4月25日(月) 救い難い民主党 −国難を言い訳にする政治−
民主党が、東北関東大震災の復興費用を捻出するためにとの理由で、「高速道路の無料化、子ども手当て、農家の個別所得保障」…などの廃止を打ち出した。所詮、国難を言い訳にする政治しかできない輩たちだったのだ。
高速道路の無料化は、流通や交通の円滑化を図り、日本経済の活性化を達成するための政策ではなかったのか。子ども手当ては、子育て世代を援助し、少子化をくい止めて、日本の将来の安定を実現する重要な施策ではなかったのか。農家の個別所得保障は、農業構造を変革し、日本の農業の体質を強化して食料自給率の確保につながるものではなかったのか。
すべて、お金がないからやめます…というのだから、容易に方向転換の出来る、バラマキの人気取り政策にすぎなかったということを証明したわけだ。
国家の根幹を成す政策であれば、大震災の復興に取り組みながらも、政権与党としてやらなければならない責任のあることたちであるはずだ。東北関東の沿岸部の打撃が壊滅的ではあっても、岩手・宮城・福島・茨城などの県全体がつぶれてしまったわけでもない。日本全体の将来に関する必要な政策は粛々と進めながら、みんなの協力のもと、被災地の復興に取り組むという姿勢こそが正しいのではないか。
お金がないからやめます…、語るに落ちるとはこのことである! 未曾有の国難を、これ幸いと自らの失政を隠す手段にしようとは、民主党とは政治家としての品格に欠ける輩どもの集まりだと評されても仕方がないのではないか。
4月24日(日) 新津市長に前葉泰幸氏(49才)
民主・連合が支援する前葉泰幸氏と自民・公明が推す村主英明氏の両新人が、真っ向から激突した選挙であった。
選挙戦を前にして、この機会に何とか三重県と津市を変えていきたいという願いで、章くんは親しい友人とともに候補者を探して回った。ただ、知事選は選挙区も三重県全域にわたる広さで、選挙の準備も間に合わないということで、立候補する候補者を見定めることとした。鈴木英敬氏と松田直久氏が手を上げたわけだが、章くんは停滞する津市政を招いた松田氏よりも、鈴木英敬氏の未知数に賭けた。
そして、津市長選…。当初、大学教授のNさんを擁立すべく準備を進めていたのだが、Nの出馬に対する環境条件がもうひとつ整わず、迫り来る期日の中で、前葉泰幸氏に面談する機会があった。東大を卒業して自治省に入り、京都・宮城・熊本などを歴任して地方行政の実践を積んだその見識は立派なものであり、語る言葉も具体的かつ明瞭で、明日の津市をこの男に託してみようかと決意して選挙戦に入った。
友人知人のもとを一緒に訪問して支持を訴え、知らないところでも本人が行ってみたいというところは、何とか伝手(つて)をたどって訪問を実現したりした。この訪問では、行く所々で村主英明氏の足跡をふむことになり、前葉の出遅れと、意外に村主氏がこまめに歩いていることを知らされることとなった。
この選挙戦も、知事選同様に激戦であった。訪問した先々の感触の良さに、もっと楽な戦いかと思っていたのだが、知事選の勝利に勢いを得た自民党が村主氏の公認を打ち出し、告示後の数日で激しい追い込みをかけてきたことが実感され、勝敗は予断の許さぬものになった。
まぁ、それでも、一歩リードで選挙戦を終えたかと思いながら、投票日夜のNHK選挙速報を見たのだが、出口調査の結果を示す棒グラフは「村主氏わずかにリード」を示している。「おいおい、どういうことだ」と友人たちと電話で話したのだが、みんな「開票結果を見なければ、何とも言えんなぁ」と言うばかり…。
午後10時を過ぎたが、選管発表の中間得票数も報じられない。…10時30分を過ぎて間もなく、突如、『津市長選 前葉泰幸 当確』のテロップが流れた。まだ、何らの得票数も発表されず、村主有利の出口調査の棒グラフが繰り返し映し出されている中での「当確」だけに、「ホントか」と思ってしまった。
直後に発表された中間得票数は、前葉40000票、村主40000票と同数…。「当確が出たね」と友人から電話があって話していたら、前葉44000票、村主40000票、藤岡20000票と差がついて、勝利を確信した次第である。
確定得票数は、
前葉泰幸(49才、無所属・民主連合) 44534 (41.3%)
村主英明(51才,無所属・自公推薦) 40536 (37.6%)
藤岡和美(64才、無所属 ) 22865 (21.2%)
前葉新市長の今後の市政については、章くんも支持を訴えて歩き回ったのだから、多少の責任を負わなければならないと思っている。民主党や連合がバックについているから、当面は市政改革・公務員改革・教育改革などについては、松田市政からの路線の変更は望めないかもしれない。だが、救急医療センターの整備など、目に見える必要性を具現化していくこととともに、全国順位44位という数字に示されている教育レベルのアップなどは、早急に取り組まなければならない行政課題であろう。連合三重や三教祖に遠慮しなければならないというのであれば、津市の明日を託する市長というレッテルは色あせたものになってしまう。
友人は前葉泰幸新市長の誕生を、焼け跡の津市に6車線の道路を敷設した昭和27年当時の津市長「志田 勝」氏以来の逸材だと評価している。三重県の県都としての品格を有する津市(前葉氏自身の言葉)を作り上げ、津市から県へ…そして国へと政治・経済・文化のメッセージを発信する新しい活力のある町を創るため、大いに力を発揮してもらいたい。そのための支援は、友人たちも惜しまないといっている。この意識の高まりを、前葉市政は明日の津市作りに汲み上げることが出来るか、明日からの日々をじっくりと見定めて生きたいと思っている。
4月17日(日) 第1回伊勢市長杯カラオケ大会

午前9時から、107名の参加者が競い合ったカラオケ競技会で、レベルの高い大会でした。
関係者の話を聞くと、参加者の中には昨年三重県かで行われた2回のNHKのど自慢大会(津・松阪)のチャンピオン2名がいるし、その他の大会優勝者は五指に余るといっていました。
そんな話を聞くとますます燃える章くんですが、確かにみんな上手…。章くん、86番目に「東尋坊」(水森かおり)を力いっぱい歌いましたが、う〜ん、まだまだ力不足を実感させられました。
3名の表彰があって、1・2・3位とも全て男性でした。ほとんどのカラオケ大会は女の人のほうが圧倒的に多いのですが、この大会は男の人が6〜7割を占める多さであったことも特徴のひとつでしょうね。
久しぶりの競技会…。緊張感も快かったし、やはり大会がなくては練習に身が入りません。次を目指して頑張ります。
4月10日(日) 新三重県知事に鈴木英敬氏(36才)が当選
午後8時の投票締め切りの瞬間、NHKテレビに「東京都知事 石原慎太郎 当確」が打たれた。予想通りの圧勝である。石原慎太郎としては、このあたりで都政を後任に託し、自らは新しい潮流を起こして、停滞しきった国政の立て直しを図りたいところだっただろうが、後を託そうとした松沢前神奈川県知事の人気が低迷していて、このままではそのまんま東に都知事の座を奪われ、青島幸男のときのような都政混乱を招くことになると、急遽、再出馬したものである。
章くんとしては、石原慎太郎が政界再編姓の核となって新しい政党を率い、混迷する日本の舵取りを担当して、日本再生に尽くしてもらいたいと期待していただけに残念の思いであったが、そのまんま東の都政では東京の沈没…日本の低迷は免れないところだけに、石原再出馬は仕方のないところかと納得するしかない。
石原慎太郎の当確から4時間を経ようという午前0時近くなって、松田直久26万VS鈴木英敬25万という鈴木陣営の劣勢の中、「三重県新知事に鈴木英敬 当確」のテロップが流れた。さすがはNHKだ! 三重県知事選に全力投球しているはずの三重テレビなんか、まだ専管発表の票数の推移を伝えてウロウロしているところなのに、NHKは津市の開票が30%台の段階で『当確』と報じたのである。
確定得票数は、
鈴木英敬(36才、無所属・自み推薦) 379472 (46.5%)
松田直久(56才,無所属・民推薦) 368105 (45.2%)
岡野恵美( 無所属・共推薦) 68253 ( 8.4%)
である。得票差は、11367票(1.3%)の差であった。
16年前、1995年、田川知事(当時)の後継で当時の与党(自民、社会、さきがけ)が推した尾崎副知事と、野党新進党が推した北川正恭前衆議院議員(当時)の対決選挙を髣髴させる激戦であった。この時は南部で尾崎がリードするも、鈴鹿市以北で北川が優位であり、1万3千票差で北川正恭の逆転勝利となったが、最後まで勝負の行方は分らず、日付が変わった瞬間の「当確」だった。
新しい三重県知事「鈴木英敬」が誕生した。民主・連合のやり放題の三重県政を、県民が突き放した結果だといえよう。野呂県政では、県政はたるみきっていて、例えば全国学力テストの順位は44位のあたりをウロウロしているのに、どこからも反省や改善の声があがらない始末であった。このことひとつをとっても、章くんとしては許せない怠慢であって、松田君とは親しくてその人柄はよく知ってはいるけれども、鈴木英敬の支援に回ったのはひとえに三重県政の建て直しを願うがゆえにであった。
新知事鈴木英敬は、まだ海のものとも山のものとも分らない。総務官僚だが、果たしてどれだけの行政手腕があるのかも未知数である。総務省の先輩官僚に知己がいるが、聞いてみても『在職年数も少なくて、ホントのところよくわからない』と言っている。
これからの県政を、しっかりと注視していかねばなるまい。知事選と同時選挙となった三重県議会議員選挙の開票結果は、
民主系(民主+新政みえ+民主系無所属)24対
自民系(自民+自民系無所属+公明)24、
その他3となっている。微妙な議席数であって、三重県政でもねじれ現象が生じるかもしれない。
まぁ、6ヶ月間ほどはビギナーとして温かく見守ることだが、秋ごろ以降、鈴木県政が本格的な軌道に乗ったころには、舵取りに疑義があれば、県民は声をあげなければならない。インターネットへの提言でも、新聞への当初でも、直接「拝啓鈴木英敬殿」と意見具申することもよい。
掛け声と形ばかりを変革して、内容が伴わず、実績を残すことの出来なかった「北川改革」の二の舞にならないように、真に三重県の明日を築き上げる県政を実践してほしいと願っている。
4月10日(日) 犬山城・五条川
今日は、三重県知事選挙です。接戦が予想されるので、わが一票も大切と、投票を済ませ、午後1時ごろから犬山を目指し出発しました。東名阪を桑名東で降りて、木曽川沿いをゆっくりと走っていきました。
午後3時40分、「光明寺公園」に着きました。東海北陸道からアーチを見本ながらいつも走っていますが、訪問するのは初めてです。
光明寺公園
ツインアーチ138 →
← 堤防沿いの桜の古木が。いっぱいの花をつけていました。
駐車場の料金は無料。たくさんの家族連れが、弁当を広げたり、ホール遊びをしたりしていました。
午後4時5分、木曽川を岐阜県川に渡り、堤防を東へ走って、犬山城を目指しました。
午後4時45分、犬山城を望む木曽川堤の桜並木に到着…。
木曽川堤防の桜並木から撮った犬山城→
この写真が撮りたかっンです。その割には、イマイチの出来ですが…(苦笑)。
この河畔でコーヒーを飲んでいたら、時刻は午後5時を回って、犬山城への入場は今回も見送りです。
南へ下り、大口町から五条川沿いに岩倉市まで走りました。
← 大口町の五条川畔
岩倉市内に入って…。橋の上から →
流れが見えなくなるような、川面を覆う桜です。
← 夜店も出て、たくさんの見物客でにぎわって
いました。
でも、「桜まつりは、今日の午後8時で終了いたします」とのアナウンスが流れました。東北・関東大震災に鑑みての打ち切りだそうです。
桜たちは、まだ110%…。これから、浴びるような桜吹雪が見られるのでしょうが…。
被災者の人たちの難儀に思いを馳せつつ、今年の桜を愛でることこそ、日本を元気にする姿だと思うのです。一緒に謹慎していれば、復興が早くなるということでは、決してないのでしょうに…。
この旅行記を、「旅のブログ」に示しています。よろしければご覧ください。
4月9日(土) 今年もちょっと遅かった…、「大紀町の枝垂れ桜」
4〜5日前の中日新聞に「柏崎支庁舎(大紀町)の枝垂れ桜が満開」との記事が、写真入で掲載されていた。
去年も一昨年も行ったのだが、花期には遅くて、葉をつけた枝ばかりが見事な枝垂れを見て帰ってきた。
← 柏崎支庁舎前の大枝垂れ
今年は…と思いつつ、4〜5日遅れで行ったのだが、やはりこの4〜5日の遅れは大きくて、花の半分は散り落ちている姿であった。
JR紀勢本線 柏崎駅近くの桜並木 →
夕食に、松阪へ出ました。
← 大黒田の「善覚寺」の桜
夕焼けの空に屹立する姿が、とても雄々しく美しかったです。
4月8日(金) 伊勢温泉GCなど、近場の桜
← 伊勢温泉GCの8番フェアウエイに咲く桜
8番、グリーン奥の
桜 ↓
ラインを読んでいる人がいます。
← これは、
津観音公園の桜
夕方、食事に出たときに写したものです。
4月7日(木) 春爛漫! 田丸城
午後から、度会郡玉城町の「田丸城」へ出かけました。
入り口。石垣の上に見事な桜が出迎えてくれます。→

「田丸城」は、ちょうどNHK大河ドラマに登場する織田信長の三男信雄の居城でした。
← 城内にも、たくさんの古木があります。
石垣沿いにも
桜並木が…。→
場内に、玉城中学があります。
運動場を囲む桜も満開でした。 ↓
玉城中の生徒たちはとても礼儀正しく、すれ違った章くんに、誰もが「こんにちわ」と挨拶してくれます。
田丸城は古来から近隣に伊勢神宮を控える戦略的要衝として争奪戦が繰り広げられました。室町時代には伊勢国司となった北畠氏の手によって再建されました。
戦国時代には、織田信長の伊勢侵攻に伴い北畠具教の養嗣子となった織田信雄の居城として改築され、三層の天守を備えた近世城郭へと生まれ変わりますが、5年後に火災で天守を焼失。織田信雄は松ヶ島城へと移ってしまいました。
その後、蒲生氏、稲葉氏、藤堂氏と主が替わりますが、最終的に1619年(元和5年)、徳川御三家の一つ紀州徳川家の治める紀州藩の所領となりまか。
紀州徳川頼宣は、遠江久野城城主であった付家老久野丹波守宗成に1万石を与え、田丸城城主として田丸領6万石を領させました。久野氏は、家老として和歌山城城下に居を構えていて、田丸城には一族を城代として置き、政務を執らせました。久野氏はその後八代続き、明治維新に至ります。
この旅行記を、「旅のブログ」に示しています。よろしければご覧ください。
4月6日(火) 津皆楽公園 夜桜
午後7時頃からブラブラと歩いて、
津皆楽公園へ夜桜と
洒落込みました。
津皆楽公園までは我が家から徒歩30〜40分ほどで、
適度なお散歩の距離です。
瓢箪池にかかる橋の上から →
ウイークディのせいか、花見客の出足は6〜7分といったところ…。満開は、この週末ぐらいでしょうか。
← 章くんもべピーカステラを買い、縁台に腰掛けて、
花+団子の風情を楽しみま

した。
帰りもブラブラと歩いて、大門へ…。
津観音公園の桜です。 →
一軒寄って、今夜は日付が変わるまでに帰宅しました。
4月5日(月) 後手後手の大震災・原発事故への対策
破損した福島第一原発の屋内や導管に放射能で汚染された水が溜まっていて、復旧作業を妨げているという。高濃度の放射能を含んだ水が海に漏れ出しているし、比較的汚染の同意が低い水の一部は海に捨てているとか。
なぜ、原発の傍にプールを掘って、水を貯めようとしないのだろうか。20m×50m×3mの穴を掘れば、3000トンの水を誘導して貯めることができる。こんな穴ぐらい、すぐに掘れるだろう。土壌汚染を起こさないように完全防水を施したとしても、2〜3日もあれば完成する。水は蒸発するから、残った放射性物質をドラム缶にでも詰めて、青森の六ヶ所村に運び処理すればいい。必要に応じて、10個でも20個でも掘れば、問題になっている汚染水ぐらい容易に収容でき、これから更に水をかけても問題ないだろう。
住民に対する保障、今後どのように収束させるのか…など、何にも示せてはいない。これでは、いつまで待ち、その後をどのように生きていけばよいのか、住民の皆さんはまったく将来が見えない。
放射能汚染水を、海へ捨てるという愚挙も信じられない。この一帯は、世界有数の漁場である。しかし、三陸沖で獲れた魚は、今後、流通を拒否されるのではないか。日本の魚や水産加工品は、世界で敬遠されることだろう。一帯の漁師の生活を奪う、やってはならないことであった。
東電やこの政権は、やらなきゃならないことはできず、やってはならないことばかりを繰り返している。政権に能力がないことは、残念ながら明らかである。
この未曾有の大震災のときに、こんなボンクラ政権であったことは、日本の…日本国民の大不幸であった。被害を人的要因で広げないうちに、事態の処理と復興の指揮を採る人材を見つけることが求められている。
4月3日(日) 醍醐寺

「醍醐寺の枝垂れ我慢海!」と、京都の友人からメールが届きました。
午前6時、出発。早朝の道路は空(す)いていて、7時10分に、醍醐寺に着きました。
「霊宝院」のソメイヨシノ。まだつぼみが多かった
ことと、枝を切ったらしくて、あの豪華さがちょっと
影を潜めたような… →
← 「霊宝院」の枝垂れ。
京都の名花たちのうちで、一番初めに咲くこの木は、例年、花の盛りを過ぎたころに行くことが多いのですが、この日はまさに満開でした。
「三宝院」の土牛(どぎゅう)の桜 ←
奥村土牛が「醍醐」に描いたことから、通称「土牛の桜」と呼ばれています。
この花も豪華絢爛…、ちょうど身頃を迎えていました。
昼前に醍醐を出て24号を南へ下り、奈良から名阪国道を走って帰って来ました。
この旅行記を、「旅のブログ」に示しています。よろしければご覧ください。
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