタカー会社では走行を禁止したり保険を適用しないと定めているところが多い。
 でも、そんなことで怯(ひる)むような章くんではない。いや、むしろそれならば行ってみようかと思う。レンタカー会社が走行を禁止したり保険を適用しないといった話は、滋子さんやヤスヱにはしていない。即座に「よしなさい!」と言われる恐れがあるからだ。
 サドルロードはアメリカの道路としては道幅が狭い。それに舗装が薄くて、表土の凹凸がタイヤへ敏感に伝わる。路肩はところどころ舗装がはがれたりしているので、車はみんな中央の白線をまたいで走っている。前から来る車が見えると、右側斜線へ戻るのだ。全線の半分の約40Km余はずっと登りである。この登り、章くんが借りたレンタカーはトップ・ギァだと馬力不足でスピードが出ない米空軍キャンプ。それほどの傾斜のある登りなのである。
 約40分、登り続けた道の左手に建物が見えてきた。米空軍のトレーニングセンターだ。
 門の前の道へ車を停めて写真を撮っていたら、門番小屋から銃を構えた番兵が出てきた。ヤスヱが「逃げて」と叫ぶ。
 さらに登るのだが辺りの風景は依然として変わらず、左に山腹、右に草原…。10分ほど登って、「どこまで行っても同じジャン。この車では、登山用道路は登らんし…」と章くんが言うと、滋子さんもヤスヱも「帰ったほうがいいね」と同意。30Kmほどの地点でUタ道の左右にはいたるところに噴火口のあとがあるーンした。
 帰り道、先ほどの空軍基地前で「かかって来ーい」と章くんが番兵小屋に向かって叫びながら通り過ぎると、ヤスヱが真面目な顔で「やめてよ。アメリカ軍の怖さを知らんの」と、フセインのようなことを言う。
 道の左右は一面の草原…。放牧されている牛の姿が点在している。時々、クレーターの名残りが盛り上がった小山のような形になっていて、激しかったハワイ島の噴火の面影をとどめている。
 往き50分かけて登っていった道を、帰りは40分で190号まで戻ってきた。この道をどこまでも南へ下っていくと、キンカメの玄関へぶつかる。


コナの海辺のレストラン「ハゴス」
 キンカメへ戻ったのは5時を少し回ったころ。シャワーを浴びて着替えたのち、章くんたちが夕食に出たのは7時になろうとしていた時刻であった。
 今夜のお目当ては、コナのオーシャンフロントでは最も古い歴史を持つ、レストラン「ハゴス」。ステーキ、シーフードが美味しいと聞く。予約もせずに人気のこの店を訪ねたのは、見通しが甘かったと言わねばならない。7時に店に入った章くんたちは、「今の予約ならば、9時になります」と言われてしまった。
 仕方がない、他の店で簡単な食事でもしながら待つか?…ということにして、近所のコナ・リゾート・ホテルのオーシャンテラスをのぞいてみた。バンドが入って、結構な賑わいである。ハゴスでの夕食を控えている章くんたちは、ここではピザと飲み物を頼んで、1時間少々を過ごした。
 午後8時30分。約束の9時よりは30分ほど早いけれど、こちらには相手の言うことは全く聞いていない最強の交渉人ヤスヱがいる。行ってみようと、ヤスヱを前面に押し立てて「空いたぁ」とのぞくと、「どうぞ」と通してくれた。
 章くん、ハワイ島最後のロブスターを頼んだのだが、ここでも蒸し焼きにしただけのものが出てきて、章くんが納得できるロブスターの味にお目にかかることはできなかった。ハゴスのキャシーとの2ショットに ご機嫌の章くん
 でも、ウエイトレスのキャシーの美しさが、ロブスターの物足りなさを補って余りある。ウエィトレスの子たちは、それぞれの受け持ちのテーブルが決まっているのだろう、その一角を歩いて、各テーブルの客に「美味しいですか? お味はどうですか?」などと声を掛け、二言三言…客と話してキャッキャと笑い合っている。店の子が客に声を掛け、料理や飲み物などについて話を交わすのはとても良い接客の方法だ。つい、チップを20ドルもはずんでしまった。



 前5ページへ  次7ページへ  世界ゴルフ紀行トップページへ