ハワイ・ゴルフ紀行
その7
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第9日

街角に停まっていたレインボー・バス
 ハワイ最後の朝が明けた。午前6時30分起床。皆んなすっかり早起きだ。朝食を済ませて、荷物の点検と整理。8時15分から車へ積み込み、30分出発。
 今日の中部国際空港(セントレア)行きコンチネンタル905便は、ホノルル空港を午後2時15分に出発の予定だ。空港へは正午ごろに入ればいいのだが、レンタカーを返したりしなければならないので、11時に空港へ戻る予定である。
 それまで、2時間30分ほど…。「パールハーバーを見てみたい」と言うヤスヱの発案で、日米開戦ゆかりの地を訪ねてみることにした。


パール・ハーバー
 H1を西へ…、ホノルル空港を通り過ぎてしばらく行くと、「PAUL HARBER」の標識があった。降りていくと、道の左手一帯に米軍基地が広がっている。パールハーバー見物の皆んなが行くのはどこだとどこだと言いながら、前の車のあとを付いて行くと、大きな門の中へ入っていってしまい、10名ほどの番兵が次々と来る車を停めて説明し、Uターンさせている。
 「PAUL HARBER」の標識に従って来ると、基地の施設の正門へたどり着くことになるのだ。たくさんの人がひっきりなしに来るものだから、基地の米兵も慣れていて、「見物ならばアリゾナ・メモリアルへ行け。もとの道を戻って、2つ目の信号を左だ」と、皆んなに説明している。そうか、パールハーバーへ行こうとしたら「パールハーバー米軍基地」へ行ってしまう。観光客は「アリゾナ記念館」を目指さなくてはいけないのだ。アリゾナ記念館
 さらに走ること5分。「(アリゾナ記念館)ARIZONA Memorial」の建物が見えてきた。駐車場の係員も、皆んな米軍の軍服を着ている。「カメラはOKだけれども、バッグはカメラケースでも全てダメ。車へ置いていけ」と注意してくれる。
 今、この建物を訪れる客は半分が日本人だというが、もちろんアメリカ各地からの訪問客も多い。彼らの何人かは、「リメンバー・パールハーバー」の思いを持って、この記念館を訪れるのだろうし、また当然、日米戦争の当事者やその遺族もいるだろう。日本人観光客としては心しなければならないことであり、実際に訪れた日本人が「厳しい視線に緊張感を覚えた」と書いていたのを読んだ覚えがある。


 まだ、朝の9時半過ぎだというのに、入り口に行列ができている。その列に並びながら、章くんは、太平洋戦争について思いをめぐらせてみた。
 『 明治維新を断行して近代国家へと脱皮した日本は、日清・日露の戦いに勝って世界の舞台に登場し、やがて列強に伍する兵力を持った。昭和初期、日韓併合条約を結びさらに中国北東部の満州を強引に独立させた日本を欧米列強は強く警戒し、その進出を連合して阻止しようという動きを見せ始めた。
 これに対して、日本はアメリカを仮想敵国とし、軍艦の建造など軍備拡張に乗り出すが、アメリカはワシントン会議で日本の軍備(米英日=5・5・3)およびアジアにおける勢力拡張を阻止(9カ国・4カ国条約)。さらに日米通商条約を破棄して日本に対し石油等資源の輸出を全面禁止、滞米資産凍結などの経済制裁を加え、中国からの撤退を求めてきた。この当時、既に列強はイギリス(インド)、アメリカ(フィリピン)、オランダ(インドネシア)など、アジアに植民地を持って人々を使役・搾取し、権益を保持していたのである。
 近衛内閣は和平交渉に乗り出したけれども、事態を収拾することが出来ず辞職。当時、陸軍大臣であった東条英機が内閣総理大臣となり東条内閣が成立、再度交渉に臨んだが決裂、日米関係はさらに悪化したのであった。
 アメリカの対日禁輸措置やいわゆるABCD包囲網で、石油などの資源が入らなくなった日本は、資源を確保するために東南アジアの油田の確保に動く。その資源を敏速かつ安定的に確保するには、まずフィリピンに極東軍司令部を持つアメリカ軍の動きを封じなければならない。その本部である太平洋艦隊の基地が、ハワイオアフ島パールハーバーにあった。ここを封鎖して米艦隊の動きを封じ、安全に東南アジア進出を果たして、資源を確保したのち早期停戦を図るというのが、連合艦隊司令長官山本五十六大将の作戦であった。
 ついに日本は、大東亜共栄圏(欧米諸国からアジア民族の開放)を大義名分としてアメリカ、イギリス、オランダに宣戦布告。日本軍は宣戦布告と同時にフィリピンのアメリカ極東軍ら東南アジア方面を襲うと見せかけ、極秘に南雲忠一中将を司令長官とする艦隊を日本から真珠湾に向けて出航させ、奇襲攻撃を仕掛けたのである。
 当時の在米日本大使館の不手際から、アメリカ政府へ宣戦布告の書面が手渡される8時間前に攻撃の火蓋を切るという失態は、「だまし討ち」として、「リメンバー・パールハーバー」を合言葉に対日戦を戦うアメリカ国民や兵士に団結心を芽生えさせることとなり、今日でも対日批判の旗印として掲げられている。終戦時の極東軍事裁判の判決までを含めて、日米戦争は日本の政治や国民生活に今も大きな影を投げかけている出来事である。』ミズリー号
 入り口までの行列はまだ長い。時計を見ると、やがて10時になろうとしている。中を見て回るには、急いでも1時間半はかかるという。11時までに空港へ取って返さなければならないから、見物はちょっと無理みたい。外から内部の様子をのぞきこみ、パチリパチリとカメラに収めて引き返した。


 日本の降伏調印式が甲板上で行われた、戦艦ミズリー →
   今は現役を引退してここに係留されている。 この船の
  前方に真珠湾奇襲攻撃で撃沈された戦艦アリゾナが沈んで
  いて、今も燃料の重油が漏れ出してくるとか。



 
ダラーの営業所 ホノルル空港へ取って返し、レンタカーを返すためにダラーの営業所を探す。「RENTER CAR⇒」と書かれた看板を目当てに行くと、レンタカー会社が寄り固まっている一角に出た。
 「DOLLAR(ダラー)」の看板が見えた。「この角を左だな」と曲がろうとすると、「もうちょっと奥のはずよ」とヤスヱが言う。章くんが「ここだろう」と言っても「いえ、もっと奥…」と指を指す。「ホントか?」とその角を曲がらずに奥へ進むと「そこ右」。さらに進むと「そこ右」。さらに「そこ右」と言う。… 章くん、合点して、素直にヤスヱの言う通り進んでいく。
 ヤスヱはすで自分が間違ったことに気づいているのだ。「あれ、間違ったわ」と言えないものだから、「右、右、右」ともとの道へと誘導しているわけである。先ほどの曲がり角へ来ると「そこ左ね」と言い、曲がると「はい、着いたわ」。滋子さんも小さな声で「もとの所じゃない」とつぶやいて笑っている。間違いを絶対に認めないヤスヱは、やっぱり凄い!
 ここの営業所は、係りの女の子にキーを渡して終わりだった。また書類を出せといわれるかと思っていた章くんは、借りるときに預かった一式を整理して持っていたのだけれど、拍子抜けであった。ダラーの送迎用バス
 黄色いダラーのバスで、空港ロビーまで送ってもらった。運転手兼お世話係りは女の子。とはいっても、腕なんか章くんの何倍もあって、キャディバッグ程度のものはヒョイヒョイと運ぶ。3人のキャディバッグとキャリーバッグを上げ下ろししてもらって、チップ10ドル。
 空港のキャリングカートに荷物を載せて国際線ロビーに行くと、コンチネンタル航空の受付窓口はまだ開いていない。人影が全くない。「こりゃぁ何とも仕方がない。開くまで待とう、ホトトギス」などと言いながら時間をつぶしていると、ヤスヱが「昨夜、シェラトンのけい子さんがパンを入れてくれた袋を、レンタカーの中へ忘れてきた」と叫び、「私、とってくる」と飛び出していホノルル空港った。
 この出発ロビーは、レンタカー会社のバスの到着場所。しかしヤスヱは到着したバスに飛び乗り、運転手の女の子に「忘れ物をした」と話して、車のトランシーバーから連絡してパンの袋を見つけてもらい、営業所へ着いたときには「これか」と渡してもらったそうである。それを抱えて、またバスに飛び乗って帰って来たのだ。「だって、章くん、このパン好きだって言ってたでしょう」…と、何か気味が悪い。

広いホノルル空港。CN名古屋行きの乗り場はこの建物の先だ。
 12時過ぎ、コンチネンタルの係員がやっと姿を見せて、早速に荷物を預けて身軽になった。
 さて、昼食である。「何、食べたい?」と聞いても「あまり食欲ない〜」という返事。ロビー内の椅子に腰掛けて、スナック売店でパンとコーヒーを買い込み、ポツリポツリとついばむ。ヤスヱが取り返してきたパンが美さらばハワイ味い。


 午後1時30分、14番ゲート待合室に入って待機。2時前に搭乗が始まり、章くんたちは機内へ。3人の席は、31列のA・B・C、中ほどの壁の後ろだ。
 2時20分、定刻に少し送れて離陸。見る見るうちに、ホノルル空港が小さくなる。


第10日 日付変更線


 時の流れに逆らって飛ぶ飛行機の窓の外を流れる時間は速い。ホノルル空港を飛び立ってからほどなく空は暮れ始め、またたく間に満天の星空だ。コンチネンタル905便はホノルルから8時間50分、今日開港の中部国際空港(セントレア)を目指して飛ぶ。


今日が開港日 中部国際空港(セントレア)
 「本機は間もなく日本上空に差し掛かります」との機内アナウンスに、この旅のメモをまとめたりしていた章くんが窓を開けて下を見ると、真っ暗な中にポツリポツリと明かりが見え始めた。やがて、その光が赤・青・白の宝石を撒き散らしたような大きな広がりになる。どこかの都市の上空を通過しているのだ。静岡か、浜松あたりだろうか。
 と、飛行機は左に旋回して太平洋上に出て、そこでUターンして伊勢湾に入り、セントレアへの着陸体制に入る。志摩半島の上を過ぎる頃には、もうかなり高度も低くなっているのだろう、槍先のような半島の輪郭を縁取って光が並び、鳥羽上空ではさらに高度を落とした窓から、戸田屋や小湧園など旅館やホテルの灯りがはっきりと見て取れる。セントレアに着いた飛行機
 飛行機は、着陸態勢に入った。窓の外を、飛行場の施設が後ろへ飛んでいく。ドド〜ンと衝撃がして、車輪が滑走路に着いた。ちょっと荒っぽいけれども、開港日だから初めての着陸であることを考えれば、仕方がないか。
 外に出てみて、意外なほどの強風が吹いていることに気づき、上手く着陸したほうだと思った。それにしてもこのセントレア、冬場は横風が強くて、離着陸を見合わせることも考えられるという。問題を内蔵した空港と言うべきか、冬場の利用は考えものだ。
 帰国時の入国審査は、あっけないほど簡単だ。税関ではキャリングカートを停めることもなくフリーパス。
 セントレア内の食堂街さて、食事をしようということになったのだが、開港日の空港内は芋の子を洗うような混雑である。人混みの中を大きな荷物を持って移動することになって、かなり疲れのたまっている面々、滋子さんもヤスヱもどこか不機嫌である。出発前の腰痛が出掛かっている章くんは、しかし添乗員という立場上、疲れを顔に出すことは許されない。
 帰国第一食は、やはり「うどん」だろう。4階の食堂街まで荷物を持ってあがり、見つけたうどん屋の列に並んで、やっと味噌煮込みうどんにありついた。



セントレア〜津 高速連絡船
 セントレアの開港に合わせて、章くんたちの住む津市の港から、伊勢湾を横断して1時間に1本の高速船が運航するようになり、45分で両港を結んでいる。
 午後9時00分。セントレア港発、津なぎさまち港行きの最終便高速船に乗って、9時45分、無事、津港へ帰着…。
 故郷の地を踏んだのだから無事…と言いたいところなのだが、北西の風が強く、伊勢湾内も波が荒くて、80人乗りの小型高速船は木の葉のように揺れたのである。この船、就航前に見学会があって、応募した人たちが乗り込んで30分ほどの体験航行をしたところ、乗船したほぼ全員が酔ってしまったという代物である。
 船酔いに弱くて、「ハワイで潜水艦ツアー行こう」と言ったのを、「私はダメー」と珍しく弱音を吐いたヤスヱである。この小型高速船の揺れに、耐えられるわけがない。乗船前にはギリギリまで通路に居て、動き出そうかというときに飛び乗ってきたのだが、動き出してからはどこに行ってしまったのか姿が見えない。確かに乗った姿は見たから、どこかにいるのだろう、まさか海へ飛び込むこともあるまいと、章くんはシートに座って間もなく寝てしまった。
 津港に着いてヤスヱを探すと、青い顔をしてどこかからフラフラと出て来た。「どこに居ったんや」と聞くと、「荷物置き場の棚が空いていたので、毛布貸して貰って、棚に登って横になって寝ていた」。恐るべし、ヤ津なぎさまち港に着いたカトレア号スヱ。
 港に、ヤスヱの娘で医者の卵の彩也加ちゃんが、ワゴン車で迎えに来ていた。ホントにヤスヱの子かと思うぐらい、つつましやかで気だてのよい娘(こ)である。「お疲れ様でした。やかましかったでしょう」と言う笑顔に向かって、「息の根、止めるとこやったわ」と答えた章くんの冗談に、彩也加ちゃんの次のリアクションがなかったのは、章くんの口調がどこか本気ッぽかったからだろうか。


                                      



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